津々浦々-3

 プシュ、と、アルミ缶のプルトップを開ける音。

 彼等曰く“下界”――彰良にとっては現世で聞き慣れたものだ。彰良の目の前で、その音を立てた張本人が、いたく嬉しそうな顔でアルミ缶に口をつける。


「っあー……! やっぱり定時で帰った後のお酒っていいねえ!」


 これまた見慣れた発泡酒の缶の中身を嚥下したツツウラが、同様にいたく嬉しそうな声で絞り出した。

 スーツ姿のまま、まだ中身が残っているらしい缶をテーブルに置く。

 この光景だけ見ていたら、一般人そのものだ。その一連の言動を眺めて、彰良は思う。

 彰良が今居るのは、自身が初めてこの世界に来たときに立っていたあの道路に面した、とある雑居ビルの一室だった。「ニンゲンだし寝る所くらいは無いと困るだろ」と案内してくれたツツウラ曰く、『俺の個室』。

 白い蛍光灯が灯るその部屋は、彼の言葉通り自室であるらしい。彰良は椅子に腰掛けたまま、改めて室内を見回した。家電一式があって、テーブルと椅子があって、時計やカレンダーがある。自分の目の前にはテーブルがあって、それを挟んだ向かいにツツウラが座って、発泡酒を飲んでいる。

 先程の声が独り言だとは分かってはいたが、それでも何か返さないといけない気がして、彰良は口を開いた。


「……そう、ですか。俺、酒飲めなかったんでよく分かりませんけど」

「そうなの?」


 首を傾げながら、またツツウラが缶を持ち上げる。


「下戸なんで……っていうか、ツツウラさんって酔うんですか」

「酔わないよ」


 酒を数口飲み干したツツウラが、あっさりと答えながら再び缶を置いた。軽い音。もう随分中身が減ったらしい。


「でも、ニンゲンは……というか俺が見た中でだけど、“仕事を定時で終わらせて帰って酒を飲む”っていうのが幸せらしいから。俺もそうしているだけだよ」


 ツツウラの答えに、彰良は彼がやけに人間じみている理由を垣間見た気がした。

 恐らく彼は、相当意識して自分自身を“人間”に寄せてきている。仕事を終わらせて早く家に帰って酒を飲んでのんびりする。それが今の時代の大多数の幸せだと認識しているから、自分もそれを行う。あの感情の起伏の激しさも、半分くらいはそこから来ているのかもしれない。

 高次元生命体で、人々の魂と輪廻転生を管理する存在なら、それくらいは容易にやってのけるだろう。こういうことを簡単に考えつくくらいには、彰良もこの常識外れの“死後の世界”の現実に慣れつつあった。

 だから、そういうものか、と割とすんなり納得した。そうですか、と返事をしながら、窓に目を向ける。

 ガラス窓の向こうは、すっかり暗くなっていた。


「こっちにも、時間の概念ってあるんですね」

「ん? ああ、そうだね、輪廻で“下界”と繋がっている以上あっちと時間を共有してなきゃいけないし、割とあっちからも色んな影響を受けてるからね。この辺りの地理も、そういうものだよ」

「……ずっと思ってたんですけど、ツツウラさん説明長いですよね。それ、『あっちと全部リンクしてる』で全部済むじゃないですか」

「頑張って説明してるのにそれひどくない?」


 はは、と朗らかに笑うツツウラにつられて、彰良も少しだけ口角を緩めた。

 肩を竦めたツツウラが缶を取って、残っていた酒を一息に飲み干す。


「……さて」


 空になった缶を片手で潰しながら、ツツウラが呟く。


「そろそろ、ニンゲンだと寝る時間になりそうだね。隣に部屋が余ってるから、そこ使っていいよ」


 潰されたアルミ缶を持ったままの手で、ツツウラが部屋の隅を指し示した。そこには確かに扉があって、彰良は首を傾げる。


「え、俺死んでるしもう寝ようにも寝れないんじゃ……」

「睡眠は、脳を休める他にもニンゲンの意識を保つ為でもあるからね。多分だけど、寝ようと思えば眠れるよ」


 確かに、呼吸が出来る時点で、魂だけになっても相応の生命活動は存在するのかもしれない。

 なら、空腹感や喉の渇きがないのは。そう考えようとして、彰良は緩く頭を振った。

 これ以上、色々と難しく考えるのはやめだ。もう自分の今までの常識が通用しないなら、そういうものかで処理するのが適切な対処だ。

 彰良は立ち上がり、椅子を戻してから頭を下げた。


「じゃあ、お言葉に甘えて使わせて貰います」

「うん。部屋にあるのは適当に使っていいからね」


 頷いて、扉へと歩み寄る。腕を伸ばして、金属製の取っ手に手をかけて、そのまま捻る。


「おやすみ」


 背後からかけられた、ツツウラからの何てことのない挨拶に彰良は手を止めた。

 そうだ。人は寝る前に、同じ空間に誰かがいたらおやすみと言うものだ。

 そんなこと、今まで――それこそ、生前から忘れかけていた。自分には、おやすみと言ってくれる人間は勿論、言う相手もいなかったから。思い出して、彰良は何かに耐えようとでもするかのように、取っ手に触れた手に力を込める。

 肩越しに振り返って、彰良は息を吸い込んだ。


「おやすみなさい」



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