十.儚くも、弱くつよき者よ


 麟ノ国十瑞将軍ウェイの息子、将軍グンヘイはかすみノ里の中央に湧く泉、天降ノ泉を屋敷から眺めていた。


 いつ見ても崖から見える、泉の景色は素晴らしい。張りつめる厳かな空気といい、囲み木々の貫禄といい、青々と澄んだ泉の色といい。あの泉は宝石そのもの。


 その昔、第二王子セイウが泉の美しさに見惚れ、七日も泉へ通って眺めていたという逸話があるが、それも頷ける。ああ、いずれ、この泉は我が物にしてくれよう。


「懐剣の小僧は見つかったか」


 近くにいる若い兵に尋ねると、まだ知らせが入っていない、と返事した。

 気に食わない知らせだったので、淹れたての茶を顔に掛ける。悲鳴を上げ、その場に膝をついた。数人の兵が微かに反応したが、グンヘイが睨むと姿勢を正した。


 まだ見つからない。なんたることか。


 グンヘイは顔を擦っている兵の頭を蹴り飛ばすと、それを窓から放っておけと、他の兵に命じた。


 兵達に動揺が走るが、やれ、もう一度言えば、言われた通り、痛みに苦しむ兵は窓から放られた。塵切れ同然のそれは悲鳴を上げながら崖から落ちていった。面白い光景なので腹を抱えて笑う。


 気持ちが落ち着くと、兵達に一刻も早く麒麟の使いを見つけ出すよう命じた。


「あれは第一王子リャンテ、第二王子セイウが狙っている。それぞれ、私を伝手にしているのだ。こんな好機はまたとない」


 グンヘイを配下にしている第二王子セイウは、竹簡で便りを寄越した。


 麒麟の使いリーミンが天降あまりノ泉に必ず現れる。逃してはならない。捕まえ次第、己の下へ送るよう、事細かな命令と目が眩んでしまうほどの報酬内容が記されていた。

 セイウの懐剣を抜いた少年だ。あれ自身は、一刻も早く手元に置いて安心したいのだろう。


 されど一方。グンヘイの下に、西の白州を統べる第一王子リャンテ自ら、ここを訪れた。

 リャンテは、しばらく此処に滞在させてくれる許可と、麒麟の使いを見つけ次第、己に渡す交渉を取り付けてきた。気前の良い王子は袋いっぱいに宝石を贈ってくれた。くれると言っているのだから貰うのが礼儀。グンヘイはリャンテの交渉を呑んだ。


 そして。

 グンヘイ自身、麒麟の使いリーミンを探している。どちらにも差し出す気はない。捕まえ次第、グンヘイは王都にいるクンル王へ差し出すつもりだった。


 グンヘイはリャンテの話で知っている。

 双方の王子が密約を交わしていることを。君主であるクンル王の意向に逆らい、リャンテ、セイウ、各々の行動を知りながら目を瞑っていることを。


 であれば、それと麒麟の使いを手土産にクンル王に献上すれば、たちまち己の地位は返り咲くことだろう。

 元は黄州の守護を任されていた十瑞将軍ウェイの息子が、こんな土くさい青州に左遷されるなど、グンヘイには受け入れ難かった。


 栄光ある人間には、それ相応の土地を守護し、未来永劫その名を轟かせるべきなのだ。


(いや。それとも、私が持っておくのも手か?)


 麒麟の使いをもし、我が物にすれば、国すらグンヘイの物にできるやもしれない。己は晴れて王族の人間になれるやもしれない。おお、想像するだけで心が踊る。


 絵空事を描くグンヘイは、目の前の現実をすぐに忘れてしまう、たいへん愚かな男であった。欲深いので、すぐに自分の利益にできないかどうかを考えてしまう。


「グンヘイさま。今朝、東の村跡より子どもを六人捕らえたそうです」


「麒麟の使いがいなければ、いつもどおり財に換える。調べろ」


 グンヘイの指示に一礼し、兵が退室していく。それを見送ると、子どもの価値について考え始めた。


(今回は六人。その中に男は何人入っているだろうか。それによって、他国へ売る価値も変わってくる)


 子どもはいい。

 弱く惨めで何もできない。しかしながら、若さがある。だから売れる。あれを財と見ないとは勿体無い。


 子どもはいい。

 とても、金になる。成熟した大人よりずっと、金になる。


「グンヘイさま。また、例の賊が現れた模様。如何しますか」


「また、例の賊か。兵を出せ」


 ご機嫌だったグンヘイは例の賊、という言葉に唸り声を上げた。いつも、あれのせいで子どもを捕らえても逃げられる。早いところ、賊の撲滅を目指さなければ。


「グンヘイさま」

「今度はなんだ」

「はっ。第二王子セイウさまの使者より、セイウさまが宮殿を発ち、ここへ向かっているとのことです」


 唸り声が驚きの声に変わる。あの引きこもり王子が、わざわざ霞ノ里へ向かっている。まさか、そんな。思わぬ知らせにグンヘイは、大きな動揺を見せた。


 ◆◆


 霞ノ里が見える森の中。

 日差しを遮る大きな木の下で、ユンジェとサンチェは倒れていた。意識はあるが、もう一歩も動けない。そんな状態であった。


 原因は夜通し走り回っていたせいだった。


 あれから大変だったのだ。

 少しでも幼子らがいる洞窟から大人を遠ざけようと、松明を持って自分達の居場所を示しながら逃げ回り、なおかつ追っ手の人数を把握しつつ、絶対に捕まらないよう全力で走り……とにもかくにも、撒くのに時間を要した。気づけば月は沈み、太陽が顔を出していた。


 ああ。眠い、疲れた、腹減った。

 いまの二人に襲いかかるものは、これらであった。


「サンチェ。生きてるか?」


「一回死んだ。もう無理、走るどころか立てねえ。動けねえ」


「俺もだ。体力には自信あるけど、夜通し走るなんて初めてだから」


 結局、大人達がどれくらいいたのか把握はできなかった。

 三人だったかもしれないし、五人だったかもしれない。もっと多かったかもしれない。

 夜の森はどこにいて、人の気配がするような気がして、数なんて数える暇がなかったのだ。


 周りに何人大人がいるかも分からず、捕まらないように走る。それがどれだけ怖いものか、ユンジェは一晩でたっぷり思い知らされた。


 それでも。逃げ切ったのだから自分達の勝ちだ。目的地も目の前。理想の結果だ。


「ユンジェ」


 隣で大の字に寝ているサンチェが、片手を上げてきた。頬を緩め、ユンジェも片手を上げる。二つの手がまじり、気持ちの良い乾いた音が響いた。


「ありがとな。サンチェ。お前のおかげで目的地がそこにある。お前達に襲われなかったら、もっと早く着いていたかもしれないけど」


「ははっ。ま、いいじゃんか。着いたんだから」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑う。

 大人達を撒けて、とてもすがすがしい気持ちであった。


 動けるようになると、二人は手頃な木のうろに潜って夕方まで仮眠を取り、目が覚めると、ジャグムの実を分け合って腹におさめた。


 これからユンジェはティエン達を探しに、サンチェは年長や幼子らのために里で物を盗むという。

 彼がやることは、まぎれもない悪行だが、暮らしの事情を知っているユンジェは何も言わなかった。


 ただ、ここでお別れなのは少しさみしい、と思った。

 腹立たしい出逢いではあったが、なんだかんだで、サンチェのこともジェチ同様嫌いではなかったのだ。もっと、別のところで出逢えば、彼のことを知れたかもしれない。別れは残念に思う。


 そんなことを思いながら、サンチェと霞ノ里入り口へ足を運ぶと、目を瞠る光景が待っていた。


 その光景を見るや、思わずサンチェと近くの木にのぼり、身を隠してしまう。

 入り口には、見知らぬ子ども達が荷車に載せられ、拘束されていたのだ。


「十はいるぞ。あれ」


 ユンジェは荷車にいる子どもの数を数える。


 下は五から、上は十四、五だろうか。様々な年齢の子どもがいる。

 共通していえるのは、子どもらはみな、涙を流したり、感情を堪えたり、絶望したりと、負の思いを顔に貼りつかせていることだ。目の色に輝きがない。あまりに大きな声で泣くと兵に怒鳴られ、槍頭で叩かれる始末。


 まるで家畜のような扱いだ。

 あの子どもらは、荷車に繋がれた二頭の馬と同じなのだろうか。


「ひどいな」


「たぶん、どこかの村か町で仕入れたんだろ。俺が暮らしていた椿ノ油小町のように、夜襲をかけてさ。売り物にするつもりなんだろうぜ」


 忌々しそうに下唇を噛み締めるサンチェは、激しい憎悪を面に出した。子どもらの扱いと兵の態度と、そして故郷を焼かれた記憶に憤りを抱いているのだろう。


 しかし、木の上に身を隠すユンジェ達にできることはない。

 荷車を囲む兵士の数は、少なくとも五はいる。一人でも相手にできるか分からないのに、子どもの自分達が五人も大人を相手にできるはずもなく。


 歯がゆい気持ちで見守る間にも、兵士が泣きじゃくる子どもに暴行を加える。

 泣き声が耳障りなのか、それとも言うことを聞かない子どもの態度に腹を立てているのか。やたら声を凄ませて、容赦なく槍頭で叩いている。子どもらはみな縄で縛られ、身動きが取れないというのに。


 仲間内で「やりすぎだ」と、行いを咎める声が聞こえるが、暴力を振りかざす兵士は執拗に子どもを槍頭で引っ叩いた。まるで積もりに積もった鬱憤を晴らすかのように。


 なんて醜く、大人げない姿なのだろう。ユンジェは眉根を寄せた。あの子どもらに何の恨みがあるのだ。あの兵士。


「くそがっ。抵抗できない奴らを、あんなに殴るなんて」


 兵士の理不尽な振る舞いに、サンチェは怒れた。

 体を小刻みに震わせ、下唇を噛み切った。血が出てもなお、唇を噛み締め、次の瞬間、木から飛び下りた。止める間もなかった。


 着地と同時に、サンチェは子どもらに暴行を振るう兵士の顔面に松明棒を振り下ろした。

 不意打ちの一撃は兵士の槍を掻い潜って、輩に白目をむかせ、前歯を折り、鼻を曲げた。松明棒が半分に折れたので、その威力は生半可なものではないだろう。


 なおも、松明棒を隣にいた兵士に投げ、輩の持っていた槍を拾っていたので、サンチェはよほど頭に血がのぼっていると言える。

 本当にばかな奴だ。己の身の危険も顧みず、感情のままに兵士に折檻を与えるなんて。黙って子どもらを見送れば、我が身の安全は約束されただろうに。


 そして。加担しようとする自分も、大概でばかなのだろう。


 ユンジェは腰に下げていた目つぶしを回し、荷車に繋がれた馬に向かって、それを放る。塩と砂がまじった、お手製の目つぶしはそれなりに威力がある。一頭の馬が驚き、立ちあがれば、もう一頭も立ち上がる。結果、二頭とも暴れ出す。


 馬を落ち着かせるために、二人の兵士が手綱を引いた。

 力強く引いても、馬は暴れるばかり。おおよそ、塩と砂の目つぶしの痛みと、急な攻撃に興奮しているのだろう。

 サンチェが不意打ちで殴った兵士を差し引けば、残り二人。やれないことはない。


 ユンジェは腰に巻いていた布をほどき、持ち物から草縄を取り出す。

 それを繋げて結び、足元の太い枝に巻きつけた。自分の存在に気づいた兵士が木に近づいたところで、勢いよく木から飛び下りる。

 草縄を握り締め、その身を振り子のようにして飛び下りれば、己の体重と加速の勢いで、体躯のある兵士でも押し倒せる。


 見事、兵士を押し倒すことに成功したユンジェは懐剣を抜き、掴みかかる腕に深く突き刺した。


 聞こえてくる悲鳴を振り払い、一目散に荷車へ乗り込む。


「大人に売られる前に逃げろ。いいか、死ぬ気で逃げろ」


 呆けている子どもらの縄を懐剣で切り、背中を押して半ば無理やり荷車から下ろす。状況が呑めたのだろう。

 子ども達は泣きながら、顔をこわばらせながら、ある者は森へ、ある者は里の中へと散っていく。みな、生き延びるために必死に逃げていた。


 と、ユンジェは荷車に残された幼女を見つける。

 どうすれば良いか分からず、戸惑っている幼女は見た目最年少。年は五つほどだろうか。物事に対する判断力が乏しい年頃ゆえ、逃げるという行為が分からずにいる様子。


 ユンジェは迷わず幼女を腕に抱くと、一緒に荷車から下りた。


「あっ!」


 幼女が頭上を指さす。振り返れば、馬を宥めていた内のひとりが、ユンジェの背後に回っていた。その手には槍が握られている。


「伏せろ、ユンジェ!」


 サンチェの怒号に合わせ、ユンジェは幼女の頭を抱えて身を伏せる。槍を持つ彼は正確に兵士の喉仏を槍頭でつき、大人の兵士を伸した。


 しかし。まだ大人達を全員伸したわけではない。

 起き上がる兵士を見掛けたので、ユンジェとサンチェは急いで里の中へ逃げる。冷静に考えれば、森へ逃げた方が得策だったのだが、遺憾なことに頭は逃げることで一杯だった。


 こぢんまりとした木造の家々が並ぶ道を突き進み、兵士らの手の届かないところまで足を動かす。


 そうして逃げた先は里の市場。

 そこは露天商のようで、店を持たない商人らが敷物を敷いたり、簡易的な店を作ったり、荷車に売り物を置いて商売をしている。


 二人は市場の細道に逃げ込んだ。樽の山を見つけたので、その陰に隠れて、足を休める。完全に息は上がっていた。


「ユンジェ、生きてるか?」


「一回死んだよ。昨晩から走りっぱなしで、足が悲鳴を上げている」


「悲鳴を上げているなら、まだ生きている証拠だ。元気そうでなによりだよ」


「言ってくれるよ。いきなり飛び出してくれて。せめて、一言相談しろよ」


 こめかみから流れる汗を衣の袖で拭い、大きく息をつく。周囲の様子を見る限り、兵士は撒けたようだ。


 きゅるる、腹の虫が聞こえた。

 ユンジェとサンチェは顔を見合わせ、視線を下ろす。犯人はユンジェの腕の中にいる幼女だった。そういえば、この子を連れて走っていたんだっけ。必死に逃げていたせいで、すっかり忘れていた。


 幼女は腹の虫について何も言わない。空腹だろうに。

 言えば、自分は見放される、置いて行かれる、とでも思っているのだろう。


 また、幼女はずいぶんと大人しい。荷車で運ばれている間、不当な扱いを受けていたのだろう。頬の青い痣が目立つ。


 ユンジェは幼女を膝から下ろすと、腰に巻いていた布をほどき、貴重な食糧を手に取る。


「ほら、ジャグムの実。美味しいぞ」


 声ひとつ出さない幼女に、ジャグムの実を差し出すと、ひどく怯えた目を向けられた。受け取って良いの分からないようで、何度もジャグムの実とユンジェを見比べている。

 可哀想に、よほど道中で大人に虐げられていたのだろう。一々こちらの反応を窺っている。


 なかなか受け取らない幼女に、サンチェが吐息をつく。彼は頭陀袋から水袋を取り出すと、それを幼女の前に差し出した。


「チビ。動かないなら死ぬだけだ。俺達があれこれ世話を焼いてやると思ったら大間違いだぞ」


「お、おいサンチェ」


 なんだ、その大人げない脅しは。呆れるユンジェを無視し、サンチェは幼女に続ける。


「お前はまだチビで生きる術も知らないし、判断力もねえし、大人に頼らなきゃいけねえ歳だ。けどな、ここにお前の頼れる大人はもういない。誰もお前を甘やかしてくれない。自分で動かなきゃ助けてもくれねえし、世話も焼いてもらえねえ。生きるなら、自分で頼りを作るしかないんだ。腹が減っているんだろ? 喉が渇いているんだろ? なら、自分で動け。声に出せ。ちゃんと口にして言え」


 そうしなければ、この先、生きていけない。

 厳しく幼女に告げ、「お前はどうしたい?」と尋ねる。このままだと腹も満たされないし、喉も潤わない。飢え死にするだけだ。


 しかと、厳しい現実を告げるサンチェの言葉は、少々幼女には難しいのだろう。必死に言葉を理解しようとしている。


 けれど、自分でどうにかしないといけない、現実は分かったようだ。

 小声でお腹が減ったと呟く。サンチェが聞こえない、と言えば、幼子はハッキリとお腹が減ったと、喉が渇いたと訴える。何か食べたい、飲みたい、それをサンチェに伝えると、彼はひとつ頷いた。


「じゃあ、お前は生きるために働かないといけねえな。水も食い物も、自分で手に入れないと、誰も何もくれない。お前、働けるか?」


「はっ、働けるっ」


「ほんとか? 大人は怖いし、助けてくれねーぞ?」


「それでも働くっ、絶対に泣かない」


 必死に訴える幼女の眼光は強い。サンチェはその目に満足すると、水袋を手に持たせ、頭に手を置いた。


「よく言った。なら、お前は今日から俺が面倒看てやる。これからは俺を頼りにしろ」


 わしゃわしゃと頭を撫で「まずは飲んで食え」と、サンチェが優しく言葉を掛ける。

 幼子は貪るように、水を飲み始めた。ユンジェからジャグムの実を受け取ると、一生懸命にそれを頬張る。次第に、顔が歪んでいったが、幼女は必死にこらえていた。泣かないと言った手前、我慢しているのだろう。


 すると。サンチェが軽く背中を叩いた。


「お前は今、自分で頼りを作った。そして、俺はお前を面倒看るって言った。だから、つらくなったら俺を頼りにして良い。よくここまで堪えたな。お前は立派だよ」


 堪えられなくなったのだろう。幼女は大粒の涙と鼻水を流し、ジャグムの実を噛み締める。声を漏らしたところで、サンチェが頭を抱き寄せた。


 絞り出すような声が上がり、幼女は彼に縋りつく。

 怖かったと、つらかったと、両親や姉さんがいなくなってしまったと、たどたどしい言葉で吐露した。みんないなくなってしまった。それが何より、怖かった。幼女の訴えに、サンチェは何度も頷く。


「おんなじだよ。お前も、俺達とおんなじだ」


 ユンジェは微笑ましい気持ちで見守った。幼女はもう大丈夫だろう。サンチェがきっと、手厚く面倒を看るはずだ。


「連れて帰るのか?」


「ああ。ガキひとり増えたところで、なんてことないさ。ねぐらにいるチビ達は遊び仲間ができて喜ぶだろうし、まあ……年長の俺達がちょっと大変になるだろうけど。チビ達は揃いも揃って食い盛りだからな。こいつと一緒にいた連中も、上手く生きることができたら良いんだけど」


 幼女の背中をさすり、サンチェが名前を尋ねた。ぐずぐずに泣いている幼子は、涙を衣の袖で拭い、「リョン」と返事した。


「リョンか。覚えた。俺がサンチェで、向こうがユンジェだ。今日からお前の兄貴分だと思って良い。何か遭ったら、遠慮なく言えよ」


 うんうん。リョンは泣き顔のまま、少しだけ笑顔を見せた。

 安心したのだろう。手に持っているジャグムの実の残りを口に入れ、嬉しそうに咀嚼している。見守るこっちも、つい綻んでしまう、可愛い笑顔だった。


「さてと。これからどうすっかな。なにか手土産がないと、チビ達もがっかりするだろうし。ユンジェ、リョンを見ていてくれよ。さすがにリョンを連れて盗みはできねーから」


「おい、サンチェ。俺には俺の目的があるんだけど」


 ユンジェの目的はあくまで、ティエン達との合流。そして天降あまりノ泉へ行くことなのだが。


「いいじゃねえか。ケチくせえな」


「お前って、本当に調子の良い奴だよな。尊敬するよ」


「そう褒めるなって。照れるだろ?」


「ばか、俺は呆れているんだ。第一、盗みもできるか分からないだろ? あんな騒動の後だ。子どもらを追って兵士がうろついている可能性は十分にある」


 ユンジェは市場の通りを確認する。里の人間や商人が行き交いしていた。

 あの中に、兵士がいるやもしれない。荷車で運んでいた子どもらが逃げ出したのだ。今頃、血眼になって探していることだろう。今日は目立つ行為を控えるべきだ。


 親切丁寧に意見するユンジェに頷き、サンチェがリョンを見下ろす。


「リョン。ユンジェお兄ちゃんの言うことを、よく聞くんだぞ。俺は一仕事してくるから」


「分かった。リョン、ユンジェお兄ちゃんの言うことを聞いて待ってる」


 話を聞け。ユンジェはこめかみに青筋を立て、腰を上げるサンチェの帯を引っ掴んだ。


「サンチェ。お前、俺に喧嘩を売っているのか?」


「どうせ急ぎの目的じゃないだろ?」


 なにを言うか、急ぎの目的だ。ユンジェは怒鳴りたくなった。睨みを飛ばすと、サンチェは意味深長に肩を竦め、リョンの頭に手を置く。


「俺は家長として今晩の飯のために、そしてガキ達のために、食い物を調達しなきゃなんねーんだぞ? 俺こそ急ぎの用事だ。リョンだって夕飯食べたいよな?」


「たっ、食べたい。お腹減るの嫌い」


「ほら見ろ。リョンだって、こう言っているじゃないか。約束通り、里まで案内したわけだし、もう少し付き合えって」


 なんて狡い男だろうか。リョンを味方につけようとするなんて。

 顔を引きつらせるユンジェの衣を、そっとリョンが掴んでくる。つぶらな瞳がいつまでもユンジェを見つめてくるので、ああ、もう勘弁してほしい。ユンジェはサンチェと違い、幼子に対して厳しい心を持っていないのだ。


 頭を抱えている間にも、じっと見つめてくる幼子の目が、もの言いたげな顔をするティエンと重なり、断る気持ちを削いでしまう。


(これもティエンのせいだ。くそっ)


 八つ当たりしたい気持ちを押さえ、ユンジェは脱力する。負けた。

 とはいえ、このまま降参、というのも腹立たしいので、サンチェの脇腹に思いっきり肘を入れておく。これくらいの暴力は許されるだろう。


 脇腹を押さえて唸るサンチェに鼻を鳴らして笑っていたユンジェだが、刺すような冷たい視線を肌で感じたので、素早く腰を上げる。

 それは大人の視線であった。おおかた、細道を通る商人達の目だろう。小汚い子どもがいると、ひそひそ声が聞こえる。


 サンチェも気づいたのだろう。

 槍を肩に置くと、リョンの手を引いて樽の陰から出て行く。


 通りに出ても、商人や通行人、里の人間の目は冷たく、どこか哀れみを宿している。


 囁きが聞こえた――あれはどこの子どもだい? きっと、将軍グンヘイが連れて来た子どもだよ。売られるはずの子どもだったに違いない。可哀想に。あんなのが里の中にいたら、また荒れるじゃないか。兵士を呼ぶべきじゃないか。


 心無い言葉、冷たい視線にリョンは戸惑っている。初めての経験なのだろう。周囲を見渡し、サンチェと逸れないよう、強く手を握っている。


 そんな幼子にサンチェは言う。


「リョン。聞き流せ。連中は言うだけ言って、助けも救いもしない、哀れむばかりの大人なんだからな。なにが可哀想だ。家なしのガキは問答無用で、つまはじきにするくせに」


 可哀想の声が多くなると、彼は立ち止まって市場の大人に怒声を張った。


「グンヘイに捕らえられたガキの末路を知っておいて、救いもせず、見て見ぬ振りを決め込んでいるお前らに、可哀想なんざ言われたきゃねーよ。麒麟の泉のひとつも守れねーくせに。必死に生きようとしている俺達を、惨めな目で見てるんじゃねえっ!」


 その剣幕に市場から音が無くなる。


 ユンジェは苦笑した。

 たった今、リョンに聞き流せと言ったのは自分ではないか。こんなに大声を出したら、また騒動になるやもしれないのに。兵士が来るやもしれないのに。どうしてくれるのだ、この空気。


(けど、お前の言葉で胸が軽くなる俺がいる。サンチェ、お前の言葉はよく心に響く)


 サンチェはユンジェが思った以上に人情に厚い男なのかもしれない。

 驚きかえっているリョンを抱き上げると、走り出すサンチェを追い駆けながら、「しっかり見とけよ」と、ユンジェは幼子に微笑む。


「あれが今日から、お前がついていく兄貴だ。あいつは荒っぽいけど、ちゃんとお前を守ってくれる。お前は頼りにして良い。その代わり、リョンが大きくなったらサンチェの頼りになれよ」


 幼いリョンは、半分も理解できていないのだろう。

 けれども先を走るサンチェの背を見つめ、力強く頷いた。


「リョン、お兄ちゃんの頼りになる。大きくなったら、絶対にサンチェお兄ちゃんの頼りになる」


 いい返事だ。これからの成長が楽しみだと、ユンジェは心の底から思った。



 ◆◆



 晴れ渡った森の中、川沿いを上流へ向かって歩くハオは、とにかく勘弁してほしい、と心中で嘆いていた。


 右側を見やれば、俯き気味に歩く麟ノ国第三王子ティエンの姿。左側を見やれば、ぼんやりと明後日の方向を向いて歩く同胞カグムの姿。双方から醸し出される空気は重く、声を掛けても、一言二言で終わる。


 麟ノ国第一王子リャンテに遭遇した夜から、ずっとこの調子なのだ。


 ハオが拙い明るさで振る舞おうとも、話を振ろうと、二人の反応は薄く、双方の目が合うと気まずい空気が流れる。

 それに巻き込まれ、ハオも重い空気を味わう。

 これならば、まだ口喧嘩してくれた方がマシだ。息苦しさに窒息しそうである。


(俺が何したってんだ)


 もう、かれこれ数日この状態。正直泣きそうである。


(クソガキがこんな時にいてくれたら。くそっ、なんでこんな時にいないんだよ)


 もう幾度目になる八つ当たりを抱えていると、上流の向こうからすすり泣く声が聞こえた。悲痛な声がまじるそれは、子どもの泣き声だろうか。


 先へ進むと、川の側で幼子が十四、五の少年の傍で膝をついていた。

 幼子は倒れている子どもの体を必死に揺すり、衣で汚れた顔を拭っている。少年は気を失っているようだ。こめかみから血を流し、ぐったりと四肢を投げている。


 あれは兄弟だろうか。それにしては、子どもらの顔が似ていない。近くに親もいなさそうだ。みなしごだろうか。


 思考を巡らせていると、ティエンが早足で子どもらの下へ向かう。

 関わっている場合ではないのに、意思を宿した彼の足は止まることはない。普段はやたらめったら人を避けるくせに、彼は子どもらの前に立つと、そっと声を掛けた。


「それはお前の兄か?」


 ああ、なるほど。

 離れ離れになったユンジェと、幼子が重なったのか。ハオはカグムと視線を合わせると、遅れて子どもらの下へ向かった。



 一方、声を掛けたティエンは、恐怖に震える幼子に目を細めていた。

 幼子は青い顔でティエンを見るや、転がっている石を拾って、弱々しく投げつけてくる。あっちに行けと、近寄るなと、虫の羽音のような声で威嚇し、倒れている少年に縋った。守ろうと必死であった。


「お兄ちゃん。お願いっ、ひとりにしないで」


 気を失っている少年は、おおよそ幼子の家族なのだろう。

 孤独になりたくない幼子の気持ちが痛いほど分かるティエンは、頭陀袋を地面に下ろすと、片膝をついて幼子と目線を合わせた。


「怪我を診せてくれないか。このままだと、傷から菌が入って、お前の兄が死んでしまう」


 ひっ。幼子は絞り出すような悲鳴を上げた。死の意味を分かっているのだろう。

 それでも、少年から離れる様子を見せないので、よほど幼子にとって大切な人間とみた。


「いいから離れろ。このままじゃ何もできないだろうが」


 荒々しく幼子を抱き上げたのはハオであった。

 彼は邪魔だと文句垂れ、暴れる幼子をカグムへと放る。大層、口と態度は悪いものの、少年の傷を診てやるつもりなのだろう。

 手早く衣の帯を解いて、傷の具合を確認している。ティエンはハオの助手を務め、包帯や乾燥した薬草を取り出し、治療の準備をする。


 最初こそ暴れていた幼子も、少しずつ大人しくなり、カグムの傍で治療を見守り始める。


「左腕が折れているな。頭の傷や体中の擦過傷からして、高い所から落ちた。もしくは崖から滑り落ちた、だろうな」


「助かるのか?」


 ハオは眉を寄せる。


「頭部にどれほど打撲を受けているかによります。傷は深くありませんが、打ち所が悪ければ……」


 ティエンは気を失っている少年を、そっと見下ろす。

 幼子のためにも、少年には生きてもらいたい。どうか、幼子を独りにしないでやってほしい。孤独は傷の痛みよりも、ずっと苦しくつらいものだから。


 丁寧に顔や腕の汚れを、布で拭っていると、少年からうめき声が上がった。

 気がついたようだ。じわじわと彼の目が開いていく。それを見るや、幼子はカグムの傍を離れ、少年に飛びついた。何度もお兄ちゃん、と呼ばれ、少年は意識を取り戻す。


「ここは……僕は一体」


 瞬きを繰り返す少年と目が合う。

 彼は幼子の頭を撫でながら、うつらうつらと治療にあたるティエンやハオを見つめる。「兵士?」と問うたので、ただの旅人だと答えた。


 それを聞くや、少年は安堵したように脱力した。


「兵士じゃないなら良かった。ほんとうに、良かった」


「どうして、こんな傷を負っているんだ。親は?」


 ティエンの疑問に、「親はいない」と少年。兵士に殺されてしまったと答え、今は兵士に追われているのだと、消えそうな声で呟いた。


 兵士に捕まれば、子どもの自分達は売られてしまう。どこか知らないところで物のように売られ、その金は将軍グンヘイの懐に入る。


 だから必死に逃げた。

 ねぐらにしている洞窟を離れ、暗い森の中を彷徨った。

 途中、仲間と逸れてしまい、それでも自分に守れるだけの子ども達を率いて兵士から逃げた。結果、崖に足を取られ、滑り落ちてしまったのだと、少年は説明する。


 彼は体に縋る幼子の頭を撫で、悔しそうに顔をゆがめた。


「僕はお前しかっ、助けられなかった。両手で子ども達の手を握っていたのに。もう一人は……ごめんよ。本当にごめんよ。どうか、無事でいてくれ」


 涙を浮かべながら自責する少年に、「ジェチお兄ちゃん。泣かないで」と幼子が慰める。小さな手で何度も頬を撫でていた。


 ティエは言い知れぬ怒りと悲しみを胸に抱いた。

 将軍グンヘイは何を考えているのだ。罪もない子どもを捕らえ、売りに出すなど、本当に何を考えているのだ。気に食わない人間だと思っていたが、ここまで愚かな人間だとは。


 事情を聴いたカグムは、「こりゃまずいかもな」と、眉を寄せる。


「たぶん、その子らの他にも、森には子ども達が逃げ惑っている。兵士がそれを追っているとなると、ユンジェも対象になりかねない。あいつのことだから上手く逃げていると思うんだが」


 瞬く間にジェチが震えた。

 少年は左腕が折れているというのに、苦しい痛みが腕を蝕んでいるだろうに、頭だって打っているというのに、折れている左腕をティエンに伸ばす。


 そして、その手をティエンと重ね、まじまじと顔を見つめ、見つめ続けた。嗚呼、確信を得たように声を漏らす。


「そうか。貴方が……話に聞いていた通りの美人さんだ。ユンジェの言った通りの、美人さん」


「ユンジェ? ユンジェを知っているのか?」


 うん、ジェチは頷く。その瞼は少々重たそうだった。


「ユンジェから、たくさん聞いている。貴方の名前はティエンさんで、本当の兄弟じゃない。けど兄弟のように仲が良くて。弓が上手で。お茶と髪を弄るのが大好きで」


 昨晩、兵士に追われる前にたくさん話をした。

 それはとても、とても、楽しい時間だった。彼にはひどいことをしてしまったけど、自分を許し、友達になってくれた。知恵のある素敵な人だ。ジェチは懐かしむように語った。もう遠い記憶のように思えるのだろう。


「ユンジェはかすみノ里へ向かったよ。天降あまりノ泉に行くとか言っていた。はやく行ってあげて。お兄さんと、会いたがっていた。貴方を……心配していた」


 ああ、でも自分もはかすみノ里へ向かわないと。逸れた子どもを救わないと。


 あれは自分の家族だから。


 生き別れになった妹達のように、逸れた子どもとも生き別れになるなんて冗談ではない。自分は子どものあやしも上手くないし、力もないし、大した知恵もないけれど、それでも子どもを守る年長だから。だから。


「サンチェとトンファと僕の三人で守ると、誓い合ったから……行かないと」


 将軍グンヘイに捕まり、その男の財になるなんて、そんなの絶対に許せない。幼子らは自分達の手で守る。守り抜いてやる。


 うわごとを繰り返すジェチの目が、静かに閉じていく。見た目以上に、少年は重傷なのだろう。

 気を失ったジェチに幼子が悲鳴を上げ、目を開けるよう訴え、体を揺すっている。まだ生きている。安心して良い。ハオが言っても、幼子は聞く耳を持たない。


 それどころか大粒の涙を流し、この怪我は自分のせいだと言って、土に爪を立てた。逃げる時、自分が崖に足を取られなければ、ジェチは自分を庇わなかった。怪我をしなかった。


 幼子はしゃくり上げた。


「お父さんも、お母さんも、兵士さんに殺されて。家もなくなって。町の大人は冷たくて。それでも、がんばって生きているのに、どうしてつらいことばっかり……お兄ちゃんまで取らないでよっ。お願いだからっ、ジェチお兄ちゃんまで取らないでよ!」


 天に向かって吠える声は、青空に溶け消えていく。それは魂からの叫びだった。


 蹲って声を上げる幼子に、ティエンは掛ける言葉が見つからなかった。

 そっと隣に座り、小さな背中をさすってやることしかできなかった。理不尽に耐え続ける子どもに、いったい何がしてやれるというのだ。


(これが麟ノ国なのか)


 瑞獣の麒麟が守護する麟ノ国は、こんなにも腐っているのか。

 だったら、いっそのこと国を統治する王族など亡んでしまえば良い。上に立つ者ばかり笑い、弱き者は泣いて過ごす。これが国の在り方だとするなら、ティエンはそれをすべて否定してやりたい。


 こんな時にこそ呪われた王子の出番なのでは? 本当に呪われているのならば、腐り切ったところを根こそぎ、亡ぼせる力が欲しい。


「国とは、まこと何なのだ」


 激情を胸に抱え、自問自答するティエンに、謀反兵のカグムも、ハオも何も言わず、ただただ泣き崩れる幼子を見つめていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る