第8話 気 配

 八、気 配


「皆さーん、ごはんよぉ」

 久美が台所から昼食の用意が出来たと大声で呼ぶと、階段を、トントンと駆け下りてくる軽い音がした。

「あら、すみれさんだけ?」

「はい、他の皆もすぐにまいります。いつも美味しい食事をありがとうございます」

「いえいえ。遠慮なんてしなくていいのよ。それにこの家でそんなこと言ってくれるの、すみれちゃんだけよ。女の子がいてくれるだけで仏法くさい家の中が華やぐわ」

 いつもは男ばかりで会話も少なかっただけに、久美も嬉しそうだ。

「お母さま、これは何というお料理ですか?いい匂いですね」

 すみれも目新しい食べ物に興味があるらしく、食事のたびにいろいろ質問してくる。そんな時、久美は彼らが初めて口にする食品や料理の仕方について細かに説明しながら、少しずつでもこの時代に慣れていって欲しいと思っていた。

「今日のお昼はパスタ。スパゲッティて言うの」

「スパゲッ…?え?」

 すみれは眉を寄せている。その表情が可愛らしくて、久美は思わず笑みがこぼれてしまった。そして食器棚の引き出しの中から、フォークとスプーンを並べるように教えた。

 すみれと久美が楽しそうに食事の用意をしていた時、ようやく二階から男三人がドヤドヤと降りてきた。

「おー、今日はスパゲッティか。いいねぇ。母さんのミートソースは美味いんだぜ。ここんとこ、昼はうどんや蕎麦ばっかりだったから嬉しいね」

 瑛太はそう言いながら、一緒に降りてきた霧人と万寿に座るように促した。二人とも現代の料理に驚き、当惑しながらも、初めての味を楽しんでいるようだ。当初は、過去からの客に慣れない物を出すのはかわいそうかと、久美は昔から食されていた食べ物を中心にメニューを考えてきた。しかし、ここ数日はそろそろ新しい味にも慣れてもらおうと、あえて洋風の料理にトライしている。

 瑛太の教えた通り、見よう見まねで悪戦苦闘しながらスパゲッティを口に運ぶ三人の姿が微笑ましかった。

「お、なかなか上手に食べとるな」

 午前中の務めを終えて、寺から戻ってきた幽影に皿を用意しながら久美は、

「今晩はカレーにしようかと思ってるんです。どうでしょう?」

「いいんじゃないか?初めての味、料理にも慣れていってもらわにゃならんしな。どうだ?美味いか?」

「美味いです!」

 そう言った彼らの皿はすでにほとんどカラだった。


「瑛太、今日は午前中、何をしてたんじゃ?」

「パソコン使って科学の勉強だよ。電気とか乗り物とか、覚えてもらいたい事は山ほどあるよ。でもさ、みんな覚えるの早いよ。さすがだね」

「そうか、まあ驚くような事ばかりで皆も大変じゃろうな」

「はい。でも幽影様、瑛太のおかげで少しずついろいろな事がわかってまいりました。本当に我らの時代とは全く違います。蝋燭の代わりに電気、馬の代わりに車、ですか。我が主人や友にも見せてやりたいものばかりです。このスパゲッティも食べさせてやりたい」

 霧人も科学の発展には興奮するところが多いのだろう。若いゆえに何事にも興味があるのだ。

「たしかに、いろいろ便利な世の中にはなっているがね。でも昔の方が良かったと思うところもたくさんある」

 昭和初期の生まれの幽影にとってはこのところの科学の進歩にはついていけないものも多く、また時にはそれによって人の心が置き去りにされているのではないかと考えている。仏の道を教える者としてはなんでも科学で解明しようとする今の風潮に疑問を持っているのだ。


 霧人、万寿、すみれがこの平成の世に渡ってきて半月が過ぎていた。同じ国とはいえ、まるで別世界で一景からの使命を果たそうにも未だに寺の近所から先には出られずにいる。使命の難しさは覚悟の上だったが、こんな状況になろうとは夢にも思わなかったことだ。ただ、雲之助たちが最初に飛んだ時とは違い、住み慣れた九竜寺にいて、その住職の協力を得られることが彼らにとって一番幸いなことであった。


 寺からさほど離れていない所に大きな古い蔵のある農家があり、そこに一台の白い車が停まっていた。その家の玄関から一人の男が出てきて、奥にいるらしい老人に挨拶をしていた。白地にブルーのストライプが入ったワイシャツに紺色のネクタイを締め、グレーのズボンを履いている。身長もあまり高くなく、どこにでもいる中年のビジネスマンのようである。その男は停めてあった車に向かう途中、中庭で作業を始めようとしているらしいその家の主人に声をかけた。

「伊藤さーん、お邪魔しました。また寄らせてもらいます」

「いやぁ、御苦労さんでした。蔵の中だけじゃなくて、もっと探せば家の中にもいろいろあるんで、また見に来てください」

「そのつもりです。いろいろ貴重な物があって驚いたですよ。次は掛け軸の方も値段交渉させてください。今日はありがとうございました」

 そう言って男が乗り込んだ車には小さく洒落た飾り文字でアンティークショップのロゴが入っている。そして車はその農家から出たあと、九竜寺の前をゆっくり通り過ぎて、街に通じる大通りに入っていった。


 この一週間、竹弥もこの近辺を回り、寺に来たらしい過去からの客を探っていたが、まだはっきりと確かめることが出来ずにいた。ただ、寺と母屋を行き来したり、母屋の窓からたまに見える姿からどうやら若者三人、男二人と女一人であることまではわかった。そして市内にある自宅に戻って雲之助にその日の寺の様子を報告するのがこのところの日課になっていた。

「今日も目立った動きはありませんでした。まだ寺の敷地からは出ていないようですね」

「まあ、そんなもんだろう。あの時代とのギャップが大きすぎるんだよ。そう簡単にこの時代に慣れてもらっては困る。我らがどれほど苦労して今に至ったか考えてもみよ」

「それはそうなんですが、せめて彼らの写真でも写せたら、お見せすることが出来るかと」

 雲之助はリビングに続く和室で雪音の入れた茶を美味そうにすすりながらしばらく考え込んでいた。それからおもむろに口を開いた。

「竹弥よ。あやつらの事は今しばらく放っておこうか。あまり頻繁に回りをうろうろしては返って怪しまれてしまうかもしれん。それに、お前だけでも顔を知ったのならそれで良い。かの時代からこの時代まで、巻物を追ってきたのだとしたら、いずれこの家にたどり着くじゃろう。今はその時のために策を考えておく方がよい」

「ですが、それでは幸昌に危険が及びます。この時代でようやく他の子たちとも交わり、幸せな暮らしが出来るようになりましたのに」

 雪音も心配そうに二人のやりとりを聞いていたが、雲之助はこの話はもう終いだというように新聞を広げて読み始めた。


 キッチンに戻った竹弥と雪音の表情は堅かった。

「きっと雲之助様には何かお考えがあるのよ」

「だといいんだが。この平成の世に来て七年、もうこのまま平和な時が送れると思っていたよ」

「そうね。幸せな時間に慣れてきてたわ。クナイももう上手く投げられないかもしれない。…刀、そうだわ、刀の刃も研いでおかないと…」

「何があってもいいように、準備だけは怠るなよ。身体も鈍ってきてるしな」

「歳も重ねたし、力が落ちてきてるのはあなたも同じよね。でもこの時代にはこの時代に合った戦い方もあるはず。その点では私たちの方が有利だと思うわ。防犯カメラの数も増やしましょう」

 雪音の言うこともわかるが、それでもあの時代に滝一景の元で鍛錬してきた者たちの力を甘くみるのは危険すぎる。同じくかの時代の戦を経験し、生き抜いてきた竹弥は多くの仲間を失った戦いの凄まじさを忘れてはいなかった。

「俺がなんとかしなければ…」

 それは一家の主としての責任感のようなものだったかもしれない。やっと手に入れた幸せを失いたくないという不安と焦りが竹弥にはあった。


 あの大戦の記憶を持つ者も少なくなってきたこの平和な世の中に、雲之助たちはすでに七年の時を過ごしていたのだ。剣を手にするどころか、木々を渡ったり、全力で走ることさえ近頃ではすることがなくなっていた。刀を所有していることが知られるだけでも銃刀法違反で犯罪者になってしまう危険さえある。ただ彼らはここで骨董品の店を始めていたので、刀剣などは店に合法的に置くことができた。それにこの商売をしていると、たまに彼らに馴染みのある懐かしい品物にも行き当たる事があって、望郷の念を持ち続けている彼らには唯一あの時代を実感できる場所であったのだ。


 その日すみれには朝から予感があった。追うべき者のかすかな匂い、とでもいうようなものを寺の外から感じていたのだ。それに誰かに監視されているような感覚。一景の血縁であるすみれの本能が、敵が近くにいることを告げていた。

「霧人、万寿、敵の気配を感じるの。近くにいるのかもしれない」

 万寿もそれに同意した。

「すみれがそう言うのならそうなんだろう。でなければ一景様がこの時代に我らを送り込むはずがないからな」

「そうだな。奴らも我らが来たことを知っているということか」

「どうする、霧人?」

 万寿の問いかけにしばらく考え込んでいた霧人が口を開いた。

「その気配を追うにしても、我らはまずここの地形や決まり事をもっと知る必要があると思う。寺の外の世界に慣れなければ返り討ちに合うかもしれない。ただ奴らが先にここを襲ってきたとしたら、まず幽影様やご家族をお守りするのが先だ」

「無論のこと」

 万寿にも、すみれにも異はなかった。

「すみれ、奴らがこの寺に近づいたらすぐにわかるか?」

「わかると思う。それは任せて」

「そうか、そうだな」

 霧人も万寿も一景と同じ血を引くすみれの能力は高く評価している。あとは襲撃された場合に備えて鍛錬を怠らないようにするほかはなかった。


 任務遂行の為とはいえ、若い彼らの知識の吸収力は大したものだった。瑛太の教え方も良かったのだろうが、教えた事はすぐに覚えてしまう。江戸時代から平成に至るまでの日本史に始まり、科学技術の進歩についても一通り頭に入れたようだ。ただ知るのと、実際に見たり使いこなすのは全く違うようで、家電やパソコンなど、機械相手に悪戦苦闘している様子にはなにかしら微笑ましささえ感じると瑛太や久美は思っていた。しかし、すぐに彼らはこの時代の若者のように振る舞うことが出来るようになった。表面的であれ、これもテレビなどの科学技術のお陰であろう。平成の世に来て一カ月を過ぎる頃にはバスを使い、近くの町に出ることさえあった。そしてその間、敵の気配は数日に一回ほど感じられる程度で、襲ってくる様子はなかった。

「私たちが動くのを待っているのかしら」

「何人だ?」と霧人。

「ひとりよ。いつも同じ人。雲之助かしら?」

「さあな。ひとりで三人を相手にするのは難しいとでも思っているのかもしれない」

「では、我らが分かれて動くのを待っているのかな。だとすれば、こちらにも打つ手がある」

 と万寿は両手を胸のところで擦り合わせている。

「そうだな。でもまず次に奴の気配を感じたらすぐに知らせてくれ。なんとか奴の後を追ってみよう。それが先だ」

「わかったわ」

 その時、階下から久美が呼ぶ声が聞こえた。

「すみれちゃん、そろそろ出かけましょう」

「あ、はーい、今参ります」

 瑛太の服を着られる霧人や万寿と違って、着替えの少ないすみれを気遣った久美がすみれを買い物に連れ出そうとしているのだ。それまでも何回か久美と一緒に近所のマーケットには行っていたものの、洋服を買いに街中まで出かけるのは今日が初めてだ。

「すみれ、言ったそばから一人だな。気をつけろよ。そうだ、俺がついて行ってやろうか?」

 万寿が心配そうに眉を寄せている。

「大丈夫よ。今日は気配を感じないもの。それにお母様が一緒なのよ。そんな時に襲ってきたら近所中大騒ぎになる。二人は予定通り、幽影様の御用をして。それも大切な仕事だわ」

 でも霧人は釘をさすように

「すみれ、この時代での敵の様子は全くわかってないんだ。甘くみるんじゃないぞ。何かあったらまず久美様をお守りしろ」

「わかってる」

 短く返事をしてすみれは階段を降りていった。









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