第3話冷泉院

庵の中央、釈迦像の前に端座して作務衣姿の

源氏が読経しています。


「妙法蓮華経方便品第二 爾時世尊 従三昧 安詳而起

告舎利弗 諸佛智慧 甚深無量 其智慧門 難解難入

一切声聞 僻支佛 所不能知 所以者何 佛曾親近

百千萬億 無数諸佛 儘行諸佛 無量道法 勇猛精進

名稍普門 成就甚深 未曽有法 隋宜諸説 意趣難解

舎利弗 吾従成仏己來 ・・・・・・・」


まき割りをしていた作務衣姿の惟光が駆け込んできます。

「どなたかこちらにお見えのようです。あの牛車は

冷泉院と思われます」


源氏は読経をやめて、

「ふむ、息子か。今まではこうして気楽には会えなかったものな。

十日とあけずにやってくる」

源氏は明るい入り口戸のほうに顔を向けまんざらでもなさそうに微笑みます。

もうほとんど目は見えません。耳も遠くなってきました。


惟光は冷泉院を迎えに行きます。賄まかないの老婆が

源氏の手を取り仏壇前から居間の板の間を越えて寝の間にはいります。

老婆は源氏を立たせたまま作務衣を直綴に着替えさせます。


老婆は前の賄が病気のために里帰りした後にこの庵にやってきました。

どうもこの出家僧が源氏であることは知らないようです。

声もしわがれ浮世にはまるで興味がないようですが

耳はよく聞こえるようです。


「そこもとは名を何と申す?いつもああとかおおとかでは呼びつらいよの」

わざとらしいしわがれ声で老婆は答えます。

「おいちともうします」

「おいち?のちの世にどこかで聞いたような名じゃのう、お・い・ち」


お市は手際よく作務衣を脱がせて練生絹ねりすずしの直綴じきとつに着替えさせます。

「朝の若竹はうまかった、あれは?」

「朝掘りの筍で地中深くこの辺りでとれたもののようです」

しわがれ声は聞きづらく源氏も思わず顔をそむけてしまいます。


着替えも終わりお市は源氏の手を取って居間の板の間の上敷きに座らせます。

お膳が二つ用意してあります。胡坐に座りなおしながら源氏は大きく息ををします。

そこに湯気たつ若竹が運ばれてきました。源氏は合掌してすぐ手を付けます。


「おおこの香りじゃ。この香りは花散里、もしやそなたは花散里?いや

それはありえない。その声と手にするそなたのカサカサの手。花散里は

風そよぐ笹の音、手指は春竹の肌のよう。出家してからは会えもせん。

そうか誰が湯がこうが若竹はこの香りなのじゃ。煩悩即煩悩まだまだじゃ」


お市はぷっと吹き出しながらおくどへもどります。そこへ惟光が冷泉院を

案内して入ってきます。


四十半ばの冷泉院、狩衣姿も帝の時より落ち着かれて

心おきなく父源氏のもとを訪ねてこられます。


冷泉院は木履ぼくりを脱ぎながら、

「父君、お勤めのところをまたお邪魔します」


源氏は笑みながら声のほうをむき、

「なんのなんの若竹じゃ、ちょうど朝掘りの筍を

土地のものが供養してくれた。この間はほとんど話もできなんだ

夕霧などもおったからのう。今日はゆるりと法華経でもひも解こうかな」


冷泉院は狩衣の裾をまくり上座の上敷きに胡坐をかいて座ります。

「いやいやそのようなむつかしいお話は今日はご勘弁を・・」

「そうか、ではきょうは?」

「母上のことを」

「ふじつぼ、・・か」


気まずい雰囲気がしばし流れます。冷泉院は相当の覚悟をしてきているようです。

鋭いまなざしで源氏を見つめていますが源氏にはみえません。

源氏は若竹を口にすると黙して空を見上げます。


「いつわしが父とわかった?」

「母上の四十九日に比叡の僧から聞きました」

「・・・・・」

「厳しく口止めされていたそうです」

「なるほど。おどろいたろう?」

「ええおどろきました。ほんとにおどろきました。

今度会ったらどうしようかと夜も寝られず・・」

「わしが三十二宮が三十七の時だから十四の歳のころかな君は?」

「そうです十四の時です」


源氏は手さぐで冷泉院に酒を注ぎ自らも注いでぐいと一飲みします。

今日ゆっくりとすべてを我が息子に話そうと意を決したようです。


「わしの母は三歳の時に死んだ。位は低いが桐壷の更衣という。

わしは何のことかよくわからなかったが父の桐壷帝は見る影も

なく落ち込んでいたようじゃ。あまりの落ち込みように周りは必死で

生き写しの姫君を探した。それが藤壺、御君の母じゃ」


冷泉院は身を乗り出して聞き入っています。今日こそ事の真相が知れる。

院がごくりと唾をのむ音が聞こえてきそうです。お市もおくどで手を止め、

入り口戸で背を向けて立っている惟光もじっと聞き耳を立てています。


「美しかった。わしより五歳年上で周りからは母桐壷にそっくりといわれ

十二でわしが元服し葵上を迎えてももう心は藤壺だったなあ。そりゃそう

じゃろう、継母とはいえ宮中で姉弟のように育ったからじゃ。人恋初めじゃ」


「初恋?」

「ああ、強烈な初恋じゃ。わしが十八、宮が二十三もう身体はとまりゃせん。

王命婦をかき口説いてついに手びいてもらった。しかし胸のときめきが大き

すぎて何が何だか覚えていない。二度目は三条邸に下がっておられた時この時

の事はよく覚えている。一瞬一瞬が夢の様じゃった。この時に君が宿ったんじゃ」


老いたる源氏はここでようやく我に返って酒をそそぎます。

冷泉院は息づまる思いだったのかここで大きく深呼吸をします。

お市も賄をはじめ惟光も息を抜いて首を動かします。


「しばらくして宮ご懐妊のうわさが広がった。そりゃひやひやもんよ。

まさか?宮も同じ心地じゃったろう。宮中ではことさら会わぬようにした。

しかしまぬがれぬ、紅葉賀の試楽は宮のために舞った、思いっきり宮の前で」


「今でも語り草になっております」

「しかし年が明けても子は生まれぬ。とにかく宮の安産を、必死で祈った。

おそらく宮中も世間の民もみな祈っていたと思うあの時は。二か月遅れで

やっと生まれた玉のような男君。それが御君じゃというわけよ」


「そのことは女房達からよく聞きました。遅れているのは物の怪の仕業とかで

大掛かりな加持祈祷が連日あちこちで行われていたとか」

「そうよ、君はわしの弟。わしは母方の身分が低く皇太子にはなれぬが君は

次の次の帝になれる身、父桐壷帝はことのほか喜ばれた。わしもうれしかった」


冷泉院は笑みを浮かべて源氏を見つめます。年は老いても気品は高く、見えぬ

開いたまなざしもやわらかで声はそれこそ昔の儘で艶つやがあります。


「驚いたのはその春にわしが宮中に上がったとき。帝は若君を

わしに見せ『源氏にそっくりだ』と無邪気に満面の笑み、わしは

、たぶん御簾の中の藤壺の宮も、生きた心地はせなんだ。帝は

最後の最後まで不義の子とは思わなんだと思う」


異様な沈黙に源氏はすぐに言葉を継ぎます


「もしそうでなかったとすれば。父桐壷帝はとてつもなく心の

大きい人やったということやが、それはない」


「帝はその秋母上を中宮にされました」

「そう、それで君の将来は完璧になった。帝は子のわしの将来を占い

臣下の長源氏の名を賜るが、当時のわしはすべてに際立っていた。

兄東宮をも凌ぐほどに。父はその負い目にすべてを許してくれた。

しかし不義の子とわかればそれは絶対に許せるものではない、そう思う」


冷泉院も賄のお市も惟光もここで同時に大きくうなづきます。

「わしはこの間夕顔や葵上を亡くし藤壺にも会えず苦しさのあまり朧月夜

の君と契るがこれがあだとなる。東宮妃になられるお方だったのじゃ。


その後父桐壷院が亡くなり激しく藤壺の宮に言い寄り続けはしたがこれは

叶わぬ恋、父の一周忌についに宮は出家してしまった。これで全ては終

わり。結局足しげく朧月夜の君に通い続けることになる」


「それが知れるところとなり、先を見越して父君は須磨へと」

「そのとおり。須磨は大変じゃったが明石は実に楽しかった。

全てはあの入道のおかげじゃ。疑い晴れて都に戻った次の年じゃったな、

君は帝になり、冷泉帝、いくつの時じゃ?」


「は、十一でございました」

時折お市が酒や肴を運んできます。

「十一か、わしはすぐに内大臣に任じられ参内するようになった」

冷泉院が源氏に酒を注ぎながら、

「絵合わせを覚えておられましょうか?」


「ああ、あの絵合わせは一生忘れられん。君は絵をかくのが好きじゃった」

「梅壺の女御に教えていただきました。弘徽殿の女御も中納言も必死でした。

母藤壺の中宮もお出になりました」

「ああ、宮と御君のもとであの須磨明石の絵巻を披露した今思えば親子3人」


「あの時の絵巻物は?」

「藤壺の宮のもとに。・・・・その年明けて宮は死んだ」

「・・・・・」

「重体なのに身をおこし、御君冷泉帝への忠義を謝して、この腕に抱かれて

静かに息を引き取った。・・・わしが三十二、宮三十七、君十四の時」


しんみりとした時が流れていきます。

日は西に少し傾いてきています。


「今思えば宮の出家は御君冷泉を守るため、宮はわしより御君を取ったのじゃ。

わしは悲嘆にくれたが何とわからず屋だったかと恥ずかしい。もし事が知れて

いたら、わしも宮も冷泉も生きてはおられんかったろう。あまりにも恐ろし」


「あまりにも恐ろしゅうございます」

「そうよの、それからは我が子冷泉のために二人力を合わせて尽力した。

梅壺の女御の入内も絵合もすべて弘徽殿から御君をまもるため。それを察して

藤壺の中宮は静かに息を引き取った・・・」


「そのあと叡山の僧に出生の秘密を聞きました。大原野の鷹狩の時意を決して

初めて父君と思ってお声掛けをしました」


「あの時の緋色の衣は目にやきついておる。帝の言葉とはいえ譲位はいかがな

ものかと断ったの。この時秘密を知ったと悟った、そこで御君は准太政天皇に

わしを格上げしよった。これで少しは気が楽になったのお互いに」


「御意にございます」


二人の笑い声が嵯峨野に響く。

冬の淡い日差しは暮れかかり、山の端が影を帯びてきます。


父子は嵯峨野の片隅で宿世の露を払いつつ面影宮の

天覆う熱き血潮に包まれて思い出深き中宮の笑みと声音

を聞きながら牛車見送る、老いたる源氏の影姿。

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