43話 定義

「風呂、ありがと」


 身体から湯気を立ち上らせて、紅音は帝のいるリビングに入ってきた。上気した肌を包んでいるのは帝の母が以前使っていたパジャマだ。

 返事がないことに不審に思って、そしてすぐそれは解消される。机に向かって宿題に悪戦苦闘する帝である。書いては消し、悩んでいるのは明白だ。

 紅音は思いついたように、にしては自然に二人がけのソファに座る帝の真横に陣取った。

 迷惑そうに帝は紅音を横目に見る。


「ふふーん、この大学生になった紅音さんがお前の勉強を見てやろうじゃないか」

「いらん」

「つれないこと言うなって。・・・・・・ほら、そこも間違ってる」

「・・・・・・・・・・・・」


 紅音の指さしたところをまた消して、帝は勉強に没頭するようなそぶりを見せる。そこに、さっきまでの抵抗はない。紅音は寄りかかっていたのを僅かに退いて、帝と一緒にその問題へと取り掛かった。


「お前って子供のくせにやたら難しい言葉を使うのに国語、苦手だよな」

「国語が苦手なんじゃない。心情理解ができないだけだ。・・・・・・そもそも小学生に恋愛小説を題材にした問題を解かせるな」

「まあ、それは私も同感だが。だが、恋愛ものくらい特に何かしなくても普通に解けるだろ」

「おっと、恋愛経験豊富な華の大学生アピールですか、流石経験者は違いますね。ああ、ならセンセイとでもお呼びしましょうか? 恋愛の」

「うぐっ、お前・・・・・・分かって言ってるだろ。どうせ私は年齢=彼氏いない歴の永久処女だよ」

「さり気にとんでもない単語を挟まないで欲しいんだが・・・・・・そんなこと明かされたところでこの問題が解けるわけでもないし、何より反応に困る」

「・・・・・・聞かなかったことにしてくれ」


 今更羞恥を感じてきたのか、顔を赤らめてそっぽを向く。

 帝も嘆息して自分の勉強に戻る。


「・・・・・・その点、お前はいいよな。最近吹雪のやつとはどんな感じだ?」

「何の話だ」

「またまたぁ、照れるなよ。お前も薄々気づいてるんだろ? お前がうちに狙われてるってことくらい」

「知らないまま過ごせればよかったんだがな。一応訂正しておくが、俺にそのつもりはないぞ」

「ふーん、お前が私の義弟になってくれるかと思ったんだがなぁ」

「・・・・・・俺に勉強をさせてくれ」


 またべったりとくっつかれて、今度こそ本気で煩わしそうに手で払う。二人きり、というこの状況はもう何度目かだが、そうなる時の紅音は大抵の場合家絡みの件を経ている。

 そして、弱っている。普段の強気はなりを潜め、自分の弱さを吐露するのだ。

 それを知っているせいで、責めるに責められないのが扱いの難しさ。


「お前が私と同年代だったら、何か変わっていたのかな」

「ほんとなんなんだ、さっきから」


 思いついたままのことを隠し立てしようともせずに、言葉も選ばず言われても勉強とのマルチタスクは成り立たない。

 面倒くさいのでペンを置いて、正面から向かい合うようにする。

 憂いを帯びたその美貌に鎮座するその目は帝の中の何を見ているのか、瞳に映った自分からは想像もつかない。


「何も変わらねーよ。ただただ吹雪が俺にとっての妹分になってただけだろうよ」

「そう、なのかな。私はお前が恋人だったらいいのにな、と思うがな」


 ・・・・・・今回はいつにも増して酷いな。

 優れた妹。実力主義的な思想の根付いた実家からの不当な、ある種順当な扱い。それは年々彼女の心を蝕んでいた。


「荒唐無稽だ」

「そうだな、現にお前は吹雪のものだ。じきに私がこうしてお前といることも禁じられるだろう」

「はぁ、俺の選択権はどこにいったのやら。・・・・・・何度も繰り返すが、俺にその気はない。それを誰かに咎められる道理もな」


 突き放すような返答とは真逆に、紅音は体を寄せて帝を押し倒すようにしなだれかかった。

 瞬きに合わせて、目の端に溜まった涙が雫となって頬にかかる。


「私は吹雪が羨ましいよ。あいつは私にないものを全て持っている。欲しいものを手に入れる力と才能がある。・・・・・・そして、誰かを好きでいられる」

「・・・・・・・・・・・・」

「なあ帝、私はどうしたらいい? 私はどうやったらこの悩みから救われる? ・・・・・・私はいつになったらこんな悩みも忘れて、人を好きになれるのかなぁ。人を好きになるってなんなんだろうな」

「・・・・・・小学生には、少なくとも俺には絶対わかんねえよ。それに、こればっかりは俺が答えを出すことでもないだろ。応援くらいは、するけどな」

「・・・・・・その時は、頼んだぞ」

「ああ、任せな」

 

 帝の腕の中で小刻みに体を震わせる紅音の髪を撫でながら、帝はその約束の意味を噛み締める。

 

 ・・・・・・そして、その約束が果たされるべき時は今から三年後、悲劇的な状況下にて訪れる。

 最悪の妖精が顕現し、彼らから何もかもを奪わんとするその時に。彼らは約束の真意を問われる。

 予備知識が、既に旧知となった感情が、世界の分岐点にて残酷な選択を迫る。それは未来を定め、過去すらも運命の名の元に歪めてしまう。


 追憶は時を超えて、全ての始まりへと向かう。

 それは、彼らにまつわる謎を解き明かす。 

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