米田彰良-4

 そのまま、どれ程の間そうしていたのか。まだ窓の向こうの空が白む様子もなく、隣室からの光にも何の乱れも見られない暗闇では、流石にツツウラと言えど些か判断しづらかった。

 何をするでもなく声をかけるでもなく、ただ彰良の痩せた体を抱えて座っていたツツウラはふと、彰良の呼吸が大分落ち着いてきていることに気付く。

 苦しげな喘鳴にも似た音が、寝息に近いくらいには静かになっていた。何がどう功を奏したのかは分からないが、何とか事態の悪化は避けられたらしい。

 あてもなく宙に向けているだけだった視線を彰良に向ける。最後に見たときは周囲の闇よりも黒かった頭も、もう普段通りに戻っていた。

 続いて、少しだけ腕を動かして表情を確認する。呼吸と同様、微睡んでいるときのように和らいでいる。呼吸と色と表情の三点を確認し終えて、ツツウラは今度こそ安堵に肩を落とした。

 大事にならなくてよかった、いや、十分大事なのかもしれないが、それでも本当によかった。後は彼自身も安定していれば何とかなるだろう。そう、何とか。

 漠然とした安心感を抱きながら、ツツウラは閉ざしていた口を開いた。


「――彰良君」


 返事はなかった。その代わり、今まで微動だにしなかった彰良の体が僅かに動いた。

 起き上がろうとしているのか、それとも顔を上げようとしているのか。どちらにせよ微かに体を揺らすだけに留まった反応に、ツツウラは一度頷いてから続ける。


「……君の名前は?」


 沈黙。幾ら恐慌が沈静化したとはいえ、会話出来るくらいの復活まではまだもう少し時間がかかるだろうか。

 この様子ならそこまでかからないとは思うけど、と考えた辺りで、彰良がまた身動いだ。


「言える?」

「…………彰良、……米田、彰良」

「……よし」


 酷く掠れた囁き程度の声だったが、十分だった。ツツウラは頬を緩めて小さく頷く。


「……生年月日は?」

「……平成八年の、六月八日……」

「うん。何歳?」

「……二十一」

「合ってるね。好きなものある?」

「……コーヒー」

「あ、コーヒー派なんだ」


 何度か質問とそれに対する回答を繰り返して、ツツウラは大きく息を吐く。自分の名前も個人情報も言えるようだし、もう本当の意味で大丈夫だろう。次にはっきりと目が覚めるまで言い切れないが、少なくとも峠は越えたことは確かだ。

 問いが途切れたのを会話の終わりだと判断したのか、彰良はツツウラに体を預けたまま目を閉じていた。

 このまま眠るならそれでいい。夜が明けるまでの後しばらく、意識を休める時間は必要だ。ただ、流石に朝までこのままではいられない。

 彰良を抱えている以上は不用意に立ち上がるわけにもいかず、ツツウラは取り敢えず物置の中を見回してみる。だが、今日の朝彰良本人が寝具を求めたように、ここにはベッドは勿論枕も毛布もない。成人男性一人を横にできるだけの何かもない。寝かせられるとしたらせいぜい、彼が倒れていた床くらいだ。


「えー、どうしよう、床に転がすのはちょっと」


 未だに彰良を支えたまま、ツツウラは彼の恐慌を目の当たりにした時とはまた別の意味で狼狽える。

 言われた通り、ベッドや布団がないにせよ枕と毛布くらいは今日中に用意しておくべきだった。いや、もしくは部屋を変えるべきだった、別にこの階の部屋しか使用できない訳ではないのだし。

 どちらにせよ後の祭りだ。後悔先に立たずとも言うし、もうこうなったら腹を括って一晩このままでいようか。どうせ睡眠も必要ないし、情報の整理くらいならこの状態でも出来ないわけではない。正直、自分がベッドの代わりになるくらいしか浮かばない。

 ううん、と唸るツツウラは、自分の背後から差し込む光が形を変えたことにも気付かなかった。


「――大丈夫ですか?」

「いや、ちょっと大丈夫じゃないかな、この部屋寝具ないんだよ。ニンゲンって確か床にそのまま寝かせたら体痛くするよね」


 後ろから唐突に話しかけられても、驚くよりも先に現状を打破しようとする言葉が出た。


「リビングの椅子二つ並べたら、ヒト一人くらいなら寝かせられると思いますけど」

「それだ!」


 名案。一人ではとうとう思いつかなかった提案に、ツツウラは反射的に笑顔で背後を振り返った。

 そしてツツウラはそこでようやく、背後に何者かが立っていること、それが誰なのかということ、今の自分の状況を悟る。

 開けっ放しだった扉の前に立つ小さな人影。逆光になっていて見えづらいが、華奢な輪郭と背丈と体に沿う制服の形は見慣れたものだった。

 光を背に立つ相手の顔があからさまに顰められたのが、薄暗さに慣れた目でもよく分かった。

 笑顔のまま、ツツウラの表情が凍り付く。


「…………な、なんでここに」

「そりゃ来ますよ……自殺した魂放ったらかして何やってるのかと思えば……」


 吐き捨てる声も、聞き慣れたものだ。まだ若い、あるいは今朝早くに遭遇した首吊り未遂の少女より幼い年頃の少女――事実、呆れた様子の人影は、女子の学生服を着用した輪郭を持っていた。


「いや、待って、ウイ君いつから気付いてたの」


 情けなく上擦った声で、ツツウラは“同僚”の名を呼ぶ。

 ウイ、と呼ばれた少女の影が、正しく呆れ果てたと言わんばかりの顔で一歩踏み出した。


「昨日の時点で気付いてましたけど」

「え、じゃあこれも聞くけど、いつから俺の部屋にいたの」

「一時間くらい前からいました」

「言えよ! 何か一言声かけてくれよ!」

「取り込み中みたいだったので」


 淡々と返しながら、ツツウラの真後ろまで来たウイがその場で膝を折って屈む。

 ツツウラの肩越しに、腕の中で瞑目したままの彰良の様子を窺ってから、ウイは早々に立ち上がった。制服のスカートの裾を手で払って、埃を払い除けた手でツツウラの肩に触れる。


「さりげなく俺に拭かないでくれる?」

「私も手伝いますよ」

「あー……ああ、そう……ありがとう、でも別に一人でも」

「話は後です。椅子の用意してきますね」


 未だに微かに震えているツツウラの言葉を遮って、ウイは踵を返した。

 そして歩き出して間もなく、部屋と部屋との境界線を越える辺りで立ち止まって背後に目を向ける。

 彰良を抱き上げようと体勢を変えたツツウラも、足音が途切れたことに気付いて肩越しにウイを見る。

 互いの視線が交わるのと、ウイが怒気を無理矢理に抑え込んだ声で宣告するのはほぼ同時だった。


「彰良君を寝かせ終わったら、規則違反の言い訳、たっぷり聞かせてくださいね」

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