米田彰良-2

 仕事上の問題を解決する方法自体は山程ある。

 社内での人間関係の問題なら上司を始めとする何者かに相談するなり、内部に窓口があるのならそこに通告すればいい。労働環境の問題なら然るべき所に通報すればいい、何だったら辞めてしまえばいい。その通り、それは正論だ。

 だが実際の所、どれもそう理想通り上手くはいかないものだ。

 誰かに相談したところで、それが悩みの原因である相手の耳に入ってしまえばおしまいだ。上司や然るべき場所に報告しようが、このご時世まともに対応してくれる事例はそう多く無い。通報したとしても同様だし、辞めてしまえばいい、という理屈こそ本当に理想論の最たるものだろう。今は正社員の採用どころか、フリーターとしての再就職すら厳しい時代だ。それに、次に就いた職が“まとも”である確証はない。

 だから、当て所ない無職の旅を選ぶくらいなら、苦痛を耐え忍んででも職に齧りつこうと思っていた。とにかく働いてさえいれば、家賃と光熱費と様々な税金で引かれていっても金は得られるから。完全なゼロよりは、少しでも残る一のほうがいい。

 そう考えて生きてきたことを、いつも通りの億劫さといつも通りの憂鬱さの中で、何となく後悔した。今更だというのに、何が引き金となったのか、嫌気と後悔が胸の奥に凝っていた。

 外に出た瞬間直に降り注いできた日光が頭の先から体を温めていくのを感じながら、重い足を引きずるように歩く。赤信号で足を止めて――あ、上着忘れた、と、その時になって気が付いた。

 肩越しに、今まで歩いてきた道を振り返る。もう取りに帰っても間に合わない。ただ吸っただけの息が、今度はあからさまな溜息になって吐き出される。

 前を向くと信号はもう青に変わっていて、躊躇いながらも足が横断歩道へと一歩進む。

 戻って遅れて怒鳴られるくらいなら、夜帰る時に凍えた方がマシだ。そう考え直した瞬間、不意に吹いてきた風に煽られて僅かにふらつく。

 シャツの襟から入り込み、首筋と肌を撫でていく風は余りにも冷たかった。いくら北国のような極寒ではないとはいえ、この季節に羽織るものを持たずに外に出るのは無謀すぎたらしい。当たり前だ。……当たり前だ、何度も、つい一時間前もベッドの中で思ったことだ。

 自ずと足が止まる。

 それは丁度、近所にあるやたらと階数が多くて背が高いマンションの前だった。




 ――それからのことは、よく覚えていない。

 ただ、何故かエレベーターではなく階段を使って一階一階、ゆっくりと一段一段確かめるように上っていったらしい。家から職場に向かうだけでは有り得ないくらいに、足が疲れて鈍く痛んでいた。

 ふらふらと彷徨い歩いて見つけた屋上への扉に手をかける。元々施錠されていないのか、それともかけ忘れたのか。何の手応えもなく、あっさりと扉が開いた。

 階段を上り続けたことで火照った肌を、扉の向こうから漏れてきた外気が撫でていく。涼しい、と少しばかり清々しい気分になりながら後ろ手に扉を閉めて、相変わらず眩しい陽光に目を細めた。

 マンションの住人の立ち入りも本来禁止されているのだろう、屋上には鉢植えも何もなかった。だだっ広いだけの屋上の地面だか床だかを踏み進む。

 それにしても、どうして自分はこんな所に来ているんだろうか。明らかに来るべきではない場所に来ているんだろうか。そんな時間があるなら、走ってでも家に戻るかあるいは職場に行くか、どちらかの選択も出来ただろう。まだ冷静な頭のどこかで考えるが、それもすぐに消えていった。

 隠すこともなく大きなあくびをして、屋上の末端に来たところで歩くのをやめる。

 末端、屋上の縁。そこには当然ながら、転落防止の為に金属製のフェンスがかかっている。

 しかしそれも所々に錆が浮き、劣化の具合が酷い箇所には穴が空いているような有様だった。鍵といいこれといい、管理が杜撰すぎるだろう。

 だから、自分みたいなバカに入り込まれるんだ。自嘲気味に笑って、吐息に等しい笑い声もすぐに消えていった。

 もう、どうしてこんな所に来ているとか、そういうことを考えるのも面倒臭いしどうでもよかった。核心的な意味での理由や感情をはっきりと言葉で表することは出来なかったが、限りなく近い言葉で表すとしたらそれしかない。

 それに、もう後戻りが出来るわけもない。今が何時か、腕時計も忘れてきてしまったせいで分からないが、ここから仕事に向かっても到底間に合わないし、怒鳴られるだけでは済まないだろうし、勢いで首を切られる可能性だって――自分一人しかいない静かな屋上に、聞き飽きた着信音が掻き鳴らされた。

 画面は見ない。わざわざ鞄から携帯を出さなくても、もう予想はついた。

 相手は今頃、自分の携帯電話か店舗の受話器を握り締めながら怒声を吐き捨てているのだろう。このまま無視していたら無断欠勤か何かになるだろうか。それこそ、どうでもよかった。

 鞄を放り投げるように落として、一度だけ大きく伸びをする。

 下ろした手で、ひんやりと冷たいフェンスの縁を掴む。随分劣化しているようだし、体重をかけた途端に壊れやしないかと心配だったが、そこは案外大丈夫なようだった。

 壊れて転がり落ちても結果は同じとはいえ、それは流石に避けたかった。

 置き去りにした鞄の中から、まだ着信音が鳴り響いている。留守電に切り替わらないということは、何度も切ってはかけてを繰り返しているらしい。

 両手で縁を握り、屋上から足を離してフェンスの網目にかける。そのまま体を反転させて、フェンスの向こう側に立つ。

 まだ、音が響いている。

 足下を見る。立っている縁には斜めにヒビが入っている。広い駐車場には車が数台停まっている。幸い、自分の真下には車もなく、植え込みも花壇もない。

 地面に向けていた視線を上にずらすと、青空には雲の一片も浮かんでいなかった。

 ふわりと、薄着の体を風が掠めていく。晴れてはいるが、何をどうしたって寒いものは寒かった。

 まだ、音が鳴っている。

 ……そういえば、先人達に倣って、靴は脱いだ方がいいだろうか。いや別にいいか。どうせ山奥でも岸壁でもないし、鞄で分かるだろう。

 静かに息を吸って、吐く。飛んで落ちるまでの時間は確か、この呼吸よりも短い数秒程だったか。

 背後で、鞄越しでもうるさかった音が途切れた。

 ざり、と踏み締めた靴底が擦れたのは、一瞬だった。

 体が地面から離れる瞬間の感覚は、眠りに落ちる間際の浮遊感の錯覚にも似ていた。重力に従って落下する耳元で、風を切る音がした。目を閉じて、最後の吐息を喉奥から絞り出した。


 最期、最早鼓膜で捉えられる筈のない自分の頭が爆ぜる幻聴を、米田彰良は覚えていた。

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