服薬自殺-5

 本来ならば許されない筈の業務を行おうとしている自分を、そばに立ち尽くすウイは止めなかった。いや、この場合は制止を挟む暇さえなかったと言うべきかもしれない。

 彰良が説明するよりも、ウイが会話に割って入るよりも、凛太郎の方が早かった。


「何バカなこと言ってんの? 自分が何言ってるか分かってて言ってるんだろうな」


 彰良は、反発されることと、怒りの矛先を受け止めることは予想していた。絶望的な選択肢の中から、同じく絶望的な状況で最悪なものを選び抜いた人間にとって、それは当然の反応だからだ。

 それでも、眼前の準自殺者が漏らした激情は予想以上だった。異常と言い換えてもいい。

 凛太郎の、敵意か殺意にさえ酷似した鋭さを帯びた眼光に射抜かれて、彰良は一瞬怯む。


「『現世に帰す』だ? 何様のつもりだ、自殺者の米田彰良君よ」


 吐き捨てる凛太郎に、彰良は目を伏せる。


「……あなたの言い分は、分かります」

「分かるんだったら言うなよ。仲間だろ? 僕は死にたいからここに来たんだ、それを君一人の言い分で掌返せると思ってる? そんなん出来るなら、そもそも死にゃしないんだよ、人間なんて」


 彰良の劣勢は明白だった。早口でまくし立てる凛太郎を抑えられるだけの語彙が、彰良にはない。ましてやここで「自殺は輪廻転生という概念にとって予定外で大変だから帰ってください」なんて本来の目的を話せる度胸もない。

 物言わぬ彰良を睨めつける双眸を殊更眇めた凛太郎の唇が歪む。


「黙るくらいなら最初から言うなよ。僕はな、今までも何度も死のうとしたんだ、何度も失敗したんだ、今日やっと成功しそうなんだ!」


 怒声が一際大きくなると同時に、そして激しさとは対照的に音もなく凛太郎が腰を上げた。


「だから、邪魔するな。このまま死なせろ」


 裸足でアスファルトの上に立つ、曰く“何度も死のうとした”自殺未遂者は、彰良より頭一つ分程高い位置から低く呻いた。

 彼が何故そこまで執拗に死にたがるのか、やっと辿り着いた間際の今ここで爆発した言葉だけでは分からなかった。そして何より、その時その一瞬の嫌気と衝動で空を踏み抜いた彰良にとって、言わば希死念慮と呼ばれるその感情は恐らく一番遠いところにある。

 何も言い返せない。いや、実際には言おうと思えば言えるのだろうが、今口を開けば自分でもうんざりするような綺麗事が溢れてしまいそうだった。


「……ちょ、ちょっと二人とも、落ち着いて」


 躊躇いながらも、ウイが立ち竦む彰良と凛太郎の間に割って入る。

 細めた目に宿した剣呑な光はそのまま、凛太郎がウイを見下ろす。


「ウイちゃんは? やっぱり君もさっさと帰れ派?」

「いえ、私は本来、ヒトの生死には干渉してはいけないのでどちらでもないんですけど……」

「じゃあ何。だったらこいつ止めて貰っていい?」

「えー……えっと……」


 促されて、ウイが一度逡巡するかのように視線を泳がせた。


「何か、言いづらいんですけど……多分凛太郎さん、私達が何もしなくても“下界”に帰っちゃうと思うんですよね」

「は?」

「え?」


 今何て言った? 彰良と凛太郎の考えていることが、初めて一致する。

 何もしなくても――つまり自分が接触しなくても、自死を思い直させなくても、彼はまた現世に戻ることが出来るとでもいうのか。理解できないままの彰良の視線の先で、ウイは少々引き攣った苦笑を浮かべていた。


「初めて見たときからおかしいとは思ってたんですけど、自殺中の割には殆ど“黒く”ないし……」

「何? 何言ってんのか全然分かんないんだけど、どういう意味」


 怪訝そうに眉根を寄せた凛太郎が、自分の胸元辺りまでの身長しかないウイと目線を合わせるべく膝を折った。

 対するウイは髪を整えるように頭を掻いて、さり気なく目を逸らす。流石に、規格外の異質さを持つ彼の、相手を刺し貫くガラス片のような敵意は真っ向から受け止めたくないらしい。そりゃそうだ。彰良は知らず知らず詰めていた息を、凛太郎に感づかれないように肺から絞り出した。


「つまり、えっと……何て言ったらいいかな……恐らくですけど、凛太郎さんは本来、今回の自殺でここに来る筈じゃなかったんですよ」


 ウイ曰く、“殆ど黒くない”凛太郎が、彰良に見せたものとは明らかに毛色の違う驚愕を滲ませた。

 ある事柄に面食らった顔を指す鳩が豆鉄砲を食らったような、という言葉があるが、こういうことを言うのだろうか。折った膝に両手を置いたままで絶句する彼の顔を見て、彰良はそんなことを考える。


「え……じゃあ何で僕はここにいるの?」

「何らかの手違いとしか……時折、あるんですよ。こちら側と波長が合ってしまって、まだ死ななそうな状態でも迷い込んでしまうヒト」

「あっ、あー……そう。まあそんなんどうでもいいけど、僕死ねないの?」

「……はい、まあ」

「……嘘だろ」


 歯切れの悪い肯定に、凛太郎が片手で自らの顔を覆った。

 ウイと同じ高さまで身を屈めたままで項垂れる凛太郎を見下ろして、彰良は自分に確かめるように頷く。なるほど。彼の姿を確認した直後、ウイが何やら戸惑っていたのはそういうことか。死者として来た割には死の気配を感じられない、そういうことだろう。

 それにしても、どう声をかけたものか。先程とはまた別の理由で彼に向ける言葉が見つからない。

 彰良としては、彼を説得する手間も省けて敵意で喚かれず済むのはありがたい。そしてウイにとっても、無為に人が命を散らさず現世に戻ることが出来るのは一安心だろう。

 ただ、見ず知らずの――名前と顔を知っているだけで、それまで関わったことのない人間相手にあそこまで感情を剥き出しに出来るほど死にたい男が、また“死にたいくらいの世界”に戻るのは、本当にいいことだろうか。そう思うとどうしても、よかったですねとも残念でしたねとも言えなかった。

 三人ともが同じように言葉を失って訪れた沈黙。それがしばらく続いて、せめて凛太郎を思い直させようと接触して失敗した自分だけでも何か口にしなければと彰良は必死に思考を働かせる。

 この際、彼が激昂するのを覚悟で励ましてみようか。勿論、恫喝された後は浅慮だったと後悔するのだろうが、重苦しい静寂よりはそちらの方が気が楽だ。

 乾きもしない唇を意味もなく舐めて、彰良は半歩ほど前に出て凛太郎との距離を詰めた。


「でも、よかったじゃないですか」

「あーっ!」


 慟哭とも咆哮とも取れない叫びに、彰良の決死の励ましが覆い隠された。

 静寂を切り裂くような甲高い悲鳴。女子特有のよく通る声に、彰良だけでなく凛太郎も肩を跳ねさせる。互いに悲鳴の出処であるウイを見るが、その時には彼女は既にこちらに背を向けていた。


「な、何だよいきなり!」

「いきなりどうしたんですか」

「ご、ごめん! 時間になっちゃったからつい……!」


 時間って何の、とは、彰良も凛太郎も訊けなかった。というより、彰良は訊かなかった。問うまでもなかった。その答えは、凛太郎に出会う前に既に得ているものだから。

 ウイの謝罪に被さるように、駅の敷地内と三人の周囲に滞留していた薄闇が剥ぎ取られていく。

 ただでさえ暗い街の中では一際強い光源として存在していた駅が、文字通り光り輝いていた。眩い光が一層明るさを増して、ここにいる全員の視界と敷地内の景色を漂白していく。

 ウイが叫んだ時間という言葉。きっとこれが、彼女が自分に見せたかったものなのだろう。それは分かったが、見るも何も、まともに直視したら目を焼かれてしまいそうなこの状況では薄目で伺うことさえ叶わなかった。

 目を守るべく反射的に閉じた瞼さえ突き抜ける、常識外れの光量。彰良は上げた腕の内側で顔を逸らす。

 懐かしい音が彰良の耳朶を打ったのは、それからすぐのことだった。

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