第4話夕霧

化野あだしのの 老いたる源氏 朧月おぼろづき

      わかなわすれそ 柏木の君


夕霧はこの年になってもどうしても親友柏木の死の謎が解けません。

源氏をとりなして妻落ち葉の宮をよろしく頼むという遺言も

ずっと気になったままです。


何度か源氏に事の真相をと迫りましたがその都度はぐらかされて

きました。今ならばこそ老いたる源氏に事の真相を聞き出さんと

決意を込めて夕霧は嵯峨野へと向かいます。


ほのかに蠟梅が咲きまだ声の回らぬ鶯がほろほろとなく源氏の庵。

惟光が田をを耕しています。昼餉のうす煙の中源氏の読経が聞こえます。


「妙法蓮華経如来寿量品第十六 爾時佛告 諸菩薩及 一切大衆

諸善男子 汝等當信解 如来誠諦之語 又復告 諸大衆

汝等當信解 如来誠諦之語 是時菩薩大衆 弥勒為首 合掌白佛言

世尊 唯願説之 我等當信受佛語 爾時世尊 知諸菩薩 三請不止」


小春日和の土の香り、畑を耕していた惟光が鍬の手を止めて背伸びをし

ます。遠くに牛車の列を見つけます。よく見極めてから土を払い報告に

参ります。このころ源氏は雲隠うんいんと名乗っています。


「雲隠さま、近衛大臣がお越しのようです」

読経をやめて源氏はうなづきます。

「夕霧か」


そう言って源氏は立ち上がり作務衣のまま居間の板敷の上に胡坐を

かいて座ります。お市が膳を運んできます。合掌してすぐに手を付け、


「早蕨か、いい香りじゃなあ。あ、土筆つくしも入っておる」

もう一つの膳が運ばれてきます。さらにお酒と盃。


「夕霧大臣がお見えになりました」

惟光の声の後に狩衣姿の夕霧近衛大臣が入ってこられます。

鼻筋の通った男盛り父への気迫が伝わります。


「親父殿、お勤めのところをまたお邪魔いたします」

「ふむ、早蕨じゃちょうどよい。前は冷泉などもいて何も

話せなんだからの、今日はゆるりとするがよい」


木履を脱ぎながら夕霧が答えます。

「今日は父上に母や友のことを詳しく聞きに伺いました」


「葵上?友とは柏木のことか?」

「さようでござりまする」

夕霧は源氏の顔から目を離さずにどっかと上敷きに胡坐をかきます。

夕霧の気迫がひしひしと源氏に伝わります。


「まあ、きょうはゆるりと語ろうではないか」

源氏は思いめぐらしながらも手探りで徳利を手にいたします。

夕霧は源氏をにらみつけながら徳利に手をやり自酌します。

『今日こそははぐらかされませんよ』


「葵上には悪いことをしたと思っている。お前にも」

「わたしにも?」

「ほとんどかまってやれなかったからの」

源氏は意を決したように空をにらみゆっくりと語りだしました。


「葵上とは幼馴染じゃった。いとこの内大臣の妹御で藤壺より少し下。

柏木の叔母にあたるがの。わしが十二、元服し臣下として源氏の姓を

賜った日に夫婦になった。がしかし、もうその頃はわしの心は藤壺で

一杯じゃった。そういえばお前と妻の雲居の雁も幼馴染?」


「乳母子でございました」

「ほう、祖母ばあやに預けっぱなしでその頃のことは、わしも何

かと忙しくて、空蝉、夕顔、六条御息所、五か所ほど掛け持ちでほん

とにすまん、ほとんど覚えておらんのじゃ。誠に申し訳ない」


老いたる源氏が深々と息子夕霧に頭を下げます。

「いやいや父上親父殿。私は感謝しておりますよ」

源氏はやっと頭を上げまじまじと見えぬ眼で夕霧を見つめます。


「感謝?」

「ええ、とてもありがたく思っております。六位の官位と学問の厳命

を受けた時には正直言って唖然といたしました。その後試験に次ぐ

試験。他のものは遊びほうけていても官位は上がっていくのに」


「つらかったか?」

「ええ辛うございました」

父子は初めて心が通じる思いがしました。

目が潤のをこらえて夕霧は話し続けます。


「しかし今はその学問が身に染みて私の肥やしになっております」

「ありがたいことを言うのう。できた息子じゃ、最後の試験もよう

受かったなあ、あの難関を。して今は?」

「近衛の大将でござります」

「そうかそうか、よくでかした」


父子は嬉しそうに大声で笑います。お市も嬉しそうにお酒を運びます。

惟光も空を仰いで笑っています。惟光は夕霧の舅でもあるのです。


夕霧は笑いながら、

「またはぐらかそうとしてもそうはいきませんよ」

「いやいや、そうは言うても雲居の雁と落ち葉の君と惟光の娘とも?」

「ええ、いろいろありましたが今はみな公平に通っております」

ここでみんなの笑い声が大きく嵯峨野に響きわたります。


ぐいと盃を飲み干すと真顔で夕霧が老いたる源氏に詰め寄ります。


「柏木はなぜ死んだのでしょうか?父上は何かを知っておられます」


「いや、わしは何も知らん。わしにもなにがなんだかよくわからん」





急に場の雰囲気に緊張が走ります。みな聞き耳を立てて


しばし緊張した沈黙が流れます。





「柏木は骨の病で死んだのじゃ、それは皆の知るところじゃろう?」


「その骨の病をさらに重くした何か原因があるはずです」


「お前はわしに何を言わそうとしているのかな?」


「いやただ真実を知りたいだけなのです」


「真実とはどのようなことを?」





「それはわかりません。わたしはただ六条院での蹴鞠の宴の時に


たまたま女御の御簾が上がって女三ノ宮のお姿が垣間見えることが


ありました。柏木も私も姫の美しさにはっと驚きましたが、





わたしは速やかに御簾を閉めよと女御たちのもとに駆け寄りました


が、柏木はぼーっと宮に見とれて突っ立たままでした」





「それは初耳、で?」


「思い返せば父上に病の兄様朱雀院の上皇から正妻に頼むとの


たっての願いということでわずか十三歳の姫君を、とのうわさ


でしたから若き姫君を憐れむものも多く」


「そうだったのか、知らなんだなあ」





夕霧はうそぶいている老いたる源氏をこの時ばかりは軽蔑の


まなざしで睨みつけます。


「柏木がため息ばかりをついていたのをよく覚えています」





「いくら上皇の頼みとあっても若き内親王を老いぼれの後見に


正妻とはというわけか。世代間の戦いじゃなあ。それで?」





「みんなは柏木を応援したいと思いました。小侍従に聞けばわか


ります。紫上が病に伏した時、これももとはといえばこの縁談が


原因ですよ、女三ノ宮は六条院でずっとおひとりでした」





「もしやその時?」


「その通りです」


老いたる源氏は初耳だとは言いながら驚きもしません。


むしろ笑みさえ浮かべているように見えます。



「宮と同じに出家した元の小侍従がすべてを語りました。あの


恋文が源氏殿に見つかりさえしなければと泣き崩れておりました」





老いたる源氏は観念したかのようにか細い声で、


「そうか・・・」


そう言ってうつむいたままじっと目を閉じておられます。





日は少し西に傾いてきました。しんみりとした長い沈黙が流れます。


夕霧も自酌するとすぐに一飲みしじっと沈黙に耐えています。


ついに老いたる源氏の重い口が開きました。





「そういうことだ。・・・恋文を見つけた時にすべてを悟った。がしかし


わしひとりの胸に秘めておけばどうってことはない、桐壷帝のようにと


はじめは思った。懐妊を知るまでは」





夕霧は静かに首を横に振ります。柏木の無念さと源氏の宿世の残酷さに


おののいて思わず涙がほほを伝います。





「懐妊の知らせは地獄の電撃じゃった。過去遠遠劫からのわしの宿世。


どうしても断ち切ることのできぬわしの罪業ここに極まった。


どう計算しても間違いない。柏木の子じゃ。まさに電撃じゃった」





涙にくれる老いたる源氏を哀れとも不憫とも思いながら


夕霧は暖かく父の告白を包みます。





「朱雀院の五十の祝いに」


「病身の柏木を無理やり呼び出して痛烈な皮肉を浴びせた」


「なんと申されたのですか?」


「ううう」


老いたる源氏が涙にくれます。





夕霧が代わりにつぎのようにこたえました。


「わしの権力と神通力でお前を呪い殺してやる!」


「うう、そうじゃ、言葉こそ違え心は魂の怒りそのものじゃった」





「乳母の話では生まれたばかりの若宮をお抱きにもなさらなかった」


「抱けるものかあの時は」





「女三ノ宮はその冷たい仕打ちに出家を決意なさった」


「そうじゃ。わしの知らぬ間に父朱雀院に泣きついて」


「院も辛かったでしょう」





「あの時はみんなが辛かった宿命の嵐にどこもかしこも涙涙、


涙そうそう。あまりの苦しみの極みに涙の笑いがこみあげて


くるほどじゃったよ」





老いたる源氏の顔は涙にぬれてあまりの苦しさにゆがみ


見えぬ眼が空をにらみ横から見ると笑ってるように見えました。



もうこらえてくれというように老いたる源氏は

大きくうなづきながら、お市がそっと持ってきた

手拭いで涙を拭いています。


「親父殿、ほんとのことを語っていただいて誠にありがとう

ございました。私は心から父上に感謝しております」

「感謝?」

「ええ、柏木は臨終の間際に二つのことを私に頼みました。

一つは父上に不興を買ったからうまくとりなしといてくれ

というものでした」


二人ともやっと普段の顔に戻って話は続きます。

「それはもう叶ったな。二つ目は?」

「それはもう叶っています」

「?」

「落ち葉の君を頼むということでしたから」


二人ははたと顔を見合わせて最後に大きく笑い声をあげました。

それは屈託のない天にも届く大きな笑い声でした。


実は柏木の死後その遺言に忠実に夕霧は落ち葉の君を慰めに

通い続けます。さすがにはじめは全く受け付けられません。

しかしコツコツと誠実にこれが夕霧のいいところです。


ついには出家をと望まれる落ち葉の君を無理やりに連れてきます。

それがもとで雲居の雁は子たちを連れて実家に帰ったりします。

律儀な夕霧は月の半分を雲居の雁あと半分を落ち葉の君という

条件でみんな幸せに暮らしています。

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