第16話悲しみと愛

「遅かったね、聡くん。友達の家で何をしていたのかな?」


 別に皮肉混じりに言っているわけではなく、純粋に疑問に思っているようなトーンで言葉を投げかけたのは、既に僕の家に帰ってきていた梅田先生だった。河野ちゃんも一緒に居た。なんだか元気がなさそうだった。


「ちょっと話し込んでましてね。大したことじゃない、と言えば嘘になりますけど、まあ落ち着いたんで大丈夫です」

 いくら梅田先生でもあきらくんたちの秘密を簡単に話すわけにはいかない。それに加えて吉野さんも河野ちゃんも居るのだから。


「近藤くんの協力は得られそうなの?」

 吉野さんは先ほどの、僕が庇った云々は気にしないようだった。僕は正直に「協力はできないけど、応援はしているって言われたよ」と答えた。


「なにそれ。ちょっと冷たくないかな?」

 不機嫌になる吉野さんに僕は「まあ応援してくれるだけでもありがたいんだから」と一応フォローも入れておく。


「まあ、あの子もいろいろと難しい年頃なのよ。それで、吉野ちゃんはちょっと静ちゃんを連れて二階の部屋に上ってもらえるかな」

 僕はここで違和感を覚えたけど、何も言わなかった。梅田先生の言うとおりが一番正しいと思うから。

 吉野さんも不審に思ったのか「私も居てはいけないんですか?」と訊ねた。


「後で説明してあげるから。それに静ちゃんには聞かせたくないしね」

 さっきから俯いたままの河野ちゃんはそれを聞いて、少しだけ反応したけど、顔をあげることはしなかった。


「それに、今の静ちゃんを一人にするのは、ちょっと不安なのよ。だからお願い」

 梅田先生が手を合わせてお願いの仕草をすると吉野さんは不承不承のような感じで「分かりましたよ」と言ってから河野ちゃんの手を取った。


「さあ、行こう。大丈夫だから」

 優しく気遣いに満ちた言い方で吉野さんにうながされると河野ちゃんは小さく頷いて、椅子から立ち上がり、二人は二階の空き部屋に向かって行った。


「……二人とも行ったかしら?」

 しーんとしているので階段を上がって部屋の扉を閉めた音を聞こえた。だから僕は「うん、部屋に行きましたよ」と答えた。


「そう……そうなのね」

 そう言って、梅田先生は椅子にどかりと座って、天井に顔を向けた。そして大きな溜息を吐いた。

「なんだか、アルコールが欲しい気分だわ」

「……義父さんのとっておき、持って来ましょうか?」


 梅田先生はお酒好きだけど、めったに飲まない。飲むのは特別に良いことがあったときか、最悪に嫌なことがあって忘れたいときぐらいだ。この場合は後者だとなんとなく僕にも分かった。


「それはありがたい申し出だけど、遠慮しておくわ……」

 そう言って、梅田先生は天井を見上げたまま、しばらく黙ってしまった。


 僕はそんな梅田先生を労わるように、食器棚からコップを取り出して、冷蔵庫にあった牛乳を注いで、テーブルの上に置いた。


「梅田先生、少し休んで――」

「休んでいる暇なんて、ないわよ」

 ぴしゃりと僕の言葉を遮って、そしてゆっくりと目線を前に戻した。


 梅田先生の目は、怒りに燃えていた。

 そして――静かに怒りを発散させる。


「くそ野郎……! なんで、あんなことができるのよ……!」

 僕は梅田先生の気を落ち着かせるつもりはなかった。溜め込むと良くないと思ったから。

 だから、こう返した。


「やっぱり酷い父親だったんですね」

「そうよ。そうなの。そうなのよ。なんで、あんなことができるのよ! 人とは思えない、残酷なことができるわけ!?」

 どんっと机を思いっきり叩いた。梅田先生は取り乱していた。この姿を見るのは僕の両親が死んで以来だった。

 こんな姿を僕以外に見られたくないから、二人を二階に上らしたんだなあとぼんやりと思った。


「あの子が、何をしたっていうのよ……いや、どんなことでも、あそこまでしちゃいけないわよ……」

 次第に怒りが悲しみに変わっていく。

 僕は聞きたくないけど、聞かないといけないと悟った。さっきあきらくんの話を聞いたときと同じ感覚だった。


「河野ちゃんは……どんなことをされていたんですか?」

「……聡くん、あなたに聞く勇気はある?」

 シンプルだけど限りなく重い問い。僕は迷うことなく頷いた。


「聞かせてください」

「……なんでためらいもなく聞けるのよ」

「知る必要が、あるからです。河野ちゃんのことを知る必要が」

「それはどうして?」

 僕は真剣に答えた。


「だって、一生守るって決めたんですから」


 梅田先生は数瞬悩んで、僕を見つめてからまた大きな溜息を吐いた。

 そして予想していた、できるかぎり最悪な言葉を、梅田先生は言った。

「あの子、日常的に虐待を受けていたわ」

 梅田先生は淡々と話し出す。


「身体中に殴打の痕。タバコによる円形の火傷。ベルトによる傷痕。背中には引っ掻き傷。およそ考えられる虐待の形跡があったわ」

「……そうですか」


 僕は――目を閉じた。そして想像する。河野ちゃんの苦しみを。悲しみを。そして誰も助けてくれなかった絶望を。誰も見つけてくれなかった失望を。それらを追体験するように僕は咀嚼して反芻して、ようやく目を開けられた。


「診察してくれた私の友人も、絶句していたわ。私も知って何も言えなかった。だけど、それ以上に悲しかったことがあるわ」

 梅田先生は本当に悲しげな表情を見せた。これ以上ないってくらい、悲しげだった。

「静ちゃんがその傷跡を当然のように受け入れていることなのよ。ツラいなんて思ってない。恥ずかしいとも思っていない。ただ、触ると痛いとしか思っていないの。それが――やるせなかった」


 僕もその場に居たら同じ気持ちになっていただろう。河野ちゃんは受け入れてしまっている。正確には虐待されると痛いけど、我慢しなくちゃいけないと思い込んでいるんだ。


 その気持ちもよく分かった。僕もそうだったから。

「すぐに児童相談所に通報したわ。それでどうなるのか、見当もつかないけど。少なくともあの酷い父親からは離れられると思う。けれど――」

 梅田先生はそこで躊躇するように言葉を切った。


「静ちゃんに父親をどう思っているのか、訊ねたのよ。そしたらどんな返事が来たと思う? 想像できる?」

「想像って、そりゃあ悪い父親だと思っているんじゃないですか?」


 当たり前のことを僕は言ってみる。自分に暴力を振るう大人、人間に対して憎悪の気持ちが湧かない者なんてこの世には居ないはずだ。もし抱かないとしたら、被害者、この場合は河野ちゃんのことだけど、彼女自身がおかしくなってしまう。


「静ちゃんは、自分の父親のことを悪く言わなかったわ。良い父親とも言わなかったけど」

 僕は言葉に詰まった。本当に何も言えなくなったからだ。


「静ちゃんの父親は、話を聞くかぎり、精神的に病んでいるわ。殴る蹴るの暴行を加えた後、必ず謝るそうよ。『ごめんね、許してくれ』って必ず言うらしいのよ」

 僕は信じられない気持ちだった。河野ちゃんのことを『アレ』だとか名前で呼ばない人間が謝ったりするものか。


「河野ちゃんが庇ってたりすることはありえますか? 言いたくないですけど、嘘の証言を言ったりしませんか?」

「私が聞いたかぎりだとそんな感じはしなかったわ。それに信じられないかもしれないけど、父親を擁護する言葉も出てきたわ」


 そして梅田先生は深くうな垂れた。


「ストックホルム症候群の典型的な症状ね。確かに暴力は嫌だと思っているけど、それを愛情だと勘違いしている。そして必ず謝る行為をすることで、父親への憎悪を抑え付けられているのよ。本当に、本当に――」


 梅田先生は顔を背けた。その後に続く言葉は「可哀想な子」だと思う。だけど口に出してしまえば、本当に可哀想に思えるんだ。

 それだけは避けないといけない。間違っても同情なんかで動いたりしてはいけないんだ。

 同情や哀れみで人を救うだなんて、その人に対して失礼だし、傲慢極まりない。僕はそんな感情で動いたりしない。


「ねえ。前に話したと思うけど、やっぱり親にも資格が必要なのよ」

 梅田先生は僕に確認するように言う。

「資格、資質。それらがないと人を育ててはいけないのよ。ない人間はどこかで歪んでしまう。育てられた人間にも歪みが生じる。そして歪んだ人間はまた歪んだ人間を育ててしまう。悪循環なのよ」


「河野ちゃんは歪んではいませんよ。少し変わっているだけです」

 僕はすぐさま否定した。河野ちゃんが歪んでいるなんて、たとえ話でも許容できなかった。

 河野ちゃんはまともじゃないかもしれない。だけど決して歪んでいるわけじゃない。


「静ちゃんは良い子よ。それは認める。だけどね、あの子自身が助けを求めたことある?」

「それは――」

 記憶を辿ると、確かに『助けて』だとか言われたことはなかった。でも我慢しなくていいのとは言われたことはある。


「我慢しなくていいってことは、暴力、虐待に対して我慢できるってことなのよ。裏返せばね」

「それでも、僕は守りたいんです」

「聡くん、あなたはいつから静ちゃんを大切に想えるようになったのよ?」


 僕ははっきりと覚えていた。お気に入りの高台での出来事を鮮明に思い返すことができた。

「僕と河野ちゃんは一緒なんです。だから親近感が湧いたのかもしれません。守りたいと思えるようになったんです」


 梅田先生は深く頷いた。

「確かに一緒ね。親に虐待を受けていたという点では一緒。だけどね、聡くん。一緒だとしても、それが守る決意になるわけじゃないのよ。守りたい気持ちに変わるのは――」

 梅田先生は少しだけ言葉を切った。


「多分、愛情へと変わっていったからよ。あなたは静ちゃんのこと好きでしょ」


 僕は「ええ、好きですよ」とすんなり答えた。

「いや、そうじゃなくて、異性として好きかどうか聞いているのよ」

 僕は首を振った。

「それはないです。僕は恋を知らないお子様ですから。男女間の友情も信じている人間ですし」

 梅田先生はそれを聞いて「本当にそうなのかしら?」と不思議に思っていた。


「あの子、可愛いじゃない。男の子として何か思うところもないの?」

「見た目で惚れるなんて、不純だと思いませんか?」

「いや、思春期の男の子としては真っ当だと思うわよ」

「そうなんですか? でも僕は心とか相性とか信じてますから」

 梅田先生は軽く笑った。ようやく笑ってくれた。


「まったく、素直じゃないわね。それに少しだけ不安に思えたわ。もしも聡くんが愛情で動いてくれたら良かったのに」

「それってどういう意味ですか?」

 梅田先生は今まで放置されていた牛乳の入ったコップを手に取った。

 そして一気に、ごくごくと喉を鳴らして飲み干した。


「ぷは。聡くんはそういうところはお子様というか未発達なのね。この件が解決したらカウンセリングを受けることを薦めるわ」

 梅田先生が何を言いたいのか分からなかった。だけど不思議と不快に思わなかった。知りたい欲求だけが僕の感情だった。


「教えてくださいよ。どうして愛情で動いたほうが良いんですか?」

「何よ。本とかで読んだりしないの?」

「読書はあまり好きじゃないです」

「恋愛小説も読まないの? それはちょっと人生を損しているわよ」

 そう言いながら、梅田先生はコップを弄る。


「古今東西、ヒーローや主人公はヒロインのために動くとき、無限の力を発揮するものなのよ。それが愛情のなせる技なのよ」

 僕は次第に何が言いたいのか分かってきたけど、梅田先生の言葉を待っていた。

 不意にあきらくんのことを思い出した。そしてあやめ姉さんのことも。もしも愛があったら今でも彼らは仲良くやれていたのだろうか?


「聡くん、守りたいと思うなら、愛情を持ちなさい。それが一番の力になりえるのよ」

 梅田先生は実にはっきりと言う。

「どうして愛情を持たないといけないんですか? 僕はヒーローでも主人公でもないんですよ?」

「だから愛情を持つ必要があるのよ。世界を守るヒーローも世界の主人公も必ず持っているのよ」

 そして梅田先生はにっこりと微笑んだ。


「だって、愛さえあれば、人は無敵になれるんだから」

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