第2話 As of lights to illuminate the night #2


 私の母は強い人だった。

 いや、強くなろうとしていただけなのかもしれない。

 何時も勝ち気な笑みを絶やさずに、笑っていれば何時かはどうにかなる、が口癖だった母。

 父のことはあまり知らなかったけれど、母は優しい人だと教えてくれた。

 父の私室で見つけた手記に綴られた外国の旅の記録は面白くて、よく一人でこっそり読んでいた。


 私の両親、二人は。


『火那は、優しい子だから―――――』


 あまりにもあっさりと、抗えぬ運命とやらに殺された。

 母は心臓の病気、父は海外でテロリストに射殺されたと聞いている。

 

 ―――――笑っていれば、何時かはどうにかなる。


「笑ってても、どうにもならなかったよ…… 母さん………」


 ポチャリと、水滴が音を鳴らした。

 シャワーノズルに付着した小さなしずくが、ゆっくりと時間をかけて滴り、浴槽に張った水面へ波紋を描く。

 全身を包むぬるま湯の温かさが心地よく、ちゃんとお風呂にはいるのはいつぶりだろうかと暢気なことも考えてしまった。


「なんなだろうあの人…… 変、ではないけど…… 不思議なカンジだ」


 狼、なんだろうか? それとも人? 元人間とか…人狼ってこともあるかも。

 スタフティ、さん……っていったけ。


 頭のなかに、あの狼頭の不思議な紳士ジェントルの姿が浮かぶ。

 黒と青色の火を操り、息をするように魔法を見せた彼。


 ―――――スタフティ・アシュフォード。


 スタフティ…… ギリシャ語で灰って意味だったっけ。

 なんてことを考えながら、私は顔を湯船に沈めた。





 ◆





「少しくらいは、疲れが取れたかな?」


 微笑んで………いるのかな?

 口の端を吊り上げて、桜色の歯茎と犬歯を剥き出しにしたその表情は、どう見ても獲物に食らいつかんとする獰猛な獣の形相である。

 ただ雰囲気は柔らかいから、怒っているわけでも食べようとしている訳でもないのだろう。


「…はい、ありがとうございます」

「顔が固いね、僕としてはもっと表情を見せてくれると嬉しいんだけど」


 苦笑(顔は怖いけど多分苦笑している)してそう言った彼は、手に持ったティーカップを傾けて、湯気をたてる紅茶を軽く飲んだ。

 カップをローテーブルのコースターに置いて、向かいのソファーを指して。

 

「聞きたいことも多いだろうから、座ってゆっくり話そうじゃないか」


 そう促した。

 別段断る理由もないから、大人しくそこへ腰を掛ける。

 思ったよりも座り心地がよく、私の体を受け止めたクッションに「わっ」と声をあげそうになったけれど、なんとか飲み込んだ。


「着替えのサイズは合っていたかい? 適当に見繕ったものなんだけど」

「はい。大丈夫、です……」


 彼の言うとおり、服装はあの白いワンピースから既に着替えている。

 浴室から上がると脱衣場に用意されていたのだ。

 少しだぼっとしたブラウスと、暖色の赤のカーディガン。チェックのスカートに黒いハイソックス。

 どれも特筆するところはないが、上質なものだとは素人目にも分かるほどだ。


「それはよかった。ブラウニーも喜ぶだろう」

「ブラウニー……?」

「家付き妖精の一種さ。人見知りだから姿は見せないけど、食べ物や飲み物を見返りに家事をやってくれる。使用人みたいなものだと思ってくれて良いよ」


 少し悪戯好きなんだけどね、と彼は付け加えた。

 妖精。彼ら●●はよく目にしていたけれど、妖精という呼び方は絵本や物語以外でははじめて聞いた気がする。

 そういえばここにも彼らはいるのだが、いつもと比べて随分と大人しい。

 悪さをしてくるような空気を纏ったものはほとんどいなくて、いるとしても、ブラウニーのようなちょっとした悪戯程度のものだ。


「紅茶は飲めるかい? 苦手ならコーヒーとかミルクもあるけど」

「えと、構いません。紅茶で大丈夫です」

「分かった。淹れてくるから待ってて」


 そう言って彼は席を立ち、奥の部屋に向かっていった。

 たぶんキッチンだろう。

 

 気になることはあるが、待っていろと言われたのなら何をするでもない。

 じっとソファーの感触を楽しみながら座っていると、ふわりと頬を撫でる柔らかい風が吹いた。


「―――――あら、珍しいわね。灰のところにお客さんなんて」

「え……?」


 気がついたときには、それはテーブルのうえにいた。

 陽の光が反射して青みがかった撫で付けるような濡れ羽色の毛並みに、月のように怪しげな色を湛えた金色の瞳。

 小柄な肢体を小さく丸めてこちらを見上げるのは、一匹の黒猫だ。


「ね、猫……? というか、いま声が… どこから…」

「フフ、こんなところにいるのに、素直な反応なのね。逆に新鮮だわ」

「………喋った?」

「あら、猫は言葉を話せないなんて誰が決めたのかしら?」


 うーん……。

 今さら喋る猫が居るくらいでは驚きはしないけれど………。


「えーと…… どちら様でしょうか」

「うん? アタシのことかしら? 名前なら沢山あるけれど…… ロアって呼んで欲しいわね」

「分かりました、ロア……さん」

「フフ、それで、貴女はなんていうのかしら? 素敵な左目のお嬢さん?」

「え、あ、えと。私の名前は、ヒナです……」

「そう、良い名前ね。ヒナ」


 黒猫……ロアさんはそう言って愉しげに笑う。

 何か話すことはあるだろうかと、ロアさんと話すための話題を模索していると、キッチンのほうから足音が聞こえた。


「貴女のご主人様がお見えのようね」

「ああ、誰と話しているのかと思ったら…… 来ていたのか、月の孤児グルーミー・オルフェン

「あっ、スタフティさん……」

「邪魔してるわよ、灰の」


 彼はカップをテーブルの私の前へ置いて、そのままロアさんの首根っこを掴み上げた。


「ニァァアッ!? ちょ、ちょっとなにすんのよ灰のっ! 離しなさいって!!」

「あまり不用意に、僕のヒナに近づかないでくれ。お前は気まぐれで危険だ」

「えっ、あの、僕のって……」


 確かに私は彼にお買い上げされたけれど、7億円で……。

 それでも、なんだか不思議な気分である。

 彼はロアさんを床に放り投げて、ギシリと音をたてながらソファへ座った。


「ヒナは確かに、稀有な全てを見通す目プロビデンス・オーグルだ。視えるから、そのおかげで純度の高い魔力もある。怪異であるお前たちが欲しがるのも無理はないさ」


 スタリ、と軽く着地をして見せたロアさんは、呆れたような冷えた目を彼へ向けて言った。


「そうだとしても、過保護すぎなんじゃないかしら? "青い火の黒狼"が聞いて呆れるわね。―――――それと、怪異なんて呼ばないでくれるかしら。アタシはあんな低俗な存在とは違う」


 最後は少しだけ、言葉に怒気を孕ませていた。

 ただ魔力がどうの、怪異がどうのなんていう会話には着いていけない。

 プロビデンス・オーグルっていうのは、昨日の晩に聞いたが、どうにも私の左目のことらしい。

 そしてこの目は、とても希少なものらしかった。


「怪異は怪異だ。どっちにしろ、ヒナの魔力が欲しいんだろう。月の孤児グルーミー・オルフェン。成り損ないのお前なら尚更だよ」

「アタシ、そういう灰の偏屈さ、好きになれそうもないわ」

「生憎、魔女に好かれたいとは思わないからね、僕としても丁度良いさ」


 険悪だ。

 正直、二人の間にいる私が一番可哀想である。

 どうしよう、流れ的に私が原因のようなものだ。

 

「お、お二人ともっ、喧嘩はやめま、せんか………」


 冷や汗ものだが、意を決して声を出す。

 若干というにはいささか震えすぎた声だったが、噛まずに言えてよかった。

 窺うように彼の顔を覗き込むと、睨み付けるような眼光は鳴りをひそめ、ポカンとした雰囲気の表情がそこにあった。


「あえ、えと。スタフティ、さん?」


 固まっているので呼び掛けてみる。

 するとハッとしたように瞬きをした彼は、少しして評定を緩め、凶悪な微笑みをその顔に浮かべた。


「やっと顔が解れたね」

「へっ?」


 次はこちらが彼の急変ぶりに目を瞬かせる始末である。

 彼は頬を緩めたまま、黒い手袋に包まれた大きな手のひらで私の頭を、割れ物を扱うように優しく撫で付けてから、口を開いた。


月の孤児グルーミー・オルフェン、今回は何もなかったから良かったけれど、次に下手な真似をすれば―――――頭蓋を噛み砕くぞ…?」

「うっ… 火の消えた灰の身で偉そうに… まあ、いいわ。アタシも今日のところは戻るとするわ。またね、ヒナ」

「え、あ、はいっ」


 そう言うとロアさんは、開いた窓からするりと外へ出て、そのまま影に消えていった。

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魔法使いと忌み仔 ーThe magus and detest pupsー 坂本Alice@竜馬 @EnagaItori0306

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