第15話人を守る資格

 あやめ姉さんが社長の愛人、つまり不倫をしていると聞かされて、僕の思考は完全なまでに停止してしまった。どう言葉を返せば良いのか、どう反論すれば良いのか、それすらも判然としなかった。だけど、何か言わなければいけないことは分かっていた。


「……それって、本当なの?」

 口に出たのは馬鹿な問い。はっきり言って愚問だった。あきらくんが嘘や冗談でそんなこと言う人間じゃないって分かりきっていたのに。それでも僕は問わずにいられなかった。嘘や冗談だって、思いたかったから。


「本当だ。何度も言わせるなよ。あいつは社長の愛人だ。しかも愛とか恋とか、そんな純情な気持ちなんかじゃないんだ。金のために抱かれているのさ」

 あきらくんは目尻に浮かんだ涙を親指で拭いながら言いたくもないことを言った。


「だから俺はあいつを嫌っているんだ。憎んでいるんだ」

「でも、どうしてそんなこと知ったの? あきらくんは、その、実際現場を見たって言うのかい? ただの思い込みだとか、証拠がない話じゃないのか?」


 自分で何を言っているのか分からなかった。認めたくなかった。自分の幼馴染が、不倫というか援助交際みたいなことをしているなんて信じたくなかった。


「…………」

 あきらくんの沈黙に対して、僕は雄弁で返す。

「あきらくんがいい加減なことを言う人間じゃあないことぐらい僕にだって分かるよ。でもこの問題はいくらなんでも疑わしいよ。もしかして冤罪かもしれないし、お金は別のところから出ているかもだし、それに真面目なあやめ姉さんがそんなことするはずないじゃないか――」


「実際に見たら、俺はその社長を生かしておかない。必ず殺すだろう」

 僕の言葉を遮って、あきらくんは言う。それも激しい怒りを込めて。


「これを知ったのは、中学三年生のときだ。あいつの口から直接聞いたんだ」

 吐き捨てるようにあきらくんは言った。


「直接聞いた? な、なんで、自分から暴露するようなことを――」

「自分の胸に抱える秘密っていうのは、意外と守れないものなんだ。懺悔室くらい知っているだろう」

「でも実の弟に、一番知られたくないことを、普通言うの?」

「じゃあお前は大切な人に自分の秘密を隠しとおせるのか?」


 僕は高台で河野ちゃんに両親が死んだことを言ったことを思い出した。同時にまだ言っていない秘密も思い浮かんだ。


「……だから告白したの? あやめ姉さんが、あきらくんに?」

「そうだ。そのとおりだよ、聡」

 そう言ってから、あきらくんはスポーツドリンクを飲んだ。


「あの日、俺はずっと疑問に思ってたことを何のためらいもなく言ってしまった。いや、付け加えるように言っちまったんだ。『姉さん、こんな立派な家を買ってくれてありがとう。でもどうやって家なんて買えたんだ?』今から思えば、これがきっかけだろうな」


 あきらくんは――無感情に言う。思い出したくないことを話すのはツラいから、感情を殺すしかなかったんだ。

「そしたらあいつは突然泣き出して、『ごめんなさい、あきらちゃん』って泣き出したんだ。そして自分が社長の愛人だって言ったんだよ」

 僕は口元を押さえた。あきらくんの気持ちが分かってしまったから。


「後のことは知っているだろう。あの日、お前に頼んで家に泊まらせてもらったからな」

「――だから、今でも嫌っているの?」

 当たり前のことを聞いてしまうのは、僕が混乱していたからだ。姉弟喧嘩のレベルを超えている話に付いていけない。そのくらい僕の許容範囲も超えていた。


「そうだ。俺はあいつを許せない!」

 あきらくんの怒りは頂点に達してしまったようだった。


「あいつは汚らわしい真似して、お金を稼いでいるんだ! 汚くていやらしくて、吐き気がする! あんなヤツを同じ遺伝子を持っていると思うと、死にたくなってくる! いっそのこと、あいつを殺して俺も死にたかったよ! でも、それはできない……」


 あきらくんはうな垂れてしまう。けれど怒りが収まっているわけでもなかった。悲しみが大きくなってしまったのだろう。


「俺は、人を殺す度胸がない。ましてや、今まで一緒だった、たった一人の肉親を殺すなんて、できやしないんだ」

 僕はあきらくんにかけてあげる言葉がみつからなかった。自分が大事に思っている姉が実は悲しいことをしているなんて思わなかったのに、それを告白された思いを僕は心から理解してあげることができなかった。


「だから、あきらくんはあやめ姉さんにツラくあたっているの?」

 僕はあきらくんの気持ちを完全に理解してあげられないけど、考えていることは分かる。


「あきらくんは、わざとあやめ姉さんにツラく接しているんだろう? そんなことを止めさせるために、まともに働いてもらうために、わざとそんなことをしているんだね」

「……分かってくれるのか、聡」

 僕はあきらくんを半ば無視するように続けた。


「そして自分を嫌うように仕向けたんだね。こんな自分のために愛人なんて止めさせようと考えさせるように、わざと暴言を吐いたり、身体を突き飛ばしたりしたんだ」


 でも――それは悲しいことだった。どちらも互いのために、互いを思いやっているからこそ、行なっていることだから。


「馬鹿な質問するけど、直接、止めるように言わなかったのかい?」

 この馬鹿な質問に正直にあきらくんは答えてくれた。


「ああ。あの日、言ったさ。もうそんなことやめてくれって。別の会社に移ってくれって言ったんだ。だけどあいつは『それはできないよ。そんなことしたら、家も取られちゃうし、あきらちゃんを養えない』って。それでもいいから、止めてくれって言っても、あいつは、聞く耳を持たなかったんだ」


 これは僕の想像だけど、あやめ姉さんは両親を亡くしてから『失うこと』に対する恐怖感が強くなったんだ。だからあきらくんを『失うこと』を極端に恐れている。だからだろう、自分を犠牲にしてまで、あきらくんと一緒に居たいんだ。

 たとえ嫌われていても。


「あきらくんは養護施設に戻る気持ちはなかったのか?」

「ないわけじゃねえ。むしろ戻りたかった。だけどな、俺が戻ったらあいつ、自殺しちまいそうな気がしたんだ。それにあいつと昔に約束したんだ。どんなことがあっても、離れ離れにならないって」


 あきらくんは苦しんでいるんだ。僕の知らないところで、いつも苦しんでいた。自分が汚れたお金で養われていることに、そうしなければ生きていけないジレンマに苦しんでいたんだ。

 僕は友達失格だなと思った。近くで友達が助けを求めているのに、それを今の今まで知らずに生きていた。あまつさえ、自分の都合で助けを求めるなんて――


 不意にスポーツドリンクが目に入った。このスポーツドリンクも汚れたお金で買われたと思うと、さっきまで気軽に飲んでいたものが、途端に罪深く感じられた。


「あきらくん、言いたくないなら言わなくていい。でもできることなら、答えてほしい」

 僕はこの質問を口にするのは怖かった。答えによっては、もうどうすることもできないからだ。

「なんだよ。言ってみろよ」

 あきらくんは不審げに僕を見た。

 僕は深呼吸してから、訊ねた。


「もう――あやめ姉さんのことは愛していないのかい?」


「…………」

 黙りこんでしまったあきらくんに畳みかけるように僕は言う。


「あきらくんには今まで一緒に居た、何をするにも隣に居てくれたあやめ姉さんのことが――もう好きじゃないのかい?」


「ああ! そうさ! 俺はもうあいつを愛せない!」


 あきらくんは家中に響き渡るじゃないかってくらいに大きな声で叫んだ。

「あんなことをしているあいつを、どうして愛せるんだ! 汚らわしい、汚い真似をしてまで、今の生活を送りたくない! 汚くて汚くてしょうがないんだ!」


 潔癖症のあきらくんの心からの叫びだった。


「俺はあいつのことが好きだった。愛していた。心から慕っていたんだ。でももう駄目だ。あんなことをしているあいつをもう好きになれない! 俺はもう、あいつを愛せない! 嫌いになっちまった! 憎んでしまった! もう二度とあの頃の気持ちに戻れない!」


 そしてあきらくんは床を思いっきり叩いた。どしんと音がして、部屋中が揺れた。

「俺はもう二度と愛せない! 好きだったあいつは、もう二度と会えないから!」

 あきらくんの手を見ると血が滲んでいる。


「あきらくん、ごめんね。本当にごめん」

 僕はあきらくんに謝った。言いたくないことを言わせてしまったから。


 あきらくんは昔から潔癖症だった。汚いことが嫌いだった。そんなあきらくんが柔道を習うと聞いて、驚いたものだった。だけど理由を聞いて納得した。


「世の中の汚いことを解決するには、正しい力が必要なんだ。だから俺は柔道を習う。世の中を綺麗にするためにな」


 だけど、自分の肉親があきらくんの言うところの『汚いこと』をしていた。その苦しみを真に理解できるのは、僕も含めて、あまりいないだろう。


 あきらくんが前に言っていたことを思い出す。

『最低限、人との関わりを保ちつつ、一人でも幸せに生きること』

 それがあきらくんの道だったっけ。今だから分かる。あやめ姉さんは人に頼らないと生きていけないから、それに反発して言ったのだろう。


「なんでお前が謝ってるんだよ……」

 すっかり弱くなったあきらくんに僕は伝えなくちゃいけないことを言う。

「気づいてあげられなくてごめん。苦しんでいることに、分かってあげられなくてごめん。そして、解決できないことだからごめんね」


 僕は情けなかった。苦しんでいる友人を助けられない弱々しくてちっぽけな存在な僕。それがどうして河野ちゃんを助けられるんだろうか。


「おい、聡。大丈夫か?」

「えっ? どうしたの?」

「お前、なんでそんなに悲しそうな顔でいるんだよ?」


 顔に手を当てた。顔が歪んでいた。

 知らず知らずの内に僕は悲しみの表情を見せたようだ。


「ごめんね……悲しみたいのは、僕じゃないのに。本当にごめんね」

 あきらくんはそんな僕に不思議そうに見た。

「お前は強いんだか弱いんだか分からねえけど、少なくとも優しい人間なんだな」


 優しい? 僕が? 


「俺とあいつのために悲しんでくれるお前が、友人として誇らしいよ。あー、お前だったらあの子を守れるかもしれないな」

 あきらくんは無理矢理笑ってみせた。


「な、なんだよいきなり……」

「その話をするために、ここに来たんだろう?」

「まあそうだけどさ」

「前言を撤回するぜ。お前は人のために悲しめる人間だとは思わなかった。自分のためにも悲しめない人間だと思い込んでいた。だけど、そうじゃなかったんだな」

 あきらくんは毅然とした声で言う。


「人を守るってことは親身にそいつのために生きるってことだ。誠実に生きるってことでもある。だけど、お前にはそれが欠けている気がしたんだ。だから俺は反対したんだ」


 そうだったんだ。それこそが人を守る心がけだったんだ。


「でも、お前は俺と違って、欠けていなかった。ちゃんと人を守る資格を持っているんだ」

「じゃあ、あきらくんも協力してくれる?」

 僕の頼みにあきらくんは首を横に振った。

「俺は無理だ。俺には人を守れない。自分の姉だって守れなかったのに、他人を守る手伝いなんてできないだろう」

 そうはっきり言われてしまったら何も返せない。


「そうか。残念だね」

「それでも俺は協力できないけど、応援しているよ」

 あきらくんは真剣な表情で僕に向けて言う。


「お前が弱音を吐きたくなったら、付き合ってやる。お前の心が折れそうなときは、折れないように補強してやる。お前の相談だって乗ってやるよ。そのくらいしかできないけどな」


 そう言ってからあきらくんはにっこり微笑んだ。


「お前の『道』に誰も文句を言わせない。絶対にだ。それが友人として俺のできる唯一のことだからな」

 やっぱりあきらくんは良い奴だ。あやめ姉さんにツラく当たっているのは許容できないけど、それでもあきらくんなりの優しさや気遣いを感じられる。


 僕は目を閉じた。あきらくんの言ったことを反芻して、ようやく人を守る決意というか覚悟を決められた気がした。

 そして目を開けた。

 そこにはあきらくんだけが居たけど、重ねて河野ちゃんの姿も見えた。


「あきらくん、ありがとう」

「お礼を言われるようなこと、してねえよ」

「そんなことないよ。本当にありがとう」


 僕はあきらくんの心に触れた気がして、それがたとえようもなく嬉しかった。

 そして僕は言う。


「ありがとう、あきらくん。今日、あきらくんと話せて良かったよ」

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