第5話

 〈アマルガム〉の存在を、〈ミスリル〉の上層部は重く受け止めた。そのため、いつもの作戦とは比べ物にならない程のレポート提出と、緊急対策会議などの対応に追われ、テッサはメリダ島への帰還以降、まともな睡眠を取れていなかった。

 それでも何とか上層部から指示された仕事は片付き、細かな残務はマデューカスが代わってくれたため、順安事件から三週間にして、ようやくわずかながら自由な時間が出来た。

 だが、テッサにはまだやることがあった。マデューカスには、少し眠ると言ってきたのだが、本当のことを馬鹿正直に伝えていたら、彼は猛烈に反対し、『兵隊稼業は体が資本』というタイトルの説法を、テッサがベッドで寝息を立てるまで続けるに違いなかった。

 一度別れたマデューカスと鉢合わせないように注意しながら、テッサはあらかじめ手配していた車に乗り込んだ。まだ若い運転手の二等兵に、「急ぎませんから、安全運転でお願いします」と告げる。二等兵は、上ずりながら返事をすると、まるで運転講習のような丁寧さで四駆を発進させた。いつの間にかうたた寝していたらしく、テッサは目的地に着いたことを告げる二等兵の声で目を覚まし、髪を手櫛で整えながら車を降りた。

 テッサの目の前には、四方を密林に囲まれた、白い壁に覆われた巨大な建物がそびえていた。ここは、テッサが所属する作戦部ではなく、ノーラ・レミングなどが所属する情報部の管轄施設である。

 ロビーに入ると、広く清潔な空間が広がっている。白衣を着た男女がせかせかと行き交い、大理石風の床を革靴やヒールで鳴らす音がBGMの代わりだ。このロビーまでは、〈ミスリル〉の人間であれば誰でも入る事が可能だが、ここから先へはトイレ以外、情報部のIDカードによるセキュリティ認証が必要となる。

 テッサが受付でノーラを呼び出すと、ほどなくして廊下を小走りで駆けてくるヒールの音が聞こえてきた。

「レミングさん、走らなくても大丈夫ですよ」

「いえ、すみません。つい先ほどまでロビーでお待ちしていたのですが、ちょうど声をかけられてしまって」

 テッサの前で立ち止まり、乱れた白衣の襟を正したノーラは、ポケットからネックストラップのついたIDカードを取り出し、テッサに渡す。

「それでは、ご案内します」

「ありがとう、よろしくお願いします」

 ノーラの先導で、テッサは広い廊下を歩き出した。セキュリティエリアへと入り、突き当りのエレベーターで五階まで上がると、ほどなくして目的地に到着する。そこは病院の個室のような部屋だった。

 ノーラがスライド式のドアをノックし、部屋の主の返事を確認してから、二人は入室する。そこには、部屋の真ん中に座すセミダブルのベッドの上ではなく、窓際の椅子に座って外の景色を眺めている、黒髪の美しい少女がいた。

 少女はゆっくりとこちらに視線を向ける。長いまつ毛に彩られた大きな瞳が、テッサの姿を捉えた。

「はじめまして。チドリ・カナメさん、ですね」

 テッサが微笑みかける。それはまさに男女問わず、見る者全てを魅了する完璧な笑顔だったが、チドリ・カナメと呼ばれた少女は、整った眉根を寄せた。

「あたし、今日は偉い人が来るんだって聞いたんだけど」

 帰国子女とは聞いていたが、実際に彼女の英語は、ネイティブと比べても遜色ない、綺麗な発音をしていた。そんな、少しずれた感想を抱いていると、ノーラが一歩前に出た。

「こちらが、その偉いお方です。テレサ・テスタロッサ大佐。あなたを救った部隊の隊長よ」

 それを聞いたかなめは、頭をかきながら立ち上がった。

「あんた達、あたしのこと馬鹿にしてるでしょ?テレビも観れない、PHSピッチも返してくれない、そんで何週間も病室に閉じ込めて。そりゃ、誘拐犯から助けてくれたのは感謝してるわよ?けど、あたしにしてみれば、あんた達も得体の知れないことには変わりないし、やっと偉い人と話せると思ったら、連れてきたのがこの子って……」

「疑う気持ちは理解出来るわ。でも本当のことなのよ」

「ふうん、あっそう。じゃあこの子に頼めば、私は家に帰れるのね?」

「それは……」

 それまで、静かにやり取りを聞いていたテッサだが、ノーラに助け舟を出すように、ゆっくり口を開いた。

「残念ですが、それは出来ません。あなたは今、とても恐ろしい敵に狙われているんです。私たちは、その敵からあなたを守りたい。そのためには、まだしばらく私たちと一緒にいていただきます」

 テッサの言葉を聞いたかなめは、興味を失ったように再び椅子に戻った。

「なによ、やっぱりたちの悪い冗談じゃない」

「いいえ、チドリさん。私があなたを救った部隊の隊長というのは本当よ。信じられないかもしれませんが、私たちは特殊な組織なんです」

「じゃあ、なに?実はあんたには超人的なパワーが秘められていて、超能力だか宇宙エネルギーだかで人知れず世界の平和を守ってるって言いたいの?」

「当たらずも遠からず、と言った所でしょうか」

「あー、もう……。だからあ!」

 先程より強く頭をかくと、かなめはテーブルの上に突っ伏した。テッサ達がかなめのアクションを辛抱強く待つと、やがて根負けしたかのように、気だるげに身を起こす。

「分かったわよ……。ぜんっぜん納得できないけど、そういうことにしといてあげる」

「ありがとうございます、チドリさん」

「で、そのテスタロッサ大佐どのは、あたしに何の用があって来たの?」

「それは、ですね……」

「っていうか、座んなさいよ。って言っても、ベッドの上くらいしか座る所ないけど。あ、コーヒー飲む?」

「あ、ありがとうございます……。コーヒーは結構です、こぼしたらシーツにシミがついちゃいますから」

「そう?あたしは気にしないけど。だってあたしのじゃないし」

 表面上はつっけんどんに見えるが、たったこれだけのやり取りでも、かなめが元来世話焼きで、優しい少女であることが感じられた。

 だからこそ、これから告げなければならない事実が、あまりにも重い。

「レミングさん。すみませんが、席を外していただけますか?」

「は、しかし……」

「大丈夫よ。彼女は噛みついたりしません」

「何よそれ、人を犬みたいに」

 ノーラは一瞬迷った様子だったが、結局テッサの指示に従い、そっと部屋を出た。

 八畳ほどの病室に、沈黙が訪れる。静寂を気まずく感じたかなめが、コーヒーを淹れようと立ち上がった所で、一つ、大きな深呼吸をしてから、テッサが顔を上げた。

「チドリ・カナメさん。これからお話しすることは、あなたにとって、とてもショッキングなことです。ですが、全て真実です。嘘や冗談はありません。だから、心の準備をして下さい」

 テッサの沈痛な表情に何かを感じ取ったのか、かなめは何も言わずに座りなおすと、テッサの方へ体を向けた。

「お伝えしたいことは二点あります。まず一つ目は、あなたは特殊な能力を持った人間であること。そのために、あなたは先の事件に巻き込まれ、誘拐され、怪しげな実験をされました」

「ちょ、ちょっと……特殊な能力って、あんたの次はあたし?言っとくけど、あたしはごく普通の、どこにでもいる女子高生よ?」

「いいえ、チドリさん。あなたは既に、何かの異変を感じているはずよ。そう、頭の中から、あなたに囁きかける声が」

「えっ……」

 かなめの目が見開かれる。テッサは続けた。

「それは幻聴ではありません。その声は、やがてどんどん大きくなり、あなたに様々な知識をもたらし始めます。その知識を欲した敵が、あなたを誘拐し、その力を覚醒させるため実験を行ったんです」

「ちょ、ちょっと待って。良く分かんないけど……でも、その敵はあなた達が倒してくれたんでしょ?」

「いいえ。あなたを誘拐した実行犯は捕えましたが、敵もまた巨大な組織なんです。だから、必ずまたあなたを狙ってくるでしょう。これが、あなたをお家に帰してあげることが出来ない理由です」

「そんな……急にそんなこと言われても……信じられないわよ……」

「それが普通の反応でしょうね。でも、これが事実なんです」

 はっきりとしたテッサの口調が、言葉に真実味を持たせていた。また、その言葉以上に、かなめを見つめる真っ直ぐとした視線が、冗談などではないことを雄弁に物語っていた。

「いつ……帰れるの?」

「……チドリさんの安全が保障され、その身を狙われる可能性が無くなれば」

 そう答えたテッサは、今度は思わず視線を逸らした。今の言葉の空々しさに、かなめは気付いただろうか。

 かなめの安全が保障され、狙われることが無くなる。そんな日など、恐らく来ない。もし〈アマルガム〉を壊滅させたとしても、〈ウィスパード〉に利用価値が無くなるわけではないのだ。第二、第三の〈アマルガム〉が現れるに違いない。私たちは果てまで戦い続ける運命にある。

 かなめは、それ以上追及しなかった。代わりに、下唇を噛み、表情を見られないよう俯く。

 これだけの目に合っているのだ。本来は、半狂乱になっていてもおかしくない。強い人だとテッサは思った。だが、これから更に残酷な事実を突きつけなくてはならない。

「もう一つ、チドリさんに伝えなければいけないことがあります。私たちが、今日までテレビや携帯を見せないようにしてきた理由です。――あなたの乗っていた飛行機の乗客は、敵組織の爆破テロによって、全員死亡しました」

「――――は?」

 かなめがテッサを見上げた。かなめの指先と、開ききった瞳孔が、次第に震えだす。

「あたしの乗っていた飛行機の乗客って……」

「はい。チドリさんの、クラスメイトの皆さんです。……本当に残念です」

「なん、で?敵の狙いは……あたしでしょ?あたしを誘拐出来たんだから、他の人は解放されるはずじゃない。嘘、嘘だよ……。だって、キョーコ……そうだ、あたしキョーコに電話しなきゃ……」

「今まで黙っていてすみません。……敵の実験を受けた直後のチドリさんは、精神的に非常に不安定な状態でした。肉体へのダメージも大きくて……。だから、このことを告げるのは、あなたの回復を待ってから、ということにしていたんです」

 テッサの、どこか言い訳のような後ろめたさをはらんだ説明も、かなめの耳には届いていないようだった。うわごとのように、クラスメイトの名前を呟いている。

「そうだ、PHS……返してよ。絶対、何か勘違いしてるのよ……それか、結局ドッキリなんでしょ?これ……。確かめてやるから……」

「ごめんなさい、それは出来ないんです。世間では、チドリさんも爆破によって死亡したことになっています。お知り合いへの連絡によって、チドリさんの生存が確認された場合、私たちが誘拐犯として追われる立場になりかねません」

「なんでよ?正義の味方なんでしょ、あんた達は!」

「そうありたいと思っています。でも、私達は存在を知られてはいけない、秘密組織なんです。……ごめんなさい」

「あんた達の事情なんか知らないわよ!あたし、信じないから!」

 かなめが思い切り振るった右腕が、テーブルの上に飾られた小さな花瓶にぶつかる。床に落ち、音を立てて砕け散った花瓶から流れる水が、亀裂のような模様を二人の間に作り出した。

「……テレビは、本日から観られるよう、手配しておきます。また、必要なものがあれば何でも言って下さい。外部と連絡の取れる機器以外でしたら、全て用意するようにします」

 そう言うと、テッサは立ち上がり、ドアへと向かった。パンプスの底に、何か固いものが当たる。花瓶の破片が、ベッドとドアの中間あたりまで飛んでいた。

 この粉々に砕かれ、今自分が踏みつけた破片は、まさにかなめの心そのものなのだろう。また一つ、背負うものが増えた。

 テッサは、かなめを振り返る。涙に覆われた端整な顔が、やり場のない怒りや悲しみで歪んでいた。その表情を、テッサは心に刻むように、しっかりと見据える。

「あの爆破で、チドリさんのご友人がたくさん死にました。そして、私の部下も大勢死にました。全て、指揮官である私の責任です。――だから、この事件を起こした敵を、私は決して赦しません。地の底まで追いかけて、必ず壊滅させます。それだけは、お約束します」

 一礼すると、テッサは踵を返す。今度は振り返らずに、部屋を出た。しかし、暫くその場から動けずにいた。パンプス越しに踏んだはずの破片が、靴底を突き破り、足裏に刺さっているのではないか……そう錯覚するほど、じくじくとした痛みを感じた。

 かなめがすすり泣く声が病室から聞こえてきた。それは段々とボリュームを増し、やがて慟哭へと変わった。テッサは足の痛みを堪え、その場から逃げるように、早足で立ち去った。

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