第2話嵯峨野

京都嵯峨野の冬はとても寒い。

2月は一年でもことさら寒い日々が続きます。


晴れていても雲の流れは早く、日差しが隠れたかと思う間もなく

冷たいみぞれや霧雨に覆われます。


数日前に降り積もった小雪の塊が道脇や苔むした岩陰に、

これからの寒さをじっと耐えて滲ませています。


六条の御息所と源氏が密会した野々宮神社から竹林の小道は

こぼれ日もなくうす暗く、思わず襟を立てて

うっそうと天まで続く竹林の中を大河内山荘に向けて

坂をゆっくり歩み上っていきます。


上り詰めて山荘の門前で大きく深呼吸をします。

なぜならここには平らな大きな空間が広がっていて

一息つくにはもってこいの場所だからです。


白い息をゆっくりと吐きながら

「これから先もまた坂か」と思いつつ


ふと振り返ると、見事な竹林の下り坂に

思わず息を止めて見とれてしまいます。


今も昔もおそらくこの坂の勾配と小道の幅は

竹林の丈は違いがあってもこの香りと空間の漂いは

時が止まったかのような物の怪への入り口を感じます。


山荘前のこの大きなうっそうとした空間をそのまま

西山(小倉山)に上れば山荘に入ります。


日の明かりに左(南)に向かうと角倉了以の像がある亀山公園。

この公園には百人一首の歌碑が至る所にあって山頂からは

保津峡が見下ろせます。中腹には周恩来の「雨中嵐山」の碑。


さらに山深くなる小倉山の麓に、この辺りは散策の丘として

川そばでもあり明石のお方や中宮が源氏や匂宮とをあやしてた、


春の花、夏の川遊戯、秋の紅葉とこの寒さの中にも

源氏と匂宮とが香ってくるようです。


山荘前から右(北)は道狭く急な下り坂で御髪みかみ神社小倉池

に出ます。周囲数十メートルのこの池には何かありそう。


夜訪れれば池の奥に神社の灯がかすかに見え、たなびく雲は

笹のざわめきに、間違いなくここは物の怪のたまり場のようです。


御髪神社は今でこそ理容美容の聖地になってはいますが

おそらく平安のころの女性の出家とは大いに関係があるはずです。


平安美人の第一の条件は長き黒髪。暗闇で手さぐりで香こうの

匂いに包まれて長い髪に触れるところからすべては始まります。


源氏物語では多くの女性が出家しますが、その時バッサリと尼剃り

(おかっぱ)になります。

きれいに切りそろえるのもかなりむつかしかったようですが、

女の命緑の黒髪はいずこへ、化野あだしのへ?。


この小倉山の麓はなぜか世をはかなむ野辺の香り匂いが漂っています。

ここは間違いなく物の怪の、それもかなり濃厚な封印の地であることは

間違いありません。


小倉池の小道をまっすぐに行くと小倉山の麓、

秋の紅葉で有名な常寂光寺に突き当たります。


そこを右手にたらたらを下るとすぐに視界が開けて

一畝ほどの稲田。今は水もなく稲株が広がっています。


落柿舎から去来の墓を経て木漏れ日杉木立の中を

二尊院の大きな馬止めの角を左に曲がると

祇王寺への石畳に出ます。道幅は狭まり心持上り坂。


小倉山裾が間近に迫り右手鳥居本の山すそも迫ってきます。

さらに道幅は狭まり坂がきつくなります。


この先行き着くところ、そこが化野あだしのです。

平安の人々は死人をここに運びました。当時火葬は稀です。


風葬の死体捨て場、両山裾の迫りくる奥の岩壁。烏が群れ

ています。今はトンネルがあって清滝へとすぐに抜けられますが

いまでも切り立つ急こう配の峠岩壁がトンネルわきから登れます。


あだしのはまさに平安人の死体捨て場だったのです。

この入り口にあたるちょっとした平らかなところに

八体の地蔵があります。ちょうど寂庵さんの上手あたりです。


今は駐車場になってますが。この辺りまで荷車や

肩に担いで死人は運ばれ、家族との最後の別れを

ここでしたと思われます。


源氏の庵はまさにこの辺り、寂庵さんの下手あたり

にあったのではないでしょうか。


今は昔平安のころ、年老いた源氏は従者惟光とともに

この地に移り住みます。老いたる源氏は毎日法華経を唱え

方便品も寿量品も諳そらんじています。

目はもうほとんど見えません。


惟光は薪を割っています。賄まかないの老婆が

おぜん立てをしています。耳を澄ますと

聞こえてきます。年は老いても声は昔とちっとも変りません、

艶つやのある若々しい声です。

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