第14話あきらくんの家

 あきらくんの家は僕の自宅からそんなに離れていない。というより近所だ。だから何かあってもすぐに駆けつけられる。

 何かとは僕のことだったり、あきらくんのことだったりする。そうやって僕たちは助け合い、支え合い、補い合いしてきたのだ。


 あきらくんの家は中古の一軒家だ。養護施設から出るときに買ったらしい。家族はあきらくんのその姉、あやめ姉さんしか住んでいない。両親は既に死別しているので、二人暮らしだ。

 前にも言ったと思うけど、あきらくんとあやめ姉さんの仲はかなり悪い。いや、あきらくんがあやめ姉さんのことを一方的に嫌っていると言ったほうが正しい。

 だけど、どのように嫌っているのか、僕はこの時点では知らなかった。姉弟喧嘩の枠に留まっているのか、それとも憎悪しているのかも知らなかった。


 だから、目の前で起こることの覚悟が、僕にはなかったのだ。


 あきらくんは玄関で家の鍵を取り出そうとした。僕はその後ろで待っている。ここに来るまでの会話はまったく無かったので、少々気まずさを覚えていたところだった。

 しかし会話をしていなかったおかげで、家の中でガサガサ音がしているのに気づいたのは二人同時だった。


「誰だ? もしかして泥棒か?」

「あやめ姉さんじゃないの?」

「あいつは仕事だからここに居ないぜ」

 あきらくんはそう答えて、僕に下がれと言った。臨戦態勢だ。もしも泥棒や強盗だったら、自分で対処するつもりみたいだ。


「もしも凶器を持ってたら、急いで逃げるぞ。いいな?」

「う、うん。分かった」

「よし、開けるぞ?」


 元々鍵もかかっていなかったようだったので、勢いよく開けることができた。

 ばあんと音を立てて、ドアが開いた。


「きゃあああ! な、何!?」

 そこに立っていたのは、あやめ姉さんだった。あやめ姉さんは仕事姿で、今まさに靴を履こうとしているところだった。


 なんだ、あやめ姉さんか。そんな風に思うと緊張感が一気に弛緩する。

 僕はあやめ姉さんに挨拶しようとする――


「なんでてめえが居るんだよ」

 そして気づいた。空気が冷たくなっていることに。


「え、あ、その、私……」

 あやめ姉さんの顔色が真っ青になる。ヒリヒリと空気が凍える感じがした。


「どけよ。今すぐここから出て行けよ」

 あきらくんの怒気が高まっているのを感じた。びっくとあやめ姉さんの身体が震えた。


「どけって言ってんだろ!!」

 あきらくんはあやめ姉さんの身体を引っ張って、玄関から引きずり出した。勢いが強すぎて、あやめ姉さんは転んでしまう。


「きゃああ!」

「ちょっと! それはないよあきらくん!」

 僕はあやめ姉さんの身体を支えつつ抗議した。いくら仲が悪くてもそこまで――


「つっ立てるのが悪いんだよ。いつまでも目の前に居るのが鬱陶しいんだよ」

 そう吐き捨ててさっさと家の中に入るあきらくん。


「お前もそんなヤツ置いて早く来いよ」

 中からそんな声が聞こえるけど、そんなの構うものか。

「大丈夫ですか? あやめ姉さん」

 声をかけても俯いたままだった。


 あやめ姉さんはあきらくんとよく似ている。だけど女性らしい凛々しさとか弱さが併せ持っていて、とても女性らしかった。

「うん……大丈夫、聡くん」

 そう言って立ち上がるあやめ姉さんの瞳には涙が浮かんでいた。


「後で言っておきます。いくらなんでも酷すぎます。身内に対して――」

「いいの。聡くん。私が悪いんだから」

 そう言ってすっと立ち上がったあやめ姉さん。


「私がぐずぐずしてたから、あきら怒っちゃったみたいね」

 そして悲しそうな笑みを見せる。


「聡くんも気にしないで。それじゃ、仕事に行ってくるから。じゃあね」

 あやめ姉さんは本当は辛いはずなのに、悲しいはずなのに、そのまま気丈に歩いていった。僕はかける言葉が見つからなくて、黙って見送ってしまった。


 なんで仲が悪くなってしまったのだろう。養護施設に居たときはあんなに仲が良かったのに。いつも一緒に居たはずなのに。

 僕は切なくなって、その感情を心の片隅に残してから、家に入った。

 ちゃんと玄関の鍵を閉め忘れないように気をつけて。


 あきらくんの家に上がるのは中学三年生の秋以来だった。決定的に仲が悪くなったあの日からずっと来ていなかった。

 あきらくんの部屋は二階にあるはずだから、僕は階段を上った。そしてドアが開いてる部屋に「お邪魔します」と言ってから中に入った。


「……あいつのことはほっとけって言ったのに、遅かったじゃないか」

 未だに怒りが収まらない様子のあきらくん。

「ほっとくわけにはいかないよ。僕はあやめ姉さんの幼馴染でもあるんだから」

 そう言いつつ、僕は部屋の内装を見渡した。

 あきらくんは大柄な見た目とは裏腹に意外と潔癖症で、とても綺麗に整頓されていた。

 ダンベルなどの室内でできるトレーニング器具、勉強机と椅子。シングルベットに小さな冷蔵庫。三種類のゴミ箱。そして格闘技雑誌が置いてあった。

 まるで一人暮らしの体育会系大学生の部屋みたいだった。


「そんなじろじろ見るなよ。恥ずかしい」

「いや、久しぶりに入ったけど、何も変わらないね」

「まあな。あまり変化を好まない性格なんだ。ほれ、何か飲むか?」

 あきらくんは冷蔵庫の中からスポーツドリンクを二本取り出して、片方を僕に渡した。

 僕は「ありがとう」と言って、ペットボトルの蓋を開けて、ごくごくと飲んだ。


「ふふ。やっぱりお前はおかしいよ」

 くくっと喉の奥で笑うあきらくん。

「うん? おかしいって何が?」

「さっきまで自分の幼馴染を傷つけられて、怒っていたのに、その怒るべき人間にもう怒りを覚えていないところだよ。しかも礼も言ってしまっているし」

 指摘されて気づいたけど、確かに怒りがなくなっている。


「うーん、そうだね……僕おかしいのかもしれないね」

 あっさりと認めるとあきらくんは「そういうところを俺は気に入っているんだ」と言う。


「何事にも感情を覚えずに執着もしないところが気に入っている。まあ俺は歪んでいるけど、お前を見ていると、少しはまともな感じがしてくるんだ」

「そりゃどうも。僕も正直なあきらくんを気に入っているよ。そして僕を理解してくれるところも。だからあきらくんと居て安心するんだよ」


 ああ、僕たちは歪んでいるんだなあと会話していて気づく。まともな神経をしていないから、惹かれあうんだ。僕が河野ちゃんを守ると決めたのも、河野ちゃんが変わっているからかもしれないな。


「だからはっきり言うぜ。お前は河野静を守れない。そして救えない」

 真剣な眼差しだった。嘘偽りもない真摯な瞳。僕はそれに対して躊躇してしまうけど、はっきりと「そんなことないよ」と否定する。


「僕だって人一人守れるよ」

「そんな捨て犬を飼いたいからちゃんと世話するよみたいに言われてもな。俺はお前のことを知っているから分かるんだ」

 そこで言葉を切って、ドリンクを飲んでから、はっきり言った。


「お前は強い人間だ。自分では弱い人間だと思うかもしれないけど、実際は強い人間なんだ。だけど、人を守れる強さを持ち得ていると言えないんだ。なぜならお前はまともじゃないからだ」

 僕は何も言わずに、あきらくんの言葉を聞いていた。


「そうだな。たとえば不登校の人間が大人になって、スクールカウンセラーになったとする。そいつが同じ不登校の生徒をまともにできるとお前は思うか?」

「思えないね」

「どうしてだ? 理由を言ってみな」

「不登校の生徒の気持ちが分かるだけで、解決に導くことはできないから」

 僕の言葉にあきらくんは納得したみたいだった。


「そうさ。元不登校の人間が、真面目に登校できるように不登校の生徒を導くなんてできるわけがない。真面目に道を誤らなかった人間の言葉こそ、説得力があるのさ」

 だから――僕にはその資格がないのか。


「お前は俺と同じ両親を失っちまった。親の居ない人間に親からまともに愛情を注がれなかった人間を、本当に守れると思うのか?」

「それが反対している理由なんだね」

 僕は敢えて友人の言葉を否定してみる。


「でも、僕だって、まともじゃないけど、守りたい人ができたんだ。それだけでも進歩したと言えなくないかい?」

「まあな。俺と違ってそこだけはまともになったな。山崎の件を考えても、よく決断したと思うぜ」

 いきなり手放しで褒められて面を食らった。


「しかしなあ。お前は頭が良いけど、向こう見ずなところもあるからな」

「無鉄砲なところがあるって言いたいのかい?」

「いや、余所見をしないで真っ直ぐ見つめるといったほうが正しいのかもしれないな」

 分かるような分からないようなことだった。

「お前は一度決めたら一直線なところがあるんだ。それが一番怖いんだ。だってそうだろう? クラスメイトの拳にボールペンを突き刺すなんて、思いついてもやらないぜ? はっきり言って異常だよ」

 そう言われるとそうなのかもしれない。僕はまた一口ドリンクを飲んだ。


「もしかするとお前はこの件を解決するために、河野静の父親を殺すかもしれない。もしくは再起不能に叩きのめすのかもしれない。そう考えていないか?」

 心配そうに僕を見つめるあきらくんに僕は「そんなことしないよ」とはっきり言った。

 これは誤魔化しだった。しないと言いつつ考えていることでもあったから。流石僕の友人。僕の考えていることをズバッと言い当ててくれる。


「だからお前は危ういんだ。恐ろしいんだ。そんなお前だから、あの子を守れないし救えないんだ」

 そう結ぶように言って、あきらくんは黙り込んでしまった。

 僕はあきらくんの言葉を反復して、反芻して、考えて、そしてこう言った。


「大丈夫だよ。この件は必ず解決してみせるから」

「どうだかな。お前は俺とあいつのことも解決できなかったじゃねえか」

「そうだよ。どうしてあきらくんはあやめ姉さんと仲が悪いのさ?」


 僕はついに言うことができた。今まで気になっていたけど、触れてはいけない気がして、言えなかったことを訊ねることができた。


「…………」

「実の姉弟でしょ? たった二人の家族でしょ? どうしてそんなに仲が悪くなったのさ?」

 黙りこんでしまったあきらくんに僕は突っ込んだ話をしてみる。


「いくら何でもさっきのはどうかと思うしね。僕にできることならなんでも言ってよ。もしかしたら解決できるかもしれない――」


「できねえよ。お前ではな。いや、誰にもできねえよ」


 言葉を遮るようにあきらくんは言った。

 あきらくんの表情は怒りとか悲しみとか、そんな単純で分かりやすいものではなかった。


 何か痛みを堪えているような。

 何か想いを湛えているような。

 そんな複雑な表情だった。


「なあ。俺の話を聞いてくれるか? 俺の苦しみを理解してくれるか?」

 僕は悩むことなく「うん。分かった」と頷いた。だって、数少ない友達だし、何よりかけがえのない幼馴染だったから。


「不思議に思わないか? どうやってあいつはこの家を手に入れたのか、疑問に思わないか?」

 そう言われて気づく。いくら大企業に勤めているからと言っても、いくら中古の家だからと言っても、頭金だけでも支払うのにどれだけの資金が必要だろうか。


「僕も疑問に思ってたけど……でも聞くのもどうかなと思ってたんだ」

「そうだな。俺も家が手に入って浮かれてて、気にしなかった。それがそもそもの間違いだった」

 あきらくんは罪を告白するように、僕に言う。あきらくんは何一つ悪くないのに。

「あいつはある人間からお金を貰って、それで家を買ったんだ。そして俺を養うお金も、今もそいつから貰っている」


 何が言いたいのか、分からなかった。だけど聞いてはいけない気持ちに襲われた。

 しかし聞かないといけなかった。それが友人としての義務だと思うから。


「俺はその事実に耐え切れない。ツラくて悲しくて、たまらないんだ」


 あきらくんの瞳に涙が浮かんだ。

 そして聞きたくなかった、だけど聞くべき秘密をあきらくんは言う。


「あいつは、今勤めている会社の社長の愛人なんだ。あいつは汚い金で俺を養っている。その事実に、俺は耐え切れないんだ」

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