手紙

第32話 

  裕明ひろあき様へ



 お母様がお亡くなりになったこと心よりお悔やみ申し上げます。なんと言ってよいものか、そんな大変な時にこのような手紙を書くことをお許しください。

 ご親戚のある方から連絡がありました。ですが、どうかその方を責めないでください。いちおうは夫婦であった事と、私を気づかってくださり、あとから知るほうがショックだろうと配慮してくださったからなのです。


 思えば、お母様には随分とご負担をおかけしました。離婚の話し合いの中、何度も電話をかけてしまい、どれだけ苦しめてしまったことか、今は慚愧に堪えません。あの頃の私は思い出しても恥ずかしい程とり乱しておりました。我が儘であなたに金銭的にも負担をかけてしまいました。二重生活がどれほど重荷だっただろうかと今にして思い至ります。


 知らせを受け、気づけば夫婦であった時間とふたりが一人々ひとりひとりになった年月が等しくなったことが感慨深く、ご迷惑とは知りつつペンを取りました。これからの人生のため、自分の胸に秘めた気持ちをこの折りにすべてさらして新たな道を、お互いに歩みたいとそう願います。だからどうぞ許してください。



 ありがとう、あなた。今、心からそう言えます。今更とお思いになるでしょうが私の、これが正直な気持ちです。二人で暮らした日々は幸せでした。本当に幸せでした。

 ご存じの通り、父の精神的な病が原因で幼い頃から私は人と関わることが苦手でした。それをもう恨みには思っていません。やっとそう悟ることができました。それもあなたのおかげです。

 どうしても人とうまく関われない、暗闇の中で自問自答し、答えを見つけられずにもがいては人を傷つけ、そして傷ついていたあの頃の私に、あなたは手を差し伸べてくれました。あの時のあなたのやさしい言葉と笑顔を今も忘れることができません。初めて、信頼できる男性に巡り会えた、その喜びがなかったら、私はどうなっていたでしょう。

 だから信じてください。私にとってあなた以外の男性は嫌悪の対象でしかありませんでした。ましてやあなたの親友などと……。離婚の話し合いでもそのことだけは伝えたかった。あのときは届かなかった、でもそれだけは伝えたかった。だから恥知らずにも手紙を書いたのです。お互い違う道を歩んだ今だからこそ。

 あの人の気持ちには気づいていました。気づいた上でそれを利用しようとさえ思いました。なんて愚かで浅ましい女だとお思いでしょう。ですが、そうする以外、私にはなかったのです。

 私はあなたの妻として、あなたを裏切りたかったわけじゃない。あなたの暴力がエスカレートしていく中で、私はあなたの秘密に触れました。だからあなたの妻としてあなたの秘密を破壊したかったのです。

 このことは誰にも話していません。私達、かつて夫婦だったふたりだけの秘密です。誰に対してもやさしいあなたが、私だけに見せた感情。それこそがふたりが夫婦であったあかしなのですから。

 

 お互いの家族の反対を乗り越え、妻という立場に置いてくれました。

 なんの取り柄もない女に、安らぎの時間と猶予を与えてくれました。

 あなたは守ってくれました。だからこうして生きていられる。そう思います。


 私には信仰があります。元はあなたに勧められた帰依ではありますが、皮肉にもあなたと別れたあともこれだけは残りました。あなたは……信仰を捨ててしまわれたそうですね。ご親戚からうかがいました。でも私は知っています。あなたは余りにも純粋であるがゆえ、あなたが抱える秘密をそのままに、信仰を続けることが出来なかった。そうですね? 

 わたしにはわかります。


 ふたりにもし子供が生まれていたら、どうなっていただろう。甲斐もないことですが、そんなことを思ったりもします。ほんとうに詮無せんないことです。あなたはそれを望んではいなかったのに。でももしかすれば、違った結果だったのかもしれません。


 つれづれに長い手紙をごめんなさい。一時はお仕事のほうも大変だったのでしょうが、それも良い方向に向かっていると聞き及び安堵しています。私の身内の不幸の節はお心遣い頂き感謝申し上げます。つくづく私はそんなところまでいたらぬ妻でした。


 もう二度と私の文字など見たくない、この手紙も破り捨てられる怖さもありましたが、しつこくもご連絡をしてしまいすみません。でも、安心してください。あなたと同じように私も未来を見ています。

 いまお付き合いをしている方と少し先ですが夏頃、結婚をと考えております。年齢的に子供は望むべきもないことかもしれませんが、それでももう一度、自分の人生に花を添えるべくと、そう願っております。そのご報告も兼ねてお許しください。

 

 最後に、あなたの幸せをこころよりお祈り申し上げます。いつまでもやさしい裕明さんでいてください。敬具。



                              戸髙裕子












 清潔なカーテンがふわり風にゆれ、誰かが閉め忘れただろう光差す窓を見る。

 再びふわりと薄い布が手にふれて、病院のベッドテーブルの上に裕子はそっとペンを置いた。



 



 



 

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反拐(はんかい)・ワンシートVer. プリンぽん @kurumasan

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