五.虎の威を借る、ろくでなし将軍


 青州兵だけでなく、白州兵もいると知った一行は、今まで以上に人里を避けるようになった。


 第二王子の領地で逃げ回るだけでも命懸けなのに、第一王子の兵がここにいるなんて、命と体がいくつあっても足りやしない。


 カグムの判断の下、間諜達の多い人里以外は極力、寄らないことが決められた。


 とはいえ、自給自足の生活にも限界がある。

 いくらユンジェが食糧調達に長けていても、毎日それが補給できると限らない。何も手に入らず、食糧を減らさなければいけない日だって出てくる。

 管理を任されているユンジェは、毎日頭を悩ませるばかり。


 逆算して食糧を配分しても、三日も持たない量になってしまった。


 それをカグムに伝えると、彼は困ったように腕を組み、「馬があればなぁ」とぼやいた。町に寄れないことが痛手になっている様子。


 すると。ティエンが横から、こんな意見を出した。


「町がだめなら、村落に寄ってみてはどうだろうか。あまり悪くは言いたくないが、そこで暮らす者の大半は農民。国の事情を知らない者達が多い」


 彼の言う通り、農民の集まりであれば、兵の顔を知る者も少なく、王族や国についても無知だろう。

 さっそく森を抜け、それらしきものがないかどうか探して回る。


 道すがら。車輪がでこぼこした土道に嵌り、荷馬車を動かせなくなった中年男性を見掛ける。

 手を差し伸べると男は感謝を示し、ユンジェ達の事情を聞くや、自分の住まいがある集落まで荷馬車に乗せてくれた。


 また亡んだ椿ノ油小町のことも教えてくれる。男は椿ノ油小町によく足を運び、野菜の物売りをしていたそうだ。


「椿ノ油小町は良いところだったんだけどなぁ。なんでも、グンヘイってお偉いさんの怒りを買って戦になったそうだ」


 グンヘイの名前を聞いた途端、大人達の表情が険しくなった。


 後で聞くと、それは十瑞将軍とやらの一人。正しくは十瑞将軍の息子らしい。グンヘイの父は、素晴らしい将軍として名高く、兵達から尊敬される男だったそうだが、流行り病によって急死。十瑞将軍の肩書きを受け継いだという。


 しかしながら、評判はすこぶる悪く、己の利益のために、兵に剣を振るわせる野心家だそうだ。

 自分は絶対に剣を持たず、戦に出ず、屋敷で呑気に酒を嗜んでいるのだとか。


 そこで兵達はグンヘイにあだ名をつけた。虎の威を借る、ろくでなし将軍グンヘイ――と。


 なかなかに、ひどい言われようである。


 どうやらカグムやハオ、そしてティエンはグンヘイと対面したことがあるらしく、各々顔を顰めたり、怒れたり、ため息をついたりしていた。


 ユンジェがそんなにひどいのかと聞くと、真っ先にティエンが頷く。


「あれは気持ちの悪い男なんだ。初対面の私の顔を見るや、なんと言ったと思う? 貴方様であればめとれますな、などと無礼なことを申したんだぞ! あの目は異常だった! 危険だった! ユンジェ、グンヘイには絶対に近付いてはいけないよ。あれは本当に気持ち悪いんだ! ああっ、鳥肌が立ってきた」


 それは、ティエンの顔立ちに問題があるから言われたことでは。ユンジェは彼の顔を、遠い目で見つめた。


 ハオに目を向けると、彼は発狂したように髪を振り乱した。


「くそっ、あのクソ野郎。青州にいるのかよ! 忘れもしねーぞ。俺を含む兵達を従僕のように扱ったことを! なんで俺達が手前の召し物を替えたり、食事の用意をしたり、私情で買い出しに行かなきゃなんねーんだよ!」


「ハオ。グンヘイって奴の部下だったの?」


「一度だけあれと一緒に戦をしたことがあんだよ。部下ぁ? なった覚えなんざねーよ! あんなクソ野郎! 自分は何もせず、宿で女達と戯れていたことを俺は知ってんだぞ。ああん?」


 次会ったら、みじん切りにしてやると双剣を抜いていた。怒りはすさまじかった。下手に刺激すれば、ユンジェの方が斬られてしまうやもしれない。


 トリを飾るカグムに至っては満面の笑みであった。


「俺か? いやぁ、別に思うことはないな。如いて言えば、そうだな。あれを三度討っても足りないということくらい。ははっ、なんてことないだろう?」


 誰よりも恨んでいるではないか。

 一体全体、カグムに何が遭ったのだろう。ユンジェは笑顔を崩さない彼に怯えてしまった。


 とにもかくにも、グンヘイは評判の悪い将軍らしい。亡き父の権力を振りかざし、好き勝手しているようである。


 そんなにも評判が悪いのであれば、将軍の座を引きずり下ろすこともできそうなもの。


 自分は剣も持たず、戦も出ないだなんて、無能にも程がある。

 ユンジェが意見すると、それができたら、さっさと細切れにしているとハオが返事した。グンヘイは曲者のようだ。


 そんな男が青州に何故いるのだろう。疑問を抱くと、カグムが答えてくれた。


「おおかた、左遷させんされたんだろう。元々は王都の守護を任されていたが、あまりの評判に外されたんだろうなぁ」


 左遷とは、低い地位に降ろされることを指すらしい。


 だったら、いっそのこと将軍の肩書きを取り上げれば良かったのに。ユンジェは不思議に思ってならない。


 話によるとグンヘイの一族は、たいへん王族に貢献しているのだとか。

 父親が素晴らしい将軍だったからこそ、その肩書きは取り上げず、王都から青州に守護を任せたのだろう。


 ちなみにグンヘイは口が達者らしく、人を見る目にも長けている。ゆえに第二王子セイウには表向き忠誠を誓っているだろう、とのこと。


 要は強い者にごまをすり、弱い者はとことん見下す男なのだ。聞けば聞くほど、胸糞悪い人物である。


 大人達は口を揃えた。グンヘイには関わらないよう、要注意しよう。あれに関わったところで、ろくな目に遭わないのだから。


 けれど、もしもあれが単独で行動していたら、それを見掛けたら闇討ちにしよう。そうしよう。


 驚くほど満場一致で決まる方針にユンジェは何も言えなかった。かつて、ここまで大人達が心を一つにさせたことがあっただろうか。


(……うん、もう三人の好きにさせよう。俺が口を挟むことじゃないや)


 ユンジェは心の底から思った。



 さて。そんなこんなで集落に着いた一行はさっそく、必要な物資を補給するべく、そこを歩いて回る。


 読み通り、集落の大部分が農家であったため、身元がばれることはなかった。小さな油屋を訪ねても、まったく疑われることがなく、銭を出せば喜んで物を売ってくれた。


「おっ。宿もあるな。この調子なら宿に泊まっても大丈夫だろう」


 全員の体調を考慮したカグムは、久しぶりに屋根の下で寝ようと提案した。

 飛びついたのはハオである。彼はぜひとも、寝台で体を休めたいと主張した。毎日、冷たい土や草の上で寝るのはしんどいとのこと。


 ユンジェも異論はなかった。たまには寝台で寝る贅沢を味わっても、罰は当たらないだろう。

 休める時に休んでおかないと、心身疲弊してしまう。ついでに宿に泊まったことがないため、この機に経験しておきたい気持ちもあった。


 宿泊が決まると、カグムは太っ腹なことに個室を取った。

 てっきり四人部屋を取るのかと思っていたのだが、個々で休息が必要だろうとのこと。


 ユンジェとティエンが逃げ出さないと分かっているからこそ、思い切った判断を下したようだ。

 もしかするとカグム自身、一人になりたかったのかもしれない。無用な詮索はしないでおこう。


 ちなみに。個室を誰よりも喜んだのは、ティエンであった。

 兵士がいない空間が嬉しくて堪らないようで、今晩はゆっくり寝ることができると喜んでいた。みな、旅の疲れが溜まっていたことが窺えた。


 勿論。ユンジェはティエンと同室である。


 それは彼の希望であり、ユンジェ自身の希望でもあった。二人で話す機会は多けれど、二人っきりで話す時間は殆どない。ゆえにこれは貴重な時間であった。



「ユンジェ。この宿には湯に浸かれる大部屋があるらしいぞ。一緒に入ろう!」



 部屋に入るや否や、ティエンがこんなことを言ってくる。

 子どものようにはしゃぐティエンを見るのは微笑ましいので、少しでも要望に応えてやりたい。が、湯に浸かることに、少々嫌な思い出があるユンジェは、顔を引き攣らせてしまった。


 どうやら、ティエンは湯殿が大好きな様子。もう一年も湯に浸かっていないから、とても楽しみだと言って喜んでいた。


「うーん。湯殿に行ってカグム達、怒らないかな。声を掛けるべきじゃ」


「べつに逃げるわけではないから、大丈夫だろう」


「でもなぁ」


 乗り気ではないユンジェは、カグムやハオの心配をする。勝手なことをすれば、厳しく監視されそうである。


 しかし、なんのその。ティエンはいたずら気に誘いを続けた。


「湯殿後は二人で内緒の贅沢をしないか? 陶ノ都では色んなことがあって美味しい物を食べられなかったからな。ここの宿、夕餉とは別に銭を出せば、甘味が食せるらしいぞ」


 ユンジェは生唾を飲んでしまう。

 いくら辛抱強い農民でも、所詮は子どもなので、甘味には目がない。ああ、滅多に口にできない菓子が食えるやもしれない。


(これを逃したら、今度はいつ菓子を食えるか分からないぞ。そうだよ、いつも頑張っているんだし、ご褒美くらいあってもいいよな。うん、いいに決まってる)


 ユンジェは心を躍らせ、爛々に目を輝かせながら、ぜひ贅沢をしたいと答えた。


「なら、私と一緒に湯殿へ行ってくれるな?」


 先ほどまでの引き攣り顔はどこへやら。

 ユンジェは勿論だと何度も頷き、はっきりティエンに付き合うと告げた。すでに頭の中は甘味で一杯である。


「ふふっ。乗り気になってくれて良かった。ユンジェのそういうところは、本当に扱いやすい子どっ……愛らしい一面だな」


 噴き出しそうになっているティエンは、まことユンジェの扱いに長けていた。



 ◆◆



 こんなにも、のんびりとした時間は久方ぶりだ。


 ティエンと湯殿を後にしたユンジェは、身も心もさっぱりとした気持ちで宿の食堂を訪れていた。

 それは気兼ねない人間と、内緒の贅沢をするから、という理由も勿論あるが、一番は周りに不安や恐怖がないためだろう。


 どうやら追われるばかりの野宿生活は想像していた以上に、心身疲労していた模様。

 雨風凌げる屋根の下で、周りに怯えることなく、何気ないひと時が過ごせる。それがこんなにも幸せで、心を軽くするとは思いもしなかったのである。


 これから甘味を食せることもあって、ユンジェの機嫌は最高潮に達していた。


「わあ、なんだこれ。見たこともない甘味だな」


 台に着いたユンジェは、運ばれてくる甘味を好奇心旺盛に観察する。


 簡単な文字しか読めないユンジェは、表に記されている甘味の注文をティエンに任せた。

 ユンジェ自身、甘い物が口にできるのであれば、なんでも良かったのである。甘味を食せる、それだけで最高の贅沢なのだから。


 すると。ティエンは不思議な甘味を二つ注文した。

 ひとつは柔らかな固形物であった。薄橙の果実も乗っており、見た目はとても美味しそうである。匙で突くと、簡単に固形物へ刺さる。


 そして、もう一つは茶色い饅頭まんとう。しかし、饅頭よりも香ばしい匂いがする。手に持ってみると、それはとてもふかふかしている。綿のような弾力だ。


「ティエン。これ、なに?」


「ふふっ。初めて見るだろう? それはな、麺麭パンというものだ。饅頭まんとうよりも、柔らかく、歯触りが良いんだよ。そこの小皿に練乳があるから、千切って浸してみなさい」 


 言われた通り、麺麭パンを千切って練乳とやらに浸す。

 それを口に入れて咀嚼したユンジェは、すごく美味しいと目を爛々に輝かせた。麺麭パンも練乳も初めて、口にしたが、それはとても甘く、軽い口当たりで、とても食べやすい。


 餡とは違った、優しい甘さにユンジェは夢中で麺麭パンを頬張った。


「そっちは芒果布丁マンゴープリンと呼ばれるものだ。滑らかで、喉通りが良いぞ」


 半分ほど麺麭パンを平らげたユンジェは、芒果布丁マンゴープリンに匙を入れて、ご機嫌に味を堪能する。


 生きていて良かったと、心の底から思う美味さであった。

 こんなに柔らかく、滑らかな食べ物を、ユンジェは今まで食べたことがない。粥よりも柔らかく、喉通りの良い甘味がこの世に存在したとは。旅はしてみるものだ。


 甘酸っぱい芒果マンゴーを咀嚼するユンジェに、ティエンが美味しいか、と尋ねる。何度も首を縦に振るユンジェは、一年分の贅沢をしている気分だと綻んだ。


「そうか、そうか。ユンジェが喜んでくれて良かった。誘った甲斐があるよ」


 ティエンがおかしそうに笑う。彼もとても楽しそうだった。一方で微笑ましそうに、ユンジェを見守っている。気分はすっかり兄貴分なのだろう。


「宿って良いところなんだな。湯殿は気持ち良かったし、甘味は美味いし」


 運が良いことに、湯殿は誰も利用していなかった。

 おかげで、伸び伸びと湯を楽しめた。まあ、ユンジェは入ってすぐに湯の熱さに堪えられず、さっさと上がってしまったが……やっぱり湯殿は苦手な分類である。


麺麭パン芒果布丁マンゴープリンって、紅州では見かけなかったけど、青州の名物なの?」


「いや、これらは麟ノ国の文化にはないもの。それぞれ舶来品はくらいひんだよ」


「はく……はくらい、ひん?」


 またもや難しい単語が、ティエンの口から飛び出す。ユンジェは戸惑いながら、それを繰り返した。


「他国から入った品を、舶来品と呼ぶんだ。麺麭パン芒果マンゴー鳳凰ほうおうが守護するほうノ国の食べ物なんだよ」


 青州は麟ノ国の貿易口。だから、異国の文化が青州に浸透しているのだとか。

 また青州は異国の文化が際立つ土地、海の方面へ行けば異国人の姿も多く見受けられるという。


 ティエンは内緒の贅沢をしたい一方で、ユンジェに少しでも多くの異国文化を触れさせたかったそうだ。

 それが新たな学びに繋がると、彼は知っている。


「玄州への旅が終わり、ひと段落着いたら、異国に渡る準備をしてもいいかもしれないな」


 語り手が麺麭パンを半分に千切り、片割れをユンジェに差し出す。喜んで受け取ったユンジェは、そうなったら、またカグム達と鬼ごっこだと一笑した。


 絵空事を描いていることは、重々承知の上。

 それでもティエンがそう願うなら、ユンジェも同じ夢を抱くだけだ。自分の夢は彼と平和に暮らすこと、それだけなのだから。


「そうか。ユンジェは私と異国に来てくれるんだな」


 何を言っているのだ。当たり前ではないか。ティエンが行くところに、ユンジェもついて行く。最後まで付き合う。そういう約束だ。


「なんだよ。また置いていくとか、くだらないことを考えているのか?」


 だったら心外だと不貞腐れるユンジェに、「違うよ」とティエン。向けてくる眼は、どこまでも優しい。


「ユンジェは本当に私の意思を尊重してくれるんだな、と思ってな。同じことを周りに言えば、血相を変えて止めてくるだろう。やりたくもない椅子に座らせ、国を統べろと言うに違いないから」


 周囲に人がいないことを確認し、ティエンが小声で苦く笑う。

 確かにカグムやハオが聞けば、王族なのだから王座に就き、国を動かせだの、統べろだの、一方的に言い包めそうだ。彼らの気持ちが分からないわけでもない。


 先方、目にした戦や死者を目にしたら、天士ホウレイを筆頭に国に逆らう者が出てくるのも頷ける。

 ユンジェ自身、王族の中で次の王は誰が良いか、と聞かれたら、即答でティエンの名を挙げることだろう。


 けれども。ユンジェは国の味方になるつもりはない。あくまで、ティエンの味方につくつもりだ。

 ゆえに、彼が王座を拒絶しているのであれば、その気持ちを受け入れるだけ。


「ティエンがもし嫌だって言うなら、俺はお前と全力で一緒に逃げる。反対にティエンが、やりたいって言うなら、俺はお前のために全力で道を作るよ」


 ただ、ひとつ心配事がある。


「なあティエン。黎明皇って知ってるか?」


「黎明皇?」


 芒果布丁マンゴープリンを食べていたティエンの手が止まる。聞いたこともない、と返事する彼は、ユンジェの浮かない顔に気付き、話してくれるよう促す。


「それは私に関わることなのだろう?」


 ひとつ頷き、ユンジェは千切った麺麭パンを練乳に浸さず、そのまま口に入れる。


「セイウが教えてくれたんだ。麒麟の使いは王を導く存在。時代を終わらせる者。それに導かれた王族は王の中の王、黎明皇と呼ばれる者なんだってさ」


 ひとつの時代を終わらせ、新たな時代を切り開く王を導くため、麒麟は使いを寄越す。


 ユンジェは見事にそれに選ばれ、ティエンの懐剣として、こんにちを生きている。もしかすると彼は王の中の王、黎明皇になるやもしれない。


「俺が傍にいると、ティエンは嫌々王座に就くかもしれない……」


 旅に出た当時のユンジェとティエンは、新しい居場所と家と土地を探すため、平穏な暮らしを掴むため、あてもなく麟ノ国を歩き始めた。

 あの時は天士ホウレイの追っ手も、クンル王の放った刺客も振り払い、遠い地で一緒に生きようと思っていたのに。


 気付けば、カグムやハオと玄州を目指している。これも麒麟の導きだろうか。それとも、自身のお役のせい? ユンジェは判断しかねた。


「なあ、ティエン。思い切って懐剣をおっ、いひゃい!」


 ふたたび懐剣を折る提案を出そうとしたら、台から身を乗り出したティエンが両手で頬を勢いよく挟んでくる。痛い!


「ユンジェ。次、その案を口にしたら、本気で怒ると忠告したはずだぞ。お前も言っただろう。二度とそれは言わないと」


「だ、だってさぁ」


 微かに赤くなった両頬をさする。麒麟の使いが宿る懐剣を折ってしまえば、彼は王座を拒否したと見なされ、王にならなくとも済むやもしれないのに。


「お前が嫌がっている道に、俺が導いているかもしれねーんだぞ。折るべきじゃねーかな」


「ユンジェがリーミンになるやもしれないではないか! お前がどうなるか分からないのに、折るなんて言語道断。私は絶対に折らぬぞ」


 柳眉をつり上げるティエンが腕を組み、笑顔でこちらを睨んでくる。怖い。


「そんなに怒るなよ」


「私はちゃんと忠告したよ。それをユンジェが破ったのだから、本気で怒る。しごく当たり前の態度だろう? 兄上らにお前は渡さないからな」


「でもさ」


「でもじゃない」


 ティエンがあさっての方を向いてしまう。子どもか。


「俺の話を聞けよ」


「嫌だ。私は話を聞かない」


 ユンジェが体を傾け、視線を合わせようとすると、彼は反対側を向いてしまった。ああもう、その態度は子どもじゃない。ガキである。


「ティエンってば」


「私はティエンだが、ユンジェの言うことは聞かない」


「……ガキじゃねーんだから」


「私は十九のガキだ」


 ああ言えばこう言う。


 ユンジェは不機嫌になったティエンにため息をつき、ぶすくれている齢十九の王子を遠目で見つめる。

 理不尽なことが遭っても辛抱強く耐えるユンジェに対し、彼は少しでも嫌なことがあるとすぐ感情的になる。これではどちらが年上なのか分かったものではない。


(俺より五つも年上のくせに)


 へそを曲げているティエンの機嫌を取るため、ユンジェはこんな提案を出す。


「悪かったって。後で俺の髪を弄って良いから機嫌直せよ」


 ティエンは髪を弄ることが好きだ。短髪であろうと、長髪であろうと、楽しく自分の髪を弄っている。


 最近では、やたらユンジェの髪を弄ろうとする。セイウのところで小綺麗になった姿を目にして、自分も髪を弄って綺麗にしたいと思うようになったらしい。


 弄る手が鬱陶しいと思うユンジェは、気が向いた時しか弄らせてなかったのだが、今晩はティエンの気が済むまで弄って良いと提案する。


 それを聞くや彼はころっと表情を変え、仕方がないから許すと言った。どこまでも偉そうであった。さすがは王族の人間である。


「水のおかわりは要りませんか?」


 声を掛けられたことで、会話が打ち切られる。顔を上げると、若い娘が二人立っていた。

 利用客に水のおかわりを尋ねまわっているのだろう。その手には錫の水差しが握られている。おおよそ二人は宿屋の娘で姉妹なのだろう。顔立ちがよく似ていた。


(なるほど。ティエン狙いか)


 ユンジェは可愛らしい顔をしている娘達の熱い視線に気付き、美しい男は人気だなぁと肩を竦める。

 ティエンはおなごのような顔立ちながらも、声を聞けば男だと分かる。綺麗とは得をする生き物だ。


 とはいえ、ティエンがその意図に気付けるかどうか。下手すると、警戒心を剥き出しにして、一切口を開かなくなる可能性もある。


(こいつ、心を開くまでに時間が掛かるんだよな)


 ティエンは兵士不信に加え、見知らぬ人間と喋ることを得意としていない。物々交換の交渉だって、いつもユンジェがしていた。つらい生い立ちが内気を拗らせているのだろう。


 思った傍から、ティエンが口を閉じて、娘達の視線から顔を背けてしまう。勿体ない。せっかく娘達がティエンに興味を示してくれているのに。


「水は十分だよ。ありがとう」


 代わりにユンジェが受け答えする。これで仕舞いになれば良いのだが、なんと娘達は世間話を振ってきた。


「旅のお方ですよね。どちらから来られたんですか?」


 娘の一人が尋ねてくる。

 紅州と答えると、もう一人の娘が手を叩き、お茶で有名な土地ですよね、と楽しげに笑った。ユンジェは己の土地の名物など、つま先も知らないが、ティエンが軽く頷いたので、その通りだと返事する。


 すると娘達が口を揃え、今の機会に青州に来るのは、少しばかりまずかったかもしれない、と興味深い話を出してきた。理由を尋ねると、彼女らはこのように答える。


「近頃の青州は物騒なんですよ。戦の噂が絶えず、ここを利用するお客様の中には暗い顔する方も多くて。とりわけ将軍グンヘイという方が、各地の町や村を焼き払っているのだとか」


 宿屋の娘達は旅の人間から、色んな話を聞いているのだろう。国や王族については詳しくないようだが、人伝に耳にしたことを話してくれる。


「どうやら、グンヘイや国に逆らう人間達がいるそうですよ。最近、耳にしたのは椿ノ油小町の戦でしょうか。なんでも、椿ノ油小町の人間が国の大切にしている、天降あまりノ泉を独占していたとか」


 ティエンの眉がぎゅっと顰められる。聞き覚えがあるのだろう。


 しかし、彼に聞くまでもなく、娘達が天降ノ泉について事細かに話してくれる。


 曰く、天降ノ泉は川多き青州の水の源と云われており、天上におわす麒麟の憩いの場だとか。

 それは天を翔け、地上を見守る麒麟が一休みするため、一粒の涙を落として出来た泉。やがて枝分かれし、数多の川となって海に繋がったと伝えられている。


 瑞獣の麒麟とゆかりがあるので、国は天降あまりノ泉を大切にしているのだそうだ。それを椿ノ油小町の人間が独占したので、将軍グンヘイが制裁を下したという。


 けれども。噂を耳にした青州の人間達は、一抹もそれを信じていない。

 なぜなら、本当に天降ノ泉を独占しようとしているのは、将軍グンヘイだと誰もが分かっているからだ。


「将軍グンヘイが青州の守護を任されてから、何かと問題が生じているそうですよ。悪評ばかり目立つのに、なぜ青州を任されている王族は放っておくのだろう、と青州の民は思っているらしくて」


 よほど将軍グンヘイは酷い人物らしい。彼と対面したことのあるティエンが、険しい顔で身震いをしている。


「これから先の旅路、どうか用心して下さいね。グンヘイという方も、国に逆らう人間も、とても乱暴だと聞きますので。ね、姉さん」


「ええ。本当に。グンヘイは勿論のこと、国に逆らう人間なんて、セイウ王子が大切にしている子どもを誘拐したそうですよ! お可哀想そうに。噂によれば、セイウ王子は子どもをとても可愛がっていたとか」


 可愛がるどころか、人を物として扱った挙句、ユンジェを下僕にしたのだが。麒麟の使いを宮殿に飾ろうと目論む、とんでもない男なのだが。噂って怖い。


「セイウ王子は心を痛めているでしょうね。はやく子どもが見つかれば宜しいのですが。そういえば、お名前が出ていたような……」


「出ていたわ、姉さん。前にここを寄った旅のお方が、子どもを取り返して、報酬を得るとか意気込んでいましたから。確か、リ……りぃ」


「ユンジェ。追加で胡麻団子を頼もう。私と半分にしような」


 これ以上、セイウの話を聞きたくないティエンが、貴重な笑顔を浮かべ、胡麻団子を追加で注文する。娘達の会話を断ちたい目的もあるのだろう。ユンジェには作り笑顔だとすぐに分かったが、何も言うまい。


 頬を上気させる姉妹が、嬉しそうに注文を受け取って踵返す。


「おっと」


 姉の方が人とぶつかった。慌てて、謝罪する娘の顔が呆けた。好青年の兵士が娘の体を受け止めている。


「お嬢さん、怪我はないか?」


 その声は。

 顔を上げれば、柔らかな笑みを浮かべて娘の体を受け止めているカグムと、不機嫌に眉を寄せているハオの姿。おおかた夕餉に連れ出すため、部屋を訪問したのだろう。が、ユンジェ達がいないので、探し回っていた様子。


 いや、問題はそこではない。

 カグムに受け止められた娘が、見る見る顔を真っ赤に染めていく。何度もぶつかったことを謝ると、彼は気にしないで欲しいと笑顔を作った。

 それどころか、こちらこそ通り道を阻んで申し訳ないと謝罪する。


 するとどうだ。見る見る姉妹達の顔が蕩けたではないか!


 ユンジェは思った。

 なるほど。カグムは女性の人気を集める性格をしているらしい。顔も格好良い方だし、体躯も強く見える。

 なにより、癖のない笑顔で娘と接している。お嫁さんになりたい女性も多いことだろう。


「はっ、これだから女って奴は」


 悪態をつく男は、カグムとは対照的である。ユンジェは遠い目で、背後に立つハオを見つめた。


「おい、クソガキ。なんだ、その人を憐れむような目は」


「ううん。女は厳しいなって思っただけ。眉間の皺が怖く見えるのかなぁ」


 それだけで、何が言いたいのか理解したのだろう。

 ハオはこめかみに青筋を立て、頭に拳骨を入れてきた。痛い、殴らなくとも良いではないか! そういうところが、女の心を掴めない原因なのだ。


 ユンジェはひりつく頭部を擦り、恨めしくハオを睨んだ。






 その晩。穏やかな時間を過ごしたユンジェは、夢の中で麒麟と再会する。

 一面広がる水の上に立ち、巨体を持つ麒麟と、いつまでも向かい合った。美しい黄金色のたてがみ、鮮やかな鱗、三つの立派な角はいつ見ても呆気に取られる。


 澄んだ目に見つめられるユンジェは、麒麟の声なき声を聞いた。

 それは神託であった。使いとして、その御言葉を所有者に届けろと、次なる王へ届けろと言われているような気がした。


 一方的に伝えられるので、ユンジェは麒麟に聞くに聞けなかった。

 どうして、自分はティエン以外の懐剣を抜けるのだと。彼を守るために使命を与えたのではないのかと。麒麟はティエンを王にしたいのかと。


 たくさん聞きたいことがあるのに、声はまったく出なかった。



「ユンジェ? ……ユンジェ! 良かった、目を覚ましたのだな!」



 ゆるりと瞼を持ち上げると、ユンジェは血相を変えたティエンに縋られた。


 何事だろうか。ぼんやりとした意識で上体を起こす。

 ユンジェは宿屋の寝台に寝ていた。驚くことに、寝台の周りにはカグムやハオもいる。もう朝なのだろうか。寝坊したのだろうか。


「馬鹿野郎。もう夜だ。てめえ、丸一日寝ていたんだぞ」


 名前を呼んでも、揺すっても、頬を叩いても、まるで起きなかったのだとハオ。医者を呼ぶかどうか話し合うほど、深い眠りに就いていたそうだ。


「ユンジェ。気分はどうだ? 医者はいるか?」


 カグムが膝を折り、視線を合わせてきた。


 瞬きを繰り返すユンジェは、軽くこめかみをさすって首を横に振ると、所有者に賜った神託を告げる。


「ティエン、天降あまりノ泉へ行こう。麒麟がそこで、お前の、セイウの、リャンテの……次なる王の訪れを待っている」


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