第3話 馬鹿にしすぎじゃないっすか?

 田上先生の本性を秘密にする代わりに、倫理を教えてもらう。


 これこそが、さっき俺の下に天啓的に舞い降りてきた名案だった。


「……はあ? あなた、私がまさかそんな甘っちょろいゆすりに怯えて、条件を呑むとでも思っているの? これは、真実がどうであったかは微塵も関係ない純粋な信頼勝負よ。あなたは名もない一生徒で、一方の私はあの学校で絶大なる信頼を勝ち得ている教師。あなた一人がいくら私をディスったところで、誰もあなたのことなんて信じないわ」


「ええ。たしかに証拠が俺の発言だけだったなら、あなたの言う通り、誰も信じてくれなかったでしょう。でも、これならどうですか?」


 ジーパンのポケットからさっとスマートフォンを取り出す。

 訝し気にじいっと見つめられる中、録音アプリを起動して、躊躇うことなくその赤いボタンをタップした。


『クソガキどものおもりと教材研究のほかにも、やらなきゃいけない雑務が目白押しで毎日残業パラダイスよ。クソガキだけでも目に余るっていうのに――』

 

 先生の言う通り、純粋な信頼勝負で先生に敵うわけがない。


 だけど、火を見るよりも明らか過ぎる確かな証拠があればどうだろうか。


 唐突に揺るぎようのない物証を突き付けられた先生は、その大きな瞳をこぼれんばかりに見開いて、愕然としていた。


「先生は、これでもまだ白をを切り続けられるんですか?」

「なっ、なんて非道なの!? あなた、本当にそれでも人間なの!?」

「俺だって、本当はこんな汚いことしたくないっすよ! でもっ、次のテストで赤点を取ることだけはぜっったいに回避しなければならないんです! そんな時に先生の姿を見かけて、つい、魔が差して……っ。ねぇ、先生。生徒がこんなにも死に物狂いで勉強を教えて欲しいと懇願してるんすよ。生徒に勉強を教えることこそが、教師の本分じゃないんすか!」


 風向きが一変したのを良いことに調子に乗り始める俺。


 田上先生が、悔しさのあまりわなわなと肩を震わせ始めたところで先生の友達と思しき女性が席に戻ってきて、この異様な状況に目をぱちくりさせた。


「えっと……小春、この子誰?」


「…………雪乃、予期せぬ緊急業務が発生してしまったわ。本当に申し訳ないのだけれども、今日は解散でも良いかしら。後日、必ず埋め合わせはするから」

  

 えっ!?


 流石に大事な休日の予定を台無しにしてしまうのは、先生に対しても先生のご友人に対しても忍びなさすぎる。だから、焦って何も今日から教えてもらう必要は全くないと言ったのだけれども、一度腹を括った先生の意志は妙に堅かった。


 雪乃さんは先生のそういう性格を重々理解しているようで、「じゃ、今度は小春の奢りで!」と笑いながら今日の女子会はお開きにすることを快諾した。


 そんなわけで、目の前に憧れの田上先生が腰かけているという夢のような現実が生まれたわけだ。


 誰だって、色んな顔を持っている。ひとえにこの人はこういう性格なんだって決めつけることなんてできない。そう、思ってはいるけれど――


「それで。一体、何を教えて欲しいの」

「へ?」

「あなたはさっきから馬鹿の一つ覚えみたいに、倫理を教えてくださいの一点張り。でも、ひとえに倫理といっても内容は多岐に渡るでしょう。それくらいはあなたのお猿さん並の知能でも理解できるわよね?」

「酷い言いようっすね……」

「私のようないたいけな乙女の弱みを握っているあなたの方がよっぽど酷いわ。殺人凶悪犯も驚きの残忍さよ。それで、何の、どの部分を教えて欲しいのかしら」


 ――流石に変わりすぎではないだろうか?


 数時間まではいたいけな乙女というワードがこれほどぴったり当てはまる人も珍しいと心の底から思えるような人だったのに、今は微塵もそう思えないのだから凄い。


「と、言われましても……うーん」


 困って口を噤んでいる間にも、普段、野郎どもがあの視界の中に一目でも映りたいと渇望している先生の黒目がちの瞳が据わっていく。まるで虫けらでも見るかのような瞳だ。


 先生は、わざとらしく大きなため息を吐いた。


「よくそのスカスカな脳みそで、私の発言を盗聴するだなんていう知性を発揮できたわね。その一点についてだけは、褒めてあげる」

「酷いっ! ううっ、先生みたいな頭の良い人には分からないのかもしれませんけど、勉強できねーやつっていうのは、何が分からないのかも分からないもんなんすよ……」

「何が分からないのかも、分からない」

 

 俺の発言を受けて、田上先生が何か考え込むように白魚の指を瑞々しい唇に当てる。


 少したって、先生はその大きな瞳に理知的な光を滲ませると、俺のことを真っ直ぐに見つめ返した。

 


「じゃあ、質問を切り替えるわ。あなたはさっき倫理の何が分からないのかも分からないっていったけれど、逆に何か知っていることはあるのかしら? この際だから、知識のジャンルについては問わないわ」

「…………先生。流石に、俺のことを馬鹿にしすぎじゃないっすか? 俺にだって、知っていることの一つや二つくらいはありますよ!」

「驚いたわ。あなたにも、知っていると自負できるものがあったのね。良いわ。じゃあ、あなたの知っていることについて、存分に私に語りなさい」


 これほどまでにこっぴどく煽られて、焚きつけられないわけがなかった。


 先生がそこまで言うのならば、好きなベースのことを何時間だって語り倒してみせようじゃないか! こんな俺にだって知っていることもあるのだと証明して、先生になんとか一泡吹かせなければ気が済まない!


 激しく闘争心を燃やした俺は本来の勉強するという目的を忘れて、これまでと人が変わったように生き生きと語り始めた。


 まずは、一般的に使用されるのが、四弦ベースと呼ばれるものだということ。

 その名の通り、太さの違う四つの弦の張られた弦楽器だ。

 そのほか、五弦ベースというものもある。六弦、七弦ベースともなれば使用者もだいぶ減ってくるが、存在することにはしている。

 もちろんのこと、弦の数に比例して、出せる音域が広がる。それだけ聞くと、多弦ベースを使用した方が得なのではないかと思えるが、そう簡単な話でもない。弦の数が多くなればなるほど、高度なミュート技術を要されて云々。


 田上先生は質問を交えつつ、熱心に傾聴してくれた。


 ベースの蘊蓄を垂れ始めてから軽く一時間程は経過したと思うけれども、先生に疲れてきたような様子は一向に見られない。


 段々と答えるのが難しくなっていく先生の質問攻めに疲れ始めたその時。


 キラリと光るナイフのように鋭い切れ味の質問が、とうとう俺を追い詰めた。


「じゃあ、質問よ。あなたはたった今、バンドを構成する四つの楽器の中で、ベースほどとっつきやすく、その実、極めるのは本当に難しい楽器はないといったけれど、その根拠を私にも分かるように述べなさい」

「え、えっと……そ、それは、俺がベースを弾いている時に感じた体感っていうか……」

「全然、論理がなってない。筋が通っていなさすぎて、全く納得できないわ」

「う、うーん……そ、そこまでは、説明できないっす……」


 田上先生は、してやったりとばかりに形の良い唇の端を吊り上げた。


「結局のところ、あなたが大好きでそのためなら命を落としても良いと思えるほどのベースのことだって、あなたは所詮、知らないのよ」

「そ、それは詭弁きべんじゃないっすか!? あんだけ答えられて、まるっきり知らないとはいえないでしょ!」

「たしかに他の人より、多少は詳しいとは言えるのかもね。でも、それだけのことで知っていると驕ってしまうのは危険よ。というよりも、勿体ないと言った方がより正確かしら。あなたに比べて、私の方が、よほどベースのことを深く知りうる可能性に拓かれていると言えるくらいだわ」


 田上先生の大きな黒い瞳には、並々ならぬ先生の気迫に気圧されて唖然とする俺が映りこんでいた。


「あなたは、ベースのことならなんでも知っていると思い込んでいる。私は、ベースのことなんて一ミクロンも知らないわ。でもね、知らないことを知っていると思い込んでいるあなたよりも、私の方がずっとマシよ」

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