最終話 激情【瞳子】

 激流のような感情のうねりに耐えてそれを乗り越えた後は、緩やかな流れに身を任せればそれでいい。


 胸に突き刺さる彼への思いも、時の流れにいつしか角を削られて優しい丸みを帯びていく。


 礼隆との突然の別れから一年が経ち、ようやく瞳子もそのことを確かな感触として得られるようになっていた。


 越川と待ち合わせした駅へと向かう環状線の電車に揺られながら、のどやかに広がる春の青空を見上げる。


 遠く離れた同じ空の下で、彼は人生の新しいレールを敷き直しているのだろうか。


 今の自分の穏やかな日常を見たら、彼は安心して微笑んでくれるだろうか──




 こんな風に思いを馳せられるほどに心が凪ぐまでは、襲いくる胸の痛みに何度も何度も泣き乱れた。

 その度に、越川がそんな自分の全てを受け入れ、優しく包み込んでくれた。


「“彼” への思いも思い出も、捨て去る必要はありません。ただ沢山泣いて悲しみを乗り越えれば、きっとそれを宝箱に仕舞えるようになる。そうしたら、僕と一緒に新しい宝物を見つけましょう」


 越川の言葉には何度救われたことだろう。

 事実、あれほどに自分を傷つけた思いも思い出も、今はこうして抱えられるほどに優しい形に変わりつつあるのだ。

 小さな棘が未だに障ることはあるけれど、もうすぐ宝箱に仕舞うべき時が来る。


 車窓から空を眺めていた瞳子は膝上に置いたバッグのファスナーを開けてチャペルのパンフレットを取り出すと、純白のドレスを纏った花嫁の写真を指先でそっと撫でた。


 ***


 昨年のクリスマス・イブに越川からプロポーズを受け、瞳子は深々と頭を下げてそれに応えた。

 正月には隣県同士の互いの実家に挨拶に行き、東京に戻ってきてからは式場探しに休日を費やしてきた。

 休みが合わせづらく、ブライダルフェアなどの大きな催しにはほとんど行くことができなかったが、先日二人で下見したチャペルは雰囲気も広さも申し分なく、故郷の家族や親戚を招きやすい立地も気に入った。

 今日は瞳子の休みに合わせて越川が仕事を早く切り上げ、一緒に式の予約をしに行くことになっている。


 駅に着き、ホームを上がって広いコンコースへと出た。

 新幹線の停車駅であり空港への直通バスも出ているだけあって、大きな荷物を抱えた人々が忙しなく往来している。


 越川からは先ほどメッセージで仕事の都合で十分ほど遅れてしまうと連絡があった。

 その程度の時間ならばカフェに入って待つほどでもない。

 駅ナカの店をぶらついて時間を潰そう。


 瞳子はそう決めると、名店街の一角にあるアロマグッズのショップへと入った。


 店内をゆっくりと見て回り、越川の到着時間に合わせて店の外へと出た。

 待ち合わせ場所へと戻ろうと足を向けた時、通路の交わる中央広場の真ん中を大きなスーツケースを引っ張って颯爽と歩く女が目に止まった。


 リサだ────


 彼女を認めた瞬間、瞳子は足の爪先から氷と化すかのごとく冷たく固まった。

 その一方で心臓は激しく拍を上げていく。


 息苦しさを覚えつつ見上げた案内板は、彼女の向かう先が空港行きのバスターミナルであることを示していた。


 どくん、と心臓がさらに大きな音を立てる。




 リサの行先はどこなのだろう。


 まさか、彼女は沖縄に────?




 血の気が一気に引いたかと思うと、怒涛のように全身を駆け巡り眩暈を引き起こす。


「瞳子?」


 息苦しく喘ぐような吐息が漏れ出た時、背後から伸びてきた腕が揺れる瞳子の肩を抱きとめた。


「どうしたの? 気分でも悪い?」

「あ……圭介さん……」


 心配そうな越川の顔が見えて、瞳子の動悸が徐々に落ち着きを取り戻す。


「遅くなってごめんね。立ちっぱなしで貧血にでもなかったかな。お茶でもしながらちょっと休もう」

「心配かけてごめんなさい。ちょっと立ちくらみがしただけだから大丈夫」


 瞳子が笑みを貼り付けて答えると、越川は「そう?」と気にかけつつ、いつものように手を握り、リサの歩いていた中央広場の方向へ瞳子を促した。


「あっちにカフェがあったはずだよ。時間はまだあるし、少し休んでからチャペルへ向かおう」

「うん……」


 多くの通路が交わるコンコースの中心へと辿り着く。

 リサが向かった先とは反対方向の通路へ越川が向かう。

 その途端、瞳子の足は歩みを止めて動けなくなった。


「瞳子……?」


 引く手に伝わる抵抗に、越川が振り向いた。


「ごめんなさい…………。私……行かなくちゃ……。今すぐ行かなくちゃ間に合わない……」

「間に合わないって、どこへ……?」

「沖縄に行かなくちゃ……! あのが行くのを黙って見送るなんて出来な──」

「瞳子っ!?」


 身を翻した瞳子の手首を越川が咄嗟に掴む。


「何を言ってるの。僕達がこれから向かうのはチャペルだろう? ちょっと休んで落ち着こう?」

「だめ……! だめなのっ……! やっぱり嫌!! 彼と別々の人生を歩むなんてできない!!」




 叫んだ声で我に返る。


 手首を強く掴まれた痛みが腕をつたって胸を締め上げる。

 丸みを帯びたはずの思いが刺々しく膨れ上がり、混乱する思考をみるみるうちに押し出していく。


 瞳子の本当の望みだけを残して──




「圭介さん、ごめんなさい……! やっぱり私にはこの思いを仕舞い込むなんてことできない!」


 目を見開いた越川が苦悶に顔を歪める。


 この一年、彼は常に傍に寄り添い支え続けてくれた。

 突発的な痛みや悲しみに襲われる不安定な自分を大きな愛で優しく包み込み、苦痛を和らげてくれた。

 彼がいてくれたから、温かく穏やかな日常に流れ着くことができたのだ。

 この先も緩やかな流れに身を任せることができるなら、彼と人生を共にすることに何の不安も要らないだろう。


「圭介さん、ずっと私を支えてくれてありがとう。あなたが好きです──」


 そう告げた瞳子の瞳から大粒の涙が零れる。


「とても大切な人です。尊敬もしています。……けれど私が愛しているのは、やっぱり彼なんです」


 瞳子の手首を掴んだまま、越川が眉間に深い皺を刻んで目を瞑った。


「だからお願い。手を離して────」






 手首から伝わる痛みがやわらぐ。


 ゆるゆると手を離した越川が、涙を溜めた目に力を込めるようにぐっと瞳子を見据えた。


「……絶対に君を幸せにする。君を愛し続ける。そう決意した陰で僕はいつも怯えていた。君がいつか自分自身の本当の望みに気づいて動き出すんじゃないかって」


「ごめんなさい……」


「いつか失う辛さも受け入れる覚悟で僕は君を愛するべきだったんだ。だから謝罪はいらない。今は君が幸せになることだけを祈るよ」


 湧き上がるすべての感情を微笑みで押さえつける越川。

 彼が必死に見せる優しさが痛いほどに伝わってくる。

 だからこそ、自分は一刻も早く彼の前から去らねばならない。


「ありがとう────!」


 瞳子は越川に向かって深く頭を下げた後、顔を見ることなく背を向けた。


 嗚咽を漏らしながらヒールが折れそうな勢いでコンコースを走る瞳子に、通り過ぎる人が奇異の眼差しを向け避けていく。


 人目など構っていられない。

 瞳子は空港へ向かう直通電車の発着ホームへ向かい、階段を転がるように駆け下りた。


 出来ることならリサよりも先に沖縄に着きたい。

 彼が彼女を迎える前に、自分の思いをもう一度ぶつけたい。

 再び彼に拒まれたとしても、もう何の後悔もない。




 たとえ傷つき壊れたとしても、誰かに憚るでも咎められるでもなくこの思いを抱え続けていけることこそ、自分の本当の幸せなのだから──





 ***


 空港のチケットカウンターに駆け込んだ瞳子は、空席のある一番早い便を選んだ。

 預ける荷物を持たない瞳子を訝しむグランドアテンダントから奪うようにチケットを受け取り、搭乗ゲートへと向かう。


 空港の細長いロビーを歩きながら、瞳子はバッグから携帯を取り出した。


 一年間触れることが出来なかった、けれども消すことも出来ずにいた十一桁の数字の羅列。

 弾む息を整えながら、躊躇うことなくそれをタップする。


 長いコールの後で、電子音が途切れた。


「瞳子さん…………?」


 懐かしい彼の声が耳元で響く。

 それだけで涙がこみ上げてくるのを必死で堪え、瞳子は早口でまくしたてた。


「礼隆君! どうしても話がしたいの! 今から沖縄に行くから会ってほしいの」


「えっ……? 沖縄に?」


「礼隆君に会いたいの。もう一度会って、私の思いをちゃんと伝えたいの。だから──」


「ちょっと待って。瞳子さん、落ち着いて」


 思い詰めた瞳子の言葉を、一年前のあの夜と同じ甘やかな声で礼隆が遮った。


「もう空港にいるの? 」

「うん。今搭乗ゲートに向かっているところ。そっちへの到着予定は午後五時三十……」

「駄目だよ。乗っちゃ駄目だ。今すぐ引き返して」


 やはりあの夜と同じように、礼隆が穏やかにきっぱりと告げる。

 けれども今回ばかりはもう引き下がらない。

 瞳子は耳元の携帯を強く握りしめる。


「もう決めたことなの! 礼隆君が迎えに来なくても私はそっちへ行くわ」

「違うよ。そうじゃないんだ」


 くつくつと笑いだす声。


「引き返して一階の到着ロビーに向かって。実は俺、たった今東京に着いたところなんだ」


「え…………っ?」


「笑っちゃうほどすごい偶然。俺もまさに今日思い立って、瞳子さんに自分の本当の気持ちを伝えに来たんだ」


「礼隆君……?」


「ちゃんと顔を見て伝えたい。今からそっちに向かうから、瞳子さんも引き返して中央エスカレーターに向かってよ」


「本当に? 本当に礼隆君がここにいるの……?」


 これが夢なら覚めないままでいてほしい。

 携帯を耳に当てたまま、瞳子は通路を引き返した。




 会話をする余裕はない。

 お互いが切らす息の吹きかかる音を聞きながらエスカレーターを目指す。


 人混みの向こう、中央で交差する上りと下りのエスカレーター。

 その上りエスカレーターから、アッシュグレージュの少し癖のある髪が見えてくる。


 携帯を耳に当てた彼がこちらを認め、以前よりほんの少し大人びた微笑みを向けた瞬間。


 純情と激情が絡み合うまま、瞳子は礼隆に向かって駆け出した。





 *終*




(ご愛読ありがとうございました)



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純情と激情 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari

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