隠すべき痕跡

「一体ここで何があったというんですか…」


 俺が鳴らした火災報知器の音を聞きつけてやって来た研究員のうちの一人が、救急車隊員の手によって担架へと乗せられたケヴィンの姿を見つめながら、眉をひそめてそう呟いた。


 …それもそのはず…


 その研究室内には砕けたガラスや、柄の折れたモップなどが散乱しており、さらに目の前には何度もケヴィンに蹴られて血まみれになってしまった俺が佇んでいる。


「…まぁ、たまには親友同士、ボクシングでもしてみようかと思ってな。」


 そう言って自分の口の端で、すでに固まりかけている血液を無造作に親指で拭いながら、冗談まじりに笑う俺。


「…ここでですか?」


 そんな俺の言葉をまともに受けたのか、さらに怪訝そうな表情でこちらを睨みつける研究員。


…真面目かよ。


 そんな研究員の反応に、思わず俺の鼻先からは小さな笑いが漏れた。


「ダグラス、大丈夫?良かったら、これ使って。」


 救急隊に運ばれていくケヴィンを入り口まで見送ったリサが、俺の口元に自分のハンカチを当てながら、そう言って心配そうな表情を浮かべた。


「それで?ケヴィンの意識は戻ったのか?」


 俺の問いかけに対し、リサは無言でその首を横に振る。


…ケヴィンの意識はいまだ戻っていない。


 リサに筋弛緩剤を投与されている為、当たり前と言えば当たり前なのだが、それにしても次に目覚めた時、また暴れ出さないかが心配なところである。


「…ケヴィン…私の事をいつも大切だと言ってくれていたのに一体どうして…」


 そう言ってリサはその自慢の長い金髪をかき上げながら、悲しそうな表情で呟いた。


 心なしか、その瞳もすでに涙で潤んでしまっている。


 そんなリサの言葉に、俺の頭の中には、今まで自分が出会ってきた発症者達の姿が、次々と浮かんできた。


「…違う。」


 その瞬間、思わず俺の口から自然とそんな言葉がこぼれ落ちた。


「…ケヴィンは別にリサの事が憎かったり、リサの事を敵視していたから襲おうとしたんじゃない…」


「…え?」


「…


 一見、脇目もふらずに、ただ理性が外れた本能のままに暴れているだけのように見えた彼らの行動には、ある一つの共通点があった。


…仕事や仕事仲間を何よりも大切にしていたアレックスは、発症と同時に仕事仲間である俺の頭を角材で殴ろうとした。


 エリックさんは、ずっと大切にしていたはずの亡くなった奥さんの写真を引きちぎろうとし、そして人の金で酒を飲むのが何よりも大好きだったジョンは、発症と共に酒代をウェスカーさんの家まで返しに来た。


 それに俺は…


 命よりも大切にしていた、ドールズ新聞社の新人賞の賞状とトロフィーを自らの手で引き裂いてしまった。


…それはきっと…


「…多分、発症者は自分の一番大切なものを破壊しようとするんだ。」


「一体どうして?」


 そうポツリと呟いたそんな俺の一言に、リサは全く理解ができなかったのか、露骨に顔をしかめながらそう尋ねた。


「ほら、子供の頃とかでもよくあっただろ?大切にしていたものほど突然壊したくなってしまって、衝動的に何かを壊してしまう…そんな無意識な衝動ってのは誰しもが経験したことがあるはずなんだ。ほら、砂場で今まで一生懸命作っていたはずの砂の山を、出来上がった瞬間に壊したりとかさ。大人になった今でこそ理性だとか建前だとか、そういうもので何とか抑えられているようなその衝動が、もしこの発症が鍵となって抑えられなくなってしまうとしたら…?」


 そう言って床に落ちていた写真立てを拾い上げ、少し揺さぶってから割れたガラスを床へと振るい落とした俺は、机の上にそっとそれを置いた。


 写真の中でリサと肩を寄せ合い、穏やかに微笑んでいるケヴィンのその表情からは、先程の凶暴さなど全く見受けられない。


 もしかしたら、人々が必死に被っている”人間が人間でいる為の仮面”が、発症という鍵によって無理矢理剥ぎ取られてしまうのかもしれない…


 そんな風に考えた俺は、再びポツリと呟いた。


「そして衝動的に破壊行動を起こしてしまった人間は…」


 俺がそこまで言ったところで、今度はリサが答える。


「…我に返った瞬間に、後悔と喪失感にさいなまれる。」


「正解。」


 そう言って俺はリサにハンカチを返すと、リサの肩をポンっと叩いた。


 俺は当初、この病気の恐ろしいところは『自分の意識がない場所で思いもよらない行動を起こしている』という点だと思っていた。


 だが、本当に怖いのは…


 アレックスのようにたった一度の発症で、今まで必死に積み上げてきたはずの仕事での地位や信用を失い、そして意識が戻ってからも再発の恐怖に怯える日々が続き、そして次第に社会からの孤立と巨大な後悔を生み出してゆく…


…言い表しようもないほどの深い虚無感…


 そんな『発症後の負の連鎖』の方が本当は恐ろしいことなのかもしれない。


 実際この俺自身も、症状がなくなったはずの今でも、次はいつ発症するのか、そして次は自分の知らないところでもっと酷い事をしでかしてしまうのではないかという恐怖心で、毎日が怖くてたまらないのも事実だ。


…そしてきっとグレッグも…


「とりあえず俺達もケヴィンの運ばれた病院に…」


 そう言って部屋を出ようとした俺達の前に立ちはだかったのは…


「やぁ、また会ったね。」


 背後に数名の警察官達を従え、口元にいやらしい笑みを浮かべながらこちらを見つめている、ビリー・カルバン警部の姿だった。



「…まったく、奇遇というかなんというか…何か事件がある度に君と出会うようだね。ダグラス君。」


「そちらこそ、ここは所轄外じゃないんですかい?」


 研究室に入るやいなや、すぐさま捜査を始めた捜査官達とは対照的に、近くの棚にもたれ掛かりながら、俺に向かって何とも嫌味っぽく話すビリー•カルバン警部に対して、俺はあからさまに不満そうな態度を露わにしながらそう答えた。


「残念ながら例えこの場所が所轄外であったとしても管轄内ではあるんだよ、ダグラス君。発症者とその可能性がある者が関わっている事件は、全てウチの署に連絡が入るようになっているモンでね。」


「…行こう。リサ。」


 そんなビリー・カルバン警部の嫌味な言葉に、俺は一瞬顔をしかめたりもしたが、すぐに彼から視線を逸らせて、リサと共にその場を立ち去ろうとした。


 その瞬間…


「おっと、これから事情聴取もありますからね。重要参考人の方々は、どうかこのまま動かないでいただきたい。」


 そう言って、俺達の前に立ちはだかるビリー・カルバン警部。


 彼の口元は、先程以上にニヤついている。


「重要参考人って…別に俺達なぁっ!!」


 そう言って、今にも彼に掴みかかりそうな勢いで言い返そうとする俺の全身を、まるで小馬鹿にするかのような眼差しで上から下まで見渡すビリー•カルバン警部の視線に気がついた俺は、険しい表情で舌打ちをすると、そのままその場で動きを止めた。


 それもそのはず。


 俺の全身は先のケヴィンとの争いで、すでにボロボロになっており、この状態でこの事件とは無関係と言い張るにはさすがに無理があるだろう。


 そう考えた俺は、ビリー・カルバン警部に反抗することを辞めて、リサのデスクにもたれかかった。


 その際にリサが使用した筋弛緩剤のアンプルの破片が、床に落ちている事に気がついた俺は、自分の足でそれを踏みつけて、そのまま自分の体の方にゆっくりと引き寄せながら自分の靴底の下に隠しておく事にした。


「…ダグラス、あまり警察には逆らわない方がいいわ。これでも飲んで、少し落ち着きましょう。」


 そう言いながらそんな俺の元にコーヒーショップのタンブラーを渡してくるリサ。


 もちろんリサの手にも同じものが握られている。


…ドーリーカフェ。


 その可愛らしいデザインのタンブラーの表には、コーヒーショップの名前が記載されていた。


 この研究所の近くの小さな公園の前に、ワゴン車で定期的に販売に来ているこのコーヒーは、この地域ではなかなかの人気だそうだ。


「…ほほう…」


 俺の手に握られたそのタンブラーを、ビリー・カルバン警部が覗き込む。


「…何ですか?」


「いや、ドーリーカフェのコーヒーですか。私もあのコーヒーショップには前から一度は行ってみたいと思ってましてね。なるほど、いい香りだ。」


 そう言ってその鼻先でコーヒーの香りを楽しんだビリー・カルバン警部は満足そうな表情を浮かべた。


「ここまで荒れてしまった部屋ですと、捜査にもかなり時間がかかってしまうでしょう。どうぞ、そのコーヒーなど飲んで、ごゆっくりとお待ち下さい。」


 そう言ってビリー・カルバン警部は、ワザとらしい会釈を俺達に向けると、そのまま捜査員達の元へ戻ろうとした。


 そんな彼の言葉と態度に、まともにカチンときた俺は、ビリー・カルバン警部の肩を強く掴むと、低い声でこう言った。


「…そんなことより、キャサリンの行方は分かったのか?人が一人いなくなってるってゆーのに、こんなトコで油を売ってるヒマなんてないんじゃねぇのか…?」


 すると、ビリー・カルバン警部は勢いよく俺の腕を払いのけると、相変わらずのニヤついた表情のままでこう答えた。


「…もちろん。そちらの方もきちんと捜査しているのでお構いなく。」


 そう言ってビリー・カルバン警部は、自分のコートのポケットに両手をつっこむと、捜査員達の元へと向かって行った。


 その後2時間半にも及ぶ捜査の中、俺とリサもそれぞれの捜査員達から事情聴取を受けたが、幸いな事に大した尋問もされずに済んだ。


 事情聴取の最中に、別の捜査員がケヴィンが調査していた例の飴のサンプルをケースの中に入れて持ち帰っている場面を見かけたが、今となってはそれも仕方がない事だろう。


「ダグラスの言う通りね。」


 捜査を終えたビリー・カルバン警部と、捜査員達が去った後、リサが思わずそう安堵の声を漏らした。


「この中に入れておいて正解だったわ。」


 そう言って、リサが手にしていたタンブラーの容器を開ける。


 すると中から出てきたのは、コーヒーなどではなく、リサが先程ケヴィンから採取した血液が入った細長い容器であった。


「でも飴のサンプルは全て持って行かれちゃったわね…」


 そう言って残念そうに溜息をつくリサに対して、俺はフッと笑みを浮かべながらこう答えた。


「なぁに、問題はないさ。飴のサンプルはなくても…ケヴィンに飴を食わされたラットならここにいるからな。」


 そう言って俺がコンコンと指で叩いたケースの中にいたのは、元気よく動き回る3匹のラットの姿だった。

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