焼身自殺-5

「な、何で……ツツウラさん!」


 彰良はシュークリームの空袋も本体も手から落として、ツツウラの肩に触れた。掌越しに緩むことのない強張りと小刻みな震えを感じながら、地面にただ折っていただけの膝を付く。

 視界の端で、彼の吐瀉物の上に落ちた生菓子が黒く変色していくのが見えた。消えることはおろか薄まることもなく、ましてや他を侵食する、彼等が認識する死の指標に、彰良の背筋に怖気に等しい悪寒が走る。


「ツツウラさん、大丈夫ですか!?」


 そんな確認が意味を成さないことなど火を見るよりも明らかだ。分かっていて尚、それしかかける言葉が見つからない。何があったと訊いたところで彼は答えられる状況にないし、疑問を解消する状況でもない。

 だとしたら何も分からない自分ができるのはせいぜい、ツツウラが絞り出してくれた頼みの通り彼女の元へ走ることだ。未だに顔を歪め苦鳴を漏らして吐き続ける彼を置き去りにしてでも、最善策を取るならばそうするしかない。


「ツツウラさん、今ウイさん呼んできます、それまで……」


 罪悪感に歯噛みしながらも立ち上がろうとした彰良の腕を、ツツウラのまだ汚れていないもう片方の手が掴んだ。僅かでも動けばすぐに外れて滑り落ちてしまいそうな弱々しさに、それでも彰良は動きを止める。


「ダメだ」


 手と黒い吐物の隙間から、喘鳴。言い終わるが早いか再び黒い液体が吐き出されて、ツツウラが身を折った。


「俺のことは……ほっといて、いいから、……ウイ君に、知らせて」


 制止と共にこみ上げたものを一通り吐き終えて、幾らか鮮明になった声で言いながらツツウラは口を塞ぐ手を少しだけ離す。黒く汚れた唇が、言葉を選ぶようにひどく震えるのが見えた。


「言え、ば、すぐ分かる筈、だから、あとは全部、」


 彼女に任せておけばいいか、彼女がどうにかしてくれるか。きっとそのどちらかを伝えようとしたツツウラが、また息を詰める。

 彰良は肩を支えていた手で彼の細い背に触れかけて、すんでの所で止める。先程自分で申し出た通り、そして今必死に告げられた通りに行動するのが、結局は一番早く状況を打破出来る。

 そして何より、きっとツツウラは、嘔吐に苦しむ背を撫でる誰かの手を必要としてはいない。手を差し伸べるのならばそんな人間じみた営みではなく、この異常事態を治める為でなければならない。

 やっと慣れてきたとはいえ今までの人生の常識外の世界の更なる異常に、彰良は無意味に叫びたくなるのを堪えて顔を顰めた。


「……分かり、ました」


 決心が揺らぐ前にと彰良が頷いて、それを焦点の怪しい目で見届けたツツウラが頷き返す。

 そっと肩から手を離し腰を上げようとして、彰良は微かな足音に顔を上げた。

 視線の先、ツツウラの垂れた黒髪と黒いスーツに包まれた肩の向こう、街中の道路。歩道を駆ける黒い影。徐々に輪郭を確かにしていく人影に、彰良は静かに目を瞠る。

 揺れる黒い制服の裾が、翻る下衣から覗く細い足が見えた。

 地を蹴る足音がはっきりと耳に届いて、目を凝らせば焦りの滲む表情が見える距離になってから、彰良は半開きの口からその名前を零した。


「ウイさん……?」


 呟いたとき、まだ触れたままだったツツウラの肩が跳ねた。


「彰良君、ツツウラさん! 離れて、今――」

「来るな!!」


 こちらに向かってくるウイのよく通る声を遮って、無理矢理に上体を起こして振り返ったツツウラが絶叫する。

 喉と腹の奥から無理矢理に絞り出すような、正しく絶叫と言うに相応しいそれに、ウイが一瞬身を硬くしてから足を止めた。――厳密には、来るなと叫ぶ途中にはもう足を止めていた。

 彰良は未だツツウラのそばを離れられないまま、立ち尽くすウイの姿から目を逸らせなかった。彼女が立ち竦んだ理由が何となくでも分かっていたから。

 間近で体を起こしているツツウラの開いたままの唇から、また粘ついた液体が溢れる音。未だ止めどなく吐かれるそれが地面で弾けて、彰良の腕に触れていたツツウラの手が滑るように離れる。

 ウイを注視していた彰良は、温度のない手が離れ落ちたことにすぐ気付くことが出来なかった。視界に映るツツウラの肩がふらりと傾いで、やっと我に返る。

 名を呼ぶよりも先に抱えようとしたが、もう遅かった。彰良の震える指先を掠めることもなく、彼がアスファルトに倒れ込む。

 黒いスーツに包まれた細い体が自らの黒い嘔吐の上に伏して、跳ねた水滴が彰良の手を汚した。痩せた手の甲を、温かくも冷たくもないただ悍ましく粘つくそれがどろりと滑って、糸を引いて落ちた滴の玉がツツウラの隣で僅かな波紋を作った。

 糸の切れた人形のように微動だにしないツツウラを見下ろして、閉じ切らない瞼の隙間から覗く虚ろな目と目が合って、彰良の引き攣れた喉が鳴る。何を言おうとしたのか、それともただみっともなく悲鳴を上げようとしただけだったのか。彰良自身にも分からなかった。

 やっとの思いで気管の奥で潰えていた息を吐き出して、背けていた顔を上げる。

 立ち尽くすウイを視界に捉えるが早いか、あるいは同時か。彼女が物言わぬまま、羽が落ちるように静かにくずおれた。

 ツツウラが倒れたときよりは軽い、それでも確かな重量のある音が彰良の耳朶を打つ。

 それを最後に静まり返った街中で、彰良は膝をついていた地面に力なく腰を落とした。自分達より離れた場所で横たわるウイを呆然と見つめたまま、もう諦めに傾きかけている思考を必死に手繰り寄せる。

 考えろ。自分自身に言い聞かせて、彰良は汚れたままの手を握りしめる。

 彼等のことも今何が起こっているかも分からない自分が、今出来ることは何か、唯一動ける自分に許された選択肢は何か考えろ。人を呼びに行くとかせめて二人ともどこかに運ぶとか――呼びに行くと言っても、どこに誰がいるかも分からないのに? 脳裏を掠めた不安材料を、殊更手に力を込めて、爪が食い込む痛みで振り払う。

 自分がもし生身の肉体のままだったら、泣いて取り乱していただろう。だがもう緊張と混乱で強く脈打つ心臓もない今、感情に揺らされる体の反応がない分、気休め程度ではあるが頭は回る。回る筈だ。

 人を呼びに行くことはほぼ不可能だ、自分は二人以外の社員も知らなければ、勤め先がある場所も知らない。そうなると、誰かが来るのを待つしかない。

 ツツウラに続いてウイまで昏倒した時点で、ツツウラだけに訪れた不調ではない。そしてウイが駆け寄ってきたのと何か言いかけていたのは、それを感じ取ったからではないのか。だとしたらこの状況を別の社員が把握して、こちらに向かっているかもしれない。

 その可能性に賭けて待つしかない。連鎖的に被害を増やすだけになりかねないとしても、ただの“人間”である彰良には、それ以外浮かばなかった。

 彰良は強く握っていた手を解き、まとわりついたままの黒い飛沫を緑のエプロンの裾で拭う。

 来るかも定かではない助けを待つ間に、少しでも二人を運んでおきたかった。薄れる気配すらない、本来彼等には備わっていない死の気配を孕む黒い吐物の中に放置したくはない。

 下手に立ち上がってはもつれそうな足に力を込めて、ふらふらと腰を上げる。ずっと折っていた膝が笑う前にその場に屈み直して、ツツウラの肩の後ろに手を回す。

 人間ではないにしろ、成人男性を模した体躯だ。それなりの重さを覚悟して抱き起こす――思いの外軽々とどころか、殆ど重さなど感じずにツツウラの上体が持ち上がった。

 骨も組まれず肉も纏わない存在だ、その分の重量はないらしい。これなら抱き上げて運べるかと、彰良はツツウラの膝の裏に腕を入れた。そのまま今度こそ立とうとして、黒く濡れた地面を踏み締める。

 靴底とアスファルトの間で砂が擦れる音がした。


「――大丈夫かい、君」

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自死生命迷惑論 咳屋キエル @sekiel

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