首吊自殺-5

「確かに何も知らないけど、大方予想はつきますよ。学校で何かあったんでしょ」


 もしくは家庭環境。しかし家庭環境や家族関係を苦にしての自殺ならば、平日の朝――登校時間の前に決行するだろうか。それならば誰もいない日時に行った方が、発見もされないし見つかって助けられて毒づかれる危険性もない。衝動に突き動かされるままの行動だとしても、彰良はその点に違和感を覚えていた。

 だとすれば、学校で何かがあって、制服に着替える時間と登校時間ギリギリまで粘って生きるか死ぬかを考えて、思い切って首を吊った。そう考えた方が、彰良個人としては納得がいく。

 そしてどうやらこれも図星だったらしい。仁美が反論しかけて、また何も言わず口を噤んだ。

 学校で何かがあった、となれば、もう答えは決まっているようなものだった。恐らく“それ”が一番、学生が命を絶つ理由としては可能性が高い。


「いじめられてたんですか」


 仁美は声でも身振り手振りでも答えなかったが、無言の肯定だろうと彰良は思う。

 幸いにも自分は学生時代そういった目に遭ったことはないが、死を選ぶほどとなると相当に長期間で陰湿で苛烈なものだったのだろう。生きて学校に行く恐怖と死ぬ恐怖を天秤にかけて、彼女はここに来たのだろう。

 本当に勘弁してくれよ。口の中でだけ、そんな愚痴を漏らす。

 地面に視線を落とす仁美に、彰良は頭を掻いた。

 昨日までの自分ならば、それなら自殺を選択してもしょうがないと思うような相手だ。しかし、今はそれを飲み込んだ上で、彼女を生かす必要がある。それも出来れば十分以内に。


「誰かに相談はしたんですか」

「……したって、何が変わるんですか、逆にもっと酷くなるかもしれないのに」

「そりゃ言ってみなきゃ分からないでしょ、予想して怖くなるのは分かるけど」

「大人に相談したら酷くなるのは、通説ですよ」

「まあ、否定はしませんけど、それでも言ってもないなら決まったわけじゃ――」

「決まってるんです!」


 その声は、荒げられながらも少しばかり震えていた。


「決まってるじゃないですか! 大人に話して、まともに解決なんてするわけない! それくらいで終わるわけない!」


 泣き出しそうな顔と、涙声になりかけの悲鳴。落ち着いて、とも言えず、彰良は仁美の訴えに口を閉ざす。

 彼女はこれを、今まで誰にも言わずに誰にも言えずに飲み込んできたのだろう。もしかしたらこれだって、その言いたかったけれど言えなかった言葉の破片でしかないかもしれないのだ。それを妨害する権利は自分にはない。


「下手に話して下手に対処されて下手に酷くなるくらいなら、死んだ方がマシです――なのに、また戻れって、言うんですか!」


 先程、僅かに目にちらついていた怒りが、明確に彰良に向けられる。

 そりゃあ怒るだろう。そりゃあ嫌だろう。彰良はまた、同じことを考えた。


「何も知らないから、何も分かってないから、そんなこと言えるんです……! あなたに、何が分かるんですか!」


 肺の奥から全ての息を絞り出すような、苦しげな泣き声だった。彰良がそれを聞き届けたのと、仁美の足元のアスファルトに染みを見るのはほぼ同時だった。

 遂に溢れた涙が、彼女の頬を伝って地面に落ちる。その内の幾つかは本人が身につけている寝間着に落ちて吸い込まれて、その部分だけ薄紫色を濃く変えていた。彼女が泣けるのは、まだ本当の意味で“こちら側”に来ていないからだろうか。なんてことを思う。

 何が分かるんですか――その通りだ、仁美の言い分は尤もだ。

 彰良は何も知らない。彼女が毎日学校で受けていた責め苦も、恐怖と恐怖を比較したときの絶望も、助けを求める思いを自分の意思で飲み干す苦痛も。

 分かっているのは、彼女がここに来た理由と本当に死んでしまうまでの時間がそう長くはないこと。

 知っているのは、例えば、そう例えば、死ぬときの感覚。それだけだ。

 怒りに突き動かされるままに言い切った仁美が、僅かに体を折って荒く呼吸を繰り返していた。

 その姿を見下ろして、彰良は息を吐く。


「……俺も、そう思って死んだよ」


 漏れたのはそんな言葉だった。やけに静かな自分の声に、彰良は自分でも驚く。

 仁美は未だに肩で息をしていたが、少し顔を上げて前髪の隙間から彰良を見上げた。


「誰に何を言おうが変わらないし、変えようがない。自分にはそんな力はない。ただの一般人だから。俺一人が騒いだところで、何がどうなる訳もない」


 どうして唐突にこんな話をしているのか、彰良自身にも理解できなかった。それでも、まるで自分はこう言いたかったのだとばかりに、かつての仕事をなぞっていたような敬語が抜けた言葉がするすると喉を通り舌先で紡がれ、唇から息と共に滑り落ちていく。

 仁美が、驚愕とは別の意味で呆然とした顔で視線を彷徨わせる。


「……あなたも、自殺したんですか……?」

「……丁度、昨日ね」

「どうして」

「どうしてって、」


 彰良は肩を竦めて、つい昨日の、死ぬ前の感覚を手繰り寄せる。


「言った通りだよ。俺も、青瀬さんと同じようなことを考えて死んだ。残念ながら、こうしてまた“仕事”してるけど」

「……お兄さん、もしかしてその制服、」


 仁美はそこで、やっと彰良の格好に思い当たったようだった。軽く瞠目した仁美の視線を受けて、彰良は自らの体の前面を覆う緑のエプロンを指先で摘む。胸元で、名字が刻まれた名札が揺れた。


「これ。バイト行こうとしてそのまま、どうしようもなくウンザリして死んだだけ」


 はは、と、何に対してかも分からぬ乾いた笑いが漏れた。

 話しながら、薄ぼんやりと思い出してきた。今朝目覚めた時に背格好に気がついたように、徐々に徐々に、飛び降りる前の自分の要素を思い出せてきている。

 相手も同じ自殺者――それも完遂して完全に故人と成り果てている人間だと分かって、仁美は随分と落ち着いたらしい。表面に出てきた怒りももう鳴りを潜めて、代わりに、何と声をかけたらいいのかとばかりに、当て所なく目を動かしていた。

 まあ、いきなり身の上話をされても困るか。彰良は、今度は自分の意思で苦笑する。


「……別に同じようにしろって言うつもりはないけど、俺はさ、取り敢えず色んなところ行って、色んなこと言うだけ言って、死ぬのを選んだよ」


 優しく、それこそ生徒を諭す教師のように彰良は話を再開した。

 壊れかけた体を引きずって様々な所に足を運んで、解決しない現状に嫌気が差した瞬間の、記憶の断片。脳裏で瞬くそれらを集めて、言語化する。

 仁美が、冷静に聞いてくれているのが救いだった。残された時間があとどれ程あるか分からないが、似たような思いを抱えた“仲間”だ。これだけ伝えておこう、というものはある。


「死ぬのを決めたなら、その前に悪足掻きしてみてもいいんじゃないかな。……どうせ死ぬんだし」


 締め括りの言葉に、仁美は虚を突かれたような表情をした。

 そうだ。どうせ死ぬと決めたのなら、足掻いてみるのもいいだろう。もしそれで事態が好転すれば上々、もし変わらなくても、自分で決めた人生の終わりをそのまま迎えればいいだけだ。

 死ぬ気でやれば何でもできる、なんて唾棄すべき根性論と精神論は言わない。旅の恥はかき捨て、という諺があるが、それと似たようなものだ。

 ぽかんと口を半開きにしたままの仁美に、彰良はまた笑って、少しだけ声を潜めた。

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