ああ、時間を戻すことが出来たなら


「あれから……もう一年ちょっとになるのかな。突然マツリに呼び出され、呑みに行こうといつもの店に向かった時さ」



※ ※ ※



「やっ。今日は早いね。早退けかなんか?」

「逆だよ逆。早出の上に勉強会組まれたから、職場からここまで直で来たの」

 あの日は、そうだ。四時前に仕事を引き継いで遅番に明け渡し、そのままオムツの当て方だ何かのオリエンテーリング(仔細はよく憶えていない)をやって、その足で呑み屋まで来たんだっけ。

 半袖の茶色ポロシャツに黒のトレーニングパンツな雑極まる出で立ちを、マツリはあり得ないってゲラゲラ笑っていたっけ。

 アイツはA県N市、おれはM県K市住まいなもんだから、会いに行くのは月に二度。双方の仕事明けが重なった時のみ。

 だから、昨日に前触れも無く呼ばれたときはなんで、って聞き返したさ。そうしたら向こうは大事な話があるって一点張り。偶然スペースが空いてたし、ってことで馳せ参じた訳なんだけど。


「ま、呑めよ。ざっぱー」

「お、おう」

 席に着くなり生ビールを注文し、乾杯と言った後ぐぐいと呑み干す。続きもう一杯を店員に頼み、暫しの沈黙。

 この時既に、妙だなとは思っていたんだ。いつもならそこで今週の日曜の観た? だとか、仕事の愚痴を枕に弾む会話を用意してくれるんだけど、何故だか今日はなにもない。

 しかも、今日は心なしか顔色が悪い。毎度目にする稚気染みた蠱惑的な微笑みも、こう蒼いと逆に不気味だ。


「なあ、お前……。仕事先で、なんかあったか?」

「何って、なにさ」

「おれが知るかよ」

 長い付き合いだからかな。俯いて曇った瞳を見、やつが悩みを抱えていることは直ぐに解った。

 おれとしちゃ、抱え込んでないで吐き出せよってくらいの軽い気持ちだったわけさ。けど、奴め中ジョッキをぐぐいと呷り、不機嫌そうにこう返したんだ。


「ざっぱーには関係ないでしょ。そういうの、乙女のブライバシー侵害だぞ」

「その歳でお前、乙女ってガラかよ」

「ガラなのっ」

 会話はそこで一度途切れ、周囲の喧騒と互いに喉を鳴らす音だけが続く。

 おれが、最初の一杯をちびちびと飲み干したあたりだったかな。茉莉は二杯目のチョッキを脇に置き、床に額をくっつけたまま、ぼそりとひとこと言ったんだ。


「あたしさ、好きだったよ。ざっぱーのこと」

「ジョーダンだろ」

「昔の話だけどね。今のじゃないのは確かだよ」

 わざわざ伝えるまでもなく、答えは既に出てたんだ。あいつはあの頃のギラギラとしたおれを好いてくれていた。けど、あの時のおれにはそれが無かった。マツリが、取り戻そうと苦心していることなど、知りもしないで。


「いつから! ざっぱーはそんな軟弱になったッ」

「なな、なんだよイキナリ」

 三杯目のジョッキを飲み干し、他に聞こえる大音声で突き付けられた本題。向こうは既に赤ら顔。当然おれは酔っ払いの戯言だとしか受け取っていなかった。

「昔のあんたは社会の荒波に刃向かう気概があった! ヒトが何を言おうと、これが面白いんだって言い張って! どれだけつまらなくたって書き続けて!」

「こら、こら。あんまり騒ぐなよォ~~マツリちゃん。ここね、家呑みじゃないから。呑み屋のカウンターだから」

「そんなこと知るもんか」まるで理性のタガが外れたようだった。目を血走らせ、宥めるおれを手で制し、溜まっていた怒りを吐き出すかのように。

「あたしは! そんなざっぱーが好きだった! だからずっと頑張ってた! なのにあなたは見てさえくれない。そんなもんありえねぇって鼻で笑って! 中二病だったと蓋をして!」

「解った、分かったから……少しその、静かに……ね?」

 何一つ理解しちゃいないが、他の邪魔になるのだけはやめてくれ。そう思って静止を求め、それでもアイツは止まらない。

「ガーディアン・ストライカー」

 丁度その頃だっただろうか。勘の悪いおれを見かね、遂に出て来たあの言葉。

「あれを描いてる時のざっぱーはめちゃくちゃ輝いてた! それが何だと言い返せる強さがあった! どうして信じようとしないの? どうして認めてくれないの!? あなたはさ、あなたは」


「もうやめろ。ぎゃーぎゃー喚くんじゃあない」

 この後発したことばを、おれは一生忘れることはないだろう。

 もし時間を巻き戻すことができたなら。その何もかもは抜きにして、あの台詞だけは『違う』とアイツに言ってやりたい。

 もう二度と、叶わない願いなのだけど。


「なんだか知らんが、他に迷惑かけてまで曲げられない主張だってのか? 馬鹿馬鹿しい。あんなの、全部中学校の頃の妄想だろ。蒸し返して騒ぐんじゃねぇ」

 それが、総てのはじまりだった。もう止まらないし、止められない。


「流石にそれは聞き捨てならないぞざっぱー! あんたが、あんたにだけは、そんなこと言ってほしくないっ」

「ユメが飯のタネになるのかよ。お互いこの就活戦争乗り越えてきた身だろ。いい加減現実を見ろ現実を」

 売り言葉に買い言葉。互いに抑えが効かなくなり、人の目も気にせず騒ぎ立てる。仔細は憶えてない。本当だ。怒鳴って、叩いて、つまみ出されて。酒に酔ってさ。店の前の駐車場で取っ組み合いになった。


「社会の荒波がなんだ! 恥ずかしさがなんだ! 創作ってのは恥かいてナンボでしょ。自分を出せないヤツがユメを笑うなーっ」

「そういうのは成功したヤツの言葉だろーが! 子供の落書きで悦に浸って、一体何になるってんだよ」

 お互い、出口の視えない平行線。どちらかに譲る気持ちがありさえすれば――。なんて考えるのは、総てが終わった今だからこそ、か。

 おれが絶対に己を曲げないと解った茉莉は、言い争いを止めて散々悩んで迷った後、とうとうあの言葉を切り出した。


「時間が……無いんだよ」

「は、ア?」

 時間が無い。今の今までそんな話、出たことも聞いたことも無い。あれだけ激昂しておいて、この局面まで隠し通していた話題がそれか。

 何か、猛烈に嫌な予感がする。聞きたくないと掌を向けるが、やつは、鳩尾を摩って。やつは。


「肝臓に、癌があるんだ。持って半年。手術じゃ取り出せないって」


 





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