第4話

 轟音。燃え盛る炎に包まれるジェット機。通信機越しに聞こえる阿鼻叫喚。それを成す術もなく、ただ眺め立ち尽くす、無力な自分――。

 メリッサ・マオは、もう何度目か分からない、お決まりの悪夢で目を覚ました。ほんの数十分、微睡んだだけのはずなのに、タンクトップが汗でべっとりと背中に張り付いている。

 順安事件から三週間が経ち、メリダ島へ帰還した西太平洋戦隊〈トゥアハー・デ・ダナン〉の面々は、少し長い休暇を与えられていた。しかし、マオにとってはむしろ、この休暇期間は、自身の悔恨の念に責められ続ける、拷問に等しかった。

 タンクトップを床に脱ぎ捨て、上半身裸のまま、キッチンに向かう。昨日から出しっぱなしのコップに水道水を注ぐと、一気に飲み干す。口から零れた雫が、女豹を彷彿とさせる引き締まった裸身を流れた。

 顔を洗いに洗面所に向かうと、鏡の中の自分と目が合った。艶を失ったぼさぼさの髪に、目の下には深い隈が出来ている。海兵隊訓練の中でも最も過酷な、『地獄の一週間ヘル・ウィーク』を終えたばかりの新兵ですら、ここまでひどい面はしていないだろう。

 陰鬱な気分のまま顔を洗い、タオルで拭いていると、ドアベルが鳴った。

 マオは、のろのろとした足取りでリビングに向かい、適当なシャツを引っ張り出して着る。人間とは、どんなに自暴自棄な状態であっても、最低限の羞恥心や生活は送るものなのだな、と、皮肉めいたことを思いながら、ドアを開けた。

 ドアの外には、大きな紙袋を抱えたクルツと、休日にも関わらず野戦服を着た宗介が立っていた。

「邪魔するぜ、姐さん」

 そう言って、クルツがこちらの返事を待たずに、ずかずかと部屋に上がりこんでくる。

「うひゃー、散らかってんなー。女の部屋だとは思えねえ」

 床に散らばった服や酒の空き瓶などを、足で雑に除けながら、クルツは紙袋をテーブルに置き、椅子に腰かけた。

 クルツの持ってきた紙袋からは、肉と油のジャンクな匂いが漂い、たちまち部屋中に充満する。その暴力的とも言える匂いが、ここ最近ほとんど食欲の沸かなかったマオの胃袋を、ほんの僅かに刺激した。

「おい、ソースケも座れよ」

「いきなり人の部屋に押しかけて、何の用?」

「んー、いや別に?暇だったし。姐さんも暇だろうなと思って、もう一人の暇人を連れてきた」

「俺はこれから走り込みをする予定だったのだが……」

「うるせえ、ネクラ軍曹。お前はもうちょっと青春を謳歌することを覚えた方が良いんだよ」

 会話しながら、宗介もクルツの隣に腰かけた。

 マオは、あくまで二人に、心の中で「大根役者ども」と呟いた。長い付き合いなのだ、この二人の考えていることなど手に取るように分かる。こいつらは、ケツの青いガキの分際で、生意気にもこの私を元気づけに来たのだ。

 クルツが紙袋をごそごそと漁り、テーブルの上に広げたジャンクフードは、三人で食べる朝食には明らかに多い。ハンバーガーだけで十個もあるのに、フライドポテトとチキンナゲットが、パーティー用のオードブル皿に山盛りになっている。

「こんなに買ってきてどうすんのよ」

「余ったらそこら辺の奴に配るよ。それに、姐さんも腹減ってるだろ?」

「悪いけど、そんなに食欲ないから……」

「それは良くない。食える時に食う。良い兵士の条件だ」

 宗介が、いつも通りズレたことを言う。だがこれも、彼なりにマオの体調を気遣っていることは分かっていた。

 これまでにも何度か、こういうことはあった。特に、まだ自分が曹長になりたてで、中間管理職のような役割に慣れていなかった頃は、よく荒れたり落ち込んだりしていた。そういう時に、このボンクラどもは下手くそなりに励まそうとしてくるのだ。

 いつもなら、どうしていただろう?

 下品なジョークで笑いを取ろうとするクルツを小突き、気の利いたセリフなど言えないくせに妙な気を回し、結果的に空回りする宗介に呆れ、「ああ、もう悩んでる自分が馬鹿みたい」と笑い飛ばして、ウィスキーをストレートであおる。それで全ては解決してきた。

 だが今は無理だった。この二人を前にしても、爆炎に焼かれた部下たちの顔は消えなかった。

 来月、妹の結婚式なんだと言って、スーツを新調していたジェイク。

 寝たきりの母親のために、毎月仕送りに手紙を欠かさないホッブス。

 十歳以上年下のくせして、いきなりプロポーズを申し込んできた新米のギブソン。

 運動神経はからっきしなのに、根性だけは誰にも負けず、マオを慕って子犬のようにじゃれついてくる、レイラ……。

 こんな稼業だ。常に死の危険とは隣り合わせだ。皆それは分かっている。

 けれども、決して彼らは、あの日死ぬべきではなかった。いや、べきではなかった。

「マオ……?」

「姐さん、大丈夫か?」

 朴念仁の宗介ですら、マオの異変に気が付いたようだ。普段は黙れと言っても喋り続けるクルツも、心配顔でマオを覗き込む。

 なんていい奴らなのだろう。この二人の優しさに、何度救われてきたことか。だが、今は……。

「ごめん……帰って」

 優しくされたくなかった。

「姐さん……責任を感じるのは分かるさ。だがあれは不可抗力だ。姐さん以外の誰が指揮官だったとしても、防げなかった」

「そんなこと無い。あたしは気付けた。油断したのよ。誰でもない、あたしの判断ミスだわ」

「誰もそうは捉えていない。だからこそ、現場指揮官としての責任を問われることも無かっただろう。今、マオを責めているのはマオ自身だけだ」

「そうよ。あたし以外は誰もあたしを責めない。でも、あたしはあたしが悪いことを知ってる。それがどんなに辛いことか分かる?『お前の責任だ』ってなじられるほうが、何倍も楽だわ……!」

 マオの目頭に熱いものが込み上げてくる。最悪だ。あたしに泣く資格なんて無い。だが、分かっていても、溢れる涙は止められなかった。そして、頬を伝った涙がスイッチになったかのように、抑え込んでいた感情が爆発した。

「あの爆破で何人死んだと思う?〈ミスリル〉だけじゃない。罪の無い子ども達が!あたしは救わなきゃいけなかった。『失敗しました。以後気を付けます』じゃ済まされない。分かる?あたしは、救わなきゃいけなかった!」

「だが、あんたは神様じゃない。人間である以上、必ず失敗はする」

「ソースケの言う通りだぜ、姐さん。後悔するなとは言わねえさ。けどな、だったら尚更、こんな所で塞ぎこんでる暇はないんじゃないか?」

「うるさい!あんたらに言われなくても、そんなこと分かってるのよ!」

 マオが、テーブルに放置されたままだった空き缶を掴み、二人に投げつける。容易に避けられたはずの空き缶は、クルツの額に当たり、床に転がった。

「帰って。お願い。今日は、帰って……」

 涙を拭おうともせず、その場に立ち尽くすマオをしばらく見つめ、クルツが嘆息した。

「分かった。今日は帰るさ。こいつは置いてくから、少しでも食べなよ」

 クルツは立ち上がると、床に落ちた缶を拾い上げてから、マオに背を向けた。

「でもよ、姐さん。これだけは言わせてくれ。姐さんが今感じてる辛さを、テッサが感じてないと思うか?」

 その言葉は、マオに向けられたものだったが、宗介の心にも棘のように刺さった。

「あの子もきっと、同じように悩んでるはずさ。だが、立ち止まってる暇はないし、塞ぎこむことなんて許されない。そういう立場なんだ、分かるだろ。こういう時こそ、姐さんがあの子を支えてやるべきじゃないのか?」

 以前なら、クルツの言う事は宗介にはぴんと来なかっただろう。大佐とは、雲の上の存在であり、凡人の悩みなど超越していると思っていたのだ。今にして思えば、何と馬鹿らしいことか。

「あー、説教するつもりで来たわけじゃないんだけどな……。とにかく、いつまでも一人で抱え込むな、っつーこと。姐さんには俺達がいるんだからさ。……じゃ。元気でたら、また連絡くれよ」

 そう言うと、クルツは逃げるようにして玄関を出て行った。宗介はクルツの背中を追いながら、先程のクルツの言葉を反芻していた。

 テッサは今、どうしているだろうか。マオと同じように、ろくに食事もとらず、睡眠不足でくまを作っているのではないか?

 宗介の脳裏に、先程見たマオの泣き顔が浮かび、やがてそれはテッサの顔に変化していった。広い艦長室にぽつんと座り、誰にも聞こえないよう静かにすすり泣くテッサの姿が、どんどんと克明になっていく。

 テッサに会いたい。理由は分からないが、今すぐに。宗介は、強くそう思った。

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