十二.願いごと


 サンチェはかすみノ里の市場で、こっそりと叉焼包チャーシューバオを盗んでいた。


 出店には店主がおらず、客足もなく、それどころか市場はもぬけの殻となっていた。

 それを良いことに、蒸籠せいろから叉焼包チャーシューバオを五つ、六つ、失敬すると急いで細道へ逃げ込む。


 曲がりくねった道を進み、一軒のおんぼろ納屋に入ったサンチェは、蝋燭がともった一帯を見渡し、干し草の山に隠れる幼子達に声を掛けた。


「今日の夕飯だ。みんな、出て来い」


 すると。幼子がひとり、ふたり、と出てくる。


 その中に、リョンの姿もあった。サンチェが持っている叉焼包チャーシューバオを目にするや、幼子達は嬉しそうにそれを受け取って、干し草の上で食べ始める。


 幼子達はサンチェが養っている子どもであった。

 懐剣の子どもが現れた騒動の最中、出来る限り、多くの子どもを救おうとしたのだが、救えているのは目の前の子ども達のみ。


 兵士は甘くなかった。懐剣の子どもが現れても、数人は広場に残り、子どもらを屋敷へ運び始めたのである。

 事に気づいた年長のトンファは、サンチェに幼子達を優先しろ、自分の麻縄は後回しで良い、と言った。


 結果。トンファまで間に合わず、彼は他の子ども達と連れて行かれてしまった。ほんとうは彼も、救いたかったのに。心優しいトンファは己を後回しにし、幼子達を優先した。今頃、彼はどうしていることだろう。


(せっかくユンジェが自分を犠牲にして、作ってくれた機会を最後まで活かせなかった。ユンジェの奴、大丈夫かな)


 しかし。落ち込んでもいられない。自分は頼みごとをされているのだ。


 サンチェは頭陀袋から麒麟の首飾りを取り出し、それをしかと見つめる。

 これをユンジェの兄に渡し、ユンジェとトンファを救う道を考えなければ。くよくよする暇などない。


 サンチェは叉焼包チャーシューバオをかじると、トンファから託された幼子達に、「しっかり食えよ」と言葉を掛けた。

 まずは、幼子らを大人達の目の届かない、安全な洞窟に連れて行かなければ。


「サンチェお兄ちゃん。向こうのお外が明るいよ」


 リョンが突き上げ戸を指さす。叉焼包チャーシューバオを銜え、戸の向こうを見渡した。納屋からは大通りがよく見える。リョンも外が見たいと言ってきたので、腕に抱いて二人で外を確認した。


 リョンの言う通り、外は明るかった。

 もう日は暮れているというのに、大通りにはたくさんの松明が焚かれている。それだけではない、里の人間が通りの両端に膝をついていた。老若男女問わず、膝をついている。


 間もなく、そこを煌びやかな装飾で着飾っている馬や、重装ある鎧を纏った兵らが通る。それに伴い、里の人間が地面に額を合わせて平伏した。


 サンチェはあの一行の正体を知っている。

 あれは王族の一行だ。市場に人がいなかったのは、みなで王族を出迎えるためであろう。天の次に地位のある王族を無視する行為は謀反にあたる。


「あっ」


 リョンが小さく声を上げ、指さした。

 幼子の指さした先にはひと際、美しい男。それは丁寧に織り込まれた衣と、色鮮やかな簪を挿しており、穢れの知らない白馬に乗って通りを進んでいる。


 守護する兵の多さに、あれが王族の人間だということが分かった。


 けれども注目したいのは、男ではなく、それと共に馬に跨っている子どもだ。


「ユンジェお兄ちゃん。怪我してるの?」


 リョンが心配を寄せるのも無理はない。

 王族と共に乗っているユンジェの衣は、血まみれであった。頬も四肢も血で汚れているばかりか、ぐったりと男の腕の中で目を閉じている。ここからでは眠っているのか、気を失っているのか判断がつかない。


 ただ、ユンジェがひどく疲労しているのは見て取れた。


(ユンジェっ!)


 耳をすませると、馬の足踏みにまじって会話が聞こえてくる。


「セイウさま。こちらでリーミンをお預かりしましょうか? このままでは、リーミンの血でお召し物が汚れます」


「大丈夫ですよ、チャオヤン。こんな衣、汚れたところで新しいものに着替えれば良いだけの話。それよりも、私はリーミンを手元に置いておきたいのです。やっと、ようやっと私の懐剣が戻って来たのですから。今度は決して逃がさないよう、しかと己の手で持っておかなければ」


 距離はあるが王族は、ユンジェの頬を撫でているようだった。

 その手つきは慈悲にあふれているものではなく、なんと表現すれば良いか……大切にしている物を嬉しそうに触る手つきだった。


「リーミンは眠っているようですね」


「お役を果たし、少々疲れたのでしょう。麒麟から与えられる力は、我々の想像をはるかに超えるものと聞きますから。ふふっ、もっとお役を果たす姿を見たいのですが、あまり無理をさせるとリーミンが折れてしまいかねない。今は休ませてやりましょう」


 王族がうっとりとユンジェを見つめる。一刻もはやく宮殿に飾りたい、と声が聞こえてきた。


「第三王子ピンインが近くにいる可能性があるやもしれませんね」


「あれのことです。この子と主従の儀を交わしていないことでしょう。それが仇になるとは知らずにね。すでにリーミンの心は、私に逆らえないところまできている。近くにいたところで、取り戻すことなどできませんよ」


 ユンジェを、さも物のように扱う男らの会話に、サンチェは顔を顰めた。


 自分にはユンジェがどのような理由で兵に追われ、逃げ回り、王族から身を隠していたのか知る由もないが、あの会話を聞けば逃げたくなる気持ちもよく分かる。

 連中はユンジェを物として見ている。人として扱っていない。ああくそ、何もできない自分にも、あいつらにも反吐が出そうだ。


(待ってろ。ユンジェ、お前の願いごとは俺が必ず叶えてやっから)


 麒麟の首飾りを握り締める。


 王族の後に続く、将軍グンヘイの姿を見つけると、一層それを握り締めてしまった。


 何食わぬ顔で悠々と大通りを馬で進む、あの男が憎たらしくて仕方がない。

 あれは自分の家族を奪い、故郷を奪い、ねぐらにいた子ども達を恐怖に貶めた。今も子どもらを捕らえ、財にしようとしている。物のように扱っている。


 そう思うと、自分達はユンジェと同じ立ち位置にいるのやもしれない。人として扱われない点は、きっと共通している。


 腹の奥底が煮えたぎるような感情がこみ上げてくる。

 自分に力があれば、剣の腕があれば、あれの首を討ち取ってやれるのに。父の、母の、姉の、故郷の人間の仇が取れるのに。


「サンチェお兄ちゃん。ユンジェお兄ちゃん……行っちゃったね」


 リョンの虫の羽音のような声によって、サンチェは我に返る。

 腕に抱える幼子は己の手に持つ、かじりかけの叉焼包チャーシューバオをじっと見つめていた。


「これね。あったかくて美味しいから、半分ユンジェお兄ちゃんにあげたい。お兄ちゃん、お腹が空いていると思うから」


 幼子は昼間、ジャグムの実を貰った恩を忘れていないようで、温かいうちに叉焼包チャーシューバオをあげたい、とサンチェに言った。


 美味しいものをユンジェにも食べてもらいたい、はやくユンジェを追いかけよう。


 リョンの真摯な優しさに、サンチェは泣き笑いを零す。

 できることなら、サンチェだってユンジェを追いかけ、叉焼包チャーシューバオを分けてやりたい。


 けれど。彼は何かの目的を持って、サンチェに願いと想いを託した。だから、今はどうしても追い駆けられないのだ。


 リョンの頭を撫でると、サンチェは幼子を下ろし、叉焼包チャーシューバオは食べてしまうよう命じた。


「リョンには、これから働いてもらわないといけない。力をつけるためにも食え。なあに、ユンジェはすぐ帰ってくる。あいつが帰って来たら、俺がまた叉焼包チャーシューバオを盗んでくるさ」


 サンチェのうそを信じたリョンは、はやく帰って来てほしいね、と言って、叉焼包チャーシューバオを頬張った。

 うん、ひとつ頷くサンチェは、リョンの額を軽く指先で押すと、他の幼子達にも声を掛ける。食べ終わったら、さっそく今後の行動を考えなければ。



「よし、お前ら。行くぞ。ちゃんと俺について来いよ」


 夜が更け、里が眠りに就き始めた頃、サンチェは干し草の上でうたた寝をしている幼子らを起こして納屋を後にした。

 夜更けに動いた方が人の目が少ない。捕まる可能性もグンと減ると考えたのである。


 幼子らはたいへん眠たそうに目をこすっていたが、サンチェの一声にきびきびと動く。置いて行かれたくないのだろう。

 サンチェはそんなつもり毛頭もないが、幼子らにとってサンチェは親代わりも同然。頼りを失いたくない一心で足を動かす。


(ガキはリョンを合わせて三人……二人はジェチのところにいると良いんだけど)


 サンチェ達が養っていた幼子は全部で四人。リョンを足すと五人。やはり二人足りない。無事を祈るしかない。


 おんぼろ納屋を出たサンチェは、幼子らと足並みを揃え、家屋の陰や木の陰、塀の裏に身を隠しながら里の外を目指した。

 近くには里の人間も、見回りの兵も見掛けないけれど、念には念を入れておかなければ。


 いつ何時、将軍グンヘイの兵に捕らわれるか分かったものではない。


(俺もガキ達も、捕まったトンファもユンジェもっ……大人の都合の良い道具になって堪るかよ)


 こみ上げる激情を何度も嚥下し、暗いくらい通りを歩く。

 幼子達はサンチェの衣を握って放さない。口には出さないが、幼子らはとても怖いのだろう。分かっているからこそ、サンチェは多少歩きにくくても我慢をした。自分は幼子らにとって親代わりの頼りなのだ。何も言うまい。


 市場を抜けた辺りで、見回りの兵士が増えた。

 慌てて、出店の木箱裏に幼子らを隠すサンチェの耳に、こんな会話が聞こえてくる。


「懐剣の子どもが第二王子セイウさまの下に戻って来たんだってな。知っているか、子どもは麒麟さまに力を与えられ、馬よりも、風よりも速く走るそうだぞ。なにより、賊をほとんど一人で滅してしまったとか」


「なんと恐ろしい。それは本当に人間か? 懐剣といえど、まだ子どもだろう?」


「麒麟の賚賜らいしなんだ。天から使命を授かったそれは、もう人間ではあるまい。もしかすると、人の皮をかぶった化生なのかもしれんな」


 それはユンジェのことだ、すぐに分かった。

 けれども、サンチェは何一つ、大人の会話を信じはしなかった。いつも、みなしごを適当にあしらい、白眼視してくる大人達をどうして信じられよう。


 それよりも、憎まれ口を叩きながら自分や幼子らに知恵を与えたり、手を差し伸べたり、一晩中自分と逃げ回った彼自身を信じるべきだ。

 だいたい噂の像でしか知らない大人は、ユンジェの何を知っているというのだ。サンチェは唾を吐きかけたくなった。


 兵士の数は里の入り口へ向かうに連れて多くなる。

 無理もない。出門付近には、将軍グンヘイの大きな屋敷がそびえ立っているのだ。見張りの数は自然と多くなる。


 さらに、今宵は王族一行が里に到着している。

 とりわけ、麒麟の使いだの、懐剣の子どもだの、それを見張る声が聞こえてくるので、いかにユンジェが追われている身の上かが理解できた。


(ユンジェ。麒麟さまと何か関わっているんだろうけど……でも、俺にとってユンジェはユンジェだ。何者でもねぇ。俺と同じみなしごで、知恵のある遠慮のない奴だ。生意気な奴だ。それだけだ)

 

 見回る兵士らの隙を突くため、サンチェは幼子らを木箱裏に置いて、出門の方へ走る。


 屋敷近くのかがり火に目をつけると、脚を蹴り倒し、急いでその場から逃げた。一斉に兵士らの視線を集めたところで、サンチェは幼子らを連れて出門へ向かう。


 出門を潜ると幼子らと森は入り、逸れた者はいないか確かめる。

 よしよし、全員いるようだ。後はこの子らを大人の目の届かない、安全な洞窟に連れて行くだけ。

 さて、どこへ連れて行こうか。ねぐらは襲われている可能性があるし、幼子らの体力を考えると遠くへ歩くことも難しい。


 この近くに身を潜められるような、安全な洞窟はあっただろうか。



「はっ。噂どおりだな。この辺りには、働けそうなガキがうようよといやがる」



 口から心臓が飛び出そうだった。

 振り返ると汚らしい外衣を纏った、逞しい体躯を持つ無精ひげ男が二人ほど闇夜から現れる。


 鎧も冑も纏っていない、みすぼらしい格好は青州兵の者ではない。夜を徘徊する追い剥ぎだ。その手に持つ、荒削りの棍棒がそれを物語っている。


 闇夜にまぎれ、道を通る旅人や商人を撲殺し、身ぐるみを剥いでいるのだろう。棍棒はとても太く、丈夫そうだ。


 男達はサンチェらを見て、目の色を変えていた。


 舌なめずりをしているところから、子どもを人ではなく、財として見ている様子。なんて正直で卑しい大人だろうか。追い剥ぎをしながら、人買いもしているに違ない。


 ああ、まったく、大人なんてこんな連中ばかりだ。

 頼りのなくなった子どもを、ただの財として、物として扱う。自分の懐を温めるための道具とする。大人なんて、本当に醜く汚いものだ。


 サンチェは幼子らを守るため、頭陀袋から葉っぱに包まれた塊を取り出した。

 それはユンジェお手製の目つぶし。彼と一晩中、逃げ回った際に貰ったもので、いざという時、敵の視界を奪えと助言してくれた。


 結局、使う機会はなく、頭陀袋に入れ込んでいたのだが、いまが、いざという時だろう。


「走れお前ら!」


 サンチェは声音を張ると、ひとりに目つぶしを投げ、ひとりに捨て身で当たった。

 恐怖に固まる幼子らだったが、「走る!」と、叫んだリョンによって、暗いくらい森の中を走り始める。


 足の速いサンチェは、すぐに幼子らに追いつくと、三人の背中を押して、地面に倒れている腐りかけの木のうろへ無理やり隠した。


「お、お兄ちゃんも」


 リョンが手招くが、生憎サンチェの体躯では出入り口に突っかかってしまう。


「いいかお前ら。俺が迎えに来るまで、絶対に音を立てるなよ。ここで大人しくしておくんだ。あいつらに見つからないことが、お前らの仕事だ。いいなっ」


 不安に満ちあふれた眼差しに微笑み、「ぜってぇ戻ってくるから」と約束を結び、木のうろから離れた。近くの木から枝を折ると、わざと藪に入って音を出しながら走る。少しでも大人の気がこちらへ向くように。


(守らないと。チビのガキ達を守れるのは、俺しかいねーんだ)


 それだけではない。

 将軍グンヘイの手に落ちてしまったトンファを、願いと想いを託したユンジェを、サンチェは助けに行かなければならない。本当はあの時、あの瞬間に、どうにかしてやれたら良かったのだけれど、サンチェには守れる力など無かった。


 いや、元々サンチェに守るなど大層な力は無い。ちょっと人より剣の稽古を積んでいただけで、その腕は大人に太刀打ちできるものではない。


 サンチェは弱かった。

 弱かったから、火だるまの納屋に閉じ込められた両親を焼け死なせ、子どもらのために菓子を盗もうとした姉を撲殺の目に遭わせ、風邪をこじらせて死んだチビ達を看取ることしかできなかった。


 もしも、まことの強さがサンチェにあれば両親を燃え盛る納屋から救えたのに。姉の代わりに率先して菓子を盗んだのに。風邪をこじらせて死にそうになっているチビ達のため、強引にでも医者を連れて来たのに。


 サンチェはいつも守れずに終わった。

 そして、今も守れなかった者達がいる――もう守れなかった、という辛酸を味わいたくない。


(今度こそっ、今度こそ守るんだよ。隠れているチビ達をっ、捕まったトンファをっ、オトリになったユンジェの願いをっ)

 

 いま、自分が逃げている行動は意味のあるものだと信じたい。彼らを守るための、助けられるためのものだと信じたい。ちっぽけなサンチェにだって、誰かを救える力があるのだと信じたい。


 大人と戦うのは、いつだって怖い。

 子どもと比べると、体躯も、力も、知識量も違う。足の速さだって違うし、頭の回転だって大人の方が上だ。それでも。


 サンチェは震える手を握り締め、夜目を眇めて、少しでも遠くへ遠くへと逃げた。

 何度も後ろを振り返る。太い棍棒を持つ男達は、双方ともサンチェを追っていた。それで良い。自分を追って来い。幼子らから少しでも、危険を遠ざける。それがサンチェの目的なのだから。


(逃げろサンチェ。逃げてっ、逃げてっ、逃げてっ……そして、ユンジェの兄貴を探すんだ。あいつがオトリになってくれたおかげで、チビ達は助けられた。だから――今度は俺の番だっ!)


 青白い月明かりに、うっすらと雲がかかり、闇夜の森が一層暗くなる。


 ほうほう。どこかで夜鳥の声が聞こえた。

 それらの音を掻き消すように、草木を薙いで直進する。

 サンチェの枝を踏み折る足音は、後から追って来る男達の耳に届いているようで、「姿が見えない」と、「目と鼻にいる」と、「そこで茂みが揺れた」と、野太い声で会話を交わしている。

少しでも会話を聞くため、後ろに集中する。


「あっ!」


 足元への注意と、視野の悪さが仇となった。

 サンチェは剥き出しの木の根に躓き、前へ回るように転がった。

 背中から倒れ、息が詰まりそうになる。軽く咳を零した後、サンチェは素早く立ち上がって、ふたたび走り始める。その足に太い棍棒が投げられたせいで、また、でこぼことした地面に倒れてしまった。


「くそっ」


 肘と腹部を強く打ちつけ、今度は素早く立ち上がることが困難となった。

 自慢の足も、投げられた棍棒が直撃したことで痛みを帯びている。時間が経てば経つほど、その痛みは広がった。


 背中に痛烈な痛みが振り下ろされる。頭で状況を把握するよりも先に、悲鳴を上げてしまった。何度も痛みが襲ってくるので、その度に悲鳴を上げてしまう。


 殴りつけられているのだと、ようやっと理解した時には地面に伏せていた。髪を掴まれたことで、頭皮に鋭い痛みが刺す。

 それでも抵抗ができないのは、こめかみに流れ落ちる血のせい。ああ、そうか、自分は背中だけでなく、頭も殴られたのか。


 まるで狩りで獲物を仕留める時のように、男達は何度も殴りつけ、サンチェを弱らせる。


「金目の物はなさそうだな。頭陀袋には、食い物や草の入った袋だけ」


「まあ。ガキの持ち物なんて、そんなものだろう」


「待てよ。装飾品があるぞ」


 ぐったりと目を瞑り、その場に伏せていたサンチェは、男達の喜ぶ声に白濁していた意識を取り戻す。


 薄目を開け、目玉で動かすと、己の頭陀袋がひっくり返されていることに気づいた。

 ああ、せっかく幼子らや年長のために盗んだ食い物が。ユンジェがくれたセリや血止草が。なにより、ユンジェに託された麒麟の首飾りが、男らの手に渡っているではないか。


(何してるんだ、俺は。こんなところで道草食ってる場合じゃねえだろう)


 サンチェは荒呼吸を繰り返しながら、肘で体を前へ前へ進める。その先には、男の一人がサンチェに投げた太い棍棒が転がっていた。


「麒麟の首飾りだ。細かな彫刻は、指折りの者が彫ったに違いない」


「こりゃあ高値で売れるな」


「しかし。麒麟の装飾品をする輩は、たいてい貴族か、王族と決まっている。なら、あのガキは貴族か何かの末裔か?」


「将軍グンヘイなら、貴族の子どもでも攫いそうだな」


 能天気に笑う男達を睨みつけ、サンチェは死に物狂いで棍棒を掴み取ると、痛み体を無視して駆け出した。一目散に首飾りを持つ男の後頭部を殴りつけ、心の底から叫んだ。


「汚い手で触んなっ! それには大事な願いごとが託されているんだよ!」


 頭を押さえる男の手から麒麟の首飾りが滑った。地面に落ちる前に、それを受け止めると、サンチェは頭陀袋も、食い物も置いて、男達から逃げた。

 頭陀袋はまた、どこかで盗めば良い。食い物だって、盗むなり、森で調達するなり、なんとかすれば良い。

 けれど、麒麟の首飾りだけは、これだけは誰の手にも渡せない。


 サンチェは約束したのだ。

 これをユンジェの兄に渡すと、重い物を抱えたユンジェの助けになると、願いごとを叶えると約束したのだ。これを彼の兄に渡すことで、ユンジェを救える。それを信じてサンチェはこれを受け取ったし、ユンジェは自分を信じてくれた。

 だから、だから。サンチェは走りながら麒麟の首飾りを通すと、それを右手で握り締めた。


(もう守れないのは嫌だ。父さんも、母さんも、姉さんも守れなかったけど。死んだチビ達だって守れなかったけど。だけどっ、今度こそ、今度こそ守るんだ。約束だって、チビ達だってっ!)


 思い余った感情が目から零れ落ちて頬を伝う。

 それを手の甲で拭うと、サンチェは背後から聞こえる怒声で距離を測り、必死に足を動かした。


 がくん。前に出した右足が地面に取られる。


 どうやら、急傾斜に足を取られたようだ。

 森は平らな地面ばかりではない。木の根だらけの、でこぼこした地面や、急な傾斜がたくさんある。

 だから夜の森は本当に危険で、松明なしで走るのは命知らずの行為なのだが、サンチェは物の見事に急傾斜に足を取られ、滑り落ちてしまった。


 しかし。

 そこまで距離のある傾斜ではなかったようで、サンチェの身は転がる程度で済んだ。開かれた場所は、かすみノ里まで続く道途のようで、周りに草や木の根は見当たらない。


 とはいえ、先ほど男らから散々殴られたサンチェなので、一度倒れてしまえば最後、体が思うように動かない。

 もう、頭はぐらぐらで、足はがくがく、息は切れ切れであった。


(耳鳴りがしてきた……気分がっ、悪い)


 吐きそうだ。サンチェは霞む目をこじあけ、地面に爪を立てる。


「このガキが。舐めたことをしやがって」


 頭を強く踏まれる。連中のひとりに追いつかれたようだ。足音がもう一つ聞こえてきたので、殴り飛ばした男も追いついたのだろう。

 腹部を容赦なく蹴り飛ばされたことで、それは確信へと繋がった。ああ、痛い。蹴られたせいで、軽く胃液を吐いてしまった。息が思うようにできない。


 見下ろしてくる男らの顔は、暗くてよく見えないが、きっと世にも恐ろしい顔をしているのだろう。


 おおよそであるが、男らはサンチェの態度に憤り、売り飛ばすことをやめて、嬲り殺すことを選ぶに違いない。醸し出す空気がそれを教えてくれる。


 だったら。サンチェは死に物狂いで抵抗し、連中から逃げなければ。


 一瞬のことだった。

 まるで意思を宿したかのように、首飾りが真上に飛び上がる。

 その隙を好機としたサンチェは、胸倉を掴んでくる男の手に噛みつき、肉を断つ勢いで喰らいついた。


「手がぁあっ! 放せ、ガキ、放せ!」


 拳で叩かれる。棍棒で殴られる。太い足で蹴られる。


 それでもサンチェは抵抗をやめない。


 ここで死ぬわけにはいかないのだ。

 迎えに行くと言ったチビ達との約束も、ユンジェに託された願いも、まだ叶えていない。守れない男で終わるなど、格好悪いではないか。


 例え、手足が折られようと、激しい痛みを男らに与えられようと、サンチェに諦める文字はない。どうせ終わるなら、守れる男で終わりたい。終わりたいのだから。



「おいおい。大のおとなが情けない声を出してるんじゃねーよ。うるせぇな」



 悲鳴を上げていた男の体が横倒しになる。噛みついていたサンチェの体も、つられて倒れた。

 のろのろと顔を上げると、「いつから俺の仕事は人助けになったんだよ」と、悪態をつく男がひとり。髪を一つに結い、それを三つ編みにして縛っている。両の手には双剣が握られていた。


「これじゃあ、いつまで経っても里に着けないんじゃねえの? カグム、なんで俺達は金にもならねーような人助けをしているんだ?」


「仕方がないだろうハオ。俺達が出ないと、あの方が飛び出しかねなかったんだから」


 いとも容易く巨体を斬り倒す男、カグムが疲れたように吐息をついた。

 賊を斬った、その太極刀を肩に置いて、サンチェを見下ろしてくる。その目は連中と違い、人を見る目であった。物を見る目ではなかった。


 男達は連中と同じ大人であった。しかも見知らぬ大人であった。

 それなのに、どうして自分を助けてくれるのだろうか。サンチェには分からない。


「何をする。貴様らも賊かっ!」


 サンチェが噛みついていた男は、まだ気を失っていないようで、重たそうな体躯を起こすと、棍棒を乱雑に振り回した。視野の悪い森の中、近距離でそれを避けるのは難しい。


 なのに。誰よりも近く輩の傍にいたカグムは、避けることも、逃げることもなく、太極刀で受け流して口角を持ち上げる。


「知る必要はない。じき、お前は天の上へ行くんだからな」


 いや、地の底やもしれない。

 カグムは容赦なく胸から腹部を斬りつけ、男の膝を崩す。間もなく、輩は永遠の眠りに就くことだろう。もがき苦しむ男は、絶え間なくうめき声をあげていた。


 剣の稽古を積んでいたサンチェだからこそ分かる。カグムの腕前は相当なものだと。きっと、それは傍にいるハオという男も同じ。あの二人はつわものだ。


(か、勝てない。今の俺じゃ、絶対に……)


 どうしよう。彼らはサンチェを助けてくれたが、敵味方の判断はつきかねる。

 もしも彼らが人買いで、サンチェを横取りするために剣を振るったのであれば。まだ危機は去っていない。


「さてと、カグム。このガキはどうする? 暗くて怪我の具合がよく分からねーが……軽くはなさそうだぜ」


「と、言ってもなぁ」


 青白い月明かりが薄い雲を抜け出し、地上をつよく照らす。

 双方の顔がはっきりと見えた。同じように、向こうもサンチェの顔がはっきりと見えたのだろう。


 揃って瞠目してくる。


「お前。その首飾りは」


 双剣を鞘におさめるハオが指差す。サンチェの警戒心が高まった。


「王族の証を示す、麒麟の首飾りじゃないか。なんで、この子がっ、あ、待て!」


 サンチェは逃げ出した。

 やはり、あの大人達は敵なのだ。首飾りを見た瞬間、目の色が変わった。そんなにこれは価値のあるものなのだろうか。高値で売れるものなのだろうか。

 そうはさせない。これは守り通す。渡すべき人に渡す。そう約束したのだから。


 縺れる足は遅く、あっという間に追いつかれ、腕を取られた。振り返ると、カグムが「落ち着け」と言ってくる。サンチェの耳には届かない。


「放せっ、これは渡すもんか!」


 体を突き飛ばすと、よろめいて倒れてしまう。

 激しく暴れたせいで、忘れていた吐き気がこみ上げてきた。思わず嘔吐えずいてしまう。酸っぱい胃液が口を不快感にさせた。


 なおも、サンチェは男達が近づこうとすると、細い棒切れを握って、それを振り回した。勝てないことは百も承知だったが、サンチェとて譲れない。首飾りを必死に守った。


「カグム、ハオ。これはなんの騒ぎだ。子どもは助けられたのか」


 天はつくづく意地悪な試練をサンチェに与える。大人二人でも勝てないのに、近くにもう一人、大人がいるなんて。


「ティエンさま。どうかお下がりください。あの子ども、乱心しているようで」

「乱心?」


「それに。ガキが麒麟の首飾りを持っているんです。あれは、たぶん貴殿の首飾りかと」

「なに?」


 遠いところで会話が聞こえる。

 朦朧とする意識を奮い立たせ、サンチェは両手で棒切れを握った。気配が近づいてくると、雄叫びを上げて振り下ろす。


「ティエンさま!」


 地面に直撃した棒切れが、容易く折れてしまった。


(くそ。他にっ、武器っ、ぶき)


 手探りで武器を探す。何も無いので物を投げることにした。折れた枝でも、石でも、砂でも、手に掴めるものは手当たり次第、物を投げつけた。

 それでも気配が目の前で止まる。サンチェは恐怖におののいた。


「来るなっ。来るなっ! 首飾りは渡さない。これは俺の物じゃないんだ。頼まれた物なんだ。俺は願いごとを託されたんだ。約束したんだよっ! あいつの兄貴に渡すって約束したんだよっ!」


 最後の悪足掻きは、叫ぶ、であった。

 無駄な足掻きだと分かっていも、叫ばずにはいられない。


「取られて堪るかっ。売られて堪るかっ! ユンジェの願いをここで散らして堪るかよ――っ!」


 寸時の間もなく、サンチェは息苦しさに襲われた。痛みはない。つらさもない。ただ、息苦しさのみ襲ってくる。

 何が起きたか分からず、目を白黒させていると、優しい手が頭を撫でてくる。抱きしめられているのだと理解したのは、ずいぶん後になってのことだった。


 荒呼吸を繰り返すサンチェの額に、見知らぬ大人の額が合わせられた。昔、母親からされていた行為に懐かしさを覚える。

 サンチェは慰められていた。でも、なぜ。


「こんなにぼろぼろになって。それでも、あの子のために首飾りを守ってくれたのだな」


 そっと額を離す男と顔を合わせる。

 息を呑むほど美しいかんばせが、そこにはあった。同じ人間とは思えない、美しい顔は一目では男なのか、女なのか分からない。

 一方で慈悲深い笑みを浮かべていた。優しい笑みであった。


「それは私が弟へ贈った首飾りなんだ。お守りとして肌身離さず持っておくよう、ユンジェに伝えていた」


 なら。サンチェは男の衣を握る。


「あんた、ユンジェの兄さん? えっと、えっと……」


「ティエン。それが私の名前だ」


 そうだ、そうだった。ユンジェの兄の名はティエンだった。それだけ聞けば十分だ。


 サンチェは張りつめていた糸を切り、ティエンの衣に、歪めた顔を押しつけた。


「良かった。本当に良かった。会えた。俺っ、どこかで、あいつの願いごとを叶えられないんじゃないかって……大人に捕まってっ、売られるんだって。殺されるんだって思って。それで」


「よく私の下まで走ってくれたな。ありがとう、本当にありがとう」


 もう大丈夫だ。

 背中をさすってくるティエンが心からの感謝と、安らぎを与えてくる。

 それだけで、サンチェの走り回っていた行動が報われた気がした。いつも守れなかった自分だけど、今度ばかりはちゃんと守ることができた。恐ろしい大人達を相手にチビ達を隠し、逃げ回り、ユンジェの兄に会えたのだ。少しは自分を誇っても良いのではないだろうか。


 サンチェは少しの間、大粒の涙を流し続けた。それはまぎれもなく、幼子達を守る家長ではなく、齢十四相応の子どもの姿であった。



 ◆◆



「ユンジェが懐剣リーミンに成り下がった、か。まずいことになりましたね、ティエンさま」


 そこは、みなしごがねぐらにしている洞窟の中。

 少々物が散乱しているのは、昨晩青州兵が子どもを探し求めた際、荒らし回ったせいだろう。地面には食糧や片手鍋、蝋燭なんかが転がっていた。


 洞窟には麒麟の首飾りを持って逃げ回ったサンチェや、道すがらで助けたジェチ、そして幼子達がたき火に当たったり、横になって体を休めたり、ハオから手当てを施されている。


 みな、ぼろぼろであったが、子どもらは強かった。

 誰ひとり嘆くことなく、率先してハオの手伝いをしようとしたり、水を汲んできたり、汚れた布を洗って怪我人に使えるようにしたり、と自分にできることをしようと働いていた。そこらへんの大人より、精神が強いのではないだろうか。見習わなければならない点だ。


 ティエンらはジェチ達を助けた後、このねぐらで手当てを施し里へ向かった。そこでユンジェと合流する予定だったのだが、まさかとんぼ返りになるとは。


 しかし。サンチェに会えたことは幸運であった。


 ティエンはサンチェに視線を投げる。

 彼はリョンと呼ばれる幼女から、水の入った器を差し出されていた。

 ずいぶんと慕っているようで、リョンはサンチェから離れようとしない。怪我を負った彼の世話をしようと一生懸命になっていた。


 ハオから手当の邪魔だから向こうへ行け、と言われても、まったく聞く耳を持たず、傍にいる。兄妹ではないようだが、まことの兄妹のようで、なんとも微笑ましい。


 ティエンも早く弟のユンジェに会いたいもの。だが。


「麟ノ国第二王子セイウさまが、かすみノ里にいる。それだけでも厄介なのに、ユンジェがセイウさまの危機を知るや、お役を果たすために走った。事実、あの子どもはティエンさまの、いえ……第三王子ピンインさまの懐剣だけではなくなった、ということですよ」


「分かっている」


「セイウさまは一度、ユンジェを逃がしております。次は逃さないよう兵の層を厚くすることでしょう。対して、こちらの兵の層は極めて薄い。前回とは比べものにならないほど、戦力が足りません」


「分かっている」


「いまのユンジェは、懐剣ユンジェではなく、懐剣リーミン。自我あるかも危ぶまれます」


「すべて分かっている。カグム、みなまで言うな」


 苛立ちを募らせ、声音を荒げた結果、洞窟にいた子ども達が揃いも揃って首を竦めてしまう。申し訳ない気持ちになった。子どもらを怖がらせるつもりはなかったのだが。


 ティエンは衣の下にさげている、サンチェから託された、麒麟の首飾りを握り締める。心には闘志が燃えがっていた。


 一方で、努めてい冷静になる己がいた。感情的になるだけでは、懐剣の子どもを取り戻せないことを知っているからだ。


 ユンジェならこう言うに違いない。こんな時だからこそ、よく考えろ、と。


「麒麟の使いを諦める選択はございますか?」


「カグム。私の性格を熟知している上で、それを言っているのであれば、一度外に出て頭を冷やせ。貴様と言い合う時間すら、私は惜しいのだ」


「僭越ながら、己の命を優先するのも、賢い選択だと申し上げたいのです。麒麟の使いは、たいへん重宝される存在ですが、天士ホウレイが最も重宝したいのは、次の王座に就くであろう第三王子ピンインさまですので」


 一々腹立たしいことを言ってくる男だ。


 ぎっ、とカグムを睨むも、彼は静かにこちらを見つめるばかり。

 心意を見抜けない己が、ただただ歯がゆい。


 いつもそうだ。

 カグムの心はティエンには見えない。正直ずるいと思う。相手はティエンの気持ちを読むのに、自分は読めないなんて。ほんとうに不公平だ。



「俺はセイウの懐剣に成り下がっても、ずっと、ずっとお前のことを待っている。必ず助けてくれると信じている――だから、どうか、懐剣のユンジェを取り戻してくれ」



 冷たい空気が流れ始めた二人の会話に口を挟んできたのはサンチェであった。

 手当てを終えた彼は、ハオに礼を言って、リョンを膝の上に置く。嬉しそうに頬を崩すリョンの頭を撫でながら、彼は預かった伝言をティエンに送った。


「ユンジェは、この伝言を俺に託した。俺は嫌だった。あいつが、自分を犠牲にしてチビ達を取り戻すなんて。そんなの味が悪いじゃないか」


 それでも。ユンジェはサンチェに言ったのだ。首飾りと伝言を兄に渡してくれたら、きっと自分を兄が助けてくれる。自分は救われる。そう言ってくれたのだ。


「だから俺は全力で走った。首飾りを渡すことで、あいつが助けられる。そう信じたから。ユンジェが信じてくれと頼んだから……あんた達は、あいつを助けるんだよな?」


 サンチェは問うた。

 ティエン達の言い合いを見て不安を覚えたのだろう。自分があの時、ユンジェを見送った判断は誤りではなかった、それを信じたい一心で尋ねてくる。精力に溢れた強い眼には、小さな疑心が宿っていた。否定されることが怖いのだろう。


 ティエンはたき火を回り、サンチェの隣に膝を下ろした。


「もちろんだ。あの子は私の大切な家族だからな。お前の厚意を無碍むげにするようなことは絶対にしないさ」


 サンチェがじっとティエンを見つめる。彼は自分の顔を見て、軽く首を傾げた。


「ユンジェと全然似てないけど、やっぱり二人は兄弟なんだな」


 目を丸くしてしまった。その意味は?


「なんっつーか雰囲気が似てる。ユンジェって話していると、『こいつがいるなら何とかなる』って思わせるんだけど、あんたもそんな気持ちにさせてくれる。頼れるところがすごく似てる。あいでっ!」


 ティエンを指差していたサンチェの頭に拳骨が入った。

 犯人はハオである。何をするのだ、と涙目になるサンチェに、「無礼も程ほどにしとけ」と、顔を引きつらせた。


「ピンイン王子に向かって『あんた』呼ばわりはやめろ。この方は王族なんだぞ」


「でもユンジェは自分のことを農民って言ってたぞ? じゃあ、兄さんも農民じゃないのか? 王族にしてはみすぼらしい格好をしているし」


「事情があんだよ事情が。とにかく無礼な振る舞いをしてると、はっ倒すぞ」


「良いのだハオ。私はもう王族を捨てた農民なのだから。なにより、サンチェは大切な恩人だ。振る舞いをとやかく言う必要はない」


「いいえ。それはそれ、これはこれですので」


「事情ねえ……まあ、あんたが王族と言われるより、信じられそうな綺麗な顔はしているけど」


「こっ、このガキ。助けた奴に、そんなことを言うか? あ?」


「それはそれ。これはこれだよ。三つ編み男」


 うぇっと舌を出すサンチェに、ハオの短い堪忍袋の緒が切れる。

 こめかみに青筋を立て、握り拳を作る彼は、小生意気なサンチェにふたたび拳骨を入れた。が、それは叶わなかった。彼の胴にリョンが貼りつき、やだ、と泣きついたのである。


「さ、サンチェお兄ちゃん。叩かないで。怪我してるの。痛い痛いなの」


 涙目の幼子の訴えにハオが言葉を詰まらせる。


「……おかしい。俺が手当てしたはずなのに、なんで俺が悪者になってんだ? 理不尽だろ。ああっ、お前は泣くな。まだ叩いちゃねーだろうが」


「りょ、リョン。泣いてないもん」


「大人のくせに、子どもを泣かせるなんて、わーるいんだ」


「てめぇはもう黙っとけ。あんま生意気なことを言っていると、苦薬を口に突っ込むぞ」


「そういうあんたは、怒ってばっかだと、すぐ老けるぞ。あ、もう老けて始めてるんじゃ! 眉間に皺ができてるもんな!」


「くっ、クソガキより、ずっとクソガキだな。てめえっ!」


 頭を押さえつけ、子ども相手にぎゃあぎゃあ大人げなく張り合うハオと、サンチェのやり取りに、少しだけ心が和んだ。こういう光景を平和と呼ぶのだろう。

 ティエンは少しだけ頬を緩ませ、決意を改める。


「サンチェの伝言は確かに受け取った。何が何でもユンジェは取り戻すよ。あの子が私を信じてくれているのだ。助けると信じてくれるあの子の気持ちに、全力で応えたい」


 なにより。ティエンはユンジェと約束を交わしている。二人で一緒に生きようと。


 なのに、自分の命を優先し、あの子どもを第二王子セイウに差し出して逃げる、などティエンには到底できやしない。

 一緒に生きる子どもがいなくて、どうして生きたいと思えようか。


「ユンジェがいない毎日など、私には考えられないよ。生きられる気がしない」


 誰にも聞こえない吐露を、カグムだけは拾っていたようだ。その面持ちは意味深長なものだった。


 それでも先ほどのように、煽るような言い方も、試すような言い方も、何も無い。黙っているのは、彼なりの優しさなのだろうか? それとも……ティエンには分かりかねる。


(問題はどうやってユンジェを取り戻すか、だな)


 ティエンは顎に指をあてる。今すぐにでもユンジェを取り戻したい。

 しかし、先走った行動を取れば、きっと状況は悪化することだろう。慎重にいかなければ。


「まずはユンジェがどこにいるか、把握する必要性があるな」


「それなら、俺が案内するよ」


 サンチェが名乗りを挙げた。

 曰く、里の地形から、将軍グンヘイの居所まで、隅々に把握しているという。日頃から里で盗みを働いているからこそ、分かる抜け道も知っているのだとか。


 嬉しい申し出だがこれ以上、子どもを巻き込むわけにはいかない。彼は怪我を負っている。それは決して軽くはない。


「案内役を買う代わりに、俺の手助けをしてくれ」


 おっと。何やら目論見があるようだ。ティエンは子どもを凝視する。


「将軍グンヘイの下に、ガキ達が捕まっているんだ。その中に、仲間のトンファもいる。あいつを助けたい。あんた達、強いんだろ? 手を貸してくれよ。特にあんた」


 サンチェはカグムを指さした。


「あんた、すごく強かった。少しだけ、剣を嗜んだことがある俺が言うんだ。間違いない」


「ずいぶんと、高く買われたものだな」


 苦笑いを零すカグムだが、実際に腕は相当なものだ。なにせ、ティエンの近衛兵を務めていたのだから。


「このままだと、トンファは売られちまう。他のガキ達と一緒に、将軍グンヘイの財の一部になっちまう。そんなの俺は嫌だ。俺達は家畜じゃない。物でもない。大人の頼りを失った、里の連中とおなじ人間だっ」


 どうして自分達が、こんな扱いをされなければいけないのか。里の連中と同じ扱いをされないのか。自分にはまったく分からない、とサンチェは熱く訴えた。


「ユンジェだってそうだろ? あいつは懐剣とか、よく分からないこと言われてるし、大人は物として扱っているけど……俺とおなじ人間だっ。財でも物でも懐剣でもねーよ。」


 サンチェは言う。

 自分は里の案内役を買う。小柄な体躯は、兵士の見張りを掻い潜り、ユンジェやトンファ達の居所を掴むことだって出来る。大人にはできない仕事をこなすはずだ、と。


 懸命に交渉を取り付けてくる、初々しい姿にティエンは目を細め、そっと瞼を下ろす。サンチェは初めて大人と交渉をするのだろう。時折、呼吸を置いて言葉を選んでいる。


(あの子だけではないのだな。物として扱われているのは……この国に何人の子どもが、そのような理不尽な扱いを受けているのだろうか)


 そんな子ども達が強く生きようとしている。大人の理不尽に抗おうとしている。ならば。


「分かった。サンチェ、その交渉に応じよう」


「ほんとか?」


「ただし。あくまで、お前は案内役だ。怪我を負っている身も考慮し、お前の行動範囲は私の方で決めさせてもらう」


「え? あんたが決めるの?」


「怪我人が無理をすると、足枷になりかねない。せっかくの好機すら逃すやもしれない。案内役を買うならば、この条件を呑んでももらいたい」


「条件を破ったら、手助けの件は……」


「お前抜きでトンファとやらを助けに行くよ」


 真顔で言うと、真ん丸に瞠目したサンチェが頬を緩めた。


「あんた。やっぱり、ユンジェの兄さんだ。お人好しなところがそっくりだ」


 ティエンも表情を緩めた。


「では、さっそく準備をしよう。まずは荷の確認だ。あの子はいつも、荷の中身を確認して、いざという時に備えるんだ。まずは」


 たき火の前で頭陀袋をひっくり返すティエンを、遠い目で見つめていたハオが力なく肩を落とす。


「聞こえは良いけど、ガキのお守が増えるってことは……結局、俺とカグムの負担が増えるってことじゃねーの? カグム、どう思う? カグム?」


 同意を求めようとしていた男は、恍惚にティエンを見守っている。

 彼に何か思うことがあるのだろう。隣にいるハオの言葉すら反応せず、頭陀袋の中身を確認するティエンを見つめていた。


(はあ。どいつも、こいつも、めんどくせーな)


 思うことがあるのであれば、口に出せば良いものを。


 相変わらず、カグムという男は回りくどい。

 ティエンのことを友として心配したり、謀反兵として辛らつに物申したり、急に彼を守る近衛兵になったり……本当に器用なようで不器用な男だ。


(俺が口を出すことじゃねーのは分かってるけど、お前……もう少し素直になるべきだよ)


 目の前のティエンは、カグムの知る弱い第三王子ピンインではない。彼が守っていた王子は、農民の暮らしを経て逞しくなった。それは彼も重々知っているだろうに。


 もしかすると、カグムは農民ティエンと、王子ピンインの温度差に戸惑っているのやもしれない。表向きは成長したティエンを受け止めているものの、心のどこかでは、自分の知らぬ王子の姿に困惑して……いや、やめよう。他人の心に踏み込むだけ野暮だ。


 ハオはかぶりを振り、軽く腕を組んだ。


「カグム。第二王子セイウさま相手に、クソガキを取り戻せると思うか?」


 声音を強めにして声を掛けると、我に返ったカグムが神妙な面持ちを作った。二本指を立て、軽くそれを振る。


「戦力になるのは俺とハオの二人。対して、向こうの兵の層は十や二十どころの話じゃあない。さらに、厄介なのはユンジェが懐剣のリーミンとして、セイウさまの傍にいることだ」


 あれは麒麟からお役を賜った子ども。

 所有者に悪意や災いが降り掛かるなら、身を挺して守ろうと走る。それはティエンであれ、セイウであれ、同じこと。


「今までのユンジェは、ティエンさまを守るためにお役を果たしていた。もちろん、その時のユンジェは脅威。敵に回すと痛い目を見ていた」


 他方、隙も多かった。

 なにせ、ティエンを守るのはあくまで懐剣の子どもひとり。それを相手どれば、ゆめゆめ勝機を掴むのも苦ではない。大勢でかかれば、勝てる相手だと心のどこかで思っていた。


 しかし。


「麒麟の使いに執着するセイウさまが、あれをひとりで戦わせるわけがない」


 必ずや兵士を傍に置き、共に戦わせることだろう。

 そうなれば、どうなるか。カグムがハオに視線を投げる。しかめっ面を作っていた彼は、より一層難しい顔をして吐息をついた。


「クソガキと、王族の兵士をいっぺんに相手にしなきゃなんねーわけか」


「ああ、そうだ。隙なんて毛先もない」


 第二王子セイウの守りに徹底するであろう、懐剣のリーミン。それらを守るであろう、近衛兵のチャオヤンや兵士ら。守りは完璧だ。一抹の勝機さえ見えない。


「下手をすれば、俺やハオはユンジェに敵とみなされる可能性がある」


 天から降りてくる麒麟と共に走る、そのすばしっこい体躯は、だいの大人でさえ追いつかない。いとも容易く、懐に潜り込んで斬り捨てられるやもしれない。カグムは幾度も、その光景を目にしている。


「俺達は主従の儀を受けていない、懐剣のユンジェしか知らない。セイウさまと主従の儀を交わした懐剣のリーミンが、どこまでお役を果たそうとするのか……正直、俺はユンジェと再会するのが恐ろしいよハオ」


 おおよそ、懐剣のリーミンは心を捨て、赴くまま使命を果たそうとする。


 心を捨てた人間は、どこまでも非情になれる。刃を振り翳すことに躊躇いがなくなり、結果的に大きな強さを得る。

 ユンジェがそうなっていたとしたら、ああ、考えるだけでも恐ろしい。カグムは唇に当てる指を噛んだ。


(ユンジェは心を失うことを恐れていた。そうならなければ良いが……)


 子どもを思うと、哀れみの念を抱く。


「あいつは俺達の脅威になりかねない。が、ユンジェにも弱点がある」


 ハオが結っている髪の紐をほどき、それを口に銜えて、三つ編みを結い直し始めた。


「王族か」


「そうだ。麒麟の使いが、唯一刃を向けられない相手。それが同じ麒麟から使命を賜っている王族だ。ユンジェはティエンさまにやいばを向けられない。ティエンさまなら、ユンジェをユンジェとして戻せるだろう」


 理想は第二王子セイウに見つからないようユンジェを見つけ出し、ティエンが正気に戻させることだ。

 懐剣リーミンである以上、カグムとハオは不要に子どもに近づけない。敵だと見なされ、斬り殺されては敵わないのだから。


 ふと、そこで疑問が浮かぶ。


「ハオ。もしも王族同士が敵意を向けあったら、ユンジェはどちらにつくと思う?」


「あ?」


「いや。ユンジェは敵意や悪意のある人間に刃を向けるだろう? だが、王族にそれはできない。なら、所有者同士が敵意を向けあったら、どうなるのかと思ってな」


 主従の儀を交わしたセイウ王子につくのだろうか。

 それとも、ティエンの懐剣を持つ、ピンイン王子につくのだろうか。


 カグムは思慮深く考える。

 先日、第一王子リャンテとティエンの会話で、自分は『黎明皇れいめいおう』という単語を知った。話を聞く限り、それは王位継承を持つ王族らの中で決める『王』で、新たな時代をつくる者だとか。


 王の中の王が新たな時代、すなわち黎明期を起こす。それが黎明皇。


(ティエンさま、セイウさま、そしてリャンテさまが、麒麟の休み場である天降あまりノ泉に集っている。もう始まっているのか? 王の中の王を、黎明皇とやらを決める戦いが……始まっているのか?)


 ユンジェがしきりに、天降あまりノ泉へ行こうと言っていたのは、そのため?


(ユンジェは王族が討てない。懐剣の所有者となった王族を討てるのは、同じ権利を持つ王族だけ。ならティエンさまは……ピンインは、いつか……リャンテさまや、セイウさまを討つことになるのか?)


 それが王の中の王を決める戦に繋がっていくのだとしたら……これは麒麟の導きによる、必然的な衝突なのだろうか。深読みだろうか。カグムには分からない。


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