エピローグ

 その青年は、蠱惑的な美を湛えていた。ウェーブのかかったアッシュブロンドの長髪は、男性のものとは思えないほど滑らかで、青みがかった灰色の瞳と見事に調和していた。


 青年は、腰かけていたソファから立つと、ガラステーブルに置いたグラスに、慣れた手つきでワインを注いだ。一九八一年産のロマネ・コンティ。にとって、特別な年に出来たワインだ。


 ガーネットのように煌めく透き通った赤をグラスの中で遊ばせながら、青年は思う。自分たちにとって……いや、この世界全てのキー・ストーンとなる少女のことを。


 青年が天を仰ぎ、指揮棒を振るうが如く、優雅にグラスを傾けた。グラスに注がれた一千五百ドル分の液体が、青年の喉を潤す。


 ドアがノックされた。青年が返事をすると、一人の女性が恭しく入ってきた。


「お寛ぎの所を失礼致します。どうやら、ミスタ・Feアイアンは生きているようです」

「ああ、そう。まあ、そんな気がしていたよ」


 青年は、もう一つグラスを用意する。


「こんな時間までご苦労様。今日はもう終わりでいいだろ?」

「レナード様……ご相伴に預かってよろしいのですか?」

「もちろんだよ、サビーナ。僕も丁度、相手が欲しいと思っていた所だった」


 サビーナ、と呼ばれたその女性は、恍惚とした表情を浮かべた。その蕩けきった眼は、まるでローマ教皇を目の当たりにした、熱狂的なキリスト教信徒のような熱を帯びている。


 一方の青年、レナードがワインを注ぐ様は、やはり一流のソムリエよろしく、一分の隙も無い。端整な顔立ちと美しいアッシュ・ブロンドを彩るワインの赤が、月明かりによって切り取られ、一枚の絵画のようだった。


「乾杯」


 レナードに合わせ、サビーナがグラスを掲げる。サビーナは、ゆっくりと、愛しい人へ口づけるように、グラスに唇を這わせ、ワインを含んだ。


「ああ、美味しい……」

「一九八一年のロマネ・コンティ。当たり年というわけじゃないけれど、僕にとっては特別な年だ」


 レナードが二口目を含む。ねっとりとした深みのあるピノ・ノワールの味わいが、舌の上で時間をかけながら、複雑に変化していく。


「君はこのワインをどう感じた?」


 レナードの問いに、サビーナは少し考えてから、自分の一語一語を確かめるように答えた。


「完璧なワインです。様々な諸条件が重なり合って、初めて生まれる、奇跡的な一体感があります。甘いマスクの裏側には、厳しい環境で育て上げられた、強烈な渋味が潜んでいて……ああ、この酸味が全てを調和させているのですね。そしていつまでも、その余韻が私を捕らえて離さない……」


 言葉を切ったサビーナは、グラスに三分の一ほど残ったワインを、一気に呷った。ただの一滴も――唇に残った水滴すら残さず舐めとり、サビーナは高熱に浮かされたような、焦点の合わぬ視線をレナードに向けた。


「まるで、レナード様のようです」


 その言葉を聞いたレナードは、満足気に微笑んだ。


 サビーナは、全身が強烈にのを感じた。既にこの身も心も、全ては目の前にいるレナードへ捧げている。それを、今すぐに証明したかった。この場でレナードに切り刻まれようとも、変わらぬ愛と忠誠を誓うことが出来るのだということを。


 ああ、お願い致します。あなたの望みを、お聞かせ下さい……。


 果たして、サビーナの願いは聞き届けられた。


「そろそろ、始めようかと思ってるんだ」


 レナードの柔和な笑みが、俄かに獰猛さを帯びていく。


「彼女は今、〈アマルガム〉に強烈な憎しみと怒りを抱いているはずだ。ならば、もう〈アマルガム〉に拘る必要は無い。彼女を味方に引き込むためにはね」

「やはり、カナメ・チドリが?」

「ああ。順安での実験データを見て確信したよ。彼女こそが、〈ヤムスク11〉から発せられたタウ波を最も多く浴びた者。『ささやかれた者ウィスパード』ではない―――『ささやく者ウィスパリング』なのだと」


 猛禽類のような瞳へと変貌したレナードに、サビーナは自然とかしずいた。彼の心に映る女性への嫉妬など、微塵も無い。


 彼が願いを口にしてくれた。この私に!


 ならばその願いを、一命を賭して叶える。この身は、彼の望む形で捧げられるべきなのだ。然るに、女としてではなく、一振りの刃として。


「カナメ・チドリには、僕がアプローチする。君はファウラーやカスパーと一緒に、一働きしてもらう」

「承知しました」

「詳細は追って、で良いかな?今は―――」


 レナードは、磨き上げられたガラス窓の前に立ち、月に向かって手を伸ばした。




「祝うとしよう。新しい世界の誕生を」

 

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