最終夜 帰宅



――ガタン、ゴトン。



 鳥壱は寝ぼけ眼を擦りながら、深い夢から目覚めた。


――……夢。


 そう、『夢』。何か大事な夢を見ていた気がする。

 内容は全く覚えていない。


 けれど、公園のベンチで、木漏れ日を浴びながら木の葉のせせらぎを聞いていたような、そんな心地よい気持ちだけが残っていた。


――どんな夢だったかなぁ……。


 眉間に皺を寄せ、目頭を押さえ、必死に思い出そうとする。

 しかし、鳥壱よりも遅く目覚めた時計が鳴り出した。


 そこで思考は完全に中断され、もやもやとした霧が一斉に晴れた。

 ――いや、もう飛散してしまって収拾がつかなくなってしまったと言った方が正しいか。


 結局、鳥壱は思い出すのを完全に諦めた。

 元より、夢とはそういうもの。

 記憶に残らないからこそ、夢なのである。

 加えて言えば、思い出せないからこそ余計に甘美に、愛おしく感じるのだろう。


 目覚まし時計のベルを止め、ここ二週間ほど干し忘れた煎餅布団から起きあがる。

 背伸びをすると、背骨がボキボキと気持ち良いくらいよく鳴った。


 鳥壱は顔を洗おうと洗面所へ向かう。

 途中、転がっていたビール缶をうっかり踏み潰してしまう。

 微かに残っていたビールが、外に飛び出る。


――あーあー……やっちゃったなぁ……。


 雑巾で拭こうと、部屋の中を見渡す。

 改めてみる部屋の中は、相変わらず汚い。


 ポテチの欠片が散乱し、綿埃は我が物顔で部屋をうろつき、袋の切れ端やレシートがゴミ箱から脱走していた。

 絶対に彼女なんて連れ込めるような部屋ではないな、と鳥壱は苦笑した。


 お風呂と一緒のタイプの洗面所に入る。

 床に水垢の跡があり、いい加減に掃除しないと不味いだろうかと悩む。

 何度も休みの日に掃除しようと計画は立てるのだが、実行されたのは小学生が考える『夏休みの計画』ぐらいに守られた試しがない。


 洗顔を手に付け、擦り付けてからバシャバシャと顔に水を浴びせかける。

 それから、もう何日も洗っていないタオルで拭き取った。


 さっぱりとしたところで、トースターにパンを突っ込む。

 焼き上がるその間を利用して、上に乗せる具を作成する。


 フライパンに油を引き、目玉焼きを焼く。

 そして、冷蔵庫からトマトを取りだして、縦にぶつ切りにした。


 しばらくして、ポンという間抜けな電子音と共にパンが飛び上がった。

 UFOキャッチャーで獲得した品物なのだが、チンと鳴らない辺りがいかにも景品らしい安っぽさだ。

 

 具を乗せてかぶりつき、もごもごと口を動かしながら、ノリが落ちてきた背広を着る。

 しなびたネクタイを締め、変な癖が付いたズボンを履いた。


 それからコロコロ(カーペットの毛や埃を取るヤツなのだが、正式名称は知らない)を手に持ち、背広やズボンの毛や埃と取る。

 これが、いつの間にか日課となっていた。


 時計にちらりと眼をやると、いつの間にか出発しなければならない時間になっていた。

 遅刻ギリギリの時間で動いている為、電車を一本でも乗り遅れると確実にアウトになってしまう。


 サンドイッチを口の中に押し込み、流し込むように牛乳を飲む。

 いかにも安っぽい鞄を持ち、玄関でツヤが無くなった革靴を履いた。


 ドアノブに手を掛けると、ふと鳥壱は思ってしまった。


――今日もまた、退屈な一日が始まるのか……。


 これから満員電車に揺られ、面白くもない仕事をし、上司に怒られないように言葉に気をつけて、同僚と当たり障りのない会話をし、帰りの満員電車に揺られて、そしてまたこの部屋に戻ってくるだけなんだろう。


――……サボってしまおうかな。


 ちらりと後ろを見ると、干していない煎餅布団がやけに魅力的に見える。

 休みの日にしか起動していないゲーム機が、鳥壱を誘っているように見える。


 しかし休めば、給料は減るし、サボったという後ろめたさから思いっきり楽しむことは出来ない。

 けれど、会社に行くのは非常に億劫だ。


 どんどんやるせない気分が募り、鳥壱は深いため息をはいた。

 いつか今の仕事を辞めて、好きな事をしたいと考えていた。


 貯金はそれなりにある。

 その間に、その好きなことを飯の種に昇格させれば良いのだ。


 だが、そんな事を考え続けて早四年。

 未だに実行された試しはなかった。

 再びやるせない気分になり、もう一度深いため息をはいた。


 スマホで時間を確認すると、もう出発時間は過ぎている。

 駅まで全力ダッシュしなければならないなぁと、鳥壱はますます憂鬱な気分になった。


 結局サボるのは止め、酷い気分のままドアノブを握った。

 ふと、『誰か』の言葉が鳥壱の頭を過ぎった。


<何故貴方は、その仕事を選んだのかしら?>


――いつ、どこで、だれにそんな質問されたのだろうか?


 まるで自問するような誰かの問い。


――自分は何故、この仕事を選んだのか?


 鳥壱は、この難問に度々自問し、胃を痛めるほどに悩むが、出るのはいつも薄っぺらい答えだけ。

 生活の為だとか、世間体の為だとか、そういったものばかりである。


 けれども、なぜかその誰かの問いかけで、答えが出たような気がした。

 どうして、と聞かれても答えられない。

 どうしてか、としか言いようがなかった。


 たまたま受かっただとか、無職は嫌だったからだとか、そんなくだらない理由だったと思う。

 周りの皆は就職して居るのに、鳥壱だけが無職。

 まるで村八分な状態に、耐えられなかったのだ。


 鳥壱はその時、自分だけが世界の果てに置いていかれたような錯覚すら覚えた程だった。

 だから鳥壱は就職した。

 対して興味もない、何の面白みも感じられないこの仕事に。


――じゃあ、僕は何故この仕事を続けているんだ? 無職は嫌だからか? 村八分は嫌だからか?

――いや、違う。この仕事はこの仕事で、それなりに楽しいと思った筈だ。


 なのに、鳥壱はつまらないと感じていた。


――どうしてだ?


 もしかしたら、明確な理由はないのかも知れない。

 ただ何となく、今の仕事に飽き、毎日続くこの日常に嫌気が差してしまったのかも知れない。


 確かに最初は、本当につまらなくてなげやりに仕事をこなしていた。

 だがある日、一生懸命仕事をしていると――どんな理由から一生懸命だったかは覚えていないけれど――課長が鳥壱を褒めてくれたのだ。

 そして、同僚も鳥壱の頑張りを認めた。


――あれは嬉しかったなぁ。


 その瞬間だけは、この仕事をやってて良かったと思った。


――ああ、そうだ。だから僕は、この仕事をしているのかも知れない。その一瞬の喜びの為に、あまり楽しくない今の仕事を続けているのかも知れない。


 まるで花のようだな、と呟いて鳥壱は笑う。


――咲き誇る一瞬の為に堪え忍ぶ、華麗な花のような人生が僕なのか。

――悪くはない。


 何故なのかは分からないが、『例えば、私と一緒に組んでお笑い芸人を目指しましょう、てね』という言葉が思い出され、声を上げて鳥壱は笑った。


――多分、さっきの質問と同じ人だと思うけど、変な台詞だ。


 冗談の筈なのに、やけに真剣な顔でそれを言っていたことだけは覚えている。


 いつ、どこで会った人なのか、結局鳥壱は思い出せなかった。

 もしかしたら、今日見た夢の住人なのかも知れない。


 鳥壱は、その覚えていない誰かに感謝した。


――ありがとう。ようやく僕なりの答えを見つけることが出来たよ。


 ドアノブを回し、扉を開けた。

 ジメジメとした湿った部屋の中に、爽やかな風と眩しい光が差し込んだ。


 昨日よりは晴れやかに、鳥壱は会社に出勤した。



【了】


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夜行列車と彼女と 奇村 亮介 @rathi

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