十一.懐剣のリーミン


 かすみノ里はユンジェが想像していたよりも土地が広く、人も多く、なにより不思議な地形をしていた。

 里は将軍グンヘイが我が物顔にしている、天降あまりノ泉を中心に南北東西、まるで植物の根が張っていくように川が流れている。


 すこし里を歩けば、目につくところ川。川。川。里の至る所に川が流れていた。泉が川を生み出していると言っても過言ではない。

 ゆえに、里は川の流れを利用した水車小屋が多く見受けられた。水流の力を借りて穀物の脱穀や製粉を行っている様子。


 なによりも、心を奪われたのは川の水の透き通り具合だ。

 ある程度深さがあっても、水底までよく見えた。泳ぐ小魚も、転がる石も、それこそ水の流れも、肉眼ではっきりと見える。とても、うつくしい川だった。


 そんな川を眺めながらユンジェは桟橋の近くの木の陰に身を隠し、リョンのお守をしていた。サンチェの願い通り、彼が市場や畑で一仕事している間、幼子のお守をあずかっている。


 しかし。ただお守をするのではつまらない。

 ユンジェは川沿いに見覚えのある花を見つけると、リョンに声を掛け、二人でそれを引っこ抜いた。


 途中ユンジェは土を落として、根を懐剣で切り、丁寧に布でそれを拭く作業に移った。

 幼子には引き続き、摘んでくれるよう頼むと、役に立ちたいリョンは一生懸命に花を摘み、持てるだけ持ってユンジェの下へ走る。それを幾度も繰り返した。


 がんばる姿を褒めてやれば、リョンは嬉しそう衣を握ってはにかみを見せる。役に立っていることが嬉しくてたまらないのだろう。

 それはサンチェが戻る、昼頃まで続いた。


「お前ら、俺が盗みに行っている間に、なに草遊びしてるんだよ」


 呆れ顔を作るサンチェは、そこそこ収穫があったようだ。掛けている頭陀袋がやや膨らんでいる。

 きっとあの中に、果実や芋なんかが入っているのだろう。もしかすると菓子が入っているやもしれない。それはユンジェにも分からない。


 ただ腕や足、顔に砂や擦り傷をつけているサンチェを見ると、少々無理をした様子。腹を空かせた幼子らや年長達を喜ばせたいのだろう。


 サンチェの良いところは、ユンジェに手伝ってほしい、と言わないところだ。

 盗みが悪だと知っているからこそ、必要以上にユンジェを巻き込まないのだろう。盗みは人が多い方がやりやすい。収穫物だって増える。

 なのに、彼はユンジェに敢えて、リョンのお守を頼んだ。いくら調子良いサンチェでも、ユンジェを盗みに巻き込むのは良心が痛む。

 あくまでユンジェの予想だが、彼はそう思ってくれたのではないだろうか?


 妙なところで気を遣う奴だ。思わず苦笑いが零れてしてしまう。


 さて。呆れるサンチェの誤解を解くため、ユンジェは花のついた草を彼に向け、得意げに教えてやる。


「これはセリって言って、食える草なんだ」


「食える草?」


「そっ。塩ゆでにして食うと美味いぞ。えぐみもないし、苦味も少ない。保存は利かないけど、少しでも食い物は多い方が良いだろう? これから先、里に来たら、ここでセリを摘んで飯の足しにしろよ。リョンも手伝ってくれたんだぜ。な?」


 幼子は何度も小さく頷いた。サンチェの顔色を窺い、もじもじと指遊びをしている。


「りょ、リョン。働くって言ったから……」


「これから家族になるみんなの分まで、たくさん摘んでくれたんだぜ? うんと褒めてやれよ、サンチェ。リョンは宣言通り、働いてくれたんだからな」


 すると。膝を折ったサンチェが、俯き気味だったリョンの頭をわしゃわしゃと撫でまわした。

 大層、リョンは驚いていたが、彼が偉いえらい、と大袈裟に褒めると、自信を得たように目を輝かせた。

 己の仕事っぷりが認められて嬉しかったのだろう。ユンジェが褒めた時よりもずっと誇らしげに、頬を赤く染めて、はにかんでいる。


 リョンを面倒看ると言ってくれたサンチェに、一番褒めてもらいたかったのだろう。

 微笑ましい光景に目尻を下げ、ユンジェは懐剣でセリについた土や根を落としていく。


「サンチェ。セリの他に、ヨモギも見つけたから、一緒に入れておくぞ。若い葉だけ摘んでおいたから、こっちも飯の足しにしろよ。あと、ヨモギは血止めになるから、重宝しておいて良いと思うぜ。血止草ちどめぐさとも言われるらしいから」


 尤も、ヨモギのことはハオからの受け売りだ。

 彼が教えてくれた薬草の知識を、ユンジェはまんま口にしているだけ。胸を張って教えられるような知識ではない。

 すぐ側で小山となっているヨモギを指さし、ユンジェはあれも持っていくようサンチェに言った。きっと、みなの役に立つことだろう。


 と、サンチェが、こちらの顔をじっと見つめていることに気づく。

 その場で胡坐を掻き、黙ってユンジェを見つめてくるので、なんだか、とっても気持ちが悪い。妙ちきりんなことでも言っただろうか?


「ユンジェ。本当に天降あまりノ泉へ行くのか?」


 今さら何を。

 ユンジェはセリの根を切り落としながら、呆れ気味に頷いた。

 ティエン達と合流しだい、天降あまりの泉へ行く。将軍グンヘイのことを考えると、不安なことも多いが、気持ちは行きたいの一択だ。


 そう思わせるのは、ユンジェが麒麟の使いだからだろうか?


 とにもかくにも、まずはティエン達と合流だ。でなければ話も進まない。


「サンチェ。お前、まだ俺に何か頼む気か? いい加減、俺の願いごとも聞いてほしいんだけど」


「べつに頼みごとがあるわけじゃねーよ。たださ、お前は俺達と一緒で家なしだろ? 兄さんと合流したら、二人で一緒にあのねぐらで暮らすのも良いんじゃないかと思ったんだ」


 手が止まってしまう。

 ただの冗談かと思いきや、見つめてくるサンチェの目は本気であった。


「ユンジェは俺達と同じ家なしで、けど俺達にはない、生きるための知識をたくさん持っている。お前が居れば、もっと暮らしが楽になると思ったんだ。年長が増えたら俺達も助かるし、ガキ達も頼りになる人間が増えて安心する。なによりお前のこと、もっと知りたいと思ったんだ」


 いや、ちょっと違う。

 一生懸命、素手でセリの土を落とすリョンの髪を撫ぜながら、「お前は俺以上に頼りになる」それが少し羨ましく、妬ましく、でも、どこかで安心させてくれる。

 彼は微苦笑を零し、リョンの頬を指先で突いた。


「単純に俺も欲しいのかも、頼れる人間ってのが。ジェチも、トンファも、頼りにならないわけじゃねーんだけどな。あいつ等の前じゃ、どうしても気張る俺がいるから。二人もどこか、俺の顔色を気にするところがあるし」


 率先して自分がやらなければ、しっかりしなければ、という気持ちになる。

 しかし。ユンジェといる時は、その気持ちが薄れ、「こいつがいるなら何とかなるだろう」「何とかしてくれるだろう」という思いが強まる。対等な気持ちになれる。


 出逢って日が浅いのに、そう思わせるのは、様々なユンジェの知恵を目の当たりにしてきたからだろう。


「お前くらい知識があれば、風邪をこじらせたガキ達も救えたかもしれない」


 サンチェにはサンチェの、家長としての悩みがあるようだ。


 思えば、サンチェは率先してウサギを捌いたり、ねぐらにいる子ども達を守るため、己がオトリになったり、と自分から動いていた。

 それは自分が頼られる存在だから、進んでやっていたのだろう。


 彼と話している限り、サンチェは気が強い。精神的な芯も太く、剣の経験もある。年長の中で誰が頼れるかと聞かれれば、出逢ったばかりのユンジェですらサンチェの名前をあげることだろう。


 そんな彼だからこそ、子ども達をまとめるかしらとして、家長として、誰にも言えない悩みや弱さを胸に秘めているに思えた。


 ユンジェはサンチェをまじまじと見つめ、「ばかだろ。お前」と言って、からかってやる。


「俺が持っている知識なんて高が知れているよ。大したことじゃない。頼れるように見えるのは、俺がお前の知らない知識を持っているだけ。他のところを見れば、結構呆れると思うぜ。なんせ、俺は剣の腕っぷしもなければ、学びの知識もてんで持っていない。本も読めないんだぜ? これを聞いても、頼れそうに見えるか?」


 それに。


「サンチェは何でも、一人で抱え込み過ぎだ。お前は確かに頼れるだろうけど、誰にも頼っちゃだめだとは決まっていない。つらくなったら、ジェチやトンファに弱音を吐いても良いんじゃないか? 二人と一緒に暮らして、生きているんだから」


 一緒に生きるとは、頼り頼られるで考えるのではなく、楽しいことも、苦しいことも共に分かち合うことだとユンジェは思っている。


 サンチェが悩んだら、きっとジェチやトンファも一緒になって悩んでくれることだろう。


 話すことで、楽になることもあるやもしれない。

 三人で乗り越えられる問題やもしれない。

 もしかすると、幼い子ども達が解決の道に導いてくれるやもしれない。


 リョンだって、さっき大きくなったら、サンチェの頼りになると言ってくれた。


 本当はみな、率先して動くサンチェの頼りになりたいのではないだろうか?


「お前が気張っていること、じつは二人とも見抜いているんじゃねーの?」


 いや、きっと見抜いていることだろう。毎日、同じ場所で過ごしているのだから。


「まあ。どうせ、お前のことだから、悩みながらジェチやトンファを振り回しているんだろうけど。あの二人には同情するよ」


 しかと言ってやれば、サンチェが軽く声を上げて笑った。


「ユンジェくらいだぜ? 俺にそこまで生意気に言えるの。はっきり言いやがって」


「だってそうじゃないか。俺だってお前が初めてだよ。俺をいいように散々振り回してくれた奴」


 言っている内に、ユンジェまで笑いが出てくる。彼の笑い声につられてしまったようだ。


「話せば話すほど、惜しい気持ちになるよ。お前が居てくれたら、もっと暮らしが楽しくなりそうなのに。ユンジェ、本当に無理なのか? 兄さんと一緒に歓迎するぜ?」


 少しだけ、ほんの少しだけ心が揺らいでしまったのは、ユンジェ自身もサンチェと話していて楽しくなったからだろう。

 生まれてこの方、同い年の同性と接する機会がなかったユンジェは、サンチェの誘いがとても魅力的なものに思えた。


 彼の言う通り、苦しい現実を強いられてもなお、楽しい暮らしができそうだ。彼らなら、呪いの王子と謳われたティエンのことも受け入れてくれることだろう。


 それでも。

 ユンジェは誘いを丁重に断った。

 サンチェ達の傍にいることはできない。謀反兵のこともあるし、麒麟から授かった使命もある。


 なにより自分達は各方面の王族に狙われている身の上。彼らの傍にいれば、必ず争いに巻き込んでしまう。


 察しの良いサンチェは、断るユンジェの横顔を見つめると前乗りになった。


「ユンジェ。お前、ほんとうに大丈夫なんだよな?」


「え?」


「上手く言えないんだけど……なんとなく今のお前、消えそうだったから」


 なんだそれ。力なく笑うユンジェだが、リョンも同じことを思ったようだ。小さな手を伸ばし、ユンジェの衣をきゅっと握ってくる。


「リョン。ユンジェお兄ちゃんも、お兄ちゃんと思ってる」


「だってさ。リョンも一緒に暮らしたいって。なあ、リョン」


「うん。一緒に暮らしたい」


 途端に意地の悪い笑みを浮かべてくるサンチェの頭を、強めに引っ叩いた。すぐにこの男は調子に乗ってくる。


「お前はすぐリョンを味方につける。卑怯だぞ」


「ばーか。味方は多い方が勝ちやすいだろ」


 先ほどの潮らしい面持ちはどこへやら。

 へへっ、と笑うサンチェにユンジェは握り拳を作った。


「ほんっと。お前はいい性格しているよな」


「そう褒めてくれるなって。もっと調子に乗りたくなるから」


 ふたたび拳を入れるも、簡単に受け止められてしまう。忌々しい男だ。ユンジェは思わず、サンチェを睨んでしまった。


――リーミン。


 その時だった。

 脳裏にひとつの呼び名が過ぎゆく。それは聞き馴染のない、しかしながら聞き馴染のある名前。確かに、ユンジェの名前であった。


――リーミン。


「ユンジェ?」


 サンチェが顔を覗き込んでくる。急に喋らなくなってしまったユンジェに、訝しげな気持ちを抱いたのだろう。どうしたのだ、と尋ねてくる。


 けれど。ユンジェの耳に届かない。

 それどころか、心がざわつき始めた。体中に熱いものがめぐった。何度も頭の中で声がする。


――リーミン。


 ああ、呼ばれている。自分は主君に呼ばれている。主君はすぐ近くにいる。行かなければ。

 嫌だ。違う。主君はあれではない。己はティエンの懐剣なのだ。ユンジェなのだ。リーミンなのだ。懐剣のユンジェなのだから、守るべき者は主君であって、自分はユンジェではない。懐剣のリーミンとしてティエンを守る。


 ユンジェ? リーミン?


 分からなくなってきた。自分の名前はなんだ。なんという名だった? ユンジェは頭を抱えて顔を振った。

 がんがん、と頭の中から凄まじい音が聞こえてくる。名前を奪われていく音が聞こえてくる。


「ユンジェ。おい、大丈夫か? ユンジェっ!」


 サンチェが肩掴んで揺さぶってくる。

それによって、ようやく我に返ることができたユンジェは額に滲んだ脂汗を拭い、大きく息を吐いた。


 大丈夫だと返したいところだが、正直、頭が割れそうに痛い。

 サンチェ曰く、青ざめているらしいので、ずいぶんと顔色も悪くなっているようだ。


「水。飲めよ」

「ありがとう」


 サンチェから水袋を受け取ると、それで喉を潤し、気持ちを落ち着ける。まだ鼓動が早鐘のように鳴っている。鬱陶しい。


(近くにセイウがいるのか。くそっ、ティエンが傍にいないから、いつリーミンなってもおかしくないぞ)


 ユンジェをユンジェとして戻せるのは、懐剣の所持者であるティエンだけだ。その彼がいない今、いつまでユンジェの理性が保っていられるか。気を緩むとリーミンになりそうで怖い。

 問題はそれだけではない。呼ばれている、ということは、近くにセイウがいること。なんでよりにもよって、性悪第二王子がこの里付近にいるのだ。厄介な。


(少し前は第一王子のリャンテに遭遇した。第二王子のセイウも近くにいる。そして、俺とはぐれた第三王子のティエンも、きっと天降あまりノ泉へ向かっている。王位継承権を持つ三人の王子が、まるで導かれるように泉へ引き寄せられている)


 いや、まるで、は不適切だ。

 自分は夢の中で、瑞獣の麒麟に命じられていたはずだ。


 第一王子を、第二王子を、第三王子を、ひとつの時代を終わらせる新たな王を、麒麟の休み場としている天降あまりノ泉へ向かわせろと。

 そこで麒麟が待っている。そう、瑞獣から云われていたではないか。


 ああ、きっと。天の上にいる麒麟はユンジェをしるべとし、己を介して王位継承権を持つ王子達を集めようとしている。見極めようとしている。懐剣の所持者に相応しい見出そうとしている。現国王であるクンルを差し置いて。


 それは今の時代に思うことがあるのか、あるいは見切ってしまっているのか。


 どのような理由があるにしろ、ユンジェは不安で仕方がない。

 ティエンがいない今、自分はいつまでユンジェでいられるのだろう。それどころか、ティエンの懐剣でいられるだろう。ああ、ティエンは無事だろうか。他の王子らと鉢合わせていないだろうか。湧水のように不安が溢れかえってくる。


「ユンジェお兄ちゃん」


 小さな手がユンジェの手を擦ってくる。心配そうに見上げてくるリョンと目が合った。その瞳の中には、情けない顔をしている自分がいる。

 ユンジェは力なく笑みを返すと、セリの束を集め、それをサンチェに押し付けて、ゆるりと立ち上がった。


 衣で懐剣の刃を拭うと、手早く鞘に収め、彼に別れの言葉を送る。


「サンチェ。そろそろ俺は行くよ。はやく兄さんを探さないと。リョンと達者でやれよ」


 性急な別れに違和感を抱いたのだろう。

 サンチェはセリを持ったまま立ち上がり、「何かあるのか」と、そっと尋ねてきた。


 優しくない奴だ。見て見ぬ振りをして、見送ってくれたらユンジェも足軽に別れられるのに。彼は聡い人間だ。挙動のおかしいユンジェの気持ちなど容易に見抜いていることだろう。


 サンチェはどこまでも、ユンジェの思い通りに動いてくれない人間である。まったくもって優しくない。まっすぐ見つめてくる、その目はお節介と心配で溢れていた。


 しかも。彼は一切の遠慮もなくユンジェに言うのだ。


「お前が何を考えているのか分からねーけど。手前のツラはつらそうだ。誰かに救ってもらいたいような、そんな顔をしている。そして、それを見逃せって目をしている」


 縁もゆかりもない人間なら、サンチェも極力首を突っ込まず適当に流して終わる。けれど。


「ユンジェ。お前の心に抱えている重たいものは、俺に分けられねーのか? 少しなら持ってやれるかもしれねーぞ」


 腹立たしい調子乗りのくせに、妙なところで兄貴肌を見せる。


 正直、相手をそこまで真っ直ぐ思い、手を差し伸べようとするサンチェの器の広さに、ユンジェは羨望を抱いた。


 彼は自分を羨ましい、妬ましい、そして頼れる存在だと言ったが、一字一句同じことを返してやりたい。彼はユンジェに無いものを持っている。


 ユンジェは唇を小さく震わせるも、喉元まで出掛かった感情を嚥下して、誤魔化すように苦々しく笑う。


「ばか。俺に構っている場合かよ。お前はねぐらまでリョンを連れて帰る役目があるだろ。帰ったら、ジェチやトンファと一緒にガキ達に飯を食わせないといけねーだろ? 時間は惜しいんじゃないか? な、リョン。早く帰って、新しい家族と過ごしたいよな?」


 リョンを腕に抱き、衣の袖で頬を拭ってやる。正直な子どもは、うんっと一つ頷いた。


「ほら。リョンもこう言っているんだ。俺のことは気にするなよ」


「お前、リョンを味方につけるなんて卑怯な奴だな」


「サンチェにだけは、死んでも言われたくない台詞だぞ。それ」


「はあっ。なんだよ、人がせっかく、お前の願いごとを手伝ってやろうと思ったのに。これでも、お前を振り回した分、ちゃんとユンジェに振り回されてやるつもりだったんだぜ?」


 その気持ちだけで十分だ。心配せずとも、サンチェの想いは伝わっている。

 ユンジェはぶっきらぼうに頭を掻いて、不貞腐れ面を作るサンチェに噴き出す。重たい気持ちが、少しだけ取れた気がした。



 ◆◆



 サンチェ達と別れたユンジェは、ひとり桟橋を渡り、川の流れに沿ってかすみノ里の奥へ進む。


 その目的は里の地形の把握。里のどこらへんに里の人間や兵が密集しているか、この目でしかと確かめたかったのである。


 ユンジェはよそ者であるため、里の人間とすれ違う度に、いぶかしげな眼を向けられた。

 とりわけ、よそ者の子どもには冷たい目を向ける。

 里の親子連れを見掛けると、目を合わせるな、だの、近づいてはいけないだの、兵士に知らせるべきだの、色んな声が聞こえてくる。


 将軍グンヘイが頻繁にみなしごの子どもを捕らえては、里へ連れてくるので、里の者は警戒心を抱いているようだ。

 おおよそ、将軍グンヘイから逃げたみなしごの子どもらは、しょっちゅう里の中で盗みを働いているのだろう。里の者達は口々に、みなしごの子どもは品がなく、乱暴者で非常識だと陰口を叩いていた、


 生きるために仕方がない行為だと、頭の片隅で分かっていても、自分達の生活を脅かされることには思うことがあるらしい。


 ユンジェは里の者達に正直な人間だな、と思った。

 一応、麒麟に仕える神官が多い里だと聞いているので、もう少し人情にあつくても罰は当たらなさそうなのに。みな、自分が可愛いのだろう。


 それとも、将軍グンヘイの支配のせいで、心が蝕まれているのやもしれない。心なしか、里の人間のかんばせは重いように思えた。


 ユンジェは兵士に見つからないよう、連中の姿を確認すると極力家屋や木の陰、唐黍畑とうきびばたけに鳴りを潜めた。

 里をうろつく兵は逃げた子どもらの行方を追っているようで、里で遊ぶ子どもを見つけると声を掛けて、素性を尋ねていた。


 どうも兵士達は焦っているようだった。

 一人でも多く、みなしごを回収しなけれが自分達の実の上が危ぶまれる、と会話が聞こえてくる。それだけ将軍グンヘイが恐ろしいのだろう。


(ここは……)


 川沿いを歩いていたユンジェの足が止まる。多くの兵がいたので、急いで草深い茂みに身を隠す。


 目に映ったのは広そうな森の入り口らしき架け橋。

 うっそうとした森は、開拓された里には相応しくない、厳かな空気が醸し出されている。森から流れる大きな川は入り口を囲うように、途中から枝分かれしており、里の至る所へ流れていく。

 また、そこは常時兵達が見張っているのか、小屋が建てられていた。


 考えずとも分かる。あそこが天降あまりノ泉の入り口だ。警備は里のどこよりも厳重であった。


(あの奥に泉があるのか)


 まだ入り口の架け橋しか見てないので何とも言えないが、他に侵入口はなさそうだ。周りは川で囲まれているので、川の深さによっては侵入が難しそうだ。


 否、きっと侵入できない。


 天降あまりノ泉はかすみノ里が守護していた地。


 将軍グンヘイに反発した里の者が、とっくに試みていそうだ。よそ者のユンジェが考えつくことなのだから、絶対に誰かがしていることだろう。


 ユンジェは早々に侵入口探しを諦める。あそこは兵が多いので、川の回りを歩くのはあまりに危険だ。賢い選択ではない。


(泉の場所を知れただけでも儲けものだろ。ティエン達と合流した後に、この問題は考えよう)


 足音を立てないよう、そっと身を引き、その場を後にする。


 そろそろが日が暮れるので、どこかで野宿しなければ。

 ティエン達を待つ場所は市場らへんが良いだろう。彼らがここに辿り着いた時、きっとユンジェの話を得ようと、人の多いところで聞き込みをするだろうから。


(頭の芯がまだ痛い。セイウのせいかな。俺の名前……リーミンで合っているよな)


 ユンジェは自分の名前を小声で口にする。うん、ひとつ頷いた。大丈夫、慣れ親しんだ名前だ。自分はティエンの懐剣のままだ。


「広場に捕えた子どもを集めている。数が多い、兵を回せ。懐剣の子どもがいるやもしれん」


 息が止まりそうだった。兵の方に視線を戻すと、馬に乗った数人が足で腹を叩いて、ユンジェのいる茂みの側を走り抜ける。


 捕らえた子ども。嫌な予感が過ぎり、心臓がドクドクと早鐘のように鳴り響いた。


(サンチェとリョンは……大丈夫だよな)


 先ほど別れた者達を想い、ユンジェは衣で手汗を拭う。


 気づけば、駆け足で馬に乗った兵達の後を追っていた。


 大丈夫、サンチェは強い。足だって速いし、ユンジェよりも腕っぷしがある。

 調子の良い彼のことだ。奇策を考え、リョンと共に追っ手から逃れている。そうだ、きっとそうに違いない。


 そう信じたいのに、ユンジェの走る足は止まらない。

 からくれないの夕陽を浴びながら、息が切れてもなお、ひた走って里の広場とやらへ向かった。


(あっ!)


 ようやっとのことで広場に辿り着いたユンジェは、荒呼吸のまま木の上にのぼり、そこの光景を目の当たりにする。


 たくさんの子ども達が捕まっている。麻縄で縛られている。

 あれは自分達が逃がした子ども達なのだろうか、それとも別の地から奪ってきた子ども達なのだろうか。はたまた。


「トンファお兄ちゃんっ、怖いよ」


 子ども達の泣き声の中に、聞き覚えのある名前が耳に入ってきた。まさか。


 ユンジェが目を配らせると、幼い子ども達が一人の少年に寄り添っている。

 ジャグムの実を生で食べ、腹痛はらいたを起こした、あのトンファだ。


 彼は悲しそうに眉を寄せ、子ども達にもっと近くへ寄るよう声を掛けていた。少しでも温もりを与え、恐怖心を和らげようとしているのだろう。


 ああ、彼は捕まってしまったのか。ねぐらの場所がばれてしまったのか。

 それとも、ばれそうになってねぐらから離れたところを捕まったのか。どちらにしろ、これは最悪の状況だ。


(トンファとガキ達を合わせて……何人か足りないな。ジェチも見当たらないし)


 きっと、はぐれてしまったのだろう。


 ユンジェは痛むこめかみを擦りながら、下唇を噛み締める。

 サンチェとオトリとなり、一晩中走り回ったものの、やはり兵は甘くなかった。彼らは子どもらを捕まえてしまった。サンチェの家族を捕まえてしまった。


 これも懐剣の子どもが近くにいると、青州兵に一報が入ったせいだろう。それが無ければ、トンファ達は難なく兵達から逃れられたに違いない。


 傍に懐剣の子どもがいるから、自分が近くにいたから、彼らは捕まってしまった。大きな罪悪感がのしかかる。


(いつも俺に罪悪感を抱く、ティエンの気持ちが今なら分かる。自分のせいで、誰かが傷付くのがこんなにも心痛いことだなんて。俺が懐剣だったばかりに、あいつらが……)


 幼子らがトンファの名前を、ジェチの名前を、そしてサンチェの名前を呼んで泣いている。これから降りかかる未知な恐怖に親恋しくなっている。

 悲痛な叫びがユンジェの胸を突いてくる。


(どうすれば、あいつらを助けられるんだ。どうすれば……落ち着け。焦るな)


 冷静になれ。リーミン、冷静になれ。

 考えなしに動けば、余計悪い方向に流れていく。それは知っているだろう。リーミンっ!


 何度も自分に言い聞かせながら、忙しなく目を動かしていると、広場の隅に放置されている干し草束の陰で、兵達に睨みを飛ばしている少年を見つけた。


 サンチェだ。


 良かった、彼はまだ捕まっていないようだ。


 急いで木から下り、広場の兵に見つからないよう、大回りして彼の下へ向かう。

 忍び足で背後に回ると、傍にいたリョンがひえっと悲鳴を上げそうになった。


 慌てて両手で口を塞ぐと、サンチェが振り返ってくる。目を丸くする彼は、すぐに表情を崩して、「さっきぶり」と肩を竦めた。やや声音は硬かった。


「サンチェ。トンファ達が」


「ああ。運悪く見つかっちまったみてぇだな。どうにかして、助けてやりたいけど……広場じゃ、さっきみたいな奇襲は使えないな。兵も多いし」


 されど、サンチェは諦めていない様子。

 絶対に助ける手がある、と思案に耽っている。家族を見捨てるつもりは毛頭ないのだろう。


「さっきから兵達が、口々に懐剣の子どもがなんたら……って言っているから、それが見つかれば落ち着くんだろうけど。なんだよ、懐剣の子どもって」


 こめかみをさすり続けるユンジェは、何も言えなくなる。息が詰まりそうだ。頭も痛い。


「どうもグンヘイはガキの俺達を捕まえて売り飛ばす以外に、懐剣の子どもってやらの目的でガキを捕まえているみたいだな。まあ、懐剣だろうが何だろうが、末路はグンヘイの財になるのは目に見えているけどよ」


 広場にいる兵の声が厳かなものとなる。

 将軍グンヘイ自ら、広場に赴いたようだ。兵達はみな、片膝をついて深くこうべを垂らしていた

 将軍グンヘイはたてがみの美しい白馬に乗っていた。鮮やかな衣の上から、眩しいばかりに磨かれた鎧を纏っている。


 けれども、真ん丸な体躯のせいで、やや鎧が窮屈なものに見えた。

 その腹には脂がたっぷり詰まっていそうだ。よほど美味いものを食べているのだろう。


 鼻の下の髭は威厳を示しているようだが、妙に不格好に見える。

 将軍という肩書きを持つわりに、ちんちくりんな男に思えた。見た目、剣や弓も使いこなせそうにない。


 これならば、まだ将軍タオシュンの方が、立派な将軍と思えた。


「まだ懐剣のガキは見つからないのか。ちんたらしていると、第二王子セイウが到着するではないか。愚か者どもめ」


 声音を張るグンヘイは、近くにいる子どもを見やり、小汚いと感想を述べていた。だったら放してやれ、と思うが、グンヘイは子どもを金として見ているようで、この子どもはいくらほどで売れるだろうか、と独り言を零している。


 トンファの傍にいた幼子に唾を吐きかけた瞬間、感情的になったサンチェが飛び出しそうになったので、ユンジェは必死に体を押さえた。

 今、飛び出せば、瞬く間に捕まってしまう。


 兵士達は捕まえた子ども達の衣をまさぐり、懐剣がないか、所持品は何があるか、乱暴に確かめていく。

 その荒さに泣き出す子どももいたが、それすら暴力で黙らされていた。


 広場に集まる里の者達は野次馬こそするが、誰も助けようとはしない。同情を抱きつつも、我が身が可愛いのだろう。


「将軍。青旗の兵士らが丘を越えたそうです。そろそろ、セイウさまが御着きになるかと」


 聞き耳を立てると、こんな会話が聞こえてきた。

 間もなくセイウが里に着く、ユンジェは心の臓を凍らせた。まずい、セイウが里に到着すれば、自分は。


「その前にさっさと懐剣のガキを見つけ出せと、私は命じているのだっ! あれをセイウなんぞに渡してたまるものか!」


 少々様子がおかしい。

 てっきり、将軍グンヘイは麒麟の使いを捕らえ、第二王子セイウに差し出すと思っていたのだが。


 うんぬん考えながら様子を窺っていると、急に頭の内側から、がんがん、がんがん、がんがん、と音が鳴り響いた。頭が割れるほどの音に、悲鳴を上げそうになる。呼ばれている、自分は――主君に呼ばれている。


 一方で、つよい使命に駆られるのだ。次なる黎明皇のひとりを守れ、守れ、まもれ、と。

 抗えない衝撃に体が震えてきた。このままでは、自分は。


「ユンジェ? お前、さっきから様子がおかしいぞ。どうしたんだ」


 心配するサンチェの声もリョンの声も、ユンジェには遠い。ようやく耳に入って来たのは、大慌てで将軍グンヘイに報告する兵士の声。


「たった今、早馬がやって参りました。第二王子御一行が賊に襲撃されたそうです。至急、援軍を寄越すようにとのことです」


 それを聞くや将軍グンヘイは嬉しそうに、そうか、そうか、と手を叩く。

 援軍を出す動きは見られない。それどころか、「今のうちに懐剣のガキを見つけ出せ」と周りの兵に命じる始末。


 まさか、あの第二王子セイウを、一端の王族を見捨てるつもりなのだろうか。将軍グンヘイは。


「ユンジェ」


 サンチェの呼び声に、やっと我に返ることができたユンジェは、力なく笑って額に手を当てる。


「俺も見捨てることができたら良かったのに。主従の儀からは逃れられないってことか」


「お前……一体何言ってるんだ? 本当におかしいぞ」


 心配するサンチェに苦笑いを零し、ユンジェは首から提げている装飾品をそっと取り外す。それは王族の証を示す麒麟の首飾りであった。


「サンチェ。俺のお願いごと、聞いてもらって良いか」


 彼に麒麟の首飾りを差し出す。呆然とそれを見つめるサンチェは、ゆるりとユンジェを見つめ返した。


「この麒麟の首飾りを俺の兄さん、ティエンに渡してもらいたいんだ。そして、あいつに伝えてほしい。俺は第二王子セイウの下にいる。懐剣のリーミンになった。ごめんなって」


 麒麟の首飾りを握り締めると、サンチェの右手を掴み、それをつよく押し付けた。

 未だに意味が分からず目を白黒している彼は、「懐剣の……って」と、小さく呟き、やがてユンジェを凝視する。


 ひとつ頷き、ユンジェは訴える目に答えた。


「将軍グンヘイが探している懐剣のガキは俺のことだ。サンチェ、俺は今から将軍グンヘイの前に出て行く。俺が懐剣のガキだって知れば、あいつは狂ったように俺を追い回すはずだ。その隙に、トンファ達を救え。きっと騒動になるはずだから、大人の目を盗めるはずだ」


「ふっ、ふざけるなよお前。俺が簡単に行かせると思ってるのか? あいつの前に出たら、ユンジェが危なくなる。懐剣のガキが何なのか、俺にはいまいち分からないけど、俺は嫌だ。トンファ達を救う代償がお前だなんて」


 サンチェが首飾りを押し返す。


 彼は言う。

 ユンジェの胸に抱えている重たいものを分けられないのか、と言ったのは確かに自分だが、それはユンジェの重荷を一緒に抱えるための発言。ユンジェ自身を助けたいがための発言であって、こんな願いごとなんぞ聞き入れる気にもならない。


 強気に返すサンチェが、鋭い眼光で睨んでくる。

 心配してくれているからこそ、怒りを見せてくれているのだろう。彼と出逢って、とても日は浅いが、彼は確かにユンジェの友となりつつあった。


 痛いほど伝わってくる想いが、ユンジェの顔を歪める。

 両手で彼の右手を、麒麟の首飾りごと握り締め、「お前にしか頼めないんだ」と、言ってうな垂れた。


「俺にはもう、自分を抑える力が残っていない。どう抗おうと、第二王子セイウの懐剣に成り下がる。俺はリーミンになる。俺を俺に戻せるのは、兄さんのティエンだけなんだ。サンチェ、お願いだ。ティエンに伝えてくれ。俺はセイウの懐剣に成り下がっても、ずっと、ずっとお前のことを待っている。必ず助けてくれると信じている――だから、どうか、懐剣のユンジェを取り戻してくれ」


 縋るように言えば、サンチェもユンジェと同じように顔を歪め、頭がこんがらがりそうだと吐き捨てた。

 まったく話の前後が分からないので、理解もできず、ユンジェの身の上に何が起きているかも分からない。ただただ、それが気持ち悪くて仕方がないと彼。


 そんな自分にも、ひとつだけ理解できそうなことがある。

 サンチェはユンジェの手と麒麟の首飾りを強く握り返すと、「だったら約束しろ」と、凄みのある声で押し迫る。


「俺がこれを兄貴に渡すことで、お前は救われる。俺の行動はお前を助けるための、意味のある行動だって約束しろ。ユンジェ、お前は俺が走ることで、ほんとうに助かるんだな。うそを言ったら承知しねえぞ」


 真偽を確かめてくるサンチェの強い瞳をまっすぐ受け止め、ユンジェはゆるりと頬を緩ませた。彼にティエンの特徴と想いを託し、麒麟の首飾りから手を放す。


「サンチェ。ありがとうな」


 干し草束から飛び出したユンジェに、サンチェの返事は届かない。

 彼は何と言ったのだろう。悪態をついたかもしれないし、調子の良い言葉を投げてくれたやもしれない。残念に思う。せめて、彼の言葉だけは受け止めておきたかったのに。


 しかし。ユンジェの足はすでに、使命のために走り出していた。ユンジェは懐剣として、あるじを守らなければならない。

 自分の持つ懐剣は、主のものではないけれど、ユンジェは確かにセイウから血を賜った。主従の儀を交わした以上、ユンジェはセイウの下僕だ。


 主が危機に晒されているのならば、下僕の己は行かねばなるまい。


「将軍。小汚い子どもがやって来ます」


「何?」


 広場に飛び出したユンジェを、将軍を含む兵士達は訝しげな顔で見やってくる。

 おおよそ、捕らえられた子どもの仲間とでも思っているのだろう。さっさと捕らえろ、と投げやりな命令が聞こえてきた。


 ユンジェは不快感を抱く。

 なぜ、これらは主の危機に動かないのだろうか。襲撃を受けていると聞けば古今東西、命を擦り切らしても走るのが仕える者の使命だろうに。


 ああ、誰ひとり走らないのであれば邪魔なだけだ。使命を果たそうとする、懐剣リーミンの邪魔になるだけだ。


 群がる兵士らに目を細め、ユンジェはたばさんでいる懐剣を引き抜いた。


「退け、そこを退けっ!」


 暮れる夕陽の向こうから瑞獣の一声が轟き、天がふたつに割れた。


 赤い空の割れ目から巨体を持つ麒麟が降りてくる。

 それは誰の目にも映っていないようで、ユンジェの隣に並んでも、誰ひとり麒麟に目を向けることはない。


 されど、鳴き声は耳に届いているようだ。その場にいる者達は、瑞獣の一声ひとこえに反応している。


 麒麟がかぶりを回すように振ると、広場につむじ風が起こった。

 子どもらの戸惑う声、泣き声はそれらに呑まれ、兵士達はその風の強さに視界を奪われる。ユンジェと麒麟がそこを通り過ぎだけで、風は自らの意思で渦を巻き始める。使命を果たそうとする子どもと麒麟に道を開けようとする。


 足軽に将軍グンヘイの頭を飛び越えれば、「あれがそうだっ!」と、興奮し切った野太い声が耳にまとわりつく。


「懐剣のガキだ! 麒麟の力を授かった、あれが懐剣のガキだ!」


 目の色を変える大人は馬を鞭で叩き、麒麟や渦巻く風と共に走るユンジェを追う。何人もの兵がユンジェを追った。捕らえられた子ども達なんぞ、そっちのけとなっていた。


 使命に駆られているユンジェは、その状況に片隅で、それで良いと心から安堵した。

 後のことはサンチェがどうにか動くことだろう。願わくは、子どもら全員が将軍グンヘイの魔の手から逃れられますように。


――リーミン。


 呼び声が脳裏を過ぎる度に、走る速度が上がった。馬に乗る大人達よりも、ユンジェの方が速く、あっという間に里の出入り口まで辿り着いた。


 里を飛び出すと、ユンジェは呼ばれるがまま森の中を進んだ。草深い木々も花も獣も虫も、ユンジェと麒麟に道を作ってくれる。いち早く主の下へ行けるように。


 逆巻く小川を飛び越えて藪を飛び出す。微かに血の臭いが漂ってきた。先に麒麟が走り出したので、ユンジェはその後を追う。


 美しいたてがみを靡かせる麒麟は、ユンジェを戦となっている地まで導いた。


 そこは丘のふもと。

 草木が少なく見晴らしの良いそこに、青旗を掲げる王族一行と賊らしき者達が剣を交えている。やや数は王族一行の方が不利に思えた。賊の方が人の層が厚い。


 怒号が聞こえてくる。

 セイウさまを守れ、王族の首を討ち取れ、お下がりください王子、あれを討てば青州は制圧できるやもしれない――様々な声を耳にしながら、ユンジェはその戦に身を投げた。


 賊は腕のある者達が集っているようで、剣の腕に長けている兵士らを苦戦に追い込んでいた。

 馬に乗る兵は落馬させ、地に足をつけている兵はそのまま斬りかかり、ひとり、またひとり、と兵士を討って数を減らしている。


 数が減れば当然、守る層は薄くなる。それは即ち、セイウの守護がおろそかになるということ。


「セイウさま。お下がりください。賊の狙いは貴殿です」


 近衛兵チャオヤンが率先して馬を走らせ、賊に直刀に振り下ろし、第二王子セイウの守護にあたる。

 他の兵士には守りを怠るな、と怒声を張っていた。セイウに傷ひとつ付けてはならない、援軍が来るまで身を挺して王子を守れ、と命じる。主君を守るために必死であった。


 そして。

 馬に乗るセイウは護身刀である苗刀みょうとうを抜き、前後左右に目を配らせていた。

 いつも余裕に満ちたかんばせが、やや険しい色を放っている。敵襲に焦りを見せているのか、それとも冷静に物事を判断しようとしているのか、少々余裕に欠けていた。


 それなりに剣の腕はあるようで、己に向かってくる賊の剣を受け流し、鮮やかな動きで斬り返した。一対一なら負け知らず、と称せる腕なのかもしれない。


 ただ第二王子セイウは戦慣れしていない王族なので、数が多いと、判断に迷いや鈍りが出てくる。即決に敵を見定め、斬り倒すことができずにいる様子だった。


「セイウさま!」


 一瞬の迷いが油断を生む。いち早く主君の危機を察知したチャオヤンが、手綱を引いて振り返る。


「小癪な」

 

 前ばかりに気を取られていたセイウも、舌を鳴らしながら振り返る。賊はすでにセイウの背後を取り、目と鼻の先で柳葉刀りょうようとうを振り翳した。


 そうはさせない。ユンジェは小柄な体躯を活かすと、兵士や賊の合間を縫って、つよく地を蹴った。


 そうして双方の間に割り込むと、力の限り懐剣を薙いで、賊の柳葉刀りょうようとうを受け止める。否、受け止めたそれを叩き折った。


「あれはリーミン……まさか、主君の危機を知って走ってきたのか」


 チャオヤンの驚く声は、青州の兵士達にも伝染した。第二王子セイウに至っては、こぼれんばかりに大きく目を見開いている。


 真上にあがった柳葉刀りょうようとうの刃が土に刺さる。同時にユンジェも、地面に着地して殺気立った。


「セイウの首を討ち取りたいなら、俺を折ってからにしろ。懐剣のリーミンは、まだ折れていないぜ!」


 咆哮するユンジェを見つめていたセイウが、次第に喜びと興奮に満たされ、いつもの余裕を取り戻す。

 物騒な状況なのに強い欲に駆られた。


「これが主従の儀の関係。血の杯を飲んだリーミンは、折れるまで私を守り通そうとする」


 ああ、なんて喜ばしい光景だろうか。

 リーミンが自分の危機を知り、どこからともなく走ってきた。麟ノ国のどこにいようとも、その使命に駆られて走って来る。こんな懐剣、国中どこを探しても見つからないことだろう。はやく、まことセイウの懐剣にしてしまいたい。いや、あれはもう、自分の物だ。自ら戻って来たのだから、当然セイウの懐剣と言えよう。


 気持ちを高揚させながら、懐剣の子どもにセイウは命じた。


「リーミン。あれらを殺してしまいなさい。王族に刃を向ける薄汚れた人間など、無礼も甚だしい。汚らわしい人間を生かす必要などありません――殺しなさい」


 うつくしいものこそ価値がある。

 主君の心からの訴えを受け止めたユンジェは、セイウに悪意を抱く人間を見据え、懐剣を握り直して音なく走った。


 隣を走る麒麟の起こす風に乗り、目にも留まらぬ速さでひとりの賊の前に回ると、寸の狂いもなく懐剣を喉元に突き刺す。


 断末魔と共に返り血を浴びても、変わらぬ表情で次の標的を探した。


 背後から柳葉刀りょうようとうを振り下ろされたが、素手で受け止め、隙ができた瞬間、懐剣で返り討ちにした。命を奪うことに躊躇いなど無かった。


 それが主君の望む、懐剣の姿なのだから。


 その姿に敵も味方も、ユンジェに恐怖と戸惑いを抱くが、セイウだけはうっとりと見惚れていた。歪み切った欲がユンジェをリーミンにしていった。


 ◆◆


「あれが懐剣のリーミン。思った以上じゃねえか」


 少し離れた所で、セイウと同じように歪んだ欲を抱く不届き者がいる。

 戦を盗み見るその者は、賊に成り済ました第一王子リャンテ。


 丘の手前にある森に鳴りを潜め、懐剣リーミンのお役を果たす姿を見ていたのだが、その強さと躊躇いのない太刀筋に、舌なめずりをしてしまう。


 戦狂いのリャンテにとって、懐剣の子どもの姿は理想そのものだった。

 相手の死はもちろん、己の死すら何も思わず、主君のために目の前の輩を討ち取っていく。なるほど、美と財に目のないセイウが父王に逆らっても、手元に置きたがるはずだ。


 あれを手に入れたら、もっと刺激ある大きな戦に飛び込めるのではないだろうか。手に入れる価値は大いにある。


「さてと。懐剣のリーミンをどう手に入れるかな」



 時を同じくして、懐剣の子どもに欲望を抱く不届き者がいた。子どもを追って馬を走らせていた、将軍グンヘイであった。

 グンヘイは麒麟の力を宿した子どもの姿に、たいへん興奮した。


「あれは千の兵に匹敵する力だっ!」


 我が物にすれば、傲慢な王族にへりくだる必要もなくなる。

 国を統べるクンル王とて、敵ではなくなるやもしれない。


 いやいや、さすがに王座は欲を出し過ぎだろう。頂点に立てば、絶えず命を狙われる可能性もある。ここはクンル王の顔を立て、盾を作っておくべきだ。


 嗚呼、あれを差し出せば、左遷された件も取り消され、今よりもずっと高い地位と名誉を得られるやもしれない。


 そのためにも。


(第二王子セイウをどうにかせねばなるまい。どうするか)



 ◆◆



 丘のふもとに静けさが戻る。


 ユンジェは遠くへ逃げていく賊を見送り、そっと地面に目を落とした。

 そこには兵士と賊のしかばねが転がっている。相討ちになった者もいれば、命を奪われた者もいることだろう。そして、ユンジェが命を奪った者も。


 それらをぼんやりと眺め、血塗られた懐剣を衣で拭った。

 相変わらず、懐剣の刃は輝きを宿している。のろのろと鞘に目を向けると、装飾の黄玉トパーズも、変わりなく光り輝いていた。こんなにも人の返り血を浴びたのに。


 懐剣を鞘におさめたところで、少しだけ我に返る。

 ユンジェは身を震わせた。先ほどまで何も思わなかった屍に恐怖を抱く。自分は一体……。


「リーミン」


 聞こえてくる声が心の臓を凍らせる。

 ユンジェは急いで、その場から逃げようと走り出すが、あっという間に青州兵に囲まれてしまった。

 後ずさりすると、背後に回った近衛兵のチャオヤンにぶつかる。逃げ道を塞がれたユンジェは震えることしかできない。


 分かっていたことなのに。

 サンチェに麒麟の首飾りを託した、その時から、分かっていたことなのに。


 それでも抗おうとする自分がいる。主君に恐怖する自分がいる。逃げ出したい自分がいる。


(ティエン。俺っ、おれ)


 たくさんの大人に囲まれ、ユンジェはどうすることもできない。ここに、助けてくれる者はいない。両膝を崩し、その場に座り込む。


(ティエンっ)


 心の中で必死にティエンを呼び続けた。ユンジェがユンジェでなくなるのが、とても怖い。


「おやおや、困った子ですね。また小汚くなって。早いところ湯殿に入らせて、うつくしく磨かなければ」


 兵士達が道を開けた。

 そこから第二王子セイウが現れる。直視することができず、ユンジェは俯いてしまった。目を合わせることすら怖くて仕方がない。


 なのに。骨張った指が顎を掬ってくる。無理やり視線を合わせられたユンジェは、セイウの瑠璃の瞳に心を奪われた。


「セイウの懐剣である以上、お前は美しい姿でいなければなりません。小汚い衣や靴なんぞ、リーミンには似合わない。とはいえ、今のお前は美しい。返り血を浴び、私の身を守る姿は、まこと麒麟の使いに恥じない姿でした。身も心も懐剣になり切る姿こそ、リーミンに相応しい」


 セイウは見抜いているに違いない。麒麟の使いだったばかりに、王族に逆らえず、怯えるユンジェの心を。

 そして。抗うことができず、悔しい思いを噛み締めているユンジェを嘲笑うかのように命じた。


「お帰りなさい、私の懐剣――さあ、ここで服従を示しなさい」


 自分が誰の物か、それをここで示せ。

 そう言葉を重ねるセイウに、何も言えず、返せず、抗えず、ユンジェはその場で平伏して両手の甲を見せた。右の足で踏まれたことを確認すると、そっと足の甲に額を合わせた。


「ただいま帰りました。我が君、麟ノ国第二王子セイウさま」

 

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