第9話

 ノックの音が響いた。

 ドアに視線を走らせ、再び戻し、アレンは改めて少女の寝顔を見遣る。起きる気配は無かった。

「俺だ。アレン、居るんだろ?」

 ひそやかな声が遠慮がちに扉へ当たった。間を措かずに静かに戸は開かれ、マスターが顔を覗かせた。

「お嬢ちゃんの様子はどんなだ? 熱は引いたか?」

「ああ。今は眠ってる。」

 返事を聞きながら、マスターは静かに部屋の中へ進んだ。ベッドの傍へ立ち、上から覗き込んだ。

「そうか。緊張の糸が解けたんだな、可哀そうに。」

 マスターは少女の顔を見ている。アレンはマスターの背中を見つめ、眉を顰めていた。可哀そうという言葉がいやに心の隅に引っ掛かっていた。


 壁にもたれたままで腕を組む。羊毛のセーターはマスターが手入れをしてくれていたようで、すっかりと乾かされていた。バスタブには熱めの湯が張られていた。濡れたカーゴも暖炉の傍で乾きかけになっていた。ベッドに眠るアリーシャも、マスターの娘シャロットのパジャマを着せられていた。階下の喧騒も止み、雨音だけが響く。

 雨の降り付けるガラスの向こう、闇の世界に二時を知らせる鐘が鳴った。


 マスターはコックコートのまま二階へ上がっていた。仕事の途中で抜けてきたに違いなく、階下からは油の匂いがこの男と共に上がってきていた。揚げ油は獣臭く、その中に僅かながらエビの類に似た臭いが混ざっていた。川エビ料理の下ごしらえでも作っていたものか。昼食の仕込みだろうか。

 コックコートの分厚い生地の背中は卸したてのように綺麗だ。これが正面を向けば、茶色く変色したシミで薄汚れていた。腹のあたりは特にひどく、こげ茶色になっていた。客前には出ない仕事着だ。

 マスターはアレンの方へ身体を向けて立っている。その陰になって、少女の顔は見えなくなった。


「シルバードーンへ向かわせた偵察が帰ってきたぜ、アレン。確かに連中は王宮警備の腕章を付けていたらしい。が――」

 マスターはそのタイミングで太った腹を軽く揺さぶった。

「あまり、素行はよろしくない連中だそうだ。」

 片方の眉が上がり、口元の片側だけを吊り上げてマスターが半分の笑みを浮かべた。

「だろうな。」

 腕を組んだ姿勢のままで、アレンが答えた。


 シルバードーンまでの行程は馬を使って一日半掛かる。だが、ヴェルトーク領内には高山地帯を走る貨物鉄道が存在し、これを使えば数時間で首都と各鉱山都市を行き来できた。帝国内有数の近代都市ならではだ。使いを送り、様子を見てまた戻らせるくらいなら一日と掛からなかった。


「報告を聞いたところじゃ、連中はまるきりならず者って風体の奴ばかりだったらしい。とても、女王様直属の騎士団から派遣されたとは思えないな。酒場にゃ平気で入り浸る、挙句に暴れる、路上で殴り合う、……護衛騎士とは思えない振る舞いだ。」

 嫌悪感を露わに、マスターは吐き捨てた。

「グラハム、」

 アレンが呼んだ。咎める響きが声に含まれていた。

「ああ、ああ。解かってるよ、何処のどいつが聞き耳立ててやがるか解からないって言うんだろう? おととい来やがれ、だ。国中が陰険な空気であっぷあっぷしちまうよ、まったく。お前さんもよく――、」

 しまった、そんな表情を浮かべてマスターは言葉を途切れさせた。グラハム・エイダン、引退しているが名うての暗殺者だった男は、照れ隠しのように苦い笑みを浮かべて頭を掻いた。

「俺としたことが。最近は口が軽くていけないな。」


 双方がそれきり黙り込んだ。雨は変わらず降り続けている。雨脚はいくぶん緩やかになったようでもある。確かめるように傍らの窓へ視線を移し、アレンは水滴の幕で煌めくステンドグラスとなったガラスを見つめた。

 低く放たれた言葉は、独り言のようにも聞こえた。

「正規の兵であるはずがない。都合よく扱えるゴロツキが纏まった数で必要だっただけだろう。」

「違いない。本物なら、よほど人が足りないにしても、もっと厳しく統制されてるもんだな。市民に迷惑を掛けるなんてありえん。処罰対象だ。」

 言い放ってから、マスターは首をかしげた。壁にもたれたままのアレンに倣い、腕を組んで考え込んだ。


 再び訪れた沈黙に、屋根を叩く雨音が室内へ篭もり始める。壁を斜めに走る水滴と地面に届いて水溜りへ合流した雨粒と、それぞれに不協和音を奏でていたが、奇妙なリズムを刻むある種の旋律にも聞こえた。

 アレンが言葉を発して雨の輪唱を遮った。

「場所を移そう。病人の居る部屋でする話じゃない。」

 アレンの視線は目の前の男を通り越した先に向けられており、気付いたグラハムが一歩横へと身体をずらす。ついでのように視線を落として、自身も眠る少女の顔を眺めた。

 扉の開く音が雨音に混じる。マスターは気付いて前を向き、先に外へ出た男の後へ続いた。


 廊下は真っ暗だった。仄かなランプの灯に慣れた目は、すぐに暗闇にも順応する。酒場の二階は四室で、階段を上がってすぐ、向かい合ったドアの二部屋は客室だ。奥の二部屋はマスターと娘が住んでいた。

 アレンはグラハムを待ち、先に行かせる。廊下の奥、右側のドアを開けてマスターは手招きで迎えた。ランプに灯が入る。客室と同じ、掃除の行き届いた部屋だった。奥まった所の天井が急な斜面になっている。切り出し屋根の圧迫は六十度ほどの角度のようだ。

 ドアに、アレンは背を預ける。先程までと同じに腕を組んだ。


 オレンジ色の灯影の下で、グラハムは難しい表情をしていた。頼りになる相談役だが、近ごろはとみに皺が深くなった。酒場のマスターに収まって、妻を亡くしてからだ。難しい顔をして、また腕を組んだ。


「奴等、いったい何処であの腕章を手に入れたんだろうな? そう簡単に入手出来る代物じゃないだろう?」

「役人を抱き込めば簡単に運ぶ。可能とする者が限られてくるというだけだな。」

 マスターは頷き、アレンの説に賛同する意を示した。

 護衛の騎士は証としてそれぞれが腕に腕章を付けている。偵察に向かった男の証言では、護衛の全員が腕章を持っていたらしい。腕章が偽物である可能性を早期に消して、アレンは微かに首を振った。疑問が幾つもよぎった。

 グラハムは納得したようだった。反芻するように、確認事項を述べ挙げた。


「女王選抜に関わる一切は、公平を期すために特別の関連機関が取り仕切るが……役員も人間だ、買収が不可能ってわけはない、か。そうなると怪しいのは有力諸侯、いや、三公の誰かだな。まぁ何にせよ、狙われる理由ってのが解からんのじゃなぁ。」

「ああ。」

「いやに素っ気ない返事だな。引き受けたんだろう、さっきから何を考えてるんだ?」

 訝る視線を受けて、アレンは決まり悪く身体をゆすり、腕を組み替えた。


「敵の陣容についてだ。狙われる理由もおおよその見当は付いてる。何処かで、彼女の秘密が漏れたんだろう、回復魔法が使えるってのは、大した事だからな。秘密にしたくもなる。」

 暗い眼差しでアレンは虚空を見つめた。少女の両親が焦燥を抱いた訳も、はっきりと解かった。

 マスターは気付かなかったようで、素通りにして軽い口調を続けた。

「瀕死の重傷ですら癒す力、か。確かに聞いたこともないくらい凄い力だったわけだけどよ、それで一体誰の邪魔になるっていうんだ?」

「現女王が治癒できるんじゃないかと気付いた奴だろうな。それ以外は考えられない。」

 アレンの言葉を受けて、グラハムがぴくりと眉を跳ね上げた。


 組んだ腕を解いて、グラハムは自身の腹部を軽く撫でた。迷う仕草だった。それから彼はサイドテーブルに寄って椅子を引き、どっかりと腰を据えた。片方の足が苛立ちを隠すようにリズムを刻んで床を叩く。


「女王に復帰されて困る連中なんぞ、貴族どもはそれこそほとんどが当て嵌まっちまうぜ。新女王の後ろ盾になれば、国政を牛耳れる。皆、一発逆転を考えてやがるだろう。」

「そうだ。現在、権力を一手に握る一人を除いた残り三公、すべてが疑わしいって事になる。それぞれに動機も存在するわけだからな。」

 淀みなく、全ての疑問に答えるアレンに、グラハムは複雑な表情を浮かべて視線を合わせた。口元がヘの字に曲がって引き結ばれている。何か言いたげだとはアレンにも解かっていた。

 わけもなく喉が渇いていた。浴びるほど飲んだ安い酒のせいだと思った。


 グラハムの眼差しを正視することは難しかった。瞳に浮かぶ憐みが無性に腹立たしく感じ、その奥に潜む諦念までが垣間見られて、疎ましさを覚える。露骨に視線を逸らしたアレンに、グラハムは諭すような口調を作って言葉を浴びせかける。

「今の治世は先代女王の頃に比べりゃ天国だよ、アレン。戦争続きで、国土は大きくなったが人は激減したあの時代に比べりゃな。大陸全土の統一国家なんてのは、正直、誰も望んじゃいなかったんだ。ここの領主はその辺をよぉく解かっているから、妖魔の住まう森を放置していらっしゃる。……それでいいんだよ、民衆は誰もあの森を今すぐ欲しいなんて考えちゃいない。」

「……あのままでは、いずれ破綻しただろう。」

「そうだな。酷かった。」

 喉の渇きを持て余している。目の前の男も同じ気持ちのようで、忙しなく周囲を見回して何かを探している風だった。手が自然とジョッキを掴む仕草を作り、閉じたり開いたりを繰り返していた。

 帝国の地図が大陸の三分の二を埋め尽くす頃には、他国との戦火とは別に貧民の上げた狼煙の火が混じるようになっていた。時を同じくして、女王は病の床につき、崩御した。巷では毒殺の噂が囁かれた。


「グラハム、悪いがあの娘の能力については他言無用で徹したい。おそらく拡散しようとする輩が跋扈するはずだ、始末を頼む。」

「まったく物騒な話だな。聖女か魔女か。関わり合いになったら死ぬ、なんてな。」

 身じろぎもせず、マスターは真正面からアレンを見つめた。頷く代わりに口元だけの笑みを浮かべた。

 杞憂に済めば良いと、恐らくはグラハムも同じ考えだろうと思っていた。先程のヒントには気付かなかった元暗殺者も、今度は言葉の意図を察知した。

「アサシンズギルドで独占、か。奇跡の力だ、国中の病人があの娘の許へ押し寄せることになるわなぁ。」

「今のところは、魔力に依存する力なのか制約の掛かる力なのかが判別できん。魔法は無限に湧き出る夢のような能力ではない、リスクを測り、慎重に扱わねばならない。」

 自身の声が徐々に冷めていく。自覚しながら、アレンは指令を発した。

「事情を知るだけならばいい、口にのぼせる者は、……可哀そうだが死んでもらおう。」

「首領からのお達しか?」

「ああ。」

 マスターは軽く肩をすぼめた。際どいやり取りの中で、この男は何処まで気付いているのかと恐ろしく感じることもある。深入りや詮索は無用、それがこの世界で長く生き残る処世だ。身に染みて解かっている古株の暗殺者は、それ以上に探り掛けることをしない。

 沈黙の次に来る言葉を予想して、アレンは先手を打った。


「現女王の死を願う者たちにとっても、あの力は魅力的なはずだ。出来れば殺したくなどないだろう。恐らくは、あの娘の両親が逸ってヴェルトーク卿に近付いたことが発端だ。」

 口数が多くなる。焦りが染み出す発言にグラハムは気付いたのだろう、アレンの顔をじっと見ていた。自身の膝に肩肘を載せ、丸まったような姿勢で無理やりに顎を掌に載せた。困ったような、怒っているような顔をしていた。その姿勢のまま、マスターは興味の失せた声で告げた。視線の意味とはまるで違う言葉だった。

「そうだな……。近付けさせない為の脅しが半分って所だろうな。本気で殺すつもりはなさそうだ。」


 専門の者から見れば、敵のやり口が生ぬるい事などすぐに看破できた。殺すだけなら、幾らでも手はある。

 内心でアレンは胸を撫で下ろす。この瞬間は嫌な緊張を生む。何処まで知るのか、知っていたとしても、口にしてはならない秘密がある。

 首領、ヴェルトーク卿は今もシルバードーンの城館に居るのだ。神出鬼没の、黒い貴族。


 グラハムはふいに天井を見上げた。思い付きのように、唐突に喋り出した。

「あの娘をうまく使えば大儲けが出来るってことか。女王戦に負けたら、魔法は封印されちまうからな。いやいや、治癒の力がありながら、女王を見殺しにしたと解釈されたら厄介だ。選出戦どころじゃなくなる。下手をすりゃ反逆罪に問われかねないな。」

「それが狙いだろう。選出戦が終わるまで拉致しておけば言い逃れは利かない。世間に出ることも出来なくなって、敵にとっては一石二鳥だ。」

「女王も助からず、娘も手に入る。なるほどね。」

 本気で感心しているのかと怪しんでみるほどに、マスターの表情は呑気なものに変化した。次の瞬間にはまた深刻な表情が浮かぶ。グラハムはアレンに視線を向けた。

「それよりアレン。あの子の力なら本当に、もしかするのか? ローアセリア様は……、」


 心臓に棘が刺さる。

 僅かな痛みは呼吸を忘れさせた。絞り出すような声は自己統制では元に戻せなかった。

「一縷の望みは、ある。だが……、恐らくは、無理だ。」

 動揺が瞳に映ることを恐れてアレンは瞼を閉じる。強張った頬を見れば、かつて畏怖されたこの暗殺者ならば気付いてしまうだろうと思った。沈黙は先を促しているのかと訝った。

 幾らか呼吸を整えねばならなかった。

「女王の病は、あれは事情が違うものだ。治癒は不可能だとは思うが、会わせなければならん。後に厄介な事になりかねんからな。」

 会話を繋ぐことを苦痛に感じはじめていた。

 儚げに微笑む少女の面影がよぎる。命を削り続ける娘の眼差しが絡んだ。


 自身の心に芽生えたものに、動揺している。一縷の望みなど、また破られるだけならば、最初から要らない。

 突っ撥ねてみても、パンドラの箱の片隅にしつこくこびり付いていた。


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情景描写好きに捧げるファンタジー 柿木まめ太 @greatmanta

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