動き出す歯車

「とりあえずCTもMRIも両方撮ってみたけど、どれも脳への異常は全くみられなかったよ。」


そう言ってハリス総合病院のロビン・ファクター院長は、パソコンの画面に映し出されているCT画像をこちらに向けてきた。


正直白黒だけのその輪切りの画像達が一体何を差し示しているのかは俺には全く分からなかったが、とりあえず病院長である彼がそう言っているのだから、その検査結果にまず間違いはないのだろう。


「本当に数時間もの間、記憶がなくなっていたというのかね。」


そう言ってロビン・ファクター院長は、俺と診察中に話した内容をパソコンへと入力しながら、再びCTとMRIの画線を丁寧に見比べていた。


「…はい。記憶がなくなっていたのは確か4日前の午前11時から夜の8時くらいまででした。まぁ記憶がなくなっていたというよりかは、急にものすごい眠気に襲われて意識が朦朧としていたっていう方が近いのかもしれないですが。」


ロビン・ファクター院長からのそんな質問に、俺は自分が暴れて部屋を荒らしていたあの事実を伏せながらもそう答えた。


「随分長い時間、記憶がなかったみたいだが、それ以降はどうかね?同じように記憶がなくなったりといった事は?」


「それからは全くないです。」


「他に手が握りにくかったり、喋りにくくなったりといったような症状は?」


そう言って手際よく俺の両目の下瞼したまぶたをさげ、ペンライトで光を当てながら目の動きを確認する院長。


「…いいや?特にそんな事はなかったが…」


俺は当てられたペンライト眩しさに思わず強く両目を瞑りながら首を激しく振ってしきり直すと、すぐに院長のその言葉通りに実際に自分の両方の手のひらを握ったり開いてみたりしてみせた。


「…別にこの症状が起きる以前に、どこかで頭を打ったりだとか誰かに殴られたって事もないんだろう?だったら…」


…この街に起こっている例の奇病なんじゃないのかい?


ロビン・ファクター院長がお決まりのその台詞を口にしてしまいそうになったその瞬間、俺は急いで別の話題を振って無理矢理話を逸らしてしまう事にした。


「あの!風邪薬を飲んで、強烈に眠気が来る…なんて事、実際にありますかね?」


この街はとにかく異常だ。

あんなに沢山の人々が日々症状を発症しては暴れまくっているというのに、誰も慌てやしないし、むしろ暴れている人達を見たところで特に怖がる人もいない。


ただ、皆が眉を潜めて一言、「早くマルッセル劇場に連れて行け」とだけ口にするのだ。


果たしてそんな馬鹿な事が実際にあるのだろうか。


今日だってそうだ。

エリックさんに噛まれた後に受診をしたあの小さな街医者のように、きっとこの医師も俺のこの症状が「マルッセル劇場関連」だと分かった瞬間から、ろくな診察もせずに「あの劇場に行きなさい」とだけ告げて、たちまち診察室から追い出してしまうのだろう。


まるでいつも見る街角での見慣れた風景かのようにあの奇病を扱い続けるこの街の人々の危機感のなさと、「例えもしあの症状が出てしまってもマルッセル劇場へ行けば大丈夫」といった何の根拠もない信頼感に、今はただ強い違和感を覚えることしかできない。


医学や科学が発達しているこの現代で、医学的には全く解明ができていないようなこんな出来事を、「劇を見ただけで治る」などというまるで民間療法や宗教みたいな方法だけで果たして治療する事ができるのだろうか。


そしてこの異常な事態を、国や政府は一体どこまで把握しているのか。


とにかく今この街に起きているこの出来事には、不可解な点が多すぎる。


「…なに?風邪薬を飲んだのかね?」


そんな事を考えながら思わず眉を潜める俺をよそに、ロビン・ファクター院長は掛けていた眼鏡の位置を整えながらそう答えた。


「そ…そうなんですよ!最近ちょっと風邪気味で…それで意識がなくなる数日前から家にあった風邪薬を何回か適当に飲んでたんですけど、なかなか良くならなくて…ごほっごほっ!」


そう言って目の前でわざとらしく咳をしてみせる俺。


そんな俺の仕草にロビン・ファクター院長は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐにパソコンに向かって何かを入力しながら答えた。


「風邪薬を飲んだ日に、一緒に酒か何かを飲んだという覚えはあるかね?」


院長のその言葉に、俺はマルッセル劇場へ行く前日に囲んだ、あの食卓の風景を思い浮かべていた。


「実はね、風邪薬と一緒に酒などのアルコール類を摂取すると、もともと風邪薬の中に入っている眠気を引き起こす成分の効果が助長されて、強い眠気を誘ってしまうというのはよくある事なんだ。ちなみに一体何の酒を飲んだのかね。」


「意識がなくなる前の日に…ウイスキーを…ロックで。」


そう言って頭を掻きながら、はにかんでみせる俺に対して、ロビン・ファクター院長は溜息をつきながらこう答えた。


「…脳のCTやMRI上に異常は見られないし、見たところ手足の麻痺やしゃべりにくさといった症状もない。多分その風邪薬と酒との飲み合わせが悪くて突然急激な眠気が襲ってきたのを、意識が朦朧としたと勘違いしてしまったのではないかね?」


そう言って俺の表情を伺う院長。

俺はその説明に、まさに附に落ちないといったような表情を浮かべていたはずなのだが、当のロビン・ファクター院長はそんな俺の様子など気にも止める様子はなく、そのまま書類にサインをしながらこう続けた。


「…それから何も症状が出ていないというのなら、この件に関しては一旦様子をみたんでいいと思うよ。何かあったらまたおいで。あと風邪薬も5日分ほど出しておいてあげよう。」


ロビン・ファクター院長のその言葉に、俺は軽くおじぎだけ済ませるすると、そのまま診察室を後にした。


「これで午後の外来患者も終わりかな。」


診察結果をパソコンに入力し終えたロビン・ファクター院長は、近くの看護師にそう声をかけると机の上に置いてあったカルテを彼女に手渡した。


その瞬間…


ブー…


机に置いていた彼のスマホが激しく震えた。


ロビン・ファクター院長は、掛けていた眼鏡を額の方へと移動させると、そのスマホを手に取り、画面を開いた。


するとそこに記されていたのは…


「余計な事はしゃべるな」


とだけ書かれた宛先不明のメッセージであった。




「ロビン・ファクター先生が風邪薬を出してくれたんだけど、明日から仕事で高い所に登らなくちゃいけなくてね。もし眠気が出てしまうような薬だったら非常に困るんだけど…」


薬を受け取る窓口で、俺に薬を手渡して来た薬剤師に向かってそう問いかけてみる。


すると薬剤師は、俺に出された薬の中身を確認しながら、こう答えた。


「この薬には抗ヒスタミン薬が含まれていないので、特に眠くなったりといったような事はありませんよ。」


「抗ヒスタミン薬って?」


薬剤師の口から出てきたその聞き慣れない言葉に、俺は思わずそう聞き返す。


「風邪の時に出るくしゃみや鼻水といったような症状は、実はヒスタミンというアレルギー物質が出ることで発生してしまいます。だから多くの風邪薬にはこのヒスタミンの作用を抑える抗ヒスタミン薬というのが含有されているのですが、その薬の副作用として一番多くあげられるのが眠気です。だけど今回処方された風邪薬にはこの抗ヒスタミン薬は入っていません。つまりこの薬で眠気が出るなんて事はありませんよ。」


そう言って再び俺に薬を手渡してくる薬剤師。

俺はその薬を受け取ると、その足で上の階へと向かっていった。


病室に横たわるバリー・アンダーソンは相変わらず虚な瞳で天井を眺めている。その全身に繋がっている点滴や機器の量も相変わらずだ。


「…あんたも、こんな風に身近な人の事を疑わなきゃいけないような時期があったのか…?」


バリーが俺達と同じ症状であったという確証はないが、俺は何となく彼にそう声をかけた。


ロビン・ファクター院長との診察の際に「風邪薬を飲んだ」とは言ったものの、もちろん俺自身が自分で風邪薬を飲んだ覚えなど全くなく、『何者かに何かに混入されて投与された』と考えてまず間違いはないだろう。


それをいつどこで誰が何の目的で、何にそれを混入させたのかになってくるのだが…


…風邪薬と併用してアルコールを摂取すると極度の眠気を引き起こす可能性がある。


その瞬間、ロビン・ファクター院長が言ったその言葉と、あの日ウェスカーさんやジョンと共に囲んだ豪華な食卓の風景が頭に浮かぶ。


…もし酒と一緒に風邪薬を投与されていたとすれば、それを混入させる事が出来るのは…


そう思った俺はいまだ動かずにいるバリー・アンダーソンの手をそっと握ると、そのまま病室を後にしたのだった。




家に戻ると幸いウェスカーさんはどこかに出掛けていた。俺はその事を確認すると、まっすぐ台所へと向かう。


俺は台所に着くやいなや、冷凍庫の中を覗きはじめた。すると冷凍庫の中にはパックをされた肉の塊があり、その表に書かれた日付からみて、これがあの日ジョンが持参して来たローストビーフの残りであるという事が容易に伺えた。


俺はそのまま台所のゴミ箱も探ってみたが、生憎その中にはあの日のゴミや捨てられた残飯類なんかは残されていなかった。


…4日も経てばまぁそれも当たり前か…


そう思った俺が、今度は当日に出された酒を探そうと棚の中を探ったその瞬間———…


「…なんだよ、これ…」


俺は思わず驚きの声をあげた。


その棚から出てきたのは、なんと…


大きな瓶の中に無数に詰め込まれた、あの劇場で配られる大量の飴達の姿だったのだ。

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