ケース7:ケヴィン・アーロンの症例

「…痛ってぇ〜…なんだよケヴィン…」


ケヴィンに突き飛ばされた事によって、近くの棚で後頭部を強く打ちつけてしまった俺は、鋭く痛む自分の頭をさすりながらゆっくりと床から立ち上がった。


見ると先程まで床の上に倒れていたはずのケヴィンが自らの足で立っている。


…だが、どこか様子がおかしい。


ケヴィンは俺からのそんな苦情にも全く答えるような素振りすら見せず、ただ自分の頭と両腕を前にぐにゃりと垂らしたまま、力なくその場に留まっていた。


…この姿勢は…


ケビンのそんな姿を見た瞬間、俺の脳裏にはあの日エリックさんが発症した時の姿が思い浮かんだ。


ゆらりゆらりと歩く、あの発症直後のエリックさんの姿と、今自分の目の前にいるケヴィンの姿が妙に重なる。


「…も〜、急に倒れるからビックリしたじゃない。もう少しで救急車を呼んじゃうところだったわよ。」


そう言って今まで自分の耳元へと構えていた受話器を元の位置へと戻したリサは、安堵の笑みを浮かべながらケヴィンの元へと歩み寄っていった。


その瞬間…


リサの声に反応したケビンが突然顔をあげると、無表情のまま大きく右腕を上に振りかぶった…


「危ない!」


ケヴィンのその異変に気がついた俺が、そう叫びながら咄嗟にリサの腕を掴んで自分の体の方へと引き寄せたその瞬間…


本来であればリサがいたであろうその場所を、ケヴィンの拳が素早くかすめていった。


「…え?」


突然の出来事に、思わずリサが驚いた表情でケヴィンの方を振り返る。


そこには全力で拳をふるった事によってバランスを崩し、棚に頭ごと突っ込んでいるケヴィンの姿があった。


「どうしたのケビン…一体何があったっていうの…?」


そう言って声を震わせているリサ。


相変わらずケヴィンはこちらの声には応える様子もなく、自らが突っ込んでしまった棚からゆっくりとその身を起こすと、再びリサの元へとぐらりぐらりと体を揺らしながら近づいて行った。


ケヴィンのその表情は、異様なほどに無表情で、光の失われてしまったその瞳は、すでに全く焦点が合わないものとなっている。


「…ケヴィン…どうして…」


そう言って俺に腕を掴まれていたリサが、ケヴィンに近づこうとしたその瞬間、俺は再びリサを腕を引っ張ると、俺の背後へと引き寄せた。


そしてそのままケヴィンの立派な腹に思いっきり蹴りを食らわせる俺。


「…がはぁっ…」


突然腹へと生じた衝撃に、たまらず尻もちをつく形で後方へと倒れるケヴィン。


「何てことをするのよ!ケヴィンに乱暴しないで!」


俺の蹴りによって床へと倒れ込むケヴィンの姿を見たリサが、ものすごい剣幕で俺にしがみつきながら激しく抗議をしはじめた。


その瞳には強い怒りと涙が滲んでいる。


「そんな事言ってる場合かよ!今すぐ逃げろ!リサ、ケヴィンはな…」


「…ゔぅゔぅぅゔ…」


怒りに満ちた声と表情で、俺の事を必死に責め続けるリサを何とかなだめようとしている俺の横で、ケヴィンが小さく低い呻き声をあげながら、ゆっくりと立ち上がった。


「…ケビンは多分…発症している。」


そんなケヴィンの姿を冷静に眺めながら、俺はリサに向かってそう答えた。


「ケビンが発症しているってどういう事?」


俺のその言葉に、思わずリサが驚いた表情を見せる。


「…俺が今住んでる街ではな、こんな風に突然人が変わったように、今まで普通だった人間たちが一瞬で次々と発症して、そして暴れ出していたんだ。今のこのケヴィンのように…そしてこの俺も…な。」


そう言って俺は項垂れたままゆらりゆらりと揺れ続けているケヴィンに対して、リサを再び自分の背後へと隠すようにして庇いながら、ゆっくりとケヴィンから間合いを取りはじめた。


俺の背中越しにケヴィンの姿を見つめるリサ。思わず俺の腕にしがみついている彼女の指先に力が込められる。


ケヴィンとの距離をとりながら、ゆっくりと横へと移動していた俺の目に、ふと近くの棚に立てかけてあったモップが目に入った。


俺はそのモップの柄を掴むと、いまだゆらゆらと揺れているケヴィンに向かって、真っ直ぐにそれを構えた。


「…がぁ…ゔぁぁぁ…」


その瞬間、ケヴィンが一歩足を前に踏み出そうと顔を上げた。


だがケヴィンのその首は、ケヴィンの頭すらもきちんと支える事ができないくらいに脱力しきっており、力なく横へと首が傾いたその拍子に、青白いケヴィンのその口唇からは、絞り出すような呻き声と数滴の涎が流れ落ちるだけだった。


「…ひっ!」


その姿を見たリサが思わず息を呑む。

俺はそんなリサに向かって小さな声で指示を出した。


「…いいか、リサ。俺がケヴィンの気を逸らせる。お前はその隙にあそこの電話で他の研究員達にこの今の状況を知らせるんだ。いいな?」


静かにそう告げる俺に対して、リサは俺の腕にしがみついたまま必死に頷いていた。


「…行け!」


そう言って俺がリサに合図を出し、リサがその合図に合わせて備え付けの電話の方へと駆け出していったその瞬間…


「きゃぁああ!」


あろうことかケヴィンは何とも言えない呻き声を上げながら、リサの方に向かって勢いよく走り出したのだ。


あまりの恐怖にその場で腰を抜かしてしまうリサ。


「ふざけんなよ!ケヴィン!」


そう言ってケヴィンの動きを止めようと、手にしていたモップをケヴィンに向かって思いっきり振り下ろす俺。


突然頭部に生じた衝撃に、たまらずケヴィンは床に膝をついた。


「…今のはさすがに効いただろ。来いよ、ケヴィン。俺がお前のイカれたそ頭を覚ましてやる!」


そう言って敢えてリサとケヴィンの間に割って入った俺は、まるでカンフー映画の主人公のかのようにモップの柄を構え、ケヴィンの事を挑発しはじめた。


俺のその挑発に、ケヴィンは顔をしかめ唸り声を強めながら俺を激しく威嚇した。


…よし、今のうちに逃げろ…


モップを静かに両手で構え直して背筋をピンと伸ばした俺は、自分の背後にいるリサに目線と顎で合図を送る。


その合図に気づいたリサは、再びその場で頷くと、床を這いながら部屋の入り口の方へと移動しようとした。


…どうやらリサは恐怖で足が上手く動かなくなってしまったらしい。


その瞬間…


「…がぁぁぁぁ!」


再び俺の事は無視して、一直線にリサの方に向かおうとするケヴィン。


…リサだけを捉えたそのケヴィンの瞳はまさに、俺の存在など全く眼中にないといった様子だった。


「…ケヴィン!お前どうあってもリサを襲う気か!?」


ケヴィンの行動に気がついた俺が、すぐさまケヴィンの腰元にしがみつく。


だが、両手を大きく振り回しながら一心不乱にリサの元へと近づこうとし続けるケヴィンによって、俺は体ごと引きずられてしまう。


…なんでコイツ、こんなにも執拗にリサの事だけを追うんだ…?


ケヴィンのリサに対する異常な執着心を前に、俺の頭の中にそんな疑問が浮かんだが、今はそれどころではなかった。


「…早く…逃げろ…リサ…」


必死にケヴィンの足止めをしようとしがみつく俺だったがそんな思いも虚しく、思い通りに体が動かなくなってしまった事に業を煮やしはじめたケヴィンが、俺の背中に向かって何度も何度も激しく肘で打撃を与え始めた。


たまらず膝から崩れ落ちる俺。


…なんて力だ…コイツ…モンスターかよ…。


とても人間の力とは思えぬその衝撃に、俺は激しく咳込みながら、床の上をのたうちまわる事しか出来なかった。


そんな俺の姿を見たリサは、ケヴィンと上手く間合いを取りながら俺の元へと駆け寄ると、近くに落ちていたモップを拾いあげ、そのままケヴィンに向かって構えた。


モップを構えたリサの体は小刻みに震えている。


「…何やってんだよ、リサ…早く逃げ…」


痛みで動けずにいる俺が、リサに向かってそう声を絞り出そうとしたその瞬間…


「…ゔぁあぁぁぁぁ…あぁ…」


迫りくるケヴィンと彼の地を裂くような唸り声によって、リサは恐怖で全く動くことができず、意図も簡単にケヴィンにモップを奪い取られてしまった。


ケヴィンがリサの頭上で高くモップを構える。


「…あ…ぁ…」


目の前の光景に、リサは全く動けないままでいた。


リサの頬へと涙が溢れ、ケヴィンが構えたモップの柄が、リサの頭部へと振り下ろされそうになったその瞬間————…


「…逃げろ!リサ!」


俺が振り上げられたそのモップの端にぶら下がり、ケヴィンの腰に思いっきり蹴りを食らわせた。


これは流石に効いたのか、再び膝をつく形で前方へと倒れ込むケヴィン。


だが、それも束の間…


すぐさま起きあがったケヴィンに、俺は振り向きざまに頭を殴り飛ばされてしまった。


たまらず再び床に倒れ込む俺。


鼻血が出たのか、俺の口の中には血の香りが充満し、鼻下から口元にかけてはしびれと共にとめどなく水がつたっていくような感覚が生じた。


事実、俺が手をついた床の上にはポタリポタリと赤い血液が滴り落ちている。


ケヴィンに殴られた側頭部はキーンとした耳鳴りを伴いながら、今では目すらも充分に開け切れないほどに頭全体へと痛みが響き渡っている。


突然頭蓋骨に響いた衝撃によって、一時的にかすんでしまった瞳の焦点がようやく元に戻りはじめたその頃、俺の瞳は床の上へとへたり込んで震えているリサと、そして床に転がったモップを静かに拾い上げようとしているケヴィンの姿を捉えていた。


「…リサ…机の下に…」


痛みで床の上を転がる事しか出来ない俺の口から、そんな力無い言葉だけが小さく漏れた。


リサ自身ももはやへたり込んだ床の上で、両手で自分の口元を押さえながら、全身を小刻みに震わせている事しか出来ないようだった。


「机の下に隠れろ!」


俺がリサに向かってなんとか絞り出したその声に、はっと我に返ったリサは、そのまま必死に床の上を這いながら急いで自分のデスクの下へと潜り込んだ。


するとケヴィンはリサの潜り込んだ机の上に向かって、何度も何度も自分が手にしていたモップを振り下ろした。


…ガン!ガン!ガン!ガン!


鉄を強く叩きつけるような激しい音が、耳をつんざくように部屋中へと響き渡る。


俺は何とかその場で立ち上がると、響き渡っているその不快な音に両耳を押さえながら、いまだ言うことを聞かない自分の足を引きずりつつ、リサの元へと近づいて行った。


ケヴィンは相変わらず全力で机の上をモップの柄で叩き続けている。


ケヴィンによって激しく叩かれ続ける事で、机の端は小さな傷を増していき、そしてモップの柄もまたその強い衝撃によっていびつにその姿を変えていった。


…コイツ…この音に耐え切れなくなったリサが、自分で机の下から出てくるように仕向けているのか…


その瞬間、


…ガシャーン…


ケヴィンが何度も振るい続けるそのモップの柄に当たったリサの写真立てが、机の上から床へと落ち、そして表面のガラスを床へと飛び散らせながら激しく割れてしまった。


表面のガラスが割れても、写真の中の二人はまるで何事もなかったかのように、相変わらず幸せそうな笑顔で微笑み合っている。


当のケヴィンの方はというと、そのリサが大切にしている写真立てが、床の上で壊れてしまった事にすら気がついていないようで、その写真立てを何度も自分の足で踏みつけにしながら、相変わらずリサが潜っている机の上を激しく叩き続けていた。


机の下では、両耳を押さえながら目を瞑り、小さくうずくまっているリサの姿が見える。


「…いい加減に…」


そんなケヴィンの姿を見た俺は、その場で強く拳を握りしめた。


「…いい加減にしろ!!」


そう叫びながら俺はケヴィンの背後から彼を羽交い締めにした。


「…がぁあぁ!がぁぁぁぁぁ!」


俺に制止をされた事で、机の上を叩き続けるという自分の欲求が果たせなくなってしまったケヴィンは、まるで猛獣かのような叫び声を上げながら激しくその場で暴れ出した。


ケヴィンのあまりの力強さに文字通り振り回され、しがみつく事しか出来ない俺だったが、俺を引き離そうとケヴィンが暴れているおかげで、あの頭がおかしくなりそうなくらいに繰り返されるあの音がようやく止まった。


…だが、理性を失ってしまっているせいか、まるで絶叫マシーンかのように激しく暴れ続けるケヴィンの体にしがみついている自分の手の感覚が、徐々に失われていく。


…リサ…早く逃げろ…

これ以上は俺の腕がもう…


必死にケヴィンの体へとしがみつきながら俺がそう祈り続けていたちょうどその時…


今まで全力で暴れていたはずのケヴィンの全身から突然すっと力が抜け、ケヴィンはそのまま床の上へと倒れてしまった。


力なく倒れたケヴィンと共に、ゆっくりと床の上へと降り立った俺の目が、机の下にいたリサの姿を捉えた。


「…筋弛緩剤。ラットの研究用にいくつかもらって来ていて正解だったわ。」


そう言って机の下で小さな注射器を構えたリサは、ようやく彼女らしい笑顔を浮かべながら、安堵の声を漏らしたのだった。



「…よく筋弛緩剤なんて持ってたな。」


俺はリサのデスクに置いてあったハサミで横たわっているケヴィンの白衣を何度も細長く切り裂いていくと、それをまとめて紐状にし、そしてそのままケヴィンの手足をキツく結び始めた。


相変わらずケヴィンは間抜けな表情で意識を失ったままだったが、いつまた急に目覚めて暴れ出すとも分からない。


発症者を縛っておくというこの発想は、あの街で長年勤めているロベルトさんから学んだ事だった。


「…ちょうどラットの実験に使う筋弛緩剤をもらって来ていたのを思い出してね。あなたの指示で潜り込んだ机が自分のデスクで本当に良かったわ。」


そう言って自分の机から聴診器を持って来ると、自分の耳に当て、ケヴィンの胸元の音を聞きはじめるリサ。


「…心音も呼吸音も正常。大丈夫、寝ているだけね。」


そう言って今度はケヴィンの手首を触りながら脈をとり始めるリサ。


…さすが元看護師。

その手際の良さには本当に感心する。


「…ちなみにその注射っていうのはどこに刺したんだ?」


俺のその言葉に、リサは無言でケヴィンの左足のズボンの裾をまくりあげると、指でその部分をさし示した。


そこには血の滲んだ小さな注射の痕が残されている。


「…なるほどね。だから机の下からでも注射が出来たのか。」


まじまじとその注射痕を見ながら、感心する俺に向かってリサはこう言葉を続けた。


「…ケヴィンが脂肪の塊で出来てて助かったわ。あなたみたいに細身の人間だったら液を入れる前に、まず針を刺した時点で気づかれてしまったかもしれない。」


そう言って眠っているケヴィンの頭を優しく撫でるリサ。


そんなリサの姿を眺めていた俺だったが、ふとある事を思いついた。


「…そうだリサ、今の間に血液を取れ。」


「…血液?…分かったわ。」


そう言って俺の言葉に一瞬驚いたような表情を見せたリサだったが、ケヴィンの元を離れるとあの日と同じように、血液検査の準備をして来た。


そして注射器を取り出したリサは、俺の腕にゴム製の紐を巻きはじめる。


「…何やってんだよ。俺のじゃねーよ、ケヴィンの血液だよ。」


そう言ってリサに向かって顎で床に寝ているケヴィンの事を示す俺。


「…そ、そうね。」


俺の冷ややかな反応に、慌ててリサはケヴィンの元へと駆け寄り、ケヴィンの腕から注射器で血液を抜きはじめた。


そしてリサがケヴィンから注射の針を抜き、その血液を別の容器へと移し替えている間に、俺は近くに落ちていた写真立てのガラスの破片を拾いあげると、ケヴィンの腕と足に残されている注射針の痕の上に、そのガラスの破片を押し当てた。


皮膚に押し当てられたガラス片によって、その小さな注射痕達は、それぞれ細長い切り傷へとその姿を変えていった。


いくら正当防衛だとはいえ、勝手に薬剤を投与した事で、リサが何かの罪に問われてしまう可能性もある。


…だがこうして注射痕の上から傷をつけておけば、このままケヴィンが病院に運ばれたとしても、リサがケヴィンに注射器を使用したという事がすぐさまバレるという事は避けられるかもしれない。


そんな事を考えている俺とは別に、リサは忙しそうに使用した注射器やその他の物の片付けをしている。


俺はその場でゆっくりと立ち上がってはみたものの、今更ながらケヴィンにぶん殴られた頭の痛みによって足がふらつき、そのまま近くの壁にもたれかかってしまった。


「…あとは他のヤツらに電話…」


そう言って電話機の方に目をやろうとしたその瞬間、自分が今もたれかかっている壁の真横に火災報知器が備え付けてあるのが目に入った。


それを見つけた瞬間、俺は溜息混じりにこう呟いた。


「…マジかよ。はじめっからこうしとけば良かった…ゼ!」


そう言って俺は、自分の拳でその非常ベルのボタンを思いっきり殴りつけたのだった。

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