VERSION 2.0

 号令が発せられてから最も忙しかった男が食卓につくことができたのは“その瞬間”まであと30分を残すばかりになってからだった。

 妻の用意してくれた暖かい食事にありつくこともできず、殺風景な休息ブースの事務机に冷たくなった弁当を広げ、モニターのスイッチを入れる。

 コロニー・アクアプラ内の放送局はすでに仕事を止め、砂嵐が走っている。当然の事だろう。この期(ご)に及んで仕事をしているのは自分くらいかもしれない。男は自嘲的に嗤(わら)うとチャンネルを変えた。

 母星から送られてくる電波はまだ正常のようだ。何気ないTV番組の右肩に“その瞬間”までのカウントダウンが無機質に表示されている。

 母星の人間にとって、“その瞬間”など在り来たりの事故や事件程度の価値しかないのか……

 男は溜め息をつくと空しい笑いを提供するTV番組に唾を吐いてスイッチを切った。

 静寂が波紋を作るように室内に広がってゆく。

 男は目を瞑って家族と共にあったあの頃を思い出していた。

 腕白な弟、泣き虫な妹、厳しい父、優しい母。家に帰るといつでも温かいスープの香りがしていた。

 平凡な当たり前の毎日、そう、今母星の人々が過ごしているような在り来たりの日々が永遠に続くものであると信じていた、信じることのできたあの頃。在り来たりの幸せ、それこそが最高の幸福である事に気付くことすら出来なかった。そしてそう言った日々に別れを告げることに今更ながら反発している自分を哀れむには年を取り過ぎ、諦めてしまうには若すぎた。

 これから自分のすることで一体何人の人が助かると言うのだろうか。そして、それはその人達にとって本当に幸せだと言えるのか……“その瞬間”、自分たちはあの「黒い穴」に呑まれることを甘受すべきなのではないか。それを運命と認めて   

 男は“食卓”を後にし、仕事に戻る。

 残り1%の可能性に望みを託し、コロニー推進装置の起爆剤を点火するために……。


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家族の食卓 砂塔悠希 @ys98

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