長い一日

第31話

 台東区、浅草、珍しく東京に雪が降った朝。

 石油ストーブに火をつけ、珈琲を飲むための丸いヤカンを置く。

 パートナーは分厚い布団に包まりまだ夢の中で、部屋が十分暖まるまで、起きては来ないだろう。古い町家まちやに手を入れただけの粗末で広い家は、エアコンだけでは太刀打ちできない。暖まるまでには時間がかかる。

 部屋が暖まる前に湯が沸いた。雪で無音の白さの中で火傷しそうな珈琲を飲む……(アチチッ)この時間がけっこう好きだ。ブラジャーの紐をパチンっと弾くパートナーを湯気の向こうに目を細めて眺めた。


 

 中途半端な文化人にとって下町は金になる。階下の板張りスペースも手広いわりに家賃が安いからだけでなく、かつての花街の風情に憧れる若い女性の好みを考えてのことだ。 

 年季の入った柱時計も演出に一役買う。彼女たちは単にカメラを習いにくるわけではない。文化の香りに親しみ、同化し、満足して金を払う。そして、決して上達はしない。

 肩書きこそ――下町の美人カメラマン――だが、本業ではほぼ収入のない私にとって、小さな講演会と彼女たちがくれる投げ銭だけが貴重な収入源なのだ。


「おはよう」パートナーはスポーツブラに一枚引っかけただけで、ショーツのまま私の隣で催促する。彼女も少し前まで私に投げ銭をするグループの一人だったが、今は私のほうが少々の援助をしている。「さてこの恋はどれくらい続くの?」口には出さず、催促されるまま彼女専用の大きなマグカップにたっぷりとお湯を注いだ。


 2時間後、案の定コーディネーターからキャンセルの連絡が入った。東京の交通機関は雪にもろく、旅行会社のツアーに組み込まれた私のカメラ講義はシステム上、休講となった。パートナーはそれでも出勤し、ぽっかりと暇だが、絶好のロケーションを前に出かける気にもなれない。本職への情熱はいくぶん冷めて、三十を目前にした私には老成の感すらある。


|雪か| 同郷の友から質問なのか、つぶやきなのか、わからない問いかけ。


|こっちは雪やよ!| 新機種にも慣れてほぼしゃべる早さで返事する。


|ええのう、東京は。雪なんじゃけえ、気張って働かんかい|


 彼女はカメラマンの仕事は写真集を出すことだと頑なに信じていて、もう2年も新作を発表していない私を心配し、私の尻を叩き、私をなにかと傷つける。

 CDは売れない。本も売れない。処女だって3割引でも売れない時代。



 ……それでも、私は恵まれてるほう……時代がデジタルに完全移行する前に、フィルムで賞がれた。まだ若かった。だからメディアにも取り上げられ、名前も多少売れた。

 金髪の美少女カメラマン。金髪の美少女カメラマン。金髪の美少女カメラマン。

 いまだに小さな講演会にゲストで呼ばれ、この家で講師のまねごとをしていられるのはそのお陰で、本当に写真一本で食べていくには専属になるか、それこそ戦場にでも行かなければならない。あとはお鮨の写真とかケーキの写真とか犬とか猫とかニャンニャンとか……興味もない対象物にうんざりしながらレンズを向けるしかない。


|おばちゃんほはよう| 桜が割り込んできた。


|おばちゃん言うなちゅーに| 娘みたいなもので気にはならない。


|サクラふざけんな、はよ降りてこい|


|いやぁ^^ おなかすいてない件 学校ないんじゃけもうちょいゲームする|


 どうやら広島の住宅街の一階と二階で親子喧嘩が勃発しているようだ。

 浅草と広島の一階と二階の三角形は、角度はどうあれ常に現在進行形でつながっている。


|雪やろ?|


|そやけぇ雪やって| 


|猫撮れ!雪のなかの猫撮れ!|


|そやでおばちゃん!猫ブームやで| 担当と同じことを言う。


|桜ははよ起き!直子は洗濯!洗濯終わったら仮眠。夜の戦闘にそなえときぃ|


|あんたはなにするんよ|


|わかった仕事する。そやけど猫は撮らん|


|またボロ家とおじいちゃんとおばあちゃんか?|


 下町に暮らす老夫婦の日々の生活のあれこれと、あとどれくらい持つのだろう? 木造の家。目下、我が唯一のライフワーク。昔話とセットにした写真集は二作目まではそこそこ売れた。

 次が出せるかどうかの可能性は――首位打者が四安打する確率くらい――私も一応カープ女子だ。

(しょうがねえ。ひっさびさに、仕事すっかぁ。)

 編み上げブーツと厚手のコーデュロイのロングスカートでダサい肌着を隠し、オレンジ色の安物ブルゾンを着込んで完全防備。帽子を乗せれば三十路前の不思議女子の出来上がり。下町はなんでもありだ。階下に降りてギュリギュリギュリと柱時計のゼンマイを巻く。

 昭和初期の代物で文字盤に二つの鍵穴。向かって右が振り子をゆらすエンジンで左がボーンボーンと時打ち用。15万8千円也。準備完了。蝶々みたいな金具をしまう。



|仕事 猫 猫 雪 仕事|


|うるへ~仕事するちゅーねん。直子も仮眠して店でじじいだます準備しとけ|


|ちょっと~子供の教育上よろしくないからやめてくれる?|


|おばちゃんは猫撮って、ママは爺だまして、ガッポガッポのがっぽり建設|


|サクラほんまにママ怒るからね? 小学生がダイエットとか|


|桜? ダイエットすると太りやすい体質になるよ。ママみたいになるでw|


|ぅぅぅぅぅぅん! もうちょっとしたらトースト食べに降りる|




   ねこがいた。




  家からでて斜めに流れる粉雪をさけ、軒下を細く歩く私に挑むように、道を塞ぐように、りりしく、動こうとしない。全身真っ黒で足先だけがブーツを履いたように白い。(ぱちり)思わず業務用で撮った。ひさかたの雪に慌てて明るさの照準に自信がない。サービスで民間仕様で撮り直して二人にアップする。




|かわいい|


|ぶちかわいい|


 感想が来た頃には、猫は消えていた。












 ひのきは堅く、杉は柔らかい。子供の情操教育には適度な柔らかさから、床と手に触れる玩具、椅子などは杉が最適だそうで、それは理に適っている。殺菌作用もある。手持ち無沙汰にテーブルに手を伸ばし、そんな玩具を弄くる。


                 |まだ仕事中か?|


「ひさしぶりねぇ、真央ちゃん」

「ええご無沙汰してます」この年になって名前を呼ばれるのは照れくさい。

「雪はいやねぇ、この家は凝った作りだけど寒いのよ」

 棟梁が自ら建てた家は檜が贅沢に使われ、数寄屋作りの至る所に細かい細工が施されている。それはそれは素晴らしいもので、引退後に本格的に作り始めた杉の玩具と共に頻繁に取材させてもらった。桜にもいくつか送ってやった。

 当時、金髪ヤンキーみたいな私を最初に受け入れてくれた恩人。

            |まだ仕事中か?|

 それなのに棟梁が寝たきりになってからは気詰まりで、ご無沙汰してしまっていた。


「おとうさん、真央ちゃんが来てくれたからご機嫌ね」

 ほとんど表情の読み取れない棟梁に奥さんが話しかける。

 確かに都内にいるのに顔を見せない独立した子供達よりはある時期、可愛かったのだろうが、こうなると人の芯が見てとれる。やはり実子の顔が見たいだろう。木の玩具が情操教育に役立つなら、大人になった彼らはなぜ煩わしさに耐えられないのだろうか?

 さっきの写真が気にかかる。いい絵が撮れた。粉雪で点描画もどきの質感と絶好の構図。スカイツリーも右端にあった。老婦人の話は耳に入ってこない。シャッター・スピードと明度が心配。       |まだ仕事中か?熱心やのう|


「――で、どうなの?」

「え?」

「いやねぇ、良い人はいないの?」

「はぁ」この年代のご婦人にセクハラやマタニティーハラスメントの定義が通じるわけもない。出されたお茶を飲むしかない。

「雰囲気もずっと落ち着いて、……最初会ったときは凄かったけど、今は黒髪って少ない方じゃない? 男の人はやっぱり好きよ。けっして外見じゃないけれどね。真央ちゃんは有名人だし収入とか見合う男の人はむずかしいのかもしれないけれど……」

「そんな……この仕事も不景気なんですよ。今は写真を教えて……その流れで下町の案内なんかしながら撮影会とか、悩み相談とか……とかで食べてます。養って貰えるなら言うことないですけど」

「だったらねぇ……」



 雪はもうやんでいた。誰が集めたのか、そこここに白山があるだけ。吐く息はまだ白くて、そしてさっきの写真には興味がなくなった。雪、猫、スカイツリー。私にしか撮れない写真? どうでも良くなるとさっきの条件が思い出された。公務員、次男、イケメン、私のファン。ビルの陰でうんこ座りする。おしりをつけると濡れるからだ。

 私は男が好きなのか? 女が好きなのか? 普通の一般人に戻りたいのか? それとも再びテレビの人気者になりたいのか? 自分しか撮れない写真? 誰かが感動する写真? 平穏な生活? 刺激的な毎日? 安定か? 情熱か? ジキルさんか? ハイドか?

 堂々巡り。 

 棟梁の子供たちは棟梁が嫌なのではなく、……優しそうな奥さんがその原因で、事実は小説より奇なり。通い詰めてわかった真実。なら、人生の答えなんかそう簡単にみつかるはずもない。だけど親切にかなりいい物件を紹介してくれた。推定年収一千万弱。

 地面におしりを付けていないのになんか濡れた。年収に濡れたわけじゃなく、気化熱とかそんな科学的な意味合い。ビルの壁にスカートを押しつけたら灰色の壁に丸くヒップの跡が残った。



|まだ仕事中か?|


|さっきから何回もw 今終わったとこ|


|もうなぁ、サクラがあんた真似してダイエット始めてこまっとるんよ|


|今どきの小学生の女子なんてそんなもんちゃう?|


|あんたがやせ過ぎやねん。そりゃテレビは太って見えるからやろうけど|


|テレビなんか最近呼ばれないよ|


|大事な時期に栄養失調でホルモンバランス崩れたら将来、子供うめんくなる|


|おばちゃん今ママとしゃべってるやろ?| サクラが内緒で話しかけてきた。


|大人同士の会話。サクラがダイエットしてるから直子が嘆いてるの|


|ちゃんと考えてやってますぅ このままやったら165とかになるもん|


|お肉やなくて身長かいな? 直子にちょくで言いや|


|わたしいま図書館やもん。ママはもうお店やし|


|もしかして直子ってもうお店?|


|あんたが6時間も仕事してるのに影響されて気張ってるわ。おしぼりくるくるしてる。なんかなぁサクラはまた図書館行ってしもたし、あの子本ばっかり読むんよ。どっかおかしいのかもしれん|


|えらいやないの|


|桜 図書館で何読んでるの?|


|もっと外で友達と遊んだりしてほしい。おっとお客や~仕事仕事ぉぉぉ|


|探偵小説一杯あるねん。それとか星新一とかなぁ|


|誰それ? そか、がんばりぃ 私ももうちょい仕事する|


|へいへいサー^^|


 目の前に古ぼけた蕎麦屋が見えた。少し写真を撮らせてもらおう。老舗だが長男が40歳で銀行を辞めて継いだばかり。ストーリーとしては悪くない。もっか一番の取材先……出版の目処は立たないけれど。

 店内は珍しく混んでいて、邪魔にならないよう、動線を確保しながら日常を切り取る。粉まみれの台と先代と比べおぼつかない主人の動き。先代の内儀さんが漬け物を取り出す手先、ついでにぬか床も。物珍しそうなお客の視線が私に集まる。これも演出だ。

 この店も私のシステムに組み込まれている。二時間ほどのカメラ講義のあと下町の風景の撮影会……頃合いを見計らいこの店に誘う。老舗と言っても東京にはモンスター級がいくらもあり、この店クラスに私が連れてくる団体客は可也かなりありがたいはずだ。

 皆のお腹も満たされ風景も飽きただろうと今度は職人の作業場に連れて行く。

 ガラス細工、陶芸のイケメン若手作家工房で「あれ? これってさっきのお蕎麦屋さんで見た器ですよね?」と、こうなればしめたもの。実用性と実際目の前で作品が生まれる物語性にふわぁふわぁっと情緒不安定になり、安くはない商品に手が伸びる。財布の紐を緩ませるテクニック。私は鬼か?

 キックバックがどこから支払われるかは企業秘密だが、とにかく持ちつ持たれつ。組み込まれた店は、私の無理を大概聞いてくれる。


「今日も天ぷらにしましょうか?」

 客が引けて主人が声をかけてきた。

「いつもすみません」とびきりの笑顔がでたはずだ。食通ならどうなのかわからないが、私はこの主人が作るもっさりした蕎麦が好きだし、天ぷらはお世辞抜きに美味い。いっそ天ぷら専門店にすればいいと思うが、商売はそう単純ではないらしく主人は再び粉まみれになりにその場から去った。


(大事な時期に栄養失調でホルモンバランス崩れたら将来、子供うめんくなる)

 一人になるとさっき言葉が引っかかった。直子はサラっと私を傷つける。かつては恋人? だった時期もあったのに……。これほど頻繁に連絡を取りながら毎年、年賀状をきっちり送ってくる。桜の赤ちゃんから小学校5年生までの笑顔が、我が家の二階の引き出しにしまわれてある。こっちは本職なのに。桜を心から可愛いと思うし悪気はないのだろうけど、やはり私の心はどこか鬱屈する。


 先代の内儀さんが湯だめした蕎麦と海老、穴子、烏賊の天ぷら、鶏天のみぞれあんかけを持ってきた。狭いテーブル一杯に並べるのを眺めているとビールがほしくなるが、無料なのでそこまでずうずうしくはなれない。


「どうぞ、おビール。寒いときでもこっちでしょ?」

 なんて気が利く人だろう。流石さすが。中休みでもう客が来ることはないだろうからゆっくり味わうことにする。そう言えば鶏天のみぞれあんかけは直子の店の名物料理だ。あそこではこれにマヨネーズが付く。ビールにはそのほうが合うだろうが提案する勇気はない。

 蕎麦、海老、鶏天、穴子、烏賊、烏賊、海老、子供、海老、穴子、子供。

(大事な時期に栄養失調でホルモンバランス崩れたら将来、子供うめんくなる)

 この時間から飲む酒は心地よいけれど、ダイレクトに脳に届く。居留守を使っても隣に預けられる。つまらないことが引っかかり、思考の調整が難しくなる。


 そもそも私は女性だけを好きになるわけじゃない、男も好きだ。セックスに関してだけなら――6:4のお湯割り――男とした方が気持ちいい。快感の深さとベクトルが違う。でも関係はあまり長く続かない。女性の場合は気持ち的に満たされ、比較的続く。以上。

 子供を産むとなれば相手は男以外に考えられないわけで社会的にも議論の余地がない。

 自らの性をカテゴライズして同じ仲間から助言を求めたいとは思わない。自分は自分だ。商売のためにバイセクシャルを売りにするのでなければことさら声をあげる必要もない。

 家族とは?

 ぐだぐだ考えていると上燗の日本酒が来た。ギブ&テイク。もっとお客を回さねば……気がまわる相手にも自分にも、すこしうんざりする……





 ほろよい気分で店をあとにした。すでに道は泥濘ぬかるんでいるだけで、パートナーに連絡を入れると今夜はあっさりと振られた。就職して一年にも満たない彼女は同僚との飲みのほうが楽しいのだろう。幼い好奇心からの、私への興味は冷めかけていた。

(ちっくしょう~)

 お腹はポンポコリンだが飲み足りない。あいにくこの街は、今から飲める場所に事欠かない。煮込みぃランドはもはや観光地なので必然、裏路地のさらに奥地へ。いろいろ冷やかしながら、さらにさらに奥地へ。そして、さらなる奥地へ。


 安くて旨いからこんな場所なのに立つ波が寄せるみたいに老人が引きも切らない。入り口で何人かの顔見知りから声がかかる。中にはおしりを撫でてくる不届き者もいるが、余命幾ばくもない彼らなので多少のことは大目に見ている。

 カウンターに附くなりタバコに火をつける。ここはジハードの拠点。ここならば誰も、――条例で禁止されていようがいまいが――口にするものはいない。何も言わず出てきた冷や酒を啜ると口紅がすこし溶けた。この世は多数決だ。だからほっとする。





|暇やよ~店つぶれるよ~|


|しらんがな、いっつもはやっとるんやからたまに暇でもええやろ|


|母娘が路頭に迷うよ~|


|しゃーけしらんし、こっちはもう酔っとる| 酔うとなまりがキツくなる。


|うちに飲みにきてよ~ 飲むんならうちで飲んでよ~|


 向こうもかなり酔っ払っているようだ。不景気でも田舎のわりには繁盛している店だが、客が途切れると不安になるらしい。(老若女女)6人も抱えている大所帯。今は実質、直子が切り盛りしている。一応は経営者の苦悩か。


|婆ちゃん寝たきり、お母ちゃん腰痛、娘はガリガリ、私はシングルマザー~|


(嘘こけ。桜の父親とは今でも会ってる! 養育費もらっとるやろうが!)

 内臓に意地悪な元気玉がたまっているが、それは吐き出さない。桜と約束した。直子が私には黙っていることを内緒で桜が私に報告していることを私が直子に黙っている約束だ。

 母親の反対と年齢が離れているせいもあって、結局は籍を入れなかったはずが、ずっと同じ男と直子はつながっている。

 スナックの客が期待するような父親のわからない子を産んだふしだらな女ではない。

(もしかして桜の弟か妹、産むつもりとちがうんか? よ! わーれー)


「だめだめ、やきとりの串は隙間なく並べなきゃ」

「了解~~」

 この店は炭の入った小箱を出してくれ自分で焼き鳥が焼ける。外はカリッと中はジューシーにするには水分が抜けないようせいぜいくっつけて焼かねばならない。



|爺が団体でやってきたぁーひゃほぉ|


|おいっっっw|



「あつっ」

「ほらほら気をつけて」

 つくねの肉汁が口の中にあふれた。粘膜の薄皮一枚めくれちゃうくらいのほうが最高に旨い。ただれて翌日どうなろうが知ったことじゃない。



|爺は金もってそうか?|


 返事はない。仕事となるとだれもが一生懸命で、もうそんな年齢なのだと鏡を覗き込んだ気分で、だけどもそれはそう単純に他人の幸せを無自覚に願うほどきれいな心ではないのとイコールで、友達といえどもそこが女の、女の成虫たる所以ゆえんだったりする。

 やはり子供がいることは大きい。それはとてつもなく大きくてその大きさはときに人を押しつぶしさえする。二つの意味で……だ。年賀状で子供の写真を送るやつなんか死刑になればいいと思うが、やはり桜の顔は見たい。テレビ電話でときどき顔を見てもやっぱり見たい。それとはまったくちがうもので、世の中にはそんなことがたくさんたくさんある。


「どう? いいの入ったのよ」

「めちゃくちゃ美味しい」

 新鮮なアンキモを塩と酒で下ごしらえしたのをさっとあぶって口に運ぶ。これなら時間指定配達でなくいつでもOKだ。客はあふれかえるばかりなのに私にだけ愛想する店主が少々うざくないわけではないが、顔には出さないのは愛される秘訣とおまけしてもらうコツ。

 間髪入れずなんの魚か正体のわからぬ白子の醤油漬けが小鉢で置かれ、店主が唇で――焼け! 焼け!――と合図する。



|爺がケツさわりにくるから避難~|


|爺ふざけとんな。割り増し料金取ったれ!!|


|そうするナリぃ~|


 どこかに羨望と嫉妬がありながら、直子が理不尽なことをされると腹が立つ。サナギの部分が残っているのか、幼虫になって孤独を感じてまたサナギになってまた成虫になって、最終的に蝶ではなく蛾になりそうで、自分の心の揺れに不安を感じる三十路まえの冬。


|しごとどう?|


|まあまあかな。下町ブームで人並みの生活はできてまふ。愛人囲ってるしw|


|いくらくらい貢いでるん?|


|ってなんかいその質問するんじゃい! そんなたいした金額じゃないって|


|写真集楽しみにしとるんやもん|


|今は売れんよぉ。他はオリンピックまでは大丈夫っしょ、そのあとはしらん|


 精子の元を口に運ぶと醤油の香ばしさが爆ぜてトロっとした”く”が拡がる。店主がウインクするのに鳥肌が立つがそのほうが我が身の感度は研ぎ澄まされる。


|不安よな~将来|


|先考えてもしゃない。今よ今。おかげさまで、お肉お肉お肉感謝祭&ワイン|


|ええなーうちも一回くらい東京に住んでみたかった|


 直子のお陰、これは本当だ。あの頃の私は写真の専門学校に通おうと漠然とアルバイトしながら、どうせ趣味で終わるだろうと曖昧な予感の中でシャッターを切っていた。臭いと両隣に文句言われても容器を並べたユニットバスに現像液を流して咳き込んで、そんな自分にガッツポーズして甘えていた。

 自分と子供を撮ってくれと直子に頼まれるまでもなく、私は母となる半分彼女ゆうじんとその子のまたたを逃すまいと思っていた。月日と併走して醜く膨らむお腹と同じ女なら我が身にも降りかかる悲劇を間近にしながら(ちょっと大げさか)待ち焦がれていた。たぶんその当時、優しい男と暮らしていたから尚更なおさら、身近に生命の神秘を感じたのだろう。


|にく~にく~にく~|


|こらサクラ! あんたまだ起きとるん?|


|今日、オムライスだけやでうちとこ|


|ダイエットは?|


|肉は別ぅ~|



 東京の粋人たる私のチョイスは渋すぎて、二人に雑魚の白子の味を説明したら指紋がなくなってしまう。で、肉とワインにしたが逆に食いつかれこっちのほうが面倒だ。


(ルルルルルル ルルルルル ルルルル)


「はいもしもし?」              (知らない番号からだ)

「毎度どうも、砂場です」           (砂場? トンネル?)

「えーと……、はいはい先ほどはどうも」    (なーんだ)

「勝手に……あの森内ガラス工房で番号聞きまして。店にカギをお忘れになったようでキーホルダーが緑のなんていうか、ぼにょぼにょしたの、見覚えがありまして」

 腰に手をまわす。まあ、緑のぼにょぼにょの段階で間違いなく私のものだ。


「すみません。えーと」

「店がまだ終わりませんで、11時頃でどうでしょう? お家かな? 三喜久?」

「三喜久です。えーっと」

「持って行きます。お待たせしますが」

「すみません」

 なんだ? 私が三喜久で飲んでいることはそれほど有名なのか? 

 ぼちぼち帰ろうとしていたが、まだ飲まなければならない。立ち飲みなので足が辛いがまだ二十代だ、弱音は吐かない。


「野菜ちょちょっとなんかして、焼くのももちょっと、それからお酒追加」

「へーい、相変わらず酒豪だねぇ」




|ワインって絶対男いるやん イタリアン?|


|子供がそんなこと言うたらあかん! なあ、直子|


|ママ接客中みたいや|


|あんたの為にがんばっとるんよ。そやさけ心配させんとな|


|わかちゅー 来週お父さん来るし、良い子にしとる|


|そうか。またお土産いっぱいくれるんとちゃう|


|もう欲しいの頼んであるしw お婆ちゃんがうるさいから寝る~^^|


 突然会話が途切れた。直子も接客中のようで盛り場の喧噪にいても、ぼっち。

 蕎麦屋が鍵を持って来ないと家には入れない。柱時計のゼンマイも巻けない。ブルーになる赤い口紅の女。心配するな、不安になるほど現状は悪くない。けど酔いは限界間近で、牛女は過去を反芻はんすうする。


 

 芸術性のない母と子と桜木の構図をフォトコンテストに応募した。小さな地方紙で賞金5万円を貰った。審査したプロのカメラマンに声を掛けられ、撮りためた廃港やレンガの建物を褒められた。誘われた。見返りを求められることもわかってた。たいした男ではなかったが小さなスタジオを持っていた。場所は東京。雌伏しふくの私の勝負所だと勝手に思った。

 あっさりと彼氏を捨てた。


「もう一杯。つまみはもういいわ」

「ほうい。な、店終わったらちょっと付き合わないか?」

「ざんね~ん。11時に彼氏が迎えに来るの」

「あらまあ、まあそうだろうねぇ。やっぱエリートなんだろうねぇ」


 もう10年以上まえのことだから未練なんかない。自分の性の特殊から去られることが多かったから、自分から振ったその現象が珍しく映像と音と匂いとを焼き付けただけ。

 

 約束の時間の少し前、彼氏が蕎麦屋だとばれるとスキャンダルだから、残った冷たい酒を流し込む。

(白子はサービスじゃなかったのか? こんにゃろめ)

 とは言え、それでも相場より安い値段に満足しながら昨夜より暖かい外の空気を吸い、方向から計算してちょこちょこ歩き、四つ角のそれはそれは由緒正しい石碑に腰掛けて、タバコを吸おうかなぁぁと迷ったけれど、印象が悪いから取りやめた。程なくして仕事着のまま待ち人はあらわれ軽やかに会釈する。


「お待たせしてどうも」

「こちらこそわざわざ持ってきて頂いて」

「帰り道ですので。はいこれ、見覚えがあったからすぐにわかりました」

「変なもの使ってるでしょ。友達のプレゼントで」

 私は大の男に緑のぼにょぼにょを持ってこさせたことを詫び、そのまま方向も同じなので雪のあとの汚れた道を並んで歩く。


「それってなんですか?」

「ムラサキシジミっていうちょうの幼虫なんです。昔、地元ではやったんですよ。広大の学生さんが企画して。リアルでしょ? 大きさはデフォルメして……気持ち悪いでしょ」

「いいじゃないですか。蝶々もありますし」

「あー蝶々かな? 柱時計のゼンマイ巻くのに使うの」

「知ってますよ、うちにもありましたから。そんな細工はなかったけど」

「高かったんですよー20万くらい。昭和初期の状態のいいのだと……」

「穴子」

「へ?」

「いえ……今日の穴子、どうだったかと思って」

「あ、いつもどおり凄く美味しかったです。砂場さんの天ぷらは最高です」

「天ぷらは……ですか」

「いえ……あの」

「ははは、お気になさらず。評判は知ってますから」

(アイタタタッ!)自分が傷つきやすいくせに人には言ってしまう。曲がりくねった道でぎぬのように一瞬、心乱れて酔いが覚めた。街灯に照らされた顔を盗み見る。


「継ぐのが遅かったです。子供の頃から手伝ってはいたんですがね」

「でもなかなか出来ることじゃないですよ。先代が倒れられてすぐ銀行を辞めてなんて」

「リストラだったんです。三十半ばで関連の警備会社に出向で、かっこ悪くて誰にも言ってなくて、結局いたたまれなくて……それならそうと親父にもっと教えて貰うべきでした」

 またもや触れにくいところに船が漕ぎ出し、豪腕で風向きを変える必要性を感じた。


「この芋虫ってね、甘い蜜を出すんです」

「はい?」

「でね、その蜜を貰うために蟻が必死で弱い幼虫を守るんです。互恵関係って言うみたい。人間関係とか人が立っていられるのってそういうことじゃないですか? 私はここに来て教わりました。救って頂いたのかな。下町って素敵じゃないですか」

 多少強引だが煙に巻くことにする。こんなときはなんとなくいい話をするに限る。頻繁に顔を合わすがこんな立ち入った話をする間柄でもない。名前はなんだっけ? 蔵下さん? そう蔵下さん。金持ちそうな名前だがあの店は借り物。だから今、この人は自宅に向かって歩いている。暗い話をされても困る。今夜は月も出てないし……


「……ですね。先生にお客様を連れてきて頂いて本当に助かってます。あぁ、ランチ用にまた森内ガラス工房から小鉢を安く譲ってもらう予定にしてます」

 話が噛み合わない。それじゃまるで工房からのキックバックを私が要求しているようにもとれる。私はそんなあこぎな女じゃない。ほんの10パーセント、そうしないと生活が苦しい。講演会だけではパートナーにお小遣いもあげられない。小遣いなしではピチピチの愛人をつなぎとめる自信がない。


「穴子なんですけど」

「はい」

「夜釣りの手釣りなんです。築地にけで入ったとしても鮮度的にはそれより上だと思います。友人が好意で……そいつもリストラ組で大変なんですが、はは、なんとか定期的に店で出せそうなんです」

 夜釣りの手釣り? 魔法の言葉だろうか。それより漁師でもないのに勝手に商売で魚を釣っていいものか? ブラックマーケット情報を独白されているのか? キックバックのキャッシュバックと大差ない。……この人の声は、不快ではないけれども……


「いろんな人に支えられているんだと思います、先ほどの先生の話じゃないですけど。今はなんとか工夫して生き残っていかないと……」

「将来が不安ですよね」

「先生は成功者じゃないですか。二十歳そこそこでしたよね。賞をお取りになったの」

 ネットで経歴でも調べたのだろうか、流暢に話す。先生と呼ばれるのは心苦しいが権威づけもビジネスの一環だと割り切るようにしている。相手が呼びたい呼称で呼んでもらう。自分が指定するのはかえっておこがましく浅はかに思える。


 おもわずがなの長話。男の人とこんな風に歩くのはいつ以来だろう。悪くはない。早じまいの下町にもぽつりぽつりと開いている店を通り過ぎるが「もう一軒どうですか?」と誘ってくる気配もない。誠実そうでそれも悪くない。

 私が先生だからだろうか?



 私は突然、先生になった。

 東京に来て2年はアシスタント兼愛人をしていた。男はなにも教えてはくれなかった。ぎりぎりの生活と過酷な労働……ただ最新の機材だけは自由に使えた。雄飛ゆうひは自分で引き寄せた。

 賞をれば翌日から先生。翌日その日からアシスタントには行かず、それっきり自分でマネジメントしながら取材を受けテレビにも出た。この業界ではよくあること。しばらくは忙しさに有頂天になりなにもかも上手く回った。

 今も、上手く回っている。

 もともとそう甘い世界じゃない。最初のうちは写真集も売れたしメディアから重宝もされたが、それがやがて失速することも生憎あいにくわかっていた。でもメディアや本業の需要は減っても知名度とイメージは残る。残った。だから食べていけている。

 やはり上手くは回っている。

 だとしたら、今日のこの感情はなんなのだろう。


 いつからか写真に説明が必要になった。最初からか? 金髪の少女が捉えた廃港の虚実、下町老夫婦の暮らしと格子こうし天井のいわれ、柔らかい杉の玩具、伝統工芸に立ち向かう若い感性、リストラされた末の三代目の苦悩。

 ストーリー構築。最終的には活字にしなくとも背景に物語を説明を付加価値を――――――なければ売れないじゃない――――――

 先ほど嫌がった話までもう組み込んでしまっている。超絶超人より弱点だらけの主人公のほうが愛着がくではないか。



「才能なんでしょう。僕たちが見れば単なる古い家だったり。先生の三作目かな? 瀬戸内海の島の、あんなに小さな島がたくさんあるなんて知りませんでした。あれのレンガのなんであんなところに自転車があるんでしょうね? 崩れた建物の端のほうにいる猫がなにか狙ってる。最初にレンガの壁に目がいくんだけど、真ん中じゃないのがいいです、猫が鮮明に飛び込んで来て、でも最後は自転車がやっぱり不思議なんですよね、心に残る。……失礼ですがテレビで見る印象とのギャップが……知りあいに写真集を借りたときにありました」

 声は良い。解釈は自由だ。あんなちっぽけな坂の島に自転車がある理由も探せばいくらでもあるだろう。作品に説明はいらない。本当はいらない。


 絵描きなら絵中絵えちゅうえ。絵の中にさらに絵を描く。それはメッセージだったりライバルをこき下ろすためだったり、イーゼルに掛けた白いカンバスは無垢むくな未来の象徴だったり、絵の具のチューブをしぼりだすように彼らはアイデアを叩き込む。カメラマンなら画中画がちゅうが? これは一回こっきり。曲芸にはなっても二度とは使えない。撮った写真を加工するのも好きじゃない。主張するなら作品の中だけ。そこにあとづけの価値はいらない。自転車の車輪も意図的にまわしたりはしない。


|隣を歩いてる男がうざい|


|からだでっかい 襲われそう|  


|男性ホルモンのアツがすげー|       (チッ、肝心なときにいない)




 粉まみれの男が不意に立ち止まった。もう家についてた。別れを言おうとして男の視線に無意識に従う。


「あっ! 長靴履いてるみたいですよね、朝も見ました」

「飼い猫じゃないんですよ、首輪付けてますけど」

「飼い猫じゃない?」

「餌やりはいけないことなんでしょうけど、みんな持ち回りでね。保健所につれてかれないように誰かが首輪つけてそれっきりです」

 おはようからお帰りまで暮らしを見つめられている風で妙な気分だ。毛並みと柄模様が珍しいから愛されてるのか? 顔は相当ふてぶてしい。体もずんぐりとむっくりしている。ずんぐりと言えば隣の人も随分ずいぶんむっくりしている。


「お家ここですよね。それでは私はこれで」

「今日はなんだかいろいろとありがとうございました」

 自分に挨拶がないことに不満なのか、猫は恨めしそうにひと鳴きしてエアコンの室外機から暗闇の隙間に消えた。



「あの、立花さん」

「はい?」ちょっと歩き始めていたから、よろけながらきびすを返す。


「生徒さんがいらっしゃらなくても今日みたいにいつでも来てください」

「はい」

「野菜も知りあいから特別良いものを入れられそうなんです、では」

 お辞儀をするのに下がった背中と肩幅が広くて、そのまま顔を上げずに向きを変えて行ってしまった。






(今日はなんだか疲れた)



 

 玄関を開けると柱時計の振り子だけがゆれるだだっ広い板の間のスペースは寒々しい。天井に寝そべる太い梁とか江戸指物師が粋にあしらったほにゃららとか、人が居なければなんの価値もないなと思う。直子に話しかけてもさっきからずっと返事なしで、よほど金になる客でも捕まえているのだろうかと、たくましいと思う。あれ? 今日のこの気持ちはいったいなんなのだろう。

 不安でもない嫉妬でもない疲れとも違う。

 焦りでもない迷いでもない性欲ではない。

 木製の階段はきしみ、誰もないのに静かにあがると飴色の鴨居にノースリーブのワンピースが掛かっている。


「来てくれるならメールくれればいいのに」

 おそらくほぼ全裸だろう。毛皮のショートコートとカットソーが脱ぎ捨ててある。どちらかと言えばこちらを掛ければ良いのにと、コートをワンピースと同じハンガーに掛け、カットソーをたたみながら私はその場にペタリと座り込んだ。

 たぶん寝汗をかくだろうからストーブに火を入れるのは躊躇ためらわれ、私は安物のブルゾンを脱げずにいる。飲まされすぎてアパートに帰るのが億劫おっくうになった……それだけ。


「私、なにやってんだろ?」


 ポリのスプレー容器がパンパンにふくれていて、自家製のアロエの化粧水を今朝入れ忘れたのをとがめた仕返しだろう、クスッと笑い、家事の面倒な私の代わり、労働の対価としてのお小遣いだとか、脈絡もない、誰に対しての言い訳なのか自分でもわからない、小間切れの思考が頭ををよぎった。








(ボンボンボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーンボーン)






 まさかこのタイミングで鳴る? 朝きっちりゼンマイ巻いたのが裏目に出た。




|三十路ぃーランドへようこそっ!|


|おばちゃんお誕生日おめでとう~|


|ウィー^^このタイミング狙ってさっきからシカトこいてくれてたわけね?|


|結構ショックやろw 去年は私がやられたんやからね|


|おばちゃん~正真正銘のおばちゃんになったなぁ^^|


|八つ裂きになってしまえ貴様らw|


|まあまあ、お互い三十歳で一回広島帰っておいで。遅いと私31になるでっ!|


|さっきの男が気になる~明日ね! さすがにねみぃ~ではさらば(^^)/サッ彡|



 (ルルルルルル ルルルルル ルルルル)       相手の電話の音がする。



「なん……なん? まだ・店やちゅーねん」

「いやいいやん、たまには付き合ってよ」

「しょう……がないなぁ、え?……ちょちまって………………」

          ※

「ほいっ、そんなショック……だっ・たん?」

「そんなことないよ。朝からわかってることやし。それよりどぶ川? 忙しくない?」

「うん店の裏……やよ。今日はフル……メンバー」

 毎日話はしているが、直子の吃音きつおんはひさしぶりだ。一つ年上。ポートレートは撮らない主義の私のポリシーを曲げさせた女。一児の母。スナックのママ。策士。

 私の人生が正しいのかどうか、それは鏡をみてもわからない。正反対のタイプの直子と比べてみてもそれは嫉妬だとか優越感だとかつまらないものをつむぎ出す。こころは好意に埋め尽くされたほうがいい。だから自分の人生は自分の人生だ……けれども。

 直子が身籠みごもったとき、その母は産むのを許した。自分がそうだったからだ。もう会うこともないだろうが、私の母なら……それを許さなかっただろう。半狂乱になって世間体を気にし、それでいてなにも手を差し伸べず……私は私であの頃の私なら心が折れて生むことを諦めていたはず……だ。今なら?


「さみぃ」

「寒い方が脂肪が燃える。ちょっとあんたぼっちゃりしてきてるで」

「さみぃしくさぃ」

 桜木の下で私に一枚の写真を撮らせた。私にはその本当の意味を知らせずに。

 男の心をつなぎ止めた。なのに結婚はしなかった。私にその理屈はわからない。

 私は捨ててきた。いろいろなものを。後悔はしていない、悲しくもない。


 直子の若さに男は身を引いた。なのに甘い蜜を人質に蟻に守らせようとする。

 私なら? 母を捨てても。捨てなかった、愛情を私は持ち合わせていない。



 友から送られた握りしめると柔らかな、親愛のプレゼント。(ちんこみたい)



 特別な蝶の幼虫は、甘い蜜を差し出すかわりに敵から身を守ってもらう。

 それはずっと共生の一種、互恵的関係だと思われてきた。

 しかし……最近わかった……思わぬ真実がある。

 甘い分泌液には麻薬が仕込まれていた。

 麻薬に犯された蟻は巣を顧みなくなる。

 利己的な操作。この種は蟻を奴隷化し、その攻撃本能を利用してボディガードとして使役しえきしていたのだ。



 (そのおもむきは、さしずめ父性か?)



 電話の向こうの幼顔は、あんがいしたたかなのか?

 意識なく脳の奥のほう、音もなく入るスイッチ。誰にも覗かれぬ鍵穴。


 (私もそうやって生きてきたのか? かろやかに巻かれる奸計かんけい発条ゼンマイ



 命は巡っている。ぐるぐるぐるぐる。歯車は噛み合った。チクタクチクタク。お土産を抱えて会いに来る男はいなくとも、乳の形がくずれぬよう専用ブラ付けて眠るパートナーはいる。仕事は順調、オリンピックあたりまでは順調。



「さみぃギブー……ッゥーッゥー……」

「あ、こらっ」

 寂しいがこれくらいで許してやるか。去年はこっちがさんざんからかった。




 長い一日だった。久しぶりにお金にならない仕事をがんばった。

 めて欲しい。誰に? 巻きすぎたゼンマイでボンボンがまた鳴る前に眠ろう。












   「       立花さん       か  」









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