2章 崩壊

崩壊(1)

「起きて」

 まどろみの中から声が浮かび上がる。

「起きて、日向」

 優しく、可愛らしく、心地よい女の子の声。

 俺は意識を覚醒させ、ゆっくりと瞼を開く。鉄筋むき出しの天井と共に、朗らかに微笑む有樹の顔が視界いっぱいに映った。

「ん……あ、朝か……有樹、大丈夫か?」

「私は大丈夫。おはよう日向」

「ああ、おはよう」

 どうやら霞の侵略はなかったらしい。俺はほっと胸をなで下ろし、ゆっくりと起き上がる。

 まだ多少寝ぼけていて頭がふらつくが、じきよくなるだろう。

 雨と桜と絶望の街には夜がないが、不思議と寝るのには苦労しなかった。

 すると有樹がすっとバスケットを取り出し、弾んだ声を響かせた。

「朝ご飯持ってきたよ」

「ありがと。一緒に食おう」

「うん」

 ベッドの上だと食べかすがこぼれてしまうので電子レンジの前までいって、そこで朝食を取った。

 バスケットの中はサンドイッチとウインナー、ゆで卵のシンプルなモーニング。スーパーもコンビニもないのにどこで調達したのか不思議であるが、俺はあまり深く考えずにサンドイッチに手を取ろうとすると、

「あーん」

 と言って有樹がフォークに突き刺したウインナーを俺の前に突きつけてきた。

 流石にそれはどうかと思ったので、俺は手を振って拒否する。

「恥ずいからいいよ」

 だが、有樹は許してくれなかった。

「そんなこと言わない。ほら」

「ん……しょうがないな……」

 耳がカッカカッカと熱くなる。きっと顔は朱に染まっているだろう。でも、それもまた楽しからずや。俺はあーんと口を開け、ウインナーを頬張った。

 パリッと皮が弾ける音と軽快な食感。そして肉汁溢れる濃厚な旨味が口腔に飛び込んでくる。

「美味しい?」

「美味い。また腕を上げたね」

「でしょう? 雨と桜と絶望の街にいるとすることないから暇つぶしに料理してたらメキメキ上達しちゃった」

 有樹は嬉しそうにそう言って、サンドイッチをあんむと摘まんだ。

 俺もサンドイッチをつまみ、中身を見る。卵とハムか。本当どこで手に入れたのだろうか。

 それに、随分と綺麗にまとまっていて、はは、と笑みがこぼれる。

「最初の頃はへたくそだったもんなぁ。肉は焦がすし、野菜は半生だし、米はぬか臭いし。無洗米買えよって何度思ったことか」

 それは果たしていつのことだったか。遠い昔かもしれないし、ついこの間かもしれない。

 ただ、テナントでの食事。そのエピソードだったのは間違いなかった。

「あー、そんなこと思ってたんだ。ひどい」

「ごめんごめん」

「でも言わなかったお陰でほら、今日のモーニングはどう?」

「抜群」

 もむもむとサンドイッチを咀嚼しながら俺はぐっと親指を立てる。

 有樹はえへんと胸を張り、ウインクを一つした。

「でしょう?」


 ピー、ガガガガ、ピーガー。

 楽しそうに食事しているね。僕も食べたいと思うよ。でも、それはいつの日になるのかな?

 ピー、ガガガガ、ピーガー。


 ――!? な、なんだ今のは!?

 電波の悪いラジオのようなノイズ――いや、違う。俺が生まれる前、インターネットの主流だったダイヤルアップの通信音だ。それそっくりの音が脳内に鳴り響いたかと思うと、俺と同じ声の、でも質が違う謎の音が思考の中からわき上がってきた。

 自分の意志ではない。だというのに確かに俺の声が流れてきたのである。

 得体の知れない恐怖がぞわわ、と虫のように這いずり回ってきた。

 と、俺の表情を読み取ったか、有樹が凄く訝しそうに眉間にしわを寄せていた。気づくとバスケットの中身は空になっている。

「あ、ご、ごちそうさま」

 俺は慌ててそう言い、にこりと笑みを作る。

 ちゃんと出来ているだろうか。有樹は少しの間固まっていたが、やがてふう、と息を一つつき、バスケットを片付けた。

「おそまつさま。電子レンジ組み立てるの?」

「ああ、それしかすることないし」

 有樹がちらりと電子レンジに視線を移す。

「だいぶできてきたね」

 完成間際と言ったところだろうが、まだまだ内部は細々とやらなければならないことがある。しかし外見だけはほぼ完成と言ったところで、メッカのカアバのような形状の黒い箱がででんとテナント中央に君臨している。

「デカイ電子レンジだけどな。人一人簡単に入れる。何のために作ってるのやら」

「人を入れるの?」

「……まさか」

 俺は肩をすくめた。

 いくらなんでも冗談にもならない。

 さて、食事も終えたし電子レンジを作ろうか。そう思って工具と部品を持ってこようとして、

「あれ? また部品が足りない」

「よく切らすね」

 俺は腕を組み、はて、と首を傾げる。

「なんでだろうな? まあいいや、トリキアースへ行こう」

「うん」


 俺たちはテナントを出て、雨降りしきる雨と桜と絶望の街を練り歩く。

 道は雨に打たれてぱちゃぱちゃと音を立て、排水溝に流れていく。洪水のような音が地下から響き渡っているが、街が浸水したことは一度もない。この大量の水がどこに行くのか俺たちにはわからない。

 風はなく、ざあざあと降りしきる雨を傘はいとも容易く弾いてくれる。無骨で華奢なビニール傘だが、俺たちにとっては大切な相棒だった。

 すたすたと歩く通行人たちは傘で顔が隠れ、どのような表情をしているのかわからない。街ではあるが都会ではなく、過ぎゆく人々の数はいつだってまばらだ。

 雨につつまれた桜はひどく幻想的で、かつ美しくて、一方で狂気的だった。

 そもそも桜というのものが花見に楽しまれるようになったのは江戸時代からだという。それまで桜とは縁起の悪い木とされ忌み嫌われ、名家が自宅に植えることなぞ絶対になかった。江戸時代以前の花見とは梅を指し示す。この名残は中国の伝統として今も生きている。

 桜という狂った木が織りなす圧倒的な美とは、一種の迫力さえも携えていて、ぞっとするほどに吸い込まれそう。

 しかしそんなことを思うのは俺だけだったようで、横にいる有樹は楽しそうに桜を眺めていた。短く切った黒髪が歩く度にふわんと揺れて、時折猫みたいな目にくるくるとかぶさっていく。なんとも可愛らしくて、愛しかった。

 お互い何も言わずただてくてくと歩いて行く。しばらくして電子レンジ部品専門店『トリキアース』に到着した。

「来たわね」

 まるで来るのがわかっていたかのように、なやは微笑を浮かべながら俺たちを迎えてくれた。

「まるで来るのがわかってたみたいだな、音居さん」

 思ったことをそのまま口に出す俺。トリキアースは暗く、狭く、そして肌寒い店だった。木陰よりもなお暗い倉庫のような部屋の隅にあるレジ。パイプ椅子に足を組みながら腰掛け、後ろに結った緑がかった髪の毛をさらっと棚引かせ、なやは眼鏡をくいっと直す。

「わかっていたわ。当然じゃない」

「……どうしてわかるんだよ?」

 俺が訝しみながら訊ねると、なやはさらにもう一度眼鏡を直した。

「生理的想定上空の超高速配送によって恐るべき大スペクトラムウェーブが核分裂反応を起こし、オレンジの花束を携えてきたからよ。それによって私はノイズ・シミュレーションにおける最高のγ線を確保することに成功したわ。わかるでしょ?」

「聞かなきゃよかった……」

「何を言うのよ。大切なことを言っているのよ! いい、ここら辺に偉大なる四角形あるでしょ? その四角から宇宙に連なる重力の地場が発生してね。その地場の影響によって超新星爆発が起こるの。人力車より速いのよ!? さらに詳しく解説すると……」

「わかった! わかったから! いいから部品売ってくれよ」

 付き合っちゃいられなかった。なやは狂っている。桜のように狂っている。それは疑う余地のない事実だ。なやもまた制服姿で俺たちと同年代を思わせるが、どうも同じには思えない。

 もっとも、じゃあどの年代ならしっくりくるのかと問われるのなら、それは存在しないとしか言えないのだが。

 なやは椅子から立ち上がり、ジャンパースカートとボレロという少し独特な制服を翻しながら倉庫のような店内をうろつき、俺が注文すらしていないのに必要なパーツをかきあつめ、レジの前に置いた。そしてそれは確かに俺が求めているものだった。

「仕方ないわね。いずれ、貴方にもわかる日が来るわ」

「……来ないと思うけどな」

 俺ははは、と笑い部品を購入し、そそくさとトリキアースを出るのだった。


 テナントに戻ると、俺は購入したパーツを電子レンジの前に落とす。がしゃがしゃと硬質な音を立て、ほんの数秒だけ雨音を消してのけた。

「さて、作るか」

 俺はコンクリート打ちっ放しの床にあぐらを組み、ブレザーを脱いでYシャツの袖をまくった。

 するとちょこんと有樹がしゃがみこみ、えへへと稚気溢れる笑みを向けてくれる。

「手伝うよ。暇だし」

「そうか。じゃあその配線をつないでくれ」

「これ?」

「そうそう。で、このマイクロウェーブの掃射を……」

 それからは楽しく電子レンジを組み立てていく。

 楽しく? そう、楽しくだ。俺は今、確かに楽しい。幸せを感じている。有樹と傍にあり、有樹と共に生き、有樹と共に過ごす。

 これが俺にとって最大限の幸福であり、これを守ることが俺にとって最重要事項だった。

 作業は休みなく続けられた。一時間、二時間、三時間。

 時計がないので正確にはわからないが、多分それくらいは経過したと思われる。

 ふと、有樹がひたいに溜った汗をぬぐいながらちらりと窓の方へ視線を移した。

「ふう、空の色、変わらないね」

「夜がないんだよな、雨と桜と絶望の街は」

 真夏のフィンランドですら夕暮れくらいはあるというのに、おかしな話である。

「時計もないから今がいつかもわからない」

 有樹が微苦笑を浮かべ、すっと立ち上がる。

 帰るのか。ならばと俺も立ち上がり、彼女の言葉に続いた。

「でも、なんでだろうな。ひどく居心地がいいのは」

「不思議だね。服も制服しかないのに、不思議と汚れないし。あ、そろそろ私帰るよ」

「わかった。また明日」

「うん、また明日」

 消えてゆく有樹。その背中を見つめただけでぎゅっと胸が締め付けられそうになる。

 願わくば、この日々が無限に続きますように。

 ――無理だろうが。


 翌日も俺たちはひたすらに電子レンジをくみ上げていく。

 巨大な巨大な電子レンジだ。あまりにも巨大すぎてめまいがしそう。

雨と桜と絶望の街というリアルを体現したホロコースト的な荒野。

 でも、まるで悪くない。

 雨と桜と絶望の街。そんな詩的な世界において素敵に描かれるリリカルな作業。

 定点のない世界の果てで電子レンジという得体の知れない物体を作り上げるそれは魔女の儀式のようでもあり、虚しさも白々しさも全てを飲み込み、消し去ってしまう。

 ただ、疑問だけは食事を終えた茶碗についた米粒のように残る。

「そういえば、有樹はどこに住んでるんだ?」

 そう、俺は自分のことだけでなく、有樹のことさえも何も知らないのだ。

 いや、霞だけではない。俺には多くの疑問が蜂蜜のようにねっとりと脳髄にこびりついている。作業の手は止めないが、俺は一人思索に暮れた。

「有樹……」

 鳥川有樹。

 俺の幼なじみだ。少なくとも俺はそう認識しているし、有樹もそう認識してくれている。

 だが、幼い頃の記憶というやつが俺にも有樹にもない。だから便宜的にそう言っているに過ぎないのだけど、幼なじみというリリカルな言葉はあまりにも心地よく、そして弾んで響いた。

 だから俺と有樹は幼なじみなのだ。

 別に理由はいらない。ただ俺は有樹を大事に思っているし、有樹はそれに応えてくれた。あれは嬉しかった。涙が出そうだった。

 だが、そのきっかけたりうるのが、皮肉にも――

「そして、霞だ。あのガキは一体何者なのか……」

 霞。

 突如有樹を殺すべくこの世界に現われた侵略者である。エイリアンでもなければゴジラでもない。中学生然とした女の子だ。だが、彼女が世界を破壊した。

 今まで続いた平穏な日常を撃砕し、俺に絶望をもたらす少女。

 彼女は何を目的にそんなことをするのか。そもそもその必要性があるのか。

 この世界に定住したいなら住めばいい。誰も否定しない。

 しかし霞は違う。破壊しようとしている。そこが異常だ。

 核兵器でもなければ破壊できないのが街という存在だ。そしてこの世界は無限に続き、破壊するためには核兵器も無限に必要とする。

 しかし、霞はただの中学生である。少なくとも外見は。

 恐るべき戦慄が、ぞっと、俺の背筋を冷やした。

「音居なや。あの狂人、ただの狂人じゃない……一体……」

 音居なや。

 彼女は異常としか形容できない女だ。意味不明の言動。謎の予言。そして霞から俺たちを守ってくれた神出鬼没さとその理由。全てが理解できない。

 あまりにも謎が多すぎてパーツを拾い上げることすら不可能で、考えれば考えるほど俺の脳みそはこんがらがってくる。

 はぁ、と深いため息をひとつ。

「ダメだ。何もわからない。そもそもこの雨と桜と絶望の街とは一体なんだんだ? どうして俺はここにいるんだ? いつから? どうやって? なんで?」

 雨と桜と絶望の街。

 俺が暮らすこの世界はあまりにも異常だった。そもそも夜はおろか夕暮れすらないというのがおかしい。地球上そんな場所は存在しない。いや、宇宙のどこにもだ。白夜の地域ですら夕方はある。万が一惑星が自転しないとしても公転している以上、半年に一度は夜が来る。

 俺がここに暮らすようになってどれだけ経つかはわからないが、少なくとも常に日は昇り続け、桜は咲き続け、雨は降り続けている。

 そんな気候あるはずがない。しかも道路は大通りが一つだけ。これもおかしい。果てが無いのだ。バス停もなく、タクシーもなく、だけど定期的に車は往来する。彼らがどこから来て、どこへ向かっているのかもわからない。交差点がないからだ。

 そう、雨と桜と絶望の街はどことも交差しない。世界それ自体が点か線のような存在で、完全に静止している。

 そして、そんな世界にいる俺自身についても。

「わからない。そもそも――俺は何者なんだ?」

 そう、何もわからないのだ。

 一切が不明で、一切が謎。

 俺はこの永久に続く春の中で何のために存在しているのかすら思考出来ない。

 ただ、あるいはここが黄泉の国で、俺は幽霊か何かなのかもしれないと考えると少しだけしっくりくる。

 ここはあの世なのだろうか? 俺は死んだのか?

 だが、生前の記憶はない。

 かちゃかちゃと工具をいじり、配線をいじり、箱を組み立てる。

「電子レンジ……」

 黒い箱だった。二メートルはある。

「巨大な電子レンジ……」

 俺は作業の手をついに止めてしまい、ぼんやりと呟く。

「組み立てないとな。でも、何故?」

 俺には電子レンジを組み立てる理由がなかった。ただ毎日、茫洋とした日々をこいつを作って埋めていく。でも、その意味は存在しない。

 それはまるで人生のようだった。

 人生には本質的に意味などというものは介在しない。俺の作業はそれを体現しているかのようで、ひどくアイロニー的である。

 生物の本質とは何かというなら飯を食って排泄して睡眠して肉体を維持し、子種を残して人類という種を存続させることだ。それだけだ。

 一流企業で沢山稼いでいるとか、好きな女と愛し合うとか、美味いモノをたらふく食うとか、そんなのは人生とは無関係だ。

 ただ、そうすると気持ちいいから、幸せだから、楽しいから、そういう刹那的、享楽的な欲求を満たすための行為として人間は活動する。

 だとするなら俺の電子レンジも同じではないか? 特に目的があるわけではない。電子レンジを作ることに意味なんかない。それはまるで三つ星レストランで一番高い料理に舌鼓を打つ行為と同じではないか?

 人間が生きるにあたって高級料理は必要ないように、俺が生きるに当たって電子レンジは必要ない。でも、それを求める。つまりはそういうことだ。

「いや、電子レンジのことはいいか。どうせ俺がすることはこれしかないんだ」

 俺は、はは、と有樹に聞かれないように独りごち、頬をつり上げる。

 苦笑。多分鏡で自分の顔を見たらそんな言葉が浮かんでくる表情をしているに違いない。

「今日がそうだったように、明日も、明後日も」

 そこでふと、気づいた。

「もし電子レンジが完成したら――それから俺はどうやって生きていくんだろう?」

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