俺の為のキャンプが始まる!2
嘘だろう? 俺は幻でも見ているのか? 目の前に立つこの女の美しさたるや何だ! 猫のような目に肉付きのある唇が悩ましく、眉間から小顎まで小さく均一に整い、首元までのショートカットは、まるで童のように前髪が整然として揃えられいる。そして、首から下は、そのあどけなさとは裏腹に……
「……」
いかん。生唾を飲んでしまった。
しかし、まさか佐川の言っていた事が嘘でなかったとは……此れ程の女、市中を駆け回ってもそうそう拝めるものではない。今まで、この絵から飛び出したかのような人間に気が付かなかったのは俺の目が悪いのかと疑うくらいに、どうしたって注目してしまう。隣に立つ原野も美しいは美しいのだが、比較してしまうとその美麗が霞む程に、この女は美しいのだ。いやそれにしても見事なものである。
「佐川さん。お話はかねがね、
うむ。声もいい。先の一声は顔に集中してしまい気が付かなかったが、まいったなこれは、例えるならば、猫なで声の鶯といったところか。此奴の声、男の気力をまるで奪ってしまう。所謂、骨抜きというやつだ。
「……」
「あの……田中さん?」
「……! あ、いや、失礼。最近寝不足でな。つい惚けてしまっていた。田中だ。よろしく頼むぞ浅井とやらよ」
「あら、田中様ったら、舞に見惚れていましたね?」
「な、何を
原野め! ズバリと心中を察し、あまつさえそれを口にするとは! なんたる無礼か! 弁えぬか!
「まぁ、本当ですか田中さん」
「え? いや……」
いかん! 誤魔化さねば! しかしなんと申し開けば……
「田中君……女性を前に生唾を飲むのはちょっと……」
「さ、佐川君まで! 何を言っているのだね君は!?」
眼鏡……今、
「いやですね。田中さんったら、エッチなんだから」
「い、いや! 決して俺は……」
ま、まて浅井! これは誤解だ! 馬鹿者二人の陰謀なのだ! 本当の俺は清く正しく美しく……うん? 浅井のやつ。最後に何と言った?
……エッチなんだから?
なんだろうか。そこはかとなく香る昭和の人風。百世の内にもげに珍しき美貌なれど、その口から紡がれる言の葉は、かくもセピアな思い出情緒……
いい……いいではないか! なんと
「まぁ良いではないか! どれ、キャンプの買い出しへ行こう御三方! 時はまってはくれぬからな!」
半ば無理やり話をまとめる形となったが構わないだろう。俺は歩くと決めた。浅井を横に並べると決めたのだ。それに、いつまでも校門で無駄な立ち話をしていても埒があかぬ。この絶女には道すがらありありと自己を紹介してもらうとして、ともかく供に道を行こう。邪魔な虫二匹は、まぁせいぜい邪魔をしてくれるなよ? ではいざ出立だ! 心ばかりのハネムーンへ!
……
「それでは田中さんは、公家の血筋なわけですね?」
「応とも! 京は伏見に産まれし我が家計は由緒正しき九条家の血筋! その証拠に屋敷の蔵には時の皇から下賜された数多の珍品骨董品が……」
「田中君。君の家は借家じゃないか。それに九条家の現当主は平安神宮の宮司で今上天皇の再従兄弟……」
「佐川君! 君にはユーモアを理解する能力が欠如しているようだね!」
邪魔臭い! 人の話に口を出すな童貞眼鏡! 貴様は原野と乳繰り合っておればいいのだ!
「田中さんは、愉快な人ですね」
「……! え、そ、それは実に愉快であるぞこの俺は!」
しまった。「うふ」と微笑を浮かべる浅井についたじろいでしまった。
「私、愉快な人、好きですよ?」
「あ、ふ、ふぅん! そうなのか! そ、それは結構!」
うむ。弱ったな。俺はこの女に尋常ならざる愛の情を抱いてしまったようである。まったく、俺ともあろう者が初対面の相手になんと軟派な。いくら衣を落とした天女のような立姿といっても、少しばかり気抜けし過ぎな気もする。よし。一旦落ち着け俺。考えてもみろ田中よ。この女は佐川の一人上手が慌てふためくような裏の顔がきっとあるのだ。用心せねば、骨の髄まで食われかねんぞ。
「田中さん、素敵だなぁ」
「……!」
……不意打ち! やられた! 胸の鼓動が加速する! 恋のアウトバーンをぶっちぎりだ!
「き、き、急に何を言うのだ浅井よ! た、た、た、戯れはよせ!」
はぁ……いかん。浅井の微笑は呪いの類だ。一目見るだけで心臓がフル稼働し、過剰巡廻する血液で頭が常に熱暴走してしまう。いかん。いかんぞぉ……田中よ。沈まて。男の心は日本海。女が起こすそよ風如きに、決して波を立ててはならんのだ。明鏡止水。虚気平心。努めて静かに穏やかに。我が身に住まう煩悩よ。今一度、釈迦の教えの名の下に、その穢れた魂魄を正すのだ……
「……」
「……!」
いかん! ちらと見られただけでリビドーが暴発してしまう! 堪えろ田中……奴は原野以上の性悪女と仮定しろ……! 理性の堰をしかと閉めるのだ……!
「……」
「……!」
いやいやいや。ちょっとまて。まず前提がおかしい。この女は、本当に西太后よろしくな悪の顔を持っているのだろうか。
そもなんだ。佐川よ貴様は浅井に難があるような事を言っていたが、この女、まるで美徳が服を着て歩いているようなものではないか。此奴の何処に口を噤むような汚点があるというのか。一歩下がってしおらしく、慎ましく縮んでいたと思えば溌剌ながらも思慮ある声で一音鳴いて、はにかむ笑顔は梅雨の合間に射す太陽のようである。立てば芍薬座れば牡丹。歩く姿は百合の花とはまさしくこの事。非の打ち所なく万事万遍是乙女といっても過言ではないくらいに美女の星に生まれついているぞ。むぅ……
……そうか、分かったぞ?
佐川の奴め、さては浅井の色気に当てられて、原野への恋慕を逸らしてしまったのだな。なれば合点のいく話だ。奴は自らの負い目により過剰反応し、俺に心を曝け出すのを恥じたのだ! そうだ! きっとそうだ! そうに違いない! なるほど小物らしい理由ではないか佐川よ! よかろう! その可愛さにより、此度の狼藉は不問に処そう! なれば貴様は自らの不貞を恥じ、黙って原野のアバズレと睦まじくいるといい! そして俺は……俺は……!
「……」
「……!」
夏の夕暮れ蝉時雨。広がる夕陽に夏の空。照らすは愛しき我が君の、眩いばかりの愛姿! 見ろよ人々! 今年の文月は、灼熱に燃えている!
浅井よ! 貴様は俺のお眼鏡に叶ったぞ! この出会いはそう
蝉の声に合わせての高笑い。それを見てまた笑う浅井の姿はやはり美しい!
俺はこの女に恋をしているのだと思うと、胸がズンと重くなる。情が深く、深くに根を張っている。熱気滾るマグマが、ひたすらに、熱い!
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