第29話

「結局、尾道にも行かなかったのか?」

 弁慶のカウンターで、戸髙と久しぶりに会った。


「んにしても一週間もよ。地元に残っている奴なんざぁおらんじゃろうに」

「色々懐かしいところとか……学生の頃、行けなかった場所とか。まあほとんどネットカフェ難民みたいなもんだったけど」

「なんも無いだろ、広島なんて。………それより仕事どうするんだ?」

「まあ、おいおい考えるさ。お前の方は?」

「破産寸前。子供がいないからもっとスムーズにいくと思ったが、今、恥ずかしいが親に援助して貰ってる。いや、少しだけな。通帳も置いて来ちゃったから」

 戸髙の疲れきった顔が、すべてを物語っている。


「ま、人間。食欲と性欲、あと睡眠な。これさえあれば何とかなるさ」

「食欲の方は、うちに任せてもらいまひょ」

 大将が、三つ葉で結んだサヨリの細切りを出してきた。


「あんたにお任せ~。なんかしみじみ美味いねえ。あ、シジミはあるの?」

「もちろんでんがな。梅見の後の桜かな女浅利(女あさり)の蛤(はまぐり)、蜆(しじみ)。うちの店、貝はたい行けるでえ~」

 大将と戸髙の駄洒落は尽きない。

 二人の会話を聞きながら、アルコールににじむことなく違うことが脳裏に浮かぶ。


 あの朝、彼女に金を渡そうかどうか迷った。いや、渡すべきだった。

 それがどんなに罪な事でも例え不実だろうと、自分はそうするべきだったのだ。

 だが、ふたりが触れ合った言葉と時間は、それをひどく残酷に思わせる、今も。


 友達から部屋を借りたと聞かされた。

 彼氏の家に入り浸りで空き家も同然なのだと彼女は笑う。歯止めを、掛けるべきだった。



              “彼女の残像が消えない”



「食欲はうちで大丈夫やけど。あっちの方は、どないなん」

「それがさ。離婚寸前って、結構もてるんだな~これが」

 戸髙はなにか含んだように大将に顔を近づける。


   (行きつけが出来たのなら言うことなし)


 心の中でつぶやいて、今日初めて戸髙の横顔を見た。











「なあ、ええじゃろ」直子は美雪に、パンフレットを広げて見せる。

「あんた最近、恵ちゃんとこばっかり行って。んで、なにぃ2週間も。おばあちゃん寂しがちゅうで」直子の主張に、美雪は正直、困り顔だ。


 しかし、水商売を日頃から否定している手前、真面目に職業訓練にいくと言う娘に反論ができない。しばらく上田とのことで、母親をさぼっていた負い目もある。

 北広島や安芸太田あきおおたにも工場が建つ計画があるらしく、研修を受ければ将来的に県内での就職も可能なようだ。


「大阪行っても、遊ばんと、ちゃんと頑張るんじゃったら……」

「やったー」直子は……最後まで聞いてない。



「勲く・・ん? 声が・・遠いぃ」

「あれ? ……店は?」

「ん? お店や……よ。そっ・・ちは?」

「今、戸髙と飲んでるんだ」

 店を抜け出した直子は、スナック裏手のどぶ川の側で携帯を握っていた。

 ストラップがころころ揺れる。


 やまこうのおっちゃんが、自転車で通りがてら、ぺしっと直子の頭を叩く。


「もう~」

「さぼりよんな~後で店に行くけん」

 やまこうのおっちゃんは颯爽さっそうと自転車で走り去った。


「あ、ごめん。磯ちゃん……おるん? 喋って・・みたい」

「いや、今、店の外だから」

「ふ~ん。あ! 研修……勲くんとこから・・近いけん」


 “岩ちゃんから勲くん”

 ちゃんからくんなら、普通は関係性が遠のいた意味になるのだが。



「客もおらんのに、わざわざ外で電話せんでもいいだろう」

「いや、一応マナーだから」

「マナーって柄かよ」


 戸髙は、揚げたての稚鮎ちあゆをつまみに飲んでいる。


 勲もつまむと、わたが少しほろ苦かった。










「ごめんね、真央」

「なんちゃないけど、大丈夫なん? 彼氏」

 真央は心配そうに恵に聞いた。

 恵は彼氏の啓吾が入院し、急場の金に困って真央に借金を頼んだのだ。とは言え、金額は5万円。次の給料が入れば、直ぐに返せる額ではある。

 直子に頼もうかとも思ったが、勤め先の経営者でもある母親の美雪は、生活態度に厳しく、それが嫌で頼めなかった。


「働きやすいけど、時間が短いから」

なおとか他の人送ったりしてるんじゃろ? その分のお金も貰えばいいのに」

「それは、私が好きでやってるんじゃけぇ。ああぁ、ラウンジ戻ろうっかなぁ」

「ラウンジは嫌やから辞めたんじゃろ? バイト戻って来ればえぇじゃん」

「そんなんでおっつかんわ。家賃、高いんよ」

 啓吾のわずかな給料も、無くなるとなるとたちまち困る。


「今度の大学生の彼氏、いい感じみたいじゃね。ほとんど同棲してるんでしょ? 直子に聞いた」

「別にぃ、直に押し込まれたのっ。この前なんか五日間もあやつに部屋貸したんじゃけぇね」

 実際はおっしゃる通りの半同棲中。直子の頼みも、もう嫌ではなかった。


「しっかし、相変わらず凄いよねえ~写真。第一号は……やっぱ彼氏?」

 恵は自分の顔より大きい写真を、なかば呆れ顔で遠くにかざした。

 旧海軍兵学校の赤レンガの周囲から人影が消える瞬間を待つ、礼儀正しい金髪が目に浮かぶ。

 真央はけっして、構図の中に人は入れない。自信が付いたら一番目は直子にすると約束していたが、それは彼氏ができるまでの話。


「やっぱなおかな。我慢して封印しとったけん、写真見ただけで振った男が女に惚れ直すくらいインパクトあるの撮りたいんよ。あいつは黙っとれば美人じゃけ」

「ぷっ、黙っとればって。最初バイト来たときはどないしようかと思ったけどな」

「マシンガントークのたまがあやつの場合ほんまのたまやき、聞いてるこっちは腰がカクカクなるちゅーねん」

「途中で口挟むと怒るしな。あんな喋る子やとはおもわなんだ。でも、相手だれじゃろ? 私なんかアリバイ工作頼まれたんじゃけぇね。彼氏入院で可哀想だとかなんとかかんとか」

「名前使われるくらいええじゃん。こっちは実働部隊やけ、電話させられるし。五日間も、……精子せいしくさなるちゅーねん」

「出会い系とかかな? やりよるね~。……二人とも順調じゃけええねぇ」

「髭生えてそうな声じゃっ……ん? なにぃ。そっちは上手くいってないの?」 

「そうじゃないけど。退院してもお酒飲めんけえね。仕事……続かん人じゃけ」


 恵が頼んだホットミルクは、もう冷めていた。


 牛乳飲むなら、家で温めれば良いのにと、真央は思った。





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