瓶詰めの飴

あれから俺は、何も考えたくなくなってしまう程に呆然としていた。いや、もはやこれはもう愕然としていたと言っても過言ではないだろう。


俺の手に握られていたのは先程台所の棚の奥に隠されていたあの瓶詰めの飴だった。


瓶の中の飴の数はざっと数えても軽く30個は越えている。


瓶の中へとぎゅうぎゅうに詰められたその飴達の数の多さが、より一層この事態の異常さを際立たせていた。


「…何故こんなにも多くの飴があんな台所の奥に隠されていたんだ…?」


俺はそう溜息混じりに呟くと、ただひたすらにその瓶の飴を眺め続けていた。


俺の胸が妙に高鳴る。

その高鳴りは決して明るい未来なんかを示唆するようなものなどではなく、これから自分自身の身へと降りかかってくるであろう最悪の事態を想定した、何とも不快感極まりないものだった。


窓の外はいつの間にか、もうすっかりと薄暗くなっている。


俺はとにかく動きたくなくて、部屋の灯りすらつけずに、ただ自分が座っているデスクに置いてあった小さな灯りだけをともしていた。


くすんだ橙色の豆電球のその光によって、俺の体と俺に握られいる瓶との影が、ゆらゆらと机の上で揺らめいている。


しばらくすると、玄関のドアが開かれる音と共に、陽気で豪快な男達の高らかな笑い声が一気に俺の耳へと押し寄せてきた。


その声の主達は、声の音量を抑える事もなく、そのまま階段をドタドタと駆け上ってくると、ドアのノック一つすらせずに、勢いよく俺のいるこの部屋の中へと雪崩れ込んできた。


「よう!ダクラス!元気にしていたか?」


「んー?なんて辛気臭い顔をしてんだ?何かあったのかい?」


そう言って部屋の中に入って来たのはジョンとウェスカーさんだった。


部屋の中で呆然としていた俺に向かって、ジョンとウェスカーさんは肩を組みながら陽気にそう声をかけてきた。きっと近くにあるバーででも飲んできたのだろう。俺の乏しい表情や反応とは真反対に、愉快そうに笑い続ける彼らの顔は、うっすらと赤らんでいた。


俺はそんな彼らの行動にうんざりとした表情で一つ溜息をつくと、意を決して言葉を発した。


「…ウェスカーさん。ちょっと聞きたい事があるんだけど…」


そう口にした俺の手には、例の飴が入った瓶が握られていた。




「…それで?君があの症状を発症した前日に君の食べ物の中にこっそりと風邪薬を混ぜて、例の症状を発症するように仕向けたのは私だと君は言いたいのかい?」


ウェスカーさんに話があると告げてからすぐ。

俺達はあの日一緒に食卓を囲んだリビングへと移動していた。


偶然にも俺の目の前の席にはあの日と同じように険しい顔をしたジョンが鎮座している。


ウェスカーさんはそう言って俺から手渡された例の飴の瓶を眺めながら少し悲しそうな表情で溜息をついた。


「あの日、俺がマルッセル劇場で症状を発症する前に口にしたのは、エリックさんと行ったコーヒーショップでのコーヒーと、ここであんた達と食べたローストビーフや酒だけなんだ!しかも症状が出た翌日に受けた血液検査では絶対に自分では飲んでいないはずの風邪薬の成分が俺の血液から検出された。こんなの明らかにおかしすぎるだろ!?ウェスカーさん、そもそもなんでウェスカーさんがこの飴をこんなに大量に持っているんだ?もしかしてあんたは実はあの劇場の関係者で、裏でマルッセル劇場の人間と協力して、俺たちの体に何か細工をしているんじゃないのか!?」


「あのなぁ!ウェスカーはなぁ!」


俺の発したそれらの言葉に、そう大声をあげながら今にも俺に掴みかかりそうな勢いでその場に立ち上がったジョンの事を、ウェスカーさんは静かに手で制した。


「…いいんだ、ジョン。私からきちんと話そう。」


そう言ってウェスカーさんは静かに言葉を続けた。

テーブルの上に置かれた燭台の火が、より一層ウェスカーさんの表情を曇らせてみせる。


「数年前だったかな…久々に行った病院の健康診断で血糖値に異常が見つかってね…それからかな。劇場の前を通る度に渡されるその飴を毎回持ち帰ってはその瓶の中に詰めるようになったのは。」


そう言って俺から手渡された飴の瓶を懐かしそうに眺めるウェスカーさん。


…ん?


予想とは全く違ったこの瓶詰め飴の存在理由に、今度は思わず俺の顔の方が曇りはじめる。


「…えっと…それって…実は普通に糖尿病のがあったから、もらった飴は食べずに瓶に詰めて取っておいたと…」


予想外なウェスカーさんのその返答に、俺の口からは思わず拍子抜けした声が漏れた。


「そうだよ?毎回捨てるのも勿体ないだろう?」


そんな俺の言葉に、あっけらかんと言ってのけるウェスカーさん。


「だからウェスカーの入れるコーヒーはいつもブラックばかりだろう?お前さん、ウェスカーとずっと一緒にいたクセに気づかなかったのかい?」


そう言ってウェスカーさんが入れてくれたコーヒーのカップをワザとらしくこちらへと向けてくるジョン。俺自身が全くの甘党ではないため気がつかなかったが、確かにいつもウェスカーさんが俺に出してくれるコーヒーはブラックばかりだった。


…というよりもウェスカーさんが淹れてくれるコーヒーは風味が良く、ブラックでも口当たりが良くて飲みやすかったもんだから、尚更砂糖やミルクの存在を俺は忘れていたのかもしれない。


「私も昔は甘い物に目がなくてね。コーヒーに砂糖やミルクなんかをやたらとぶち込んでは飲んでいたんだが、医者から今から甘いものを控えておかないとこれから先、糖尿病になって大変な人生が待ってるぞ!と何度も念を押されてね。それから初めてブラックのコーヒーを口にするようになったんだが、何年も試行錯誤をしたおかげで、今ではようやくコーヒー本来の美味さというものを知ることが出来たよ。」


そう言ってウェスカーさんは自身が自分の為に用意したコーヒーの香りをまずは鼻先で楽しみながら、静かにそのカップへと口をつけた。


「周りに子供でもいればもらった飴をその子にあげる事だってできたんだろうが、生憎この街は子供の数が極端に少なくてね。去年までは遠くの街に住む妹の息子に送ってたりもしてたんだが、最近はもう送らないでくれとまで言われてしまったよ。でも甘党だった昔の習慣からか、なかなかこの飴を捨てられずにいてね。それで毎回飴を瓶に詰めては取っておく事にしたんだ。昔の人間だからかな。せっかくもらった食べ物を、捨ててしまうというのがどうにも抵抗があるんだよ。」


そう言って、ウェスカーさんはカップをもう一度机の上に静かに戻すと、さらにその言葉を続けた。


「そもそも君がさっき言ったように、私が君に風邪薬を飲ませて例の症状を発症させたとして、それで一体私にどんな得があるというのかね。君の周りで実際に症状を発症したそのエリックだとかアレックスだとかっていう人物の事だって、私は全く知らないし、もちろん面識すらもない。…例え彼らと同じこんな小さな街に住んでいようともね。そんな面識もない人物達に風邪薬を飲ませてまわるなんて…そんな芸当、それこそ不可能な事なんじゃないのかい?」


「…確かに…」


ウェスカーさんのその言葉に俺はもはや頷くことしか出来なかった。


「…ウェスカーさん、ごめん…俺…ウェスカーさんを疑うだなんて…どうかしてた。」


そう言って自分を恥じるかのように顔をしかめ、両手で自分の額を抑えた俺に対して、ウェスカーさんは相変わらずの優しい表情でこう答えた。


「いいんだよ、ダクラス。この街の今の現状なら最近来たばかりの君が混乱するのも仕方がない。普通の人間ならば誰だって疑心暗鬼になるものさ。それよりも、ちゃんと誤解がとけたようで良かったよ。」


「…ウェスカーさん…」


…俺はいつもウェスカーさんのこの優しさに救われているな…


俺がそんな事を思ったその瞬間…


「よーし!じゃあ二人の誤解がとけた所で、いっちょ皆で飲みにでも行きますか−!!」


そう言ってジョンはその場でバンっと一つ机を叩くと、俺とウェスカーさんの事を両腕で引き寄せながら豪快な笑い声をあげた。


「冗談だろ!?ジョン。まだ飲むって言うのかい!?」


そんなジョンの提案に、ウェスカーさんが思わず驚きの声をあげる。


「でもダクラスはまだ飲んでいないだろう?せっかく仲直りをしたんだ!飲み直しだよ、飲み直し!」


そう言ってジョンは俺達を引き寄せていた両腕を離すと、笑いながらいち早く玄関へと向かって行った。


「…仕方がないなぁ、君には負けるよ、ジョン。じゃあちょっと飲みに行こうか?ダクラス。」


そう言って自分の口元で酒を飲むようなジェスチャーをするウェスカーさん。


「そうだな。俺、自分の部屋にある上着とカバンを取りに行って来るよ。あ!あとウェスカーさん、この飴、俺がもらってもいいかな?」


そう言って俺は机の上に置いてあった飴の瓶を取り上げると、ウェスカーさんに見えやすいように掲げてみせた。


「もちろんさ。私にはもうそれは必要がないものだからね。もらってくれるならこちらもすごく助かるよ。…意外とかさばるんだ、その瓶は。」


そう言って軽く笑うウェスカーさん。


俺はウェスカーさんのその言葉にひとしきり笑い終えると、急いで二階にある自分の部屋へと戻った。


部屋へと戻るやいなや、壁へと掛けていた自分の上着とカバンを雑にひったくった俺は、その足で机の前へと向かい、胸に抱えていた瓶の飴をそっと机の上に置いた。


「…ウェスカーさんが犯人じゃなくて本当に良かった。」


そう呟いた俺の瞳に映ったその飴の瓶は、先程とは全く違うものに見えていた。




「あはははは!最高だな!それ!」


「いや、本当なんだよ!俺もまさかとは思ってたんだが実際にあるもんだよな!なぁウェスカー?」


あのまま家を出た俺達は、ウェスカーさんとジョンが普段から通っているという行きつけのバーへと向かった。


そこで二時間ほど浴びるように酒を飲みまくった俺達は、陽気な気分と千鳥足でウェスカーさんの自宅までようやく戻ってきた。


俺とジョンは肩を組みながら酒瓶片手にゲラゲラと笑っている。本当にこんなに腹の底から笑ったのは久しぶりだ。


そんな俺達の前でウェスカーさんは静かに地面に腰を落とすと夢中で何かを探しはじめた。


「なぁ、ウェスカー?お前さん一体何をやってるんだ?」


そう言ってジョンが今度はウェスカーさんへと絡みだす。ジョンという男は本当に酒を飲めば飲むほど陽気になっていく男だ。


「…いや、家の鍵をどこに入れたかなって…」


ウェスカーさんはジョンのその言葉に、今までカバンの中を探っていた手を止めると、自宅玄関のドアへと移動してそのドアノブに手を掛けた。


「…あれ?鍵が開いてる。」


するとウェスカーさんが手を掛けた瞬間、自然と開かれるそのドア。


「なんだ?ウェスカー、鍵を掛け忘れたのか?」


その様子を見ていたジョンが顔をしかめながら、相変わらずの千鳥足でそう話す。


「…いや、そんなはずは…」


だが、そんな明るいジョンの言葉とは裏腹にウェスカーさんは戸惑った表情を浮かべていた。


「もー!どれだけ酔ってるんですか、ウェスカーさん!さ、もう中に入りますよ!」


そう言って夜中であるにも関わらず、再び大声で笑い始めた俺達だったが、当のウェスカーさんはまさに腑に落ちないといった表情でその場に立ち尽くしていた。


それもそのはず…

ふいに自分の履いているズボンのポケットへと手を突っ込んだウェスカーさんのその手には、きちんと自宅玄関の鍵が握られていたのだった。


「…きっと家を出る時、掛け忘れちゃったんだな。さぁ早く家の中に入ろう!体が冷えちまう!」


そう言ってジョンはウェスカーさんの肩をポンと叩くと、いち早く家の中へと入っていった。




「いやー、今日は楽しかったな。」


リビングのソファにもたれ掛かりながらジョンがご機嫌な表情でそう呟く。


俺もジョンと同様にそのソファに体を預けながら、先程二人に連れて行ってもらったバーの事を思い浮かべていた。


「なかなかいい店だったな、酒も美味かったし。何よりも音楽が最高だった。」


「だろー?あの店はな、俺とウェスカーが昔…」


俺のそんな言葉にジョンが身を乗り出してそう言いかけたその瞬間…


ガシャーン!!


ジョンの言葉を遮るかのように突然ガラスが割れるような音が響き渡った。


「…おい、今のって…」


「二階の方か…!!」


その音に気がついた全員が、一斉に二階へと駆け上がる。


そして俺の部屋のドアを開いた瞬間、俺達は思わず驚愕の声を漏らした。


「…なぁ…俺、またあの症状が出て、暴れてしまったわけではないよな…?」


割れた部屋の窓ガラスから吹き込んでくる冷たい風に髪の毛を揺らしながら、俺は絞り出すような声でそう言った。


「…馬鹿言え、今日のお前さんは俺達と一緒にずっと酒を飲んでただろ…」


外からの風によって揺らされ続ける真っ白なカーテンを眺めながら、同じくジョンも絞り出すような声で答えた。


俺達の目の前に広がっていたのは…


あの日、マルッセル劇場に行った当日のように荒らされまくった俺の部屋だった。


ただ一つ、あの夜と一つだけ違っていたのは…


「あの劇場には近づくな」


と机の上へと書き殴られた、真っ赤な血文字のような文字が残されているというその奇妙な一つの事実だけだった。

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