3-米田彰良

米田彰良-1

 十一月二十三日。師走を目前に控えた初冬の平日は、朝から雲一つ無く晴れていた。

 だからその日は、携帯電話のアラームよりも早く日光のせいで目が覚めた。

 半開きというわけでも閉め切っているわけでもない、中途半端に雑に閉めたカーテンの隙間と言うには大きすぎる間からは眩しい朝日がこれでもかと差し込んでいて、埃っぽい室内を照らしていた。床に転がったパンの空袋が光を反射して、眩しさに思わず目を瞑る。

 寝起きの目に光の反射は痛すぎる。どうしてあんな所にゴミが――ああ、そういえば捨てないまま寝たんだっけ。ゴミ箱が一杯で入らなかったから。……確か、一度入れて落ちて、更に突っ込んでも入らなかったから諦めたような。まだ微睡んでいる思考回路で思う。

 起き上がらないまま、枕元に放り投げている筈の携帯を探る。ない。何で? と思いながら少しだけ身を起こす。目当てのものはベッドから滑り落ちて、床に転がっていた。

 一度だけ舌打ちして、ベッドから下りずに手だけ伸ばして拾い上げる。寒い。冷えた携帯を握り締めて、ホームボタンを押して時間を確認する。半年程前にうっかり落としてひび割れた画面に表示された現在時刻は、まだ午前十時前だった。

 今日の仕事のシフトは正午からだから、本格的に起きて準備するには少し早い。あくびをして、携帯を枕の横に放り投げる。

 もう少し、もう一眠りしよう。幸いまだ眠気も完全には飛んでいない。動いたせいで少々温もりが抜けた毛布に潜って、また目を閉じる。

 眠気で微睡む時間が、何よりも心地よかった。夢と現の、思考と現実の境が曖昧になって、自分の意識を柔らかく絡め取られていく感覚が、どんな娯楽よりも好きだった。いっそこのまま、食事も排泄も自分の世話もせずずっとこの感覚に身を委ねていたいくらいに。

 遠く、カーテンと窓ガラスと家の外壁の向こうから車の音や誰かの声が聞こえてくる。ああ、もう早い人、学生とか会社員とか朝から出勤する人々はもう活動している時間か。あと一時間もすれば、もっと賑やかになるのだろう。

 毛布から僅かに出ている首から上の肌が、明らかに寒い。それもそうだ、もう十一月も下旬だし、あと一週間もしたら年末に入る。もう北国では雪がちらついているとも言うし、寒くて当たり前だ。もぞもぞと深く潜り込む。

 にしても、時の流れは早い。つい先日まで秋だと思っていたらもう冬だ。実りの季節はもう通り過ぎて、様々な生命が息を潜めて眠る季節が訪れてきている。

 年の瀬……年の瀬と言えば、掃除もしなければ。部屋も随分埃っぽくなってしまった。殆ど休みがなくて――あっても大体その通りにはいかなくて、家に帰ってきたら何か胃に詰め込んで眠るだけの生活がしばらく続いていたから、仕方ない。

 確か今日の分のバイトが終われば、明日は休みだ。大掃除とはいかないまでも、せめてゴミをまとめて埃を払うくらいはしよう。……ああでも、立て続けに連勤をこなした後ですぐ家のことで動くのは、流石に面倒臭いかもしれない。確か二日続けて休みが組まれていた筈だから、一日休んでからでもいいだろうか。

 ……掃除もいいが、病院にも行きたい。確か明日はまだ平日だった筈だ、内科に行きたい。……丁度今月の始め頃から、妙に腹が不快で不快で仕方がないから。胃薬で誤魔化すのもそろそろ限界だろう。

 思った端から消えていく思考で、そんなことを考える。詳しくは今日を乗り切ってから考えよう、そう決めた思いも、眠気がそっと覆い尽くしていく。

 少し体勢を変えて、あくびを噛み殺そうとして――耳元、厳密には枕元で、突然携帯が大音量の電子音を吐き出した。

 唐突に鼓膜を劈いた着信音に、ぼやけていた意識が強制的に覚醒させられる。

 瞠目しながら携帯を掴んで画面を見る。表示されている名前――もとい“店長”という役職名に、顔を顰める。

 電話をかけてきた相手が自分に何を言いたいのか、もうこの時点で薄々予想がついた。むしろ確信出来た。電話に出ようとして、躊躇いに一瞬指先が震える。

 拒否なんて出来ないのだから、さっさと応答してさっさと終わらせてしまえばいい。今までも、そうしてきた。だから躊躇う指先で、画面に表示された緑色のボタンに触れる。


「……もしもし」

『あ、米田君? 出るの遅いよ』


 今日初めて出した自分の声は、やけに情けなく掠れていた。

 それに気付いているのかいないのか。電話先の店長の声には、あからさまな苛立ちと呆れが滲んでいた。

 出るのが遅いと言われても、せいぜい数コール分くらいだろうに。浮かんだ不快感を口に出すことはせず、「すみません」とだけ答える。


『まあ別にいいんだけど、今日一時間早く出てくれる? 一人欠けたから。米田君家近いし今から準備したら間に合うよね?』

「……帰りは」

『上がる時間はそのままで』

「……分かりました」

『じゃあよろしく』


 一方的にかかってきた電話が、また一方的に切られる。

 通話終了を示す音を聞き終わるより早く携帯を耳から離し、起きてから一度も櫛を通していない髪を掻き毟るように頭を掻いた。

 いつものことだ。病気やら何やらで欠員が出た場合、その埋め合わせはその日出勤する誰かで補填する。それ自体は当たり前にどこの会社でも行われているだろうし、文句を言うつもりはない。

 ただ、こうして早い出勤を要求された場合、どうやっても普段通りの時間には終わらないだろう。終わりの時間はそのまま、とはよく言うが、その通りにいった試しなどないのだ。今までの経験上、それは確信に等しい。何より昨日も、その前の日も、結局そういう流れだった。

 だから、また同じことを繰り返すのかという虚無感に似た嫌気が、酷く重たい泥のように体にまとわりついていた。

 まだ暗転していない画面に映る時間は、午前十時を十数分ほど過ぎた時刻を示していた。ああ、そろそろ着替えないと、近所とはいえ間に合わない。

 電話を放って、応答する前に飲み込んでいたあくびをして、ずるずると這い出るようにベッドから下りる。

 年末を控えた部屋の空気は、やはりかなり冷えていた。今まで温かな毛布に包まれていたせいで、余計に寒さが肌に刺さる。エアコンを点けようかと考えて、どうせ着替えたらすぐ出るのだからと思い止める。

 寒い部屋の中で、部屋着兼寝間着を脱ぐ。脱いだものは適当にベッドの上に置いて、申し訳程度にハンガーに引っ掛けていた制服を手に取る。

 制服に袖を通し、スラックスと靴下も履いてから、昨日帰りにコインランドリーに立ち寄って洗濯したエプロンも取って着る。エプロンのポケットに入れていた名札を左胸につけて、付けて後ろ手に紐を結んで、まだ性懲りも無く出てくるあくびを我慢せずに吐き出した。

 浮かんだ涙を手の甲で拭い、その手で床に転がっていた鞄を引っ張り上げる。中身を見る。財布と、そろそろ効かなくなってきた胃薬と、昨日店で買うだけ買って食べなかった、今日が消費期限の惣菜パンが入っていた。軽い鞄に携帯も放り込んで、それを片手に部屋を出る。

 玄関に行く前に、廊下に取り付けられている洗面台で歯を磨いて顔を洗う。その間中、曇った鏡にはずっと自分の顔が映っていた。

 櫛を通していない髪――すっかり忘れていたので取り敢えず手櫛で何とかした茶色の髪と、顔色が悪いせいで陰気さが割増された顔。これまた冷え切った水で濡れた顔をタオルで拭きながら、理由も分からぬ溜め息が出た。

 向かった先の玄関で靴を履き、立ち上がろうとした瞬間に再び鞄の中で耳慣れた着信音が鳴った。

 今度は一体何だ、と鞄の中を探って携帯を取り出せば、案の定店長と表示されていて、無言で応答のボタンに触れる。


「もしもし……」

『米田君? 今もう外?』

「今出る所です」

『あ、そう。なるべく早く来てよ』


 そこで声が一度途切れて、一呼吸程の間の後に『それでさあ』と続けられる。


『さっき言い忘れてたんだけど』

「……はい」


 これもまた、何となく想像がついた。


『米田君、明日と明後日休みになってるんだけど、ここも出て貰える? 何か冠婚葬祭とかある?』


 予想通りの台詞に、勘付かれぬよう歯噛みする。

 こういう時、断るのに慣れている人間や、少し知恵が働く人間ならば嘘の冠婚葬祭予定をでっち上げることが出来るのだろう。そういえば、昔職場の“先輩”が「架空の親戚で葬式と通夜やりすぎて現実の親戚より多くなった」と笑いながら話していたような記憶がある。

 その行為の是非はともかくとして、何にせよ自分は、そういう嘘を吐きづらい人種らしい。過去、そうして断れたことは一度もないし、そして今もそうだった。


『もしもし? 聞こえてる?』

「……分かりました」


 少しの苛立ちを含んだ声に、舌先は了承の言葉を紡いでいた。

 ああそうじゃあよろしくね遅れないように来てね、とまくし立てられて、気が変わらない内にとばかりにまた電話が切れる。

 薄暗い玄関先で眩しく灯る画面が自然に暗転するまで、呆然とその光を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る