第6話

目の前の夜を垣間見た。

それは恐怖の色で象られた啓太に見えた虚像なのかもしれない。

しかしそれをもってしても怪物の姿は酷く禍々しい。

その怪物は先程の牛犬より大きかった。見た目は狼に近い。しかしどこか啓太の知っている狼とは違った。

ギョロリと眼球が開き、啓太を見下ろす。

瞳は赤く、黒々とした目に瞳づたいに蜘蛛の巣のように血管が張り巡らせていた。思わず驚き後ろに身をひく。

その瞳はさながら、黒雲に疾る雷のようであった。

ゆっくりと頭を、そして続くように視線をあげると最初に感じていた違和感の正体がわかった。ひどく耳が後ろに裂けるように長く伸びていて、その更に後ろには蛇のように細長い尾があり、蛇のように地面を這わせていた。


「人間よ」


巨狼が口を開く。低くはっきりと腹の内から轟く声が身体中を伝う。巨狼が続ける。


「貴様が新たなる亜王か?」



「あ、あ、あ…」


目の前の怪物に強ばり上手く喋れない。それでもそれが啓太の精一杯であった。

漏らさずにいられたのは、後ろに誠がいたからだ。自分だけではなかったこの状況だけがぎりぎりの啓太を支えていた。

巨狼が目線をわずかに落とす。そして問うた。


「その腕何故治さない?」


「へっ?」


自分の左腕に視線を落とす。恐怖ですくみ、腕がないことを忘れていた。


「治せる…なら。治せるならな、治してるよ…よ…」


渾身の力を振り絞った。ない左腕を庇う。

巨狼は黙っていた。

じっと啓太を大きな眼が捉えている。

沈黙。この状況でも後ろの誠のことを考えればこそ立っていられた。

教室で見たあの誠の表情。もうあんな表情見たくない。二度と哀れみの目で見られたくない。自分だって逃げるだけじゃない。これは啓太の意地だった。

最後に残った我慢の残りカスのみで今ここに立っている。

しかし左手からの出血と、疲労が相まって立っているのがやっとだ。

しかし目線だけは反らすわけにはいかなかった。

外してしまえば襲われそうな気がしたし、何より逃げることになるからであった。

体は震えている。左手もない。満身創痍もいいとこだ。痩せ我慢だということもわかっていた。

それでも意地だけで立っていた。巨狼は静かに目を閉じ、笑みを浮かべた。

スズッと長い尾が這い、啓太目掛けて飛ぶ。

殺られると思ったが、目は閉じなかった。正確には動けなかった。立っているのでやっとで長い対面に強ばり動けなかった。

眼前まで迫ってもとじることを許さない瞳を嘲笑うかのように尾は綺麗に啓太の直前で軌道を変え、啓太の横を一閃する。


「貴様が気にしていたのはこれであろう?」


緊張がとけ、後ろに目を向ける。尾は後ろで満身創痍の誠を遊ぶように抱えていた。


「や、やめろ。そいつは関係ない!」


精一杯の甲高い声で巨狼目掛けて叫び散らす。

巨狼はニヤリとほくそ笑み、その細い尾は誠の体周りに円を描く。そして円は一瞬で収束し、持ち上げられる。

ギュュュュウゥゥゥ…

巨狼の尾は誠の体を締め上げる。


「うぅ…」


意識を失った誠が呻く。

締め上げられ、真っ赤な血が滴り落ちる。まるで雑巾絞りかのように締め上げられる。


「やめろ…やめろ…」


巨狼は笑う。


「カカカカ…早く助けねば死んでしまうぞ。ほら早く早く早く」


巨狼は高らかに笑い啓太を煽る。

ポキッ

そんな音が啓太の耳に木霊する。誠の手があらぬ方向に折れていた。それを見て巨狼が呟く。


「なんじゃもう壊れてしまったか。人は脆くていかんな」


カカカカ…と笑みを溢す。


「やめろ」


啓太の言葉に力がこもる。もはや先程までのか弱い少年のものとは違う覇気のある声だ。それでも尾は誠の体を締め上げる。巨狼は笑うのみで肯定も否定もない。

啓太の眼に力が宿ったまさにその時だった。

一斉に窓ガラスが割れ、雷のごとき閃光がまさに啓太と巨狼の間を貫く。暴風が吹き荒れ、貫き様に巨狼の尾が跳ねる。一閃の刃に巨狼が呻く。切断された尾から誠が溢れ落ちる。


「大丈夫か!?」


歩みより、彼女の体を揺する。

が、彼女は答えない。しかし息はある。荒々しいがまだ生きている。誠を抱え、視線を上げる。

煙が立ち込める。あたりは電が小さく散っていた。


「この方が亜王の一人と知っての狼藉か」


まっすぐで凛々しい声が煙の中から響く。


「この声…」


その声に啓太は聞き覚えがあった。

ゴォォォッ!っと煙が巨狼によって掃われる。

その煙の中から姿を現したのはナイフ程の刃物を持った女性だった。


「貴様…あちらのものか?」


「それ以外あるものか。何故亜人が亜王を狙うか?」


「カカカァ…そのちびが亜王?先程ためさせて貰ったが魔力はいっさい感じられんかったぞ」


わざと巨狼が誠を使ってまで啓太を煽った理由はどうも啓太が亜王とやらかどうか確かめるためだったらしい。


「間違いない。彼は亜王だ。選定の巫女の私が保証する」


女性の解に巨狼は笑う。


「お前が?人間にも亜人にもなれぬその身でか。選定の巫女がきいてあきれる」


「それでも私は選ばれた。選ばれたからこそ今ここにいる」


女性が高らかにまっすぐな声で答える。


「だがその小僧は人間ではないか!?亜王は亜人のみではなかったのか!!それでは人間共は聖剣だけではなく亜王にもなる存在だというのか!?認めんッ!断じて認めんぞッ!」


巨狼の声は低く轟く。相当興奮しているようだ。赤黒い目は怒りで紅く染まっていた。


「まだそうと確定したわけではない。人外の血が混ざっている可能性も…」


「尚更悪いわッ!!!」


女性の声に被せるように巨狼が吼える。


「それでは…それではあちらの常識が崩れる。奴らは天使だけでは飽きたらず我らが力の象徴すら奪おうというのか」


「…まだ続けるか」


狼狽する巨狼に女性は短剣を構え問う。


「…それが我らが王の命だ」



「人の形も保てず理性も失った獣に成り下がろうとか…」


「それが我らの王への忠義だ」


女性は寂しそうな悲しそうな表情をした。まるで獣を哀れむようなそんな顔だった。


「そこまでして…そこまでして獣の王は王を増やしたくないの?本当に戦うべき相手は…亜人同士で争う必要がどこにあるというの!?」


「貴様には分からぬ。王が決めたのならそれに従うのが我々獣人の定めだ」


そう呟くと巨狼はこちらに背を向ける。

女性は何かを言いかけてそして口をつぐんだ。

巨狼は一度足を止め、顔を向けずにぼそりと呟いた。


「気をつけろ小僧。貴様が真に亜の王とするなら多くを失う覚悟をしておくがよい」


ゆったりと闇に姿を消す巨狼の背中はどこか寂しげに悲しげに小さく啓太には映って見えた。

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