新たな疑念
「…ちょっと!ここは関係者以外の立ち入りは禁止ですよ!」
そう叫ぶ若い研究員の制止などもろともせずに、俺はただひたすらに目的となる場所へと突き進んで行った。
真新しいその建物の奥へと続く、長く清潔感のある廊下の上を、肩で風を斬りながら足早に進んでいく俺。
そしてそのすぐ後を、俺の事を必死で制止しようとする二人の研究員達が足早について来ている。真新しい床の上を蹴り進む俺達の靴音が、高く廊下の中へと鳴り響き渡った。
「いいか?俺はここの副所長とは長い付き合いでな、いわば親友って奴なんだ。」
一向に離れようとする様子もなく、自分に付き纏い続けるその研究院達に苛立ちを覚えた俺は、長い廊下の先で急に立ち止まると、振り向き様に研究員の顔に向かって自分の人差し指をさしながらそう言った。
「いくらあなたが彼と親友だからといって、いきなり研究所に押しかけて来ていいワケがないでしょう!?副所長に会いたければ、事前にちゃんとアポイントを取っていただかないと…!」
そう言って俺に指をさされた方の研究員は、そのまま自分に向けられていた俺の右手を強く掴むと不機嫌そうな表情を浮かべた。彼が俺を見つめるその表情はかなり険しい。
その瞬間、俺達の動きを感知した鉄製の自動ドアが重く鈍い機械音をあげながら開きはじめた。
「…一体何事なんだい?」
自動ドアが開いた音と同時に自分の部屋の中へと突然流れ込んできた俺達の揉めるその声に、部屋の中の人物は少し驚いた表情を浮かべながらこちらに向かってそう声を掛けてきた。
何かの研究の途中だったのだろうか。彼のその両手には薬品の入ったビンと透明の液体が入ったビーカーが握られている。
その人物は俺と同世代の男性だが恰幅が良く、健康的で張りのある艶ややかな肌を有する彼のそのお腹は、もはやその白衣からはちきれんばかりにはみ出していた。
「…何とか言ってくれよ、ケヴィン。コイツらがなかなか通してくれなくってさ。」
そう言って相変わらず後ろ手に俺の右手を引っ張っている研究員の事を、左手の親指で指差しながら苦笑いを浮かべる俺。
ケヴィンはそんな俺達の様子をしばらく見つめた後、軽く溜息をつきながらこう言った。
「…離してやってくれ。彼は俺の親友なんだ。」
ケヴィンの口からその言葉が吐かれると同時に、俺は研究員から掴まれていた自分の腕を瞬時に振り払うと、自身が着ていたジャケットの襟元をわざと大袈裟に正しながら、誇らしげな表情を浮かべた。
ケヴィンのその言葉に、二人の研究員達は明らかに不服そうな表情を浮かべていたが、別段何かを言うこともなく無言でその場を立ち去って行った。
「…で?今日はなんの用なんだい?何か用があったからわざわざここまでやって来たんだろう?」
ロック・ウィルスン研究所。
ウェスカーさん達の住むあの街から、電車を三本乗り継いで、さらにバスで40分ほど走った場所にこの研究所はある。
ここでは医療品や薬品、サプリメントなどの健康補助食品などについての研究・開発が行われており、いまやケヴィンは今、ここの副所長に任命されている。
「…例の俺の血液の中から風邪薬の成分が出たっていう話は本当なのか?」
「…やっぱりその事だったか。わざわざこんな所にまで来なくても、あの時電話で聞いてくれれば良かったのに。」
そう言って手にしていた薬品ビンとビーカーを机の上へと置いたケヴィンは、近くの流し台で丁寧に自分の手を洗いながら俺に向かってそう答えた。
「…その事について、あまり他の人には聞かれたくない事情があってね。」
そう言って壁にもたれかかりながらケヴィンが手を洗っている様を後ろからぼんやりと眺めていた俺はそう答えた。
「…なるほど。何か深い事情がありそうだね。まぁ、ほんの僅かだがね。確かに君の血液からは風邪薬の成分が出てきたよ。もっともあまりにも微量すぎて検査の際に思わず見落としてしまうところだったがね。」
そこまで言ってケヴィンはふと俺の方に目を向けた。
「…まさか、自分で風邪薬を飲んだ覚えがないとでも?」
俺の険しい表情を見て何かを察したケヴィンが思わずそう声を漏らす。ケヴィンのその言葉に俺は静かに頷いた。
「…その風邪薬ってのは、なんていう名前の薬なんだ?」
「生憎そこまでの特定は出来なかったね。さっきも言ったように、君の血液から検出された風邪薬は本当に微量だったんだ。だから薬品名までは特定出来なかったし、今はあくまでも風邪薬に類似した物質という事までしか分からなかったのが現状だよ。まぁもう少し…サンプルでもあれば良かったんだけどね。」
そう言って自分の右手を無造作に振り動かすケヴィン。その動きはリサがあの日、俺の血液を採取した際に血液を容器に入れる時の動作に類似していた事から、多分「血液が足りない」という意味のジェスチャーなのだろう。
「…ちなみに、その薬っていうのはこれとは違うんだよな?」
そう言って俺は自分のポケットに入っていた数錠の錠剤を机の上にばらまいた。ケヴィンは俺がばらまいた錠剤のうちの一錠を拾い上げると、自分が掛けていたメガネを額へと移動させながら、その錠剤を凝視しはじめた。
それはエリックさんに噛まれた後に受診した病院で処方された抗生物質で、俺には特に目立った持病や常用薬などはない為、もし飲んでいる薬があるとすれば今はこの抗生剤くらいしか考えられないのだが…
それでも無粋な俺は、受診したその日と翌日の朝だけその抗生剤を飲んだくらいで、あとはご覧のとおりポケットの中で眠らせていたというのが実際だ。
「…これは、違うね。君の血液から出た成分はこの薬の成分とは全く異なるよ。」
「その成分っていうのは自然に人間の体の中に発生したりするようなものなのか?」
「いや?ほとんどが人間の体では生成できないような物質ばかりだよ。」
「…ということは…」
思わず俺が口籠る。
ケヴィンはポケットの中からハンカチを取り出すと、額にかけていたメガネのレンズを拭きながらこう答えた。
「自分で飲んだ記憶がないというのであれば、誰かに故意に飲まされたとしか考えられないね。例えば…そうだな、何かこう飲み物に混入されたとか、食べ物に混ぜられた…とかね。最悪の場合は知らない間に注射をされてしまったという可能性もあるが、注射薬の場合はどうしても体内での吸収が早くなるから検査の時に体内に残っている可能性が低いのと、この薬の場合は静脈内にきちんと投与しないといけない薬品になるから本人にバレないように注射をするというのはかなりの熟練者でも至難の技でね。君が意識でも失っていたというのであればまた話は別だが、普通に生活をしていて好き勝手に動き回るような人間の静脈に、きちんと確実に注射をするなんて芸当は、それこそ不可能に近いと言えるよ。」
ケヴィンのその言葉に、ふと自分のこの数日間の出来事が蘇る。もし意識がない時間帯があるとすればマルッセル劇場の観劇後に記憶がなくなったあの時間帯か、眠っている時間くらいになるのだが、ただ眠っているだけの間に注射をされてしまえば、いくらなんでもさすがに気がつくだろう。
…となれば一番怪しいのはやはりマルッセル劇場で記憶を無くしていたあの数時間の間となるのだが…
「…実は4日くらい前に一時的に記憶がなくなった事があってな。もし注射をされてしまったならその時かとは思うんだが。」
「…記憶がなくなったって…おいおい、何かヤバい薬でもやってんじゃないのか?」
俺の言葉に思わずケヴィンが驚きの声をあげる。
「…それを知りたいからお前に聞いてるんだろ。」
ケヴィンのその反応に、今度は俺が溜息まじりにそう答えた。
「…あぁ、そうだったな。だが、本当に今回の血液検査では病気に繋がるような物は検出されなかったんだ。もちろん、その他の危険な薬物の可能性もない。もしリサからしつこく言われなければ、この風邪薬でさえも見落としてしまうくらいに微量だったからね。だが別にそれが検出されたからと言って、例えばドーピングやなんかに使われるような何か興奮や異常に繋がるような代物だったわけではないし、あくまでも市販の風邪薬に普通に入っているような本当にありふれたものだったんだ。だからその記憶がなくなったという件に関しても、僕はこの風邪薬が原因というよりは、何か別の原因があると考えるがね。とりあえず一度脳のCTか、MRIやなんかを撮ってみるといいかもしれない。ちなみに…その記憶がなくなる前後に自分の腕や足なんかに何か痕のようなものや、もしくは内出血みたいなものはなかったかい?」
ケヴィンのその言葉に、俺は自分の両腕の袖をまくりあげながら自分の皮膚を眺めてみた。右手の肘の内側に小さな
「…いや?それは特に気がつかなかったな。」
「じゃあこの風邪薬が君に注射をされたという点はまず考えられないな。いくらバレないように注射をしようと思っても、皮膚に針を刺す以上、痕がつかないように注射をするっていうのはまず不可能な事だよ。」
ケヴィンのその言葉に、しばらく流れはじめる沈黙。ケヴィン自体も少し考え込んだ後に、再び口を開きはじめた。
「…どちらにせよ、知らない間に投与されていたとすれば、やはり食べ物か飲み物に混入されたとみてまず間違いがないだろうね。その方が時間も技術も、手間すらもかからない。」
そう言って机の上に置いていたカップのコーヒーを一度俺に見せてから口元へと運ぶケヴィン。
…食べ物か飲み物…
その瞬間、俺の脳裏にはマルッセル劇場へ行く前の日に食べたあのジョンとのディナーの風景と、マルッセル劇場で観劇をする際に配られた例の花茶が浮かんでいた。
その事に気がついた俺は、そのままケヴィンの元を立ち去ろうとした。
「ちょっと、どこ行くのよ!?せっかくコーヒー入れて来たのに!」
部屋の入り口のドアを開くと、ちょうどコーヒーカップを2つ携えたリサとすれ違った。
険しい表情でその場を立ち去ろうとする俺の姿を見るや否や、驚いた表情でそう声をかけてくるリサ。
彼女の細身で長身の体には、真っ白な白衣が良く似合っている。
だが俺は彼女のそんな制止に答える事はなく、無言でその場を立ち去っていったのだった。
「何があったかは知らないけど、落ち着いたらいつでも電話して。」
俺のスマホには、リサからのそんなメッセージが届いていた。
そのメッセージを開いた俺は返事など返さず、すぐにスマホを上着のポケットの中に突っ込むと、今停留所に着いたばかりのバスの中へと乗り込んだ。
今は通勤時間ではないせいもあってか、バスの中の乗客は少ない。
俺はバスに揺られながら、自分の手帳に今回の事を書き記していた。
俺の血液からは、自分が飲んだ覚えのない風邪薬が検出された。気になるのは、いつどうやってそれを俺に飲ませたかという手段についてと、あとはもう一つ。
それを俺に飲ませたからといって、一体どうなるっていうのか
と言う点だ。
別に風邪薬を飲んだからといって…
そんな事を考えていると、バスの後部座席の方から突然激しく咳き込みはじめる声が聞こえた。
「…おい、マスクしろよ!」
見るとバスの一番後ろの席に、スーツ姿のサラリーマン風の男性が二人座っている。一人は若く、もう一人は少し年配である点から先輩・後輩といった関係性だろうか。
年配の男性が、咳込んでいるその若い男性に向かってそう声をかけた。頻回に咳込んでいるもう一人の男性の方はかなり辛そうだ。
「ちゃんと風邪薬は飲んだのか?今から大切な取引先との会議なんだぞ!」
…今日はやけに風邪薬という言葉を耳にするな…
サラリーマンのそんな言葉に俺は思わずフッと笑みを浮かべると、再びぼんやりと窓の外を眺めはじめた。
どちらにせよその咳をしている男性は、俺としても早めに病院に行くか風邪薬を飲んだ方がいいと切に願う。
「…だって風邪薬を飲むと眠くなるから…仕事の時には使えなくて…」
咳込むのをこらえながら途絶え途絶えにそう言ったサラリーマンの言葉に、俺ははっと気がついた。
「…すまない、ここで降ろしてくれ!」
俺は走行中であるにも関わらず突然その場で立ち上がると、運転手に向かって近くのバス停で降ろしてもらうように依頼をした。
バスを降り、俺が向かった先はハリス総合病院。
俺は新たに生じた二つの疑念を抱きながら、病院へと向かって行ったのだった。
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