血染めの痕跡
「別に家に入られたからといって、何かを取られたという訳ではないんだろう?その辺の柄の悪い連中共が起こしたイタズラとかではないのかね?」
帰宅と共に荒れ果てた自分の部屋を目の当たりにした俺は、すぐにこの件を警察へと通報した。
通報後、二台のパトカーと共に到着した5名の警察官達。その中で一人だけ淡い茶色のコートを羽織った男性は、通報時間が深夜であった事も相まってか、少しうんざりとしたような表情で、ガラスの割れてしまったその窓から、外の様子を伺いながらこちらに向かってそう答えた。
家のすぐそばへと止められた、パトカーの回転式の真っ赤なランプが、この部屋の中までもを明るく照らしている。
気がつけば、夜中に鳴らされたけたたましいそのサイレンの音によって目を覚ました近所の住民達が、いつの間にかゾロゾロとこの家の周りにまで集まって来ていた。
その警察官はひとしきり窓の外の人物達の様子を眺め終えると、今度は部屋の中にいる一人の若い捜査員の動きに目を向けた。
「…ほら!そこはもう俺が調べたんだから、お前は別の場所を調べるんだよ!いいか?事件の解決の糸口は鮮度だ!手際良く、そして手分けして捜査を行っていかないと、いつまで経っても事件は解決しないぞ!いいか?もう一度だけ言うぞ。事件の解決の鍵は鮮度だ!時間が経ってしまうにつれて、犯人の痕跡なんてものは薄れていく一方なんだからな!」
そう言って彼は、ひときわ気弱そうで色白な捜査員に向かってそう怒号をあげた。
彼の怒号を聞くやいなや、その若い捜査員は体を大きくビクンと震わせながらそそくさと別の場所へと移動していく。
どうやら彼の部下達への教育は普段から十分に行き届いているようだ。
彼の名前はビリー・カルバン警部。
この街にある警察署に長く勤務している白髪まじりのその男性は、現場にいる捜査員達の動きに合わせて次々とこと細やかに指揮を取っていた。
「…タチの悪いイタズラって…実際に今こうやって現に窓ガラスが割られてるんスよ…?」
そう不満げに漏らす俺に対して、ビリー警部は鋭い眼光でこう答えた。
「ではこれをやった犯人が、この中にいないという確証が一体どこにあると言うのかね?見たところ全員相当な量の酒を飲んでいるようだが…?」
鋭い眼差しでそう答えるビリー・カルバン警部の言葉に、思わず自分達の体に染み込んでしまった酒の匂いを気にしはじめる俺とジョン。
一方ウェスカーさんの方は、黙ってそのやり取りを心配そうに眺めているだけだった。
「入り口の扉が開いていたのだって、ここの家主が鍵を掛け忘れていただけかもしれないんだろう?この家の鍵が何者かに無理矢理こじ開けらた形跡があるかどうかは、これから調べてみないと分からない。だが我々が今一番疑っているのは、この家に侵入したのも、窓ガラスをカチ割っていったのも、例の発症者の行動によるものではないかと考えている。一度発症した人間が窓ガラスを割る、物を壊すなんて事はこの街では日常茶飯事なことだからな。」
…なんでも発症者のせいかよ…
そんな不満を自分の喉元でようやくこらえた俺の事など気にする様子もなく、ビリー・カルバン警部はそう言って自分の足元に散らばったガラス片を自分の足で無造作に集めはじめた。
「今でこそあの劇場に24時間いつでも発病者を運び込めるようになってきたおかげで、我々の仕事も相当楽にはなってきたが、それでもいまだにこの街の緊急通報は、同じ規模の他の街に比べても異常に多いんだ。劇場にいけばこの一連の症状がおさまると分かる数年前までなんて、街の人々があの症状を発症する度に警察と救急が毎日駆り出されてね。本当に地獄のような日々だったよ。全くマルッセル劇場様々だよ、この街は…」
そう言ってビリー・カルバン警部は本当に面倒臭そうな表情で、自分の髪をくしゃくしゃに掻き毟った。
「…じゃああの机の上に書かれている意味深な落書きは一体なんだっていうんだ!?」
ビリー・カルバン警部のそんな煮え切らない態度に、思わず俺も声を荒げる。そんな俺の様子を見て、警部は机の前へと移動すると、その赤く書かれた文字の上をゆっくりと自分の指でなぞりながらこう答えた。
「確かに、な。この落書きは確かに意味深だ。一見血文字のようにも見えるが、乾き方と匂いからしておそらくこれはペンキだろう。だがこの落書きに意味があるとは言い切れない。もしかしたら何の意味ももたない、ただの落書きかもしれないだろう?」
そう言ってその机にもたれかかりながら自分の指についた赤く乾いた塗料の粉を不機嫌そうにこすり落とすカルバン警部。
今回の件を経て、この街で初めて実際に警察を呼んでみて分かった事が一つだけある。それはこの街の病院と同じく警察も、あの劇場に対して絶対的な信頼を置いているという事だ。
だがそれは…同時にこの街のいかなる行政機関もの完全なる麻痺を示唆していた。
「警部!一通りの指紋は取り終えました!入り口の鍵も無理矢理こじ開けられた形跡はないようです!」
部屋へと戻って来た捜査員が、ビリー・カルバン警部に向かってそう告げた。
「じゃあ我々はこれから署に戻って捜査を続けるが、この街の連中の起こす犯罪というのはそのほとんどが例の症状によるものでな。やった本人の記憶が綺麗さっぱりと抜け落ちてしまっているもんだからまず本人には自覚がないし、それによってもちろん本人からの自供なんてとれもしない。例え時間をかけてその人がやったという証拠をいくら並べてつきつけようとも、本人は絶対に認めないというのが現状なんだ。その後はもう君たちでも容易に想像ができるだろう?つまり本人の自供が得られない事によって捜査や裁判上での時間だけが悪戯に過ぎていき、その内に示談になるというのが関の山だ。幸いこの街で起こっている犯罪というのはせいぜい今夜みたいな不法侵入か器物破損程度のものだからな。裁判の費用と時間を考えると、示談を選ぶ人の方が圧倒的に多いというのが事実だよ。」
そう言って自分が着ているロングコートのポケットに両手を入れながらこの場を立ち去ろうとするビリー・カルバン警部の背後で、俺は再び声を荒げた。
「だったら尚更この机に書かれた血文字はなんなんだよ!『あの劇場には近づくな』なんて、こんなの絶対何か意図があるとしか考えられないだろ!?」
腑におちないこの警察達の一連のずさんな対応に、俺は思わず警部の背後に詰め寄り、こちらを振り向かせようと警部の肩に手をかけた。
「…やめたまえ。これ以上我々が君達に話すことはもうない。それとも…君も発病者の疑いがあるとして、あの劇場に運びこまれたいのかい?」
そう静かに低い声で語った警部の瞳はとても鋭く、そして冷たいものだった。
その瞳を見た瞬間、警部の肩を掴んでいたはずの俺は、思わず手を引っ込めることしか出来ないでいた。
「もし何か分かればこちらも連絡するから、君達もまた何かあれば署の方へ連絡をくれたまえ。」
そう言って、ビリー・カルバン警部は先程と全く違う笑顔と明るい声だけを残して警察署へと戻って行った。
ジョンとウェスカーさんと共に荒れた部屋をあらかた片付け終わった頃には、外はうっすらと明るみはじめていた。
それでも俺達にはまだ割れた窓ガラスを直してくれる業者に連絡をするという作業が残されている。
この間修理に呼んだばかりだというのに、今度はどんな言い訳をしよう…
俺の頭の中ではそんなどうでもいい事ばかりが渦巻いていた。
「…ちっ本当にペンキで書きやがったんだなぁ、こりゃ。全然消えねぇぞ!」
赤黒いその色調から、勝手に血液であると思い込んでいたその文字は、どうやらビリー・カルバン警部の言う通りただのペンキで書かれたものだったようだ。
「…にしても犯人は何の目的でこんな落書きを残したんだろうな。あの劇場に近づくなだなんて、そんな事を言う人間がこの街にいるとは思えないんだがな…」
相変わらず机の上をがむしゃらに拭き続けているジャックが漏らしたその言葉を聞いた瞬間、俺はある事に気がついた。
「…いや、一人だけ思い当たる人物がいる。」
そう呟いた俺の脳裏には、あの薄汚れたマントを羽織った例の男の姿が浮かんでいた。
名前は確か…
「…なぁ、ウェスカーさん。『ジェフ』って男の事を知ってるか?」
俺のその言葉に、ウェスカーさんはキョトンとした表情を浮かべながらこう答えた。
「…あぁもちろん知っているとも。だってジェフという男は…」
そう言ってウェスカーさんが口にしたその言葉は、俺を驚かせるには十分すぎる内容だった。
信号待ち。
車が全く通らない横断歩道で信号の色が変わるのを待ち続けるという作業はやけに時間を長く感じさせる。
…いっそこのまま渡ってしまおうか…
一瞬そんなよからぬ思いがよぎってしまったりもしたが、どこで誰に見られているかも分からないので、とりあえず今はこのまま信号の色が変わってしまうのを待つことにした。
ふと横断歩道の向こう側にある雑貨屋に目を向けると、そこには小さな防犯カメラが設置してある事に気がついた。
そればかりか周りを見渡すと、俺の背後にある花屋にも、近くにある古びた商店にも同様にその防犯カメラは設置されている。
…この街の規模の割に、この防犯カメラの数は少し多すぎるんじゃないか?
ふとそんな疑問がよぎる。
果たしてこんな人通りも、車通りも少ないような小さな交差点に、ここまで沢山の防犯カメラを設置する必要性が果たしてあるのだろうか。
そんな事を思ったりもしたが、連日のあの発症者の多さとこの騒ぎだ。
きっと政府がこの街の住民達の状態を把握する為に設置でもしたのだろう。
そう勝手に自分で結論づけた俺は、信号が変わると同時にまた歩きはじめたのだった。
しばらく歩くと、大きな公園へと辿り着いた。
時折吹き抜ける冷たい風にその長いマントをはためかせながら佇んでいたのは、あのジェフと呼ばれた長身の男だった。
その男の横を、小さな女の子の手を引いた母親が通りすぎる。
その瞬間——————…
「あっ!」
突然強い風が吹き上がり、その小さな女の子がかぶっていた帽子を巻き込みながら高く高く宙へと舞い上がった。
風に飛ばされたその帽子は音もなくアスファルトの上へと舞い降りると、地面の上をコロコロと転がりながらジェフと呼ばれたその男の足元へと辿りついた。
小さな女の子は、突然自分の帽子を風に飛ばされてしまったショックで、すでに顔を歪ませながら嗚咽を漏らしはじめている。
ジェフはその帽子を拾い上げると、小さな女の子に手渡そうと歩みはじめた。
だが、その瞬間…
「…近づかないで!!」
その女の子のそばにいた母親が突然ものすごい剣幕となってジェフの事を怒鳴りつけた。
「あなたが触ったものなんていらないわよ!なんて汚らわしい!」
母親のそんな激しい怒鳴り声に合わせて、女の子の泣き声もより一層激しくなっている。
「…もうその帽子はいらないから、そこのゴミ箱にでも捨てておいて頂戴!」
その母親は吐き捨てる様にそう言うと、大声で泣き続けている女の子を無理矢理抱きかかえながら急いでその場を去って行った。
「…あの…」
母子が立ち去っていく姿を静かに見守っていたジェフの背後から、俺は彼に声を掛けた。
するとその声にこちらを一瞥した彼だったが、何も答える事なく再びまた歩み出そうとしはじめた。
「…待ってくれ!ジェフ!」
俺の呼びかけにも答えることなく、ジェフは歩みを進める。
「ジェフ!どうか少しだけでもいいから俺の話を聞いてくれ!ジェフリー・ログワース!あんたこの街の元市長だったんだろ!?」
俺の口から飛び出したその言葉に、ようやく男の歩みは止まったのだった。
大きな扉を開け、ジェフに連れられてたどり着いた先は、立派な教会の中だった。
白を基調とした内装に、鮮やかなステンドグラス。祭壇へと長く続く華やかな赤いカーペットも目を見張るほど素晴らしいものだった。
祭壇の横ではシスターの衣装を身に纏った老婆が、一人でパイプオルガンを奏でていた。
「…戻ったよ、マリア。」
マリアと呼ばれたその女性は、ジェフのそんな声かけに軽く振り返って会釈をすると、再びまたオルガンを弾きはじめた。
…彼女は、目が見えていないのか…?
彼女の表情こそはとても穏やかなるものであったが、その両目からは光が失われており、眼球はすでに深く白濁してしまっていた。
そんな彼女の姿に一瞬戸惑いを見せた俺だったが、ジェフはそんな事には全く構う様子もなく、等間隔に並べられた木製の長椅子の端に、自分が手にしていたあの女の子の帽子をポンと掛けると、そのまま祭壇の前へと向かって行った。
キング・スリングス教会。
先程の母子と出会った公園のその奥にこの教会はあった。
「…珍しいな、ジェフ!お前さんがここに客人を呼んで来るなんて!」
そう言って奥の部屋から出てきた中年男性は、なんとも嬉しそうな表情を浮かべながら明るい声をあげた。
「あぁ、いたのかメイソン。…ソイツは、勝手についてきただけだ。」
ジェフは無愛想にそう答えると、祭壇の前に跪き、そして祈りを捧げはじめた。
俺はジェフのその行動を後ろから眺めながら、その中年男性に向かって軽く会釈をする。
どうやらその中年男は、見ず知らずの俺の突然の来訪も快く受け入れてくれたようだ。
「ジェフ、あんたはこの街の元市長なんだろ?なのになんでこんな不当な扱いを受けているんだ?元市長ならもっと…」
…いい暮らしをしていても———…
そこまで言いかけて俺は、思わずその言葉を飲み込んだ。
ジェフもそのメイソンと呼ばれた中年男性も、とてもいい身なりをしているとは言えない。
むしろウェスカーさんから前もって元市長だと聞かされてさえいなければ、普通にホームレスだと言われても疑うことがないくらいだ。
俺のその言葉に、マリアもすでにオルガンの演奏をすっかり止めて、悲しそうな表情でこちらを見つめている。
「…お前さん、この街へ来たのは最近かね。」
メイソンは呆れたような表情で俺にそう尋ねてきた。
「あぁ、そうだよ。まだ1ヶ月も経っていない。」
少し苛立ちを見せながらそう答える俺に向かって、メイソンは静かに言葉を続けた。
「ジェフはな、この街で色々とあって市長の座を追われてしまったんだ。だから出来ることならばあまりそのことについては詮索しないでやってくれ。」
「色々ってなんだよ!ジェフ、あんたの事を俺に教えてくれた人は、市民思いのとてもいい市長だったって言ったんだ。…あの街中に設置された防犯カメラだって、あんたが市民の安全を思って設置したものなんじゃないのか!?」
今度はそう言ってジェフに向かってそう噛みついた。
「…防犯カメラ…?あれは我々が設置したものではないよ。」
その言葉に、メイソンがキョトンとした表情でそう答える。
「…なんだって?市民の安全を守るために、役場か政府が設置したんじゃないのか?」
「いや、我々は防犯カメラについては何も関与していない。今の役場の人間が設置した可能性もないし、多分警察が設置したものでもないだろう。もちろん、政府が設置したなんて事はありえない。もしそういった動きがあれば、さすがに我々の耳にだってその情報は届いているはずだからね。」
そう言ってマリアと顔を見合わせるメイソン。
そんな彼らの態度に、俺はより一層苛立ちを覚えた。
「じゃあ、あの防犯カメラの数はなんなんだよ!この街の規模であのカメラの数の多さは異常すぎるだろ!?都会にだってあんな数の防犯カメラ、設置されてないぞ!?」
「防犯カメラが…一体どこにあったと言うんだね?」
俺のその言葉に、ジェフは首を傾げながら答えた。
「あの雑貨屋の前にある交差点の周りに山ほど設置してあったけど…まさか、あんたら気づいてなかったのか!?」
俺のその言葉に、ジェフもそのメイソンも、そしてマリアまでもが怪訝そうな表情でこちらを眺めている。
「…なんだよ、それ…やっぱりおかしいよ、この街は!あの奇病も警察も…それに麻痺しているあんたらも!この異常な事態を誰もなんとも思っていないのかよ!?」
まるで取り乱したかのようにそう叫ぶ俺の姿を見たジェフは、黙って深く溜息をつくと自分の後ろにいたマリアに向かって静かに声をかけた。
「…マリア、あれを。」
するとジェフにそう声をかけられたマリアはゆっくりとその場で立ち上がり、周囲の椅子などにつかまりながら、おぼつかない足取りでこちらに向かって歩き出すと、首から下げていた十字架のネックレスを外し、そしてそれをジェフに渡した。
ジェフはその十字架を受け取ると、突然その十字架に向かって強く両手で力を込め、へし折ろうとしはじめた。
その顔は歪み、指先に込めた力にをよってもはや彼の全身は激しく震えている。
「…あんた一体何を…!」
パキンッ
ジェフが力を込める事で、ついにはそのプラスチック製の十字架は音を立てて真っ二つに折れて割れた。
「…あんたそれ…」
十字架を割る際に傷つけたのか、ジェフの指からは血液がしたたり落ちる。
「…ドジを踏んでしまったようだな。」
その血液を見て、慌てて駆け寄って来たメイソンがハンカチでジェフの怪我をした人差し指を押さえた。
「…これを。」
見るとその割れた十字架の中からは、小さな一つの鍵のようなものが現れていた。
ジェフはまだ絶え間なく血液が溢れ落ちる指のまま、その鍵を俺に差し出してきた。
「…この鍵を君に渡そう。これは私が以前勤めていた役場の資料室の鍵だ。そこには私がまだ市長だった時代にあの奇病について調べていた時の資料が残されているはずだ。…もっとも、今でも鍵が変えられていなければ、の話だがね。」
こうして俺は、ジェフから「役場の資料室の鍵」を受け取ったのだった。
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