第7話

 これまで、実戦・訓練を合わせて、栄養となれば木の根だろうが虫だろうが、あらゆるものを食べてきた宗介にとっても、そのボルシチはこれまでの人生において群を抜く不味さだった。


 テッサが半分以上残してしまうのも無理はない。いや、むしろここまで良く食べたと言うべきだろう。

 

 以前、カリーニンからこのボルシチを振舞われた時には、遠回しに何かの失態を罰せられているのかと疑ったものだったが、テッサにも堂々と振舞っている様子を見るに、本当にカリーニンにとっては厚意のようだ。


 こうして地獄のような食事会を終えた宗介は、少し具合の悪そうな(実際には少しどころではなかった)テッサを自室まで送るよう、カリーニンに命じられ、二人で部屋を後にした。


「サガラさん、すごいです。あのボルシチを、おかわりまで平らげるなんて……」

「コツは噛まずに飲み込むことです。具を皿の上であらかじめ砕いておき、スープとともに流し込めば、我慢するのは後味だけで済みます」

「以前にも、食べたことが?」

「はい。その時は、ASや艦の整備に使われた、廃水を再利用したのかと思いましたが、どうやら違ったようです」

「あら。サガラさんでも、そういう冗談言うんですね」


 宗介にしてみれば、冗談のつもりは無かったのだが、くすりと笑ったテッサを見て、訂正はやめておいた。


「ところで、大佐殿は本日、どちらへ?」


 宗介にとっては何気ない質問だったが、テッサの表情には翳りが差した。


「サガラさんには、隠す必要もないですね……。私は、〈エンジェル〉の所へ行っていました」

「〈エンジェル〉……確か、チドリ・カナメでしたか」

「はい。彼女もまた、私と同じチカラを持つ人間です」


 ここが廊下だからだろう、テッサは〈ウィスパード〉という言葉は使わなかった。千鳥かなめが〈ウィスパード〉であることは、これまでのテッサの話から何となく察していたので、宗介は特に驚かなかった。無言で応え、話の続きを促す。


「彼女はこれまで、ごく普通の女子高校生として人生を歩んできました。そんな中、突然の誘拐と友人たちの死、そして自分が普通の人間ではないことを知ってしまった……。敵の実験による後遺症もありますし、まともな精神状態に戻るには、かなりの時間を要するでしょう」

「それを確かめるために、大佐殿自ら?」

「それもありますが……いえ、私が彼女に会いに行ったのは、そう。懺悔だわ」


 懺悔。それが何に対するものであるかは明白だった。


 テッサが立ち止まる。部屋に着いたからだ。


「すみませんでした、わざわざ送らせちゃって」

「いえ……」


 小さくお辞儀をしてから、カードキーでセキュリティロックを解除しようとしたテッサの手が、ふと空中で止まった。


「そういえば、サガラさんはカリーニンさんに呼ばれて、こちらにいらしたんですか?」


 こちら、とはつまり、将校用の区画のことを指しているのだろう。宗介は思わず、「はい」と返事をしてしまった。テッサは特に疑問を抱かず、「そうですか」と相槌を打って、ロックを解除しドアを開けた。


「では、おやすみなさい」


 そう言って、部屋の中へと入っていくテッサを見送る。翳りのあるテッサの表情がフラッシュバックする。ドアが閉まろうとする。




 このまま、見送って良いのか。


 宗介の脳内で、誰かがそう、囁いた気がした。




 ―――ガッ!




 気付けば宗介は、反射的に、閉まりかけたドアに手をかけていた。驚いたテッサが振り返る。当然だ、突然自動ドアを無理やりこじ開けようとされれば、誰だって何事かと思う。


 宗介は思う。いつもの自分なら、慌てて謝罪し、逃げるようにこの区画から出て行くだろう。傍から見れば、今の自分は怪しいことこの上ない。


 だが――勇気を出すなら、ここしかないのではないか?


「大佐殿を、探していました」

「えっ?」

「将校用区画にいた理由です。大佐殿と……話がしたかったので」


 人を挟んだと感知したドアが開いていく。宗介は、「失礼します」と断ってから、廊下と部屋を区切るドアスライドを跨いだ。


「この前お話しした、〈アル〉の件ですか?」

「いえ。大佐殿ご自身のことを、聞かせていただきたかったのです」


 テッサが狼狽えたように、小刻みに首を振った。


「あの、この前話した通り、友達になってくださいというのは取り消しました。だから、サガラさんはもう、無理しなくていいんです」

「無理などではありません」


 マオに放たれた、クルツの言葉が蘇る。テッサの立場。苦しさ。宗介は自問する。果たして、一体お前はどうしたいのだ?と。その答えは、驚くほどあっさりと出た。


「自分が、あなたの友人になりたいのです」


 テッサが、息を呑んだ。


「これからも、俺はあなたの命令で何度も死地へ赴く。実際に命を落とすかもしれない。ですが、?あなたや俺と、マオの関係だって同じだ。上官と部下であり、同時に友人であっても良い」


 宗介の言葉を聞いたテッサは、何かを我慢するように、下唇を噛んだ。そして、震える声で宗介に問いかける。


「それは、私への同情ですか……?」


 そう言ったテッサの肩が、あまりに華奢であることに、宗介は今更ながら気付き、驚いた。こんな小さな少女が、世界最大級の戦艦を操り、何百人もの命を背負い、三六五日を戦い続けている。すごい人だ。


 順安事件が起こる前の、〈ダーザ〉でのライブで見た、あの向日葵が咲くような笑顔を、もう一度取り戻したい。これ程、世界のために自分を犠牲にして戦っている少女が、なぜこんなにも苦しまなければいけないのだ?その理不尽に、激しい怒りを感じる。


 支えたいと思う。守りたいと思う。ちっぽけな自分に出来ることがあるなら、全てをかけて力になりたい。


 この気持ちを、何と呼べば良いのだろうか?


 少し考えたが、結局良い言葉が思い浮かばず、


「同情ではありません。ただ、言語化が非常に難しいと言いますか……。その……、敬愛です。いわゆる」


 歯切れ悪く、そう答えた。宗介自身、その言葉も何だかしっくりこなかったが、宗介が思い付く限りの語彙の中では、最も近いような気がした。


「敬愛、ですか」

「はい。……おかしいでしょうか?」


 ぽかんとしたテッサの表情を見て、宗介は不安に駆られた。自分はまた、何か変なことを言ってしまったのだろうか……?


 だが、遅れてはにかむように笑ったテッサの表情を見て、不安が杞憂であったことを知った。


「おかしいです。友人に、敬愛だなんて言葉、あんまり使わないと思いますよ?」


 そう言って、テッサはくすくすと笑い続けた。

だが、次第にその目尻には涙が光り始めた。


「では……一つだけ、友人の頼みを聞いていただけますか?」


 断る理由などあろうはずも無かった。宗介が力強く頷くと、堪えきれなくなった涙が、テッサの両頬を伝った。


「私にそんな時間も、資格も無いことは分かっています。でも、今日だけは、立ち止まって泣くことを、ゆるして下さい……」


 そう言って、テッサは宗介の胸に顔を埋めた。宗介は、石像のように固まりながら、声を押し殺して泣くテッサの体重を、ただ受け止めていた。


 そして宗介は、漸く悟った。


 孤児として育ったアフガン時代、〈ミスリル〉での傭兵生活、そして〈アーバレスト〉との出会い……。常に暴力と死にさらされ、戦う事しか知らずに生きてきた自分の人生は。


 今、自分の胸で震えているこの少女に、もう二度と涙を流させないためにあったのだと。

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