第30話


「むかつく」直子は電話口でそう言い、勲はむしろほっとした。


 会社の都合で、研修場所が大阪ではなく、加古川に変わったと言うのである。

 兵庫県加古川市。姫路市の隣の隣で、大阪の勲のアパートからは通えないと、直子に告げた。

 簡易宿舎が用意されているらしく、研修生はそこで寝泊りするらしい。


「ごめんね」直子は、勲の所から通えないことをすまないと言う。


 嬉しいはずのストレートな言葉に少し胸がざわつく。

 引き金が何かもわからず、不意に彼女の重さを思い出す程なのに。


「16日に……着く・・けん」

「ああ、わかった」

「宿舎の都合が」


 勲は口をはさまない。


「わからんけ」

「夜、抜けれ……るかも」

「わからん」

「研修なんだから、遊んじゃ駄目だよ」

 会話のタイミングはバッチリ……だが、




 二人の関係をどう説明する?


  恋


 などと、誰が納得するだろう。




 十分な時間は確かにあった。


  嘘


 交わされた言葉のほとんどは。













 平皿にご飯が盛られビーフカツがのる。そこにたっぷりのドミグラスソース。

 “かつめし” と呼ばれるその食べ物は、ここ加古川の名物だ。


「どう?」|め っ ち ゃ お い し い じ ゃ ろ ?|

 直子は喫茶店のテーブルに頬杖ほおづえをつき、勲を斜めに見ている。


「旨いな。箸で食べるのが変だけど、スプーンで食うより旨いかもしれない」


|ケ チ ャ ッ プ 嫌 い じ ゃ ろ ? ケ チ ャ ッ プ ソ ー ス で 食 べ る と こ ろ も あ る ん じ ゃ と|


 かなりの食いしん坊のイメージが付いているらしく、彼女はやたらなにか食べさせたがる。

 そんな時の彼女は少女というより、まるで母親の………………親子……か?


 年齢的には親子でも通用するだろうか?   (それ以外どう見える)

 他人からどう映るのか、少し気になる。   (気にしてどうなる?)


 平凡な喫茶店で時おり筆談する二人を、店員は誰も気に留めない。

 平凡な喫茶店のメニューだから、ここではポピュラーなのだろう。


 広島でケチャップを使う料理を食べていない。

 もう何を話したのか、多すぎて覚えていない。


 取り留めの無い思考ばかりが続く。



|次 は 大 阪 行 く ね| 

 (ぺりっ)

|磯 ち ゃ ん と マ シ ン ガ ン に 会 い た い|



 研修は4日受けて一日休みのペース。都合3日の休日の、今日がその1日目。

 外泊は、届出を出せば親戚の所なら泊まってもいいらしい。


     「いや……あの」

   「嘘ぴょん」

|冗 談 × ② ! 私 、 写 真 と は 別 人 だ し ね ~ |

 直子は勲の瞳を覗き込む。

 

「話と……らん・・じゃろ?」

 直子は意地悪く笑う。


 店を出て、思いのほか情緒じょうちょのある美しい町並みを歩く。こじんまりしたキュートな商店街。


「加古川・・めっちゃ……ヤンキー多・・いねん」

 人通りの少ない場所で不意に手を引かれ、うさぎの看板のかげでキスをした。










「具合どう?」

 唇にまだ感触が残っている。

「大丈夫だけど。お酒飲む仕事は出来んくなりそう。あ、もう退院したけん」

「洗い……物ば・・っかり?」

「ほとんど満知子ちゃんがやってくれるけん。それより、彼氏と離れてさびしくない? ま、将来の為じゃけん頑張りんさい」

 恵は、男が広島の人間だと思っているようだ。





「そうか。彼女、広島に帰ったか」

 唇に……相手次第でキスは別のものになる。

 沙織は嫌がっているようだが、これで戸髙の負担も少しは軽くなるだろう。

「行ったり来たりだったらしいけど、もう引き払ったって……」

 言葉が止まるのが、少し怖い。彼女には(たどり着く可能性)がある。

「まあ、しょうがないわね。あ、広島に来たら、またお店寄ってくださいね」

 彼女の言葉に含みはなかった。とがめめられれば、勲に(言い訳する術)はない。






 朝からずっと二人でいる、一瞬の刹那。  電話を切って、相手を探す。


 姿が見えないだけで何故か不安になる。  見つけた瞬間、笑顔が出た。






 一人は螺旋らせん階段の途中、もう一人は植え込みの陰。

 互いの位置をとがめ合い、二匹のねずみは白い商業施設を追い掛け回す。



 でも……不釣合いなふたりに、似合う場所はどこにもない。


 夜、なに食べる?


 食べる場所、


 そして眠る場所。











 深海の彼方かなたで、目を覚ます。

 光もカーテンにさえぎられているが、深海の理由は   無音    


 相手が無口だと、通常こちらも無口になるもの。

 二人だけの時間、ほとんど筆談はしない。


 勲は写真集を手に取った。あの謎の電話の美女が撮った単なるアルバムの類だが、それは写真集と言って差し支えない。

 初めて見たとき、思わず息を呑んだ。そこに切り取られた構図は自分も普段、眺めているはずの光景を、別の次元に昇華させる。


 ただ、感性のスポイトで吸い取られたその中に、人間の姿はない。

 人物の写真は封印しているそうで、だから勲は、いまだ彼女の声しか知らない。

 まあ、写真家は自分を撮ったりはしないだろうが……。

 第一号の “権利” を、彼氏に奪われそうだとなげく気持ちも、写真を見れば良くわかる。


「おはよう……起きるの早いな・・なにぃ、その髭、……もうのびとん。抜いた・・ろか? 痛いねん。永久脱毛せい・・あっても……なんも役にたたん・・じゃろ」

 彼女は結構よく喋る。無音の理由は、単に相手が寝ていたからだ。


 窓の外で、でっかい猫が鳴き出した。

                 (どこが深海やねん!)




 彼女が喋るのは、信頼の証。

 母、祖母、満知子ちゃん、友達(本当の)、やまこうのおっちゃん(誰?)、その他数人。ほかは、いくら仲が良くてもイントネーションが気になるらしい。

 光栄にもそれに加えられたことは名誉なことで、――だから、浮かれていた勲の心は、少し引き締まる――彼女の信頼を裏切ってはいけない。


 彼女はいつも器用に表現方法を変え、その知性は自分の憐憫れんびんを安っぽくさせる。


 彼女が目覚め、少しの間、儀式が続く。

 直子は勲の首筋に顔を近付け、そのまま動かない。

 匂い? なんなのか勲には聞けない。

 唇は触れることなく、その儀式はしばらく続く。




|い と お し い|



 胸に、文字が刻まれる。












 

 温もりの中で、目を覚ます。

 髭が………………………………………………………………痛い。


 カーテンから弱い光が漏れ、彼の顔を照らしている。

 ……私が好きになった角度で。


 う~ん、好きになったのはその前かもしれない。

 文字を書くより喋りたい衝動で、私は私の気持ちを知る。


                         もうちょっと前かな?



 必然 偶然 必然  オセロははさまれて、引っくり返って  7 7 7



 カーテンに影絵の猫が浮かび、首を振って何かを探す。

 初めての夜  “教えられた仕草”  そのあと、そのまま彼を背もたれにした。


  

          ページは捲られる。      



 桜木と工兵橋。市内唯一の歩道の吊り橋。

 芸術家きどりは、特殊な私に、特殊な感性を求め……私をいつも傷つける。

 でも、彼女は本物。魅せられたとき、はっきりとそう感じた。

                 託されたアルバムは、友情の証。



「広島、やっぱ桜きれいだな」……って、そっちがメインじゃないと思うけど。



 油断しちゃ駄目。この人は、誘拐犯。

 相手も同じ気持ちだと、思い込むのはまだ早い。


 ふたりの夜空を眺めても、線の引き様で、星はその意味を変える。



「私のこと好き?」


                     女の子は言葉にして欲しい。














「家賃の分だけは、助かる。後は向こうとの話し合いかな」

 戸髙は、やはりほっとしている様子だ。

 専業主婦で仕事もしていない訳だから、大阪に留まるのも辛かったのだろう。


 時間が解決してくれる。


「離婚か~。僕には無理だな。まず結婚が出来ねえ~」

「今時は共働きで、友達みたいな夫婦が多いさ」

 マシンガンにそう言うが、勲に説得力はない。



 魚偏に春と書いてさわら

 居酒屋弁慶 “いちおし” 本日の旬の肴。刺身を薦められたが、一緒に出された、ごくわずかに酢でしめられた一品がたまらない。


「そろそろ釣り行けるんじゃないですか?」

「そうだな。どうだ? 三人で行くか」

「俺はいいよ。面白かったは面白かったが、どうも趣味にはならないな」

 ふたりは考えてみれば、釣りが縁で知り合ったのだ。その話になると勲は蚊帳かやの外。



「釣りは再開しても、ホムペ(HP)はもうしないみたいですね」

 トイレに立つ戸髙を目で追いながら、マシンガンが言う。


「人とのふれあいは、エネルギーがいるんだよ」

「それにしても寂しいな。最近、岩本さんも全然チャットやらないじゃないですか。ニクもウーロンも全く立ち上げないんですよね。こんなのって珍しい」

 話を聞いているようで、聞いていない。


「誘拐……か」


 ルアーフィッシング。

 疑似餌ぎじえを狙っている獲物えもの以外に奪われる。それを二人は “誘拐” と呼んだ。



「ええ、そうらしいですね」

「ん? 何が」

「何って、ウーロンの話でしょ? 彼女、子供の頃、誘拐されたらしいですね」

「違う。…………疑似餌ぎじえ外道げどうに持っていかれる……」

「なんだぁ興味無いって聞いてるじゃないですか。今度3人で行きましょうよ」












<お~い。どこに行くつもりじゃ>勲の動きにとっさに反応してメールが入る。


 梅田駅近くのコンビニの前で、勲はずっと立ちっぱなしだ。

 10分おきに直子からメールがあり、何だか意味不明の理由で待ち合わせに遅れると言う……その繰り返し。

 いい加減疲れて、どこか店にでも入ろうと指定の場所から離れた瞬間。


 再び、携帯が鳴る。<道路の向かいの上じゃごらぁああ~上じゃ上、上!> 

 わけもわからず言われたほうを見上げると、ファーストフード店の全面ガラス張りの窓から手を振っているのが見える。


 “いたずら”

 かれこれ一時間以上、直子は勲が待っているのを眺めていたのだ。


 向かいの席に座っても、直子を咎められない。

 彼女は怒っている。主導権は完全に彼女にあった。



 明日、直子の2回目の休日……勲は、会うことを躊躇ちゅうちょした。

 最初、甘い声だった直子は、敏感にそれを感じ取る。


 梅田まで来たからと、突然のメール。


「宿舎は? 抜け出して怒られないのか?」

「休みじゃ・・け、関係ない」

 直子は、さっき勲が立っていた場所に目を向けたまま。

 それ以上話すこともなく二人は店を出た。人の流れに身を任せ、勲は振り返えらず、直子は黙って付いて来る。愛想のいい呼び込みも、なぜだか、まるで二人を拒絶するよう。


 ふて腐れていても、二人は離れられない。

 でも、……どこに行くと言う当てもない。


 小汚い商店街の裏に、忽然こつぜんとメルヘンチックなホテルが現れた。


「ふにゅううううう」

 怒っていたのと反比例して、突然、頭を押し付けて来る。

 立ったまま、動けない。扉は閉まり、空気の塊を二人だけの物にする。本気になってしまった。男の打算は破壊され、少年は少女を守るために抱きしめた。


 ただ、主導権は彼女にある。

 恋愛と言うより、もっと大きな主導権を。











 研修を担当する男に直子は苛々していた。不必要な罵声、尊大な態度。

 仕事は厳しいものだと分かっている。直子もそれほど子供ではない。だが、およそ仕事とは関係のないその行動は、直子のストレスを限界にしていた。


 パンフレットのイメージと違い、集った研修生達はみな様々な事情を抱えている。誰もその理不尽な男に言い返せない。反撃されないからこそ、その男は図に乗るのだ。



 明日会える。勲の飄々ひょうひょうとした顔が浮かぶ。


 電話の “声” で、温度差に気付く。直子は、勲をコントロール出来ていない。


 明日まで、待てなかった。



 コンビニの前に、ぽけっとたたずむ勲がいる。

 何だか可愛いくて、意地悪な感情が消えてゆく。


 正面に座られると、何だか照れ臭い。

 わざと窓の外の、さっきの残像を探す。


           “かわゆい” ホテルがあった。


 清潔な内装に、ふと心が緩む。

 一日の、感情の起伏は限界だった。


「ふにゅううううう」

 勲の胸に頭を押し付ける。

 優しく抱きしめられ、コントロールは、完全に失われた。





 悪い事したのかな?  ……恋の駆け引きをした罪悪感……

 待ちぼうけの理由が何だとしても、それはいつも寂しい。

 それは待たせている相手も。  


 あのとき、あなたは? ……ちょっとだけ、不安だった……


 たたずむ相手を観察して気付く。

 それは ”相手にも” 気持ちを伝える手段があること。





  あなたは、潔白     理由なく はっきりとそれを知る。

















 カメラのフラッシュの中に、二人はいた。


 売店のガラス窓に、勲のたくらみが映る。


 昨夜の仕返し?


 負けん気の強い糞ガキみたい。


 自慢そうな彼の顔に、自分と同じ幼さを見つけた。


 驚いた顔 シ テ ア ゲ ル。 



 翌朝、ふたりはとある駅にいた。勲は気が進まなかったが、直子が何度もせがんだ。勲が以前勤めていた会社の最寄り駅。なんの変哲もない、平凡な駅。


「何がいい?」「何でもいい」そう言われると、人はあれこれ迷うもの。

 直子が売店でジュースを買っている間に、勲はホームから姿を消した。

 辺りを見渡すと向かいのホームにひょっこり勲が現れる……キョトンとする直子。


 電車の車両は、先に降りる人のドアが開き、次いで反対側から乗客を乗せる。

 本来やってはいけないが、逆に行けば、電車を“橋”に、隣のホームに行けるのだ。

 目を離した隙に電車が再び立ち去れば、人間の瞬間移動。……目を離していれば。


 姿が消えたのを不安に探す直子に、勲は、自分と同じ気持ちを探した。




 鉄道ファンとはもっと牧歌的な趣味だと思ったが、今はそうでもないらしい。フラッシュが盛んに焚かれ、曇天でくすんだ駅のそこだけをホタルのように照らす。

 特別な車両なのだろうか? 電車を見物する人々を、二人はしばらく見物した。



 ここには線路を挟んで、二つのホームに同じような立ち食いそばがある。

 大阪で就職したばかりの勲は、ひょんなことから片方のおばさんと仲良くなった。


 帰りはそのまま電車に乗れたが、朝は“電車の橋”を使う。

 混んでる時は、怒鳴られたこともあったっけ……孤独な都会のささやかな思い出。


 そんな事いつ話したのだろう?

 片方の店にしか行かない。……彼女はそれを、味の差と勘違いした。

 駅の立ち食いそばだから、味はそれほどたいしたことない。





「めっちゃ・・美味い!」

 ……まあ、褒められて悪い気はしない。


 立ち食いそばで、そばを食う奴の気が知れない二人は、竹天うどんを頼む。

 もちろん、おばさんはもう居ない。

 そう言えば、行きも帰りもおばさんが居たのは……双子だったのか?

                            謎は謎のまま。



「鉄道……マニア・・きっしょい」

「そんなことないだろ?」

 偶然のイベントも話の種になる。


「撮影が趣味の人は “撮り鉄”、旅行したりするのが “乗り鉄”、部品盗むのが “盗り鉄”で、走ってる電車のブレーキをはずしたり……」

「趣味ないね」

「……金が掛かる趣味はな。戸髙なんか餌代で破産しそうだぜ」

「一回……だけ・・じゃん」


(勲くんは、“盗り直”で、ちくわの天ぷらで私を釣るんでしょっ?)

 ともあれ、どうしても食べたかった “伝説の味” で直子は満足した。


 正直な感想は <ブチおいしい> 心の中と言葉は同じ。



「お水飲まないんだね」

 コップに入れてあげたのがそのままだ。


|生 水 飲 む な 、 葉 っ ぱ 食 べ る な|

 生水の定義がよくわからない。


「生水はわからなくもないけど、葉っぱは食べないだろ」


「甘いん」

|子 供 の 頃 お ば あ ち ゃ ん に 叱 ら れ た け ん|


「リコリスって奴かな? あれは根っこが甘いんだっけ?」


「んなんじゃない」

|毒 あ る ん じ ゃ と 、 夏 に し か な い け ど ね|


 何が人間のスイッチに触れるかは分からない。勲の胸にはっと風が吹き抜ける。

 コンクリートに囲まれた河川敷、不意に現れた袋小路と夏草の揺れ。

 




「何って、ウーロンの話でしょ? 彼女、子供の頃、誘拐されたらしいですね」

 マシンガンの言霊は、最初何の意味も持たず、でもカチッと小さな音を立てる。


 偶然……だとは思えなかった。



 俺は、何か罪を犯したのだろうか?

 特殊な事情など、その時知る由もない。

 子供の所作に大人は注意など払わない。

 おぼろげな記憶の表札も、郡芝ぐんしばなどと言う珍しい苗字ではなかった。


 まるで、サイコサスペンス。俺が犯罪者なら、時効まぎわ復讐に燃える主人公に、断崖から突き落とされる場面。だが俺は、……何もしていない。


 疑問符だらけ、あの時の自分も。

 説明の付かない……行動の矛盾。



 自分の中に、3人の女性が存在し、ひとつにならない。


    記憶の中   


    癒された言葉   


    埋没しそうな肉体


 謎は直ぐに解ける。彼女に聞けばいい……ただそれだけ。



 プロローグが長すぎて頭を抱える小説家のよう。

 昨夜、直子が宿舎を抜け出して、休日の“本編”はここから始まる。

(愚かな先送り)それは自分でもわかっている。


 彼女に、自分と同じ気持ちを探せなかった。

 それは、自分の中だけにある。


 食べる場所に、眠る場所。


 食べる場所は、駅のホームの立ち食いそば屋。


 眠る場所は、さっきチェックアウトしたばかり。











 恋心の共鳴は、同じ情景を直子に伝える。

 勲にもそれがあることを直子は知らない。


 あのとき夏草の甘さに誘われて、そこに居たわけではないかも知れない。


 暖かい指先は、彼女を救う。

 それは今も昔も。



|私 も 吸 っ て み よ う か な|


「こんなもん吸うくらいなら、葉っぱ食う方がましだよ」


|そ ん な 煙 草 吸 う け え 、 ス ッ ポ ン 振 り 回 し て ト イ レ で 犬 に 吼 え ら れ る は め に な る ん じ ゃ|


「あ……あんな・・犬?」 “見つかった”と思ったか、子犬が首をビクッとさせる。


「可愛い~」と、駆け寄る私は “かわゆい” じゃろ?


「女の本分は糸や、糸は針の後を付いていくもんじゃけん」

 針が頼りないときは、糸が頑張る。


 相手の迷いを “優しさ” と解釈したのか、直子にさして不満はない。

 スカートが変わっているのに気づかないのも許してあげる……そんなに焦って、次の場所探さなくていいのに。


 料理は数学。

 あほな私は、芽キャベツの漬物で男を虜には出来ない。おっぱいも小さい。

 特別な感性はない。

 ボストンバックひとつで、部屋を空っぽにする行動力もない。

 ホストにお金を貢いだりしない。

 でもその代わり、従順で可愛くもない。


 暴力的な祖父に、一歩も引かない、祖母のおかげで私は生まれた。


 母は、いつも、私のことだけ考えている。

 いつも、誰かに守られている。

 でも……


 外敵から守られた純粋な菜っ葉は、

 必要な養分を与えられても、

 未知なる物を求めてる。




 言葉なんかいらない。


 ちっぽけな真実。


 直子の中で、ひとつの恋はつづく。













 午後4時過ぎ、少し人通りが増えた流れを避けて迷路のような裏路地に入る。飛び出した猫はまだ何か探して、こちらに構わず、狙っている獲物を教えてはくれない。びっくりした直子は猫と僕を交互に見て、来たことのない道を先に歩く。


 アルバムの構図を探しているに時間は流れ、携帯で撮ったピンボケした画像をふたりで貶しあう。見知った街の新しい顔は、“水族館” より新鮮だった。

 

「そっちじゃない」と、木の階段を指差す。


 見た目ちそうな階段に、不安そうに直子はそっと足を乗せる。

 短いスカートを気にしながら昇る急すぎる傾斜のその先、古いビルの二階に何軒も煤けた看板が並ぶ。何気なく目を泳がせると、“SM友の会” の文字に鼻がちょっと膨らんだ。

 

 ひとつだけ開け放たれたドアの、乙味おつみと染め抜かれた暖簾のれん。久しぶりなのは、

“告白”されたからじゃなく、単に転勤だったから、主はほがらかに迎えてくれる。


「いやああぁ がんちゃん久しぶりやないのぉ」

 案の定、叫ぶ。


 彼女? は自分がホモであることを売り物にしていない。だから、今流行の店ではない。町家まちやを改装したところにでも行けば、おしゃれな客が来るのかもしれない。



「はい! 桜鯛さくらだい塩味しおみ。花見じゃなくて塩見だよん」

 の裏ごしに様々な薬味をしのばせ強めの塩気を効かせてある。それを醤油代わりに鯛の刺身を食べるそうで、今日の忍者はサクラ葉の塩漬けとエゴマ……あとは企業秘密だろう。

 咲いていれば桜の花も一輪えるところか。


「お醤油欲しかったら言ってね」

 最初の一口は刺身と塩分の加減が分からない。適当に口に運ぶと、奇跡は起きた。


「うまい」

「お醤油……くだ・・さい」

 言うと思った。料理の趣旨しゅしが伝わってはいない。

 つまんだ量を見ただけで塩辛いはずだ。でも黙っていた。なんか面白かったから。


「は~い、お醤油。んじゃこのお肉で巻いて野菜は食べちゃって」

 料理人は機嫌を損ねない。

 彼の実家の魚屋の向かいは老舗の肉屋。ローストビーフもここの自慢のひとつ。

 今度は、直子も満足している。








「メープルシロップ作るサトウカエデの樹液は甘いって聞くけどね。秋の紅葉は、糖分が葉っぱに溜まる所為せいだから。でも、モミジかじっても甘くはないし……そんなに甘い草ねぇ」

「甘いん」直子はまだ、強硬に主張している。


「毒あるからかもね。食用だったら不肖ふしょうながら、知らないはずないし。エゴマの種類にもレモンの香りがするのがあってね。お嬢ちゃん広島よね。宮島にあるレモンエゴマは、鹿に食べられないんだって。きっと毒あるのね」

「今度は宮島……水族館・・いこな」

 昼間の水族館が面白かったのか、直子は話を置き去りにこちらに振り向く。


 思い出した。宮島に親戚を連れて行った記憶と水族館の記憶が分離していた。

 確か、かなり面白かった覚えがある。水族館の思い出を加えれば、素敵な所。


「トイレ……行って・・くる」「行っトイレ」

「あ、あっち側に大きな階段があるから」

 酔っているから、さっきの階段を使っては危ない。

 慌てて吹き抜け廊下の逆を指差す。


「ほう~」直子が少し睨んだ。



「いや、親戚の子でさ。職業訓練で来たから」何か言いたそうな機先を制す。


「まあ、精々せいぜい奥さんにばれないようにね」まったく聞く耳は持っていない。


「いや……別れてもう2年以上になるよ」

「そうなの? 一度だけ連れて来たことあったわよね。優しそうな人だったけど」

 箸で、サクラ葉だけを探り出した。独特の香りが桜餅を思い起こさせ、それだけ噛むと食欲を少し削る。余り話したい話題ではない……情熱の無い夫婦の、責任は自分にあった。


「まあさぁ、色々あるわよ。がんちゃんは特に……」

「ん? なにが?」

「自分では気づいてないの、惚れられやすいんだから」

「あぁ。俺もそうかなぁと思ったけど……っておいおい、んなこと言ってくれるの、あんただけだよ」

「そうね、本人は気付かないものかもね。それよりさぁ、そのストラップ……」


 コツンっとトイレから戻った直子が、勲のふくらはぎを蹴った。

 鼻が膨らんでいる。目線を誘導しようと必死に廊下を見ている。

 “SM友の会” ……か?


「いやぁねぇ。そんな変なお店じゃないわよ。単に衣装を販売しているだけなんだから。人に迷惑かけなければ良いのよ。人それぞれ。がんちゃんもまだ子供ねぇ」

 自分より年下に言われた。











 朝居た駅に、二人で戻る。

 橋を使ってみたかったが、電車は正面に滑り込み、向こう側の扉を開けた。

 勲くんは何か考え事をしていて、ずっと山側の方を眺めている。

 私は、まっすぐに正面を見た。

 窓にはオレンジと赤の光が点滅し、工場か何かの姿を映す。

 海は、波の気配だけを伝えて、深く沈むような風景に変わってゆく。


 

 今夜のお泊りはなし。

 気が利かない男。だけど、送ってくれるとは言う。まあ、やさしい。



 私のストレスの原因は、他にもあるのに……。

 はじめ四人部屋だったのが、二人逃げ出して、今は二人きり。

≪低音が軽度・高音が高度≫ の私に、ゆっくり低い声で話してくれる優しい子なのに……決して、心を開いてはくれない。

 まさか、年下が職業訓練に来るとは思っていなかった。

 

 自閉症じへいしょう? ……最低限必要なこと以外は、彼女は携帯電話の海に潜る。

 時々起こる、私のハレーション・ノイズに少しだけ反応して、でも嫌な顔を見せない。

 そしてまた、海に潜る。深く深く。




 もっと喋りたいのに、――私の中の小さなハレーション――


 


 山側を見つめていた勲くんが、正面を向いた。


 考え事をしている男には話しかけない。


 それが……愛される女の鉄則。


 再び携帯に目を向ける。










      【自由スペース掲示板】  岩ちゃん へ By ニク


 最近、チャットしないみたいだから、ここに書きます。

 岩ちゃんの鋭い指摘通り、僕は引きこもりでした。

 岩ちゃんにお前は優しいと言われた時、すごく嬉しかったよ。

 それと・・・僕にだけ色々な話をしてくれてありがとう。


 岩ちゃんが広島に行った理由、よくわかります。でもあのとき、岩ちゃんが言った通りだと思う。きっと感傷からは何も生まれない。なーんつ、生意気言っちゃいますけどw 前を向いていきましょう。実は・・アルバイト決めてきました。(^o^)/ マジです。

 パオオォン~バイト先に可愛い女の子いるといいなあぁぁぁw。


 だから少しネットから離れてみようと思います。僕にはそれが必要だと思う。


 ウーロンと会えないのはちょっと寂しいけど・・。みんなが噂するようなおっさんではないと思いますよ。顔の見えない世界だけど分かる。彼女・・きっと美人です!

それと・・・仕事早く見つかるといいですね。別に大阪にこだわる必要も無いと思うよ?


岩ちゃんやみんなと過ごした時間を大切に心にしまって、僕は頑張っていきます。

では、少しさびしいけど・・・岩ちゃんの幸運を祈ってるよ。ぐっとラック!

        |管理人|サイト閲覧方法|プライバシーポリシー|著作権/免責事項|



 

 携帯を閉じた。

 シールドを貼っているから横から覗かれる心配は無いが、そんな仕草さえ見せない。わざと忘れてもチェックするような人じゃない。ちらっと横顔を伺う。


 勲くんはイルカの仲間のぬぼっとした白いスナメリに似ている。どこか似ている。でも、――この角度なら3割増し。真央に写真を撮って貰おう――構図を指定して。


「たいぎい」電車に長く乗るのは慣れていない。スナメリの肩に頭を乗っけた。

 

 教授曰く、打算と猜疑さいぎは女に許された “特権” 未来を真剣に考えているから。

 なので携帯のチェックはこれからも当然するが、ニクはもう封印しようと思う。


 私が好きになった、この人の気持ちを汚さぬように。


 真央のアパートに幽閉ゆうへいした理由も、……もう心配ないよね?


 働かない男に未来を感じないから仕事は早く見つけて欲しい。

 ……けど、大阪で見つける必要はないのかもしれない。

 私が大阪に住むことはできない。

 それだけはできない。










 電車は初めてひとり暮らしした場所と、妻と暮らした場所を順番に通り過ぎた。 

 思い出に浸っていた勲は、今度は海側の窓に目を向ける。


 直子は携帯をずっと弄っていて、少し退屈させたかと思う。

 しみひとつない、真っ白な頬は、なぜか少し悲しくさせる。なぜだか。



 僕が広島に行ったのは偶然じゃない。


 戸髙の転勤は、自分の心を少し波立たせた。

 プレハブ小屋で、そのまま消えてくれることを望んだ。


  彼女は小さな紙を差し出す。

   彼女に他意はない。

    彼女はただ不安だったのだ。

 

 連絡先が書かれた紙切れを、死刑宣告のように、受け取るしかなかった。

 あのまま、何も言わず、目の前から消え去ってくれれば良かったのに。

 彼女の心に、痕跡さえ残せなかった……あの頃の自分が悲しかった。


 彼女に誤解を受けていると思った。でも、信じられない言葉が続く。

 心の中が震えた。

 戸髙をいい奴だと思う。それは決して変わることはない。

 二人のボタンの掛け違いは、他人が立ち入るべき領域じゃない。でも……


 彼女が両親に結婚を反対されたのを、必死で乗り越えたことも知っている。

 彼女が戸髙の、笑顔の一番のファンだったことも。

 彼女の心の状態を……友達であるならば。



         人の印象とは、見る側の思い込みに過ぎない。


            人は、何度だって騙される。



 男の欲望を満たすだけの場所で、罪のない女の言葉に理不尽に怒りを覚えた。何も知らない癖に、……卑怯なのは自分なのに。

 顔さえ忘れていた沙織の名前だけ覚えていた。彼女の言葉に嫉妬が潜むことも。


 僕が広島に行った理由。矛盾した行動。何の意味もない。ただの感傷。


 いや、薄汚いたくらみ。





 真実を語らないことが嘘なら、それはずるい大人の “特権”

 だが、信じて欲しい。君に対するこの気持ちだけは。



 駅の改札を出た。

 直子がぎゅっと袖口をつかむ。怖がらなくてもいい。彼らは別に何もしないよ。

 でも、送ってきて正解だったのかもしれない。


 ある種の昆虫は、お尻を振って葉に蜜を付ける。

 蜜を求めた蟻は、結果的にかよわきものを守る。


 情緒のある町並み、もう暗くて、余り良くは見えないけど。

 人と街との混在、当たり前のこと。赤レンガにもたれる、古い壊れた自転車。


  あの夏の日、僕は君に救われたのか?


  文字だけの中に、僕は君の何を見たのだろう。


  初めての夜、僕は逃げ出したかったのかもしれない。


  君がいなければ、何もかも裏切っていた。戸髙の笑顔も、自分自身も。


  どうしても伝えたい気持ちが溢れ、君にそれを伝える手段はない。



 夏でもないのに、つまらないデジャブ。

 ふたりが歩く石畳に、大きくてやわらかい風。


 別れ際、二階の窓から猫が覗く。

 携帯を持ったまま、つぶらな瞳は驚いてカーテンを閉めた。

 “かわゆい子” と君は言った。僕も今、そう思う。


 夏でもないのに、つまらないデジャブ。

 立ち止まるふたりに、大きくてやわらかい風。



   唇は触れることなく


   僕は君の仕草を真似る。


   それは音でも光でもなく


   今の気持ちを君に伝える。





















              僕は君を送り届けた。




























 大阪のはずれの商店街に、ぽつんとひとつ灯りが燈る。

 まだ僅かな春を集めるように、それらしき品書きが並ぶ。


 待ち人が来るまで、大将が “いちおし” を勧める。

「鰆、またええのあるねん。酢〆焼こうか?」

 何日も経っていないから、この前と同じ。

 季節は、自分の都合通り、めぐっては来ない。



 ふたりの友人が釣りあげた、旬まだ早しアオリイカ。

 ……今夜の目当てはそれだった。


 難しい釣りに飽きた釣り人は、気まぐれに趣向を変える。

 時期さえよければ、烏賊は疑似餌で、驚くほど楽にあがる。



 餌木えぎを本物だと勘違いし、烏賊はそれにすがりつく。


 たぶん俺は、 “彼女の本物”  ではないだろう。




 烏賊をさばく手が一瞬とまり、大将は “墨袋” を指先でむ。

「セピア色の写真な、元はこの黒いのが原料なんだ」

 戸髙の講釈に、マシンガンが肯く。

 人は暗い影を抱え、だがその中に、本来の色を隠し持つ。



 結局は何も聞けない。先送りではなく、謎は、謎のまま残る。

 今の彼女はたぶん、あの時の俺と同じ。説明の付かない、青春の矛盾。


 少ない荷物は、兄の家の物置に置いてもらう手筈。今朝、その準備も済んだ。

 心残りがないと言えば嘘になる。でも駆け引きをしてはいけない、そう思う。



 最後の休日、


 ……会わないと言う選択肢。



 ただ君と満開の桜を見たかった。


 季節は、自分の思い通り、めぐっては来ない。














 まだのある内のスナックに、ぽつんとひとりきり。

 もちろん誰か来る気配はなく、でもなんだか不思議な気持ちになる。


 待ちぼうけの理由が何だとしても、それは、いつも悲しい。



 直子は、実家のアルバイトを続けることにした。

 大阪で就職する気もなかったし、親会社の倒産で計画自体が頓挫したのだ。

 様々な事情を抱えた、研修生を思い出す。

 彼女達が、何か言い返すことはなかった。

 ……退屈な日々は、自分がまだ恵まれていると感じさせる。



 ネットの世界でなくても、突然、連絡が取れなくなることがある。

 戸髙は口を濁し、お喋りなマシンガンも、今回は秘密を撃たない。


 人は人を傷つけずにいられない。たとえそれが、愛情だとしても。




 水仕事の手を休め、濡れないようにアルバムをめくる。

 セピア色は、本来の花の色を消す ……まるで全てを、思い出にするように。

 人の心を置き去りに、季節はめぐる。日常は、ただ淡々と過ぎてゆく。



 離婚の紆余曲折から随分経って、釣りのホームページは再開される。

 何げない日々をつづるだけの、シンプルなものに。


 ゆっくりと進む掲示板には、時折、釣果を自慢する写真が貼られた。






                        

     知らぬ間に通り過ぎた、他愛ないヒント


     未来への “権利”  を与えられたのは誰?


     日本一美しいと言った、桜木と共に映る

  

     画面の中の………………彼女からの反拐

 













  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る