第9話 油 断

 九、油 断


 三人はこのひと月の間に二回程、瑛太の運転する車に乗って市内を見て回ったことがあった。初めての街中や駅前は彼らにとっては驚き以外のなにものでもなかった。巨大なビルや車の多さに圧倒され、その騒音や人の多さにも気持ちを惑わされ気分が悪くなってしまうほどだった。道路は全てアスファルトで覆われ土が見えない。木々も街路樹があるくらいだ。

 今日はその駅前にあるデパートで久美がすみれのために服を選んでくれるという。その好意を断るわけにもいかず、小刀を服の中に忍ばせながらも、買い物への好奇心が沸き起こるのは若い女性としては仕方ないことだったろう。

「こうして一緒にお買い物に行けるなんて嬉しいわ。娘ができたみたいよ」

 久美の楽しそうな様子がすみれには嬉しかった。寺の近所の停留所からバスに乗り込み、約三十分、途中途中のバス停で停車し新しい乗客を乗せていく。中年の男、主婦らしい初老の女、同じ服を着た学生らしい一団、母親に手を引かれた幼児、色鮮やかな服を着た若い女性や若者たち。そのどの顔も当然のようにこの平安の世に浸かりきっていた。すみれ達のいた時代に生きた人々のような、戦への不安や、戦の中にあっても、一日を生き延びられたことに対する感謝と喜びに満ちたような表情は彼らの中には見られなかった。生きる、生き延びることに対する執着がどれほど彼らにあるのか、などとぼんやり考えているうちにバスは終点である駅前広場に入って行った。


 平日にもかかわらず大勢の人たちが行き交う駅前でバスを降りた二人は同じ方向に向かう人々の一団に混じり横断歩道を渡った。その先には街で一番大きなデパートがあり、一緒に横断歩道を渡った人の殆どがその入口に向かって歩いているようだった。そのデパートは地上七階建てで、地下にも広い食品売り場などがある。正面の大きな一枚ガラスといい、ショーウィンドウの洒落たデコレーションといい、当たり前だが、すみれにとってはどれも初めて見るものはかりで、すっかり目も心も奪われてしまった。

 中は二階と三階がヤングレディースの売り場になっていて、久美は色とりどりの可愛らしいワンピースを勧めてくれたが、すみれは動きやすいパンツとピンクの花柄のブラウス、セーターを選んだ。他にもスニーカーやサンダルなど、小一時間の間に随分と買い物をしたようだ。

 溢れかえる色とりどりの商品や香水の香り、アナウンスや流れる音楽、大勢の人、人。ただでさえ感覚の鋭いすみれには刺激が強すぎたのだろう。久美が気づいた時にはすみれの顔からは血の気が引いていた。

「ちょっと休憩しましょうね。そうよね、私ったらあんまり楽しくて、気遣ってあげられなくてごめんなさいね」

「大丈夫です。私こそご心配をおかけしてしまうなんて」

 と言いながらもすみれの顔にはいやな汗が滲んでいるようだった。

「えっ!」

 溢れる人の間に一瞬何かを感じたような気がしたが、その時のすみれは何とか姿勢を保っているのが精一杯で、その何かを確かめる余裕も気力もなかった。

「外の空気にあたりに行きましょう」

 と久美はすみれに肩を貸すようにして、駅とは反対側にあるデパートの裏口から外に出た。そして壁に沿って置かれてあったベンチの一つにすみれを座らせた。

「何か飲み物を買ってくるわね。ちょっとだけ待っててちょうだい」

 と言い残して久美は道路の反対側にあった自動販売機の方に走っていった。すみれは外に出て新鮮な空気を吸い、少し楽になってきたようだった。


 その時、人混みの雑踏の中から一人の男が歩み寄って来てすみれの耳元で囁いた。

「お前は九竜寺の客か?」

 なんと迂闊だったことだろう。その気配にすみれは全く気がつかなかったのだ。今の今まで。

 その男は一見、何処にでもいそうな、中年の会社員のように見えた。しかし、次の瞬間、その外見の裏に隠されていた真の姿から発せられた殺気がすみれの身体をこわばらせた。

「お前はっ」

 人混みによる目眩とその男からの殺気に抗いながら瞬時に身構え、隠し持っていた小刀に手を伸ばした。しかし、男の動きが僅かに勝った。次の瞬間、すみれは左の脇腹に激しい痛みを感じ、再びベンチに座り込んでしまった。そして男は近づいてくる人影に気づき、人混みの中に消えていった。

「すみれちゃん、お茶よ。大丈夫?」

 久美が冷たいお茶のペットボトルを持って戻って来た時には男の姿はどこにも見えなかった。

「お母様、すみません、刺されたようです」

 すみれの顔からは血の気が失せ、額には汗が滲んでいた。そしてそのまま意識が遠のいていった。


 竹弥は焦っていた。絶好の機会だったのに、確実に急所を、刺すことができなかった。戦国の時代を離れてから長すぎる時間を過ごしていたからだろうか。しかし、急所をはずしたとは言え、相手は女だった。手応えもあった。ゆえに今頃は息絶えているかもしれない。もしそうならば、この平成の管理された時代、必ずニュースになるだろう。そして防犯カメラなる物が何処かから竹弥の姿を捉えていたとしたら。

 雲之助の言った通り、今は静観の時だったのかもしれない。所用で街に居た竹弥は偶然見つけた追っ手の一人に、はやる気持ちを抑える事が出来なかった。その後悔を胸に家に戻り、ありのままを雲之助に報告した。

 だが、雲之助から叱責の言葉が投げかけられる事は無かった。そのことがますます竹弥の後悔の念を深めた。

「未だニュースでは速報も出ていない。今少し様子を見てみよう。ただ、もしお前の顔が公に晒される事があれば、今一度、時を渡る事も考えねばな」

「そんな事をしたら、今度こそ雲之助様のお命はなくなります」

 と雪音が悲痛な声をあげた。

「まことに申し訳ございませんでした。事を起こすにしても、山中であるとか、この家の中であればいくらでも隠しようがありましたのに」

 竹弥の顔には苦渋の色しか浮かんではいなかった。

「今は仕出かしてしまった事を悔やむより、これからのことじゃ」

 しばらくの沈黙の後、雲之助は口を開いた。

「竹弥、まずは九竜寺を見張り、娘がどうなったのか探れ。雪音はこの家の備えじゃな。若にも事の次第を話しておいた方がいいだろう。あの時代であれば、もう立派な武将になられる歳だ」

 雪音は現代に馴染んだ幸昌のことを案じながらも、雲之助の言葉に従うよりなかった。九年前より全てを雲之助に任せ、この安住の地に辿り着いたのだ。この生活を惜しむ気持ちはあるが、雲之助の言葉には必ず従うと決めてある。竹弥も然りだ。

 ただ今回のことは、竹弥なりにこの家族の生活を守ろうと思ってやったのだということは皆わかっていた。

 今になってやってきた追っ手さえ返り討ちに出来れば、もう案ずることはなくなる。この豊かな生活を心から享受することが出来るだろう。そのために出来る限りの備えはしておこう。あの戦国の世の覚悟を改めて胸に刻んだ二人だった。



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