四.人は国を選べず



 亡びの町が死の町と化している。



 地下貯蔵庫から出たユンジェが思った、最初の感想はこれであった。


 あれから、どれほどの時が経ったのか。戦の音が途絶えても地下貯蔵庫に閉じこもっていたユンジェ達は、欠けた月が真上に昇った刻に、ようやく地上へ出る決断をした。


 もしかすると夜戦に突入しているかもしれないので、極力火は持たないよう心掛ける。


 とはいえ、視界が利かない暗闇を歩くのは危険だ。

 倒壊した家屋の石に足を取られて、足を挫くやもしれない。

 そこでユンジェは頭陀袋から筆を取り出し、小さな松明を作って、先導するカグムに渡した。木の棒で作るより、目立たないと思ったのだ。


 けれど。それは杞憂であった。


 地上に出ると、生きている兵士達はそこになく、町の中は死んだ兵士ばかり残っていた。青州の兵も、白州の兵も、みな事切れている。


 いや語弊がある。


 死人に合わせ、息のある兵士も残っていた。

 それらは深手を負っている者達であった。一刻も早く手当てをしなければならない者達だった。


 なのに、町に置き去りにされている。

 間もなく、その者達も事切れている兵士達と同じ道を辿るだろう。


 静寂に包まれている町には、夜風とうめき声ばかり満たされた。

 先頭を歩くカグムと、最後尾を歩くハオがその兵士らに目を向け、苦言を漏らした。


「いつ見ても胸糞悪いな。出血さえ止めれば、助かる兵士もいるじゃねえか」


「その内、青州の王族兵が来るだろうさ。もう、手遅れになっているだろうがな」


「……くそ。今じゃないと意味ねーんだよ。今じゃないと」


「そういう国だってことは、分かっているだろう。ハオ」


 ユンジェには二人がどういう気持ちで、兵士達の屍を、負傷者を見ているのか、一抹も分からない。


 ただ会話の声で、憤りと悔しさを感じ取ることができた。同じ兵士として、強く思うことがあるのだろう。哀れみを抱いているのやもしれない。


 闇夜から聞こえてくる、地を這ったようなうめき声に耳を傾ける。

 生気のない声は死人のよう。苦しみから解放されたいと言わんばかりに、いつまでも、うめいている。なんて地獄だ。


 両兵がいないことを、しかと確認すると、カグムは小さな松明を捨て、折れた槍の柄を拾い、それを松明とした。


「ユンジェ。この近くは安全か?」


 尋ねてくるカグムの声が、本当にかたい。

 気付かない振りをするユンジェは、かぶりを縦に振り、嫌な感じはしないと返した。


「そうか。なら今のうちに町を去ろう。いつまでも、ここには……あれは」


 松明を持つカグムが走り出すので、ユンジェ達も急いで後を追った。

 珍しい。いつもなら慎重に動くというのに、今のカグムはなりふり構わず走っている様子。


 半壊している外壁の前で足を止めると、彼は片膝をつき、松明を地面に突き刺して、消えそうな息を繰り返している兵士を抱き起こした。

 白州の兵のようだ。軽く頬を叩き、ミンイ、ミンイと名前を呼んでいる。顔見知りなのだろう。


 程なくして、兵士ミンイは重たい瞼を持ち上げた。何度目かの瞬きの後、カグムの顔を見つめ、力を振り絞るように口角を持ち上げた。


「カグムじゃないか。夢みたいだ。また、こうして話せる日が来るなんて。訓練時代を思い出すよ」


 彼はカグムと仲が良かったのだろう。ずっと心配していた、と言葉を投げた。


「お前が黄州の兵になって。王族の兵なって。ピンインさまの近衛兵になって。すごいなぁって思っていたら、お前……将軍らに、いいように使われているって聞いて」


 咳き込むミンイを診るために、ハオが両膝をついた。

 鎧の下は皮膚が焼け爛れ、ひどい火傷を負っていた。火薬筒の爆発に巻き込まれたのだろう。その上、横っ腹から臓器が出ていたので、ハオの手の動きが止まってしまう。手遅れ、なのだろう。


 それが分かっているのか、ミンイは語りを止めない。


「カグムがピンインさまを討ったって聞いた時は、耳を疑ったよ。寄こす竹簡には、いつもピンインさまを可愛がっている文面だったから……お前からの、便りがなくなって、心配の声も届けられなかった」


「もういい。しゃべるなミンイ」


「なのに青州に来たら、お前は謀反人扱いだ。心配どころか、驚きの連続だった。周りは……お前のこと悪く言ってたけど、俺には分かる。カグムは何かを成し遂げようとしているんだってな」


 本当は積もる話が山ほどある。酒を片手にいつまでも語り合いたい。聞いてやりたい。相談に乗ってやりたい。


 だけど、自分にはそんな時間は残されていない。ゆえにミンイはカグムに言う。周りがどう言おうが、自分はカグムの味方だと。それを忘れないでほしいと。


 ゆるりとミンイは首を動かし、ティエンに視線を留める。角度で顔が見えたのだろう。彼は嬉しそうに目尻を和らげた。


「貴方がピンインさま。カグムが教えてくれたように、とても綺麗なお顔をしている。だけど、どこか優しいお顔だ。呪われた方なんてうそのよう」


 いやきっと、うそなのだろう。

 カグムが可愛がっていた方なのだから、どの王族より優れた方だろう。ミンイは消えそうな声で呟いた。


 こういう方が王になってくれたら、きっと国も救われるに違いない。

 白州の兵達も、麟ノ国第一王子リャンテの暴君から解放されるに違いない。将軍らに虐げられる兵達を救ってくれるに違いない。そう強く願いたい。


「やっと、俺は解放される。白州の兵からやっと、やっと……己の死を心から喜ぶ俺を、お前は愚かだと笑うか。カグム」


「安心しろ。酒飲み相手がいなくなることに嘆いてやるから」


「言ってくれるよ……便りを寄越さなかったくせに。心配させたくせに、さ」


 うわごとを漏らすミンイの声が、息が、命が静かに消えていく。


 それを目にしたハオは、町の出入り口で待っているとカグムに告げ、傍に置いていた槍を掴むと、布を巻いて新たに松明を作る。

 気が済んだら来い、という彼は、二人きりにさせようと思ったのだろう。ユンジェとティエンを呼び、先を歩き始める。


 異論はないのでユンジェとティエンは腰を上げて、ハオの後について行く。

 しかし、すぐに踵返し、ユンジェはミンイの前で片膝をつくと、頭陀袋から干したジャグムの実を彼の右手に握らせた。


「戦の後だから、腹減っていると思って。天の上に行く途中でひもじい思いするのは、可哀想だから」


 カグムが小さく笑う。それはとても、弱々しいものだった。


「悪いなユンジェ。ミンイも喜ぶ」


「べつにいいよ。ジャグムの実は、また森で見つければいいことだし。カグムの友達に、こんな手向けしかできないけど……カグム。待っているからな」


 ユンジェは己を待つハオとティエンの下へ戻る。もう振り返ることはしなかった。それが友を失ったカグムに対する、優しさだと思ったから。



 町の出入り口に辿り着くと、ハオがユンジェに松明を渡してくる。

 そして、自身は木の枝や葉を拾い始めた。たき火の準備をしているようだ。拾った物を出入り口の前に置いている。


 単なるたき火ではないことは見て取れる。ユンジェとティエンは視線を合わせ、彼の手伝いをするべく枝を拾った。


 見る見る枝や葉の山となったそれは、いつも見るよりも大きい。

 持っている松明で火をつけると、瞬く間に火は枝や葉を呑み込んで炎となった。火の粉と共に煙が天へ昇っていく。


 なぜだろう。いつも見ているはずの炎なのに、今日は安らぎをくれるような気がした。


「兵士は戦が終わると、その地で火を焚く風習がある」


 天に昇る火の粉と煙を見上げていると、無言を貫いていたハオがそっと口を開いた。

 二人が彼に視線を留めるも、ハオは天を見上げたまま、こちらを向こうとしない。


 その横顔は物悲しそうであった。


「戦地の兵士は非業の死を迎える奴が多い」


 だから死んだ仲間のために、こうして弔い火を焚く。天に昇る者達の道しるべを作るために。


「国のために戦ったのに、ねぎらいの一つもねえのはあんまりだからな。ま、国にとっちゃ人ひとりが死んだ程度で終わるんだろうが」


 兵士が死んでも、また代わりの兵士を用意すればいい。今の麟ノ国はそういう考えを持っている。本当にふざけた話だと苦笑するハオは、力なく呟いた。


「代わりの兵士はいても、代わりの人間はいねえのにな」


 なんのために兵士達は国のために尽くし、守り、散っているのだろうか。生き続ける苦痛と、死の終わりの苦痛、どちらが強いのだろうか。

 ハオの口にする疑問は、ごうごうと燃える炎の中に呑まれ、消えていく。


「あの兵士が言ったように、俺もティエンさまが王になってくれたらな、と思います。王位継承権を持つ王族の中で、ピンイン王子が一番王に相応しい。旅を通じ、切に感じております」


 彼がティエンに話を振った。いつもなら不機嫌になるティエンも、今ばかりは表情に哀れみが貼りついている。


「……呪われた私に力などないよ。それに王座にも」


「貴方のお気持ちは存じています。ただ、言いたくなっただけです。ティエンさまなら、散った兵士を人間として見てくれるんじゃないかと、そう思いまして。懐剣のクソガキを人間として見ている、貴方ならきっと……」


 人間として見られずに死んでいった人間ほど、哀れなものはない。

 目を伏せるハオに、聞き手のティエンも、見守るユンジェも何も言えなかった。



 ◆◆



 はじめて戦と多くの死を見たせいか、ユンジェは椿ノ油小町を発って二日間、眠れない夜が続いた。

 眠らなければ体力が持たないと、頭では分かっているのだが、どうしてもあの地獄が目に焼き付いて離れない。


 ティエンも同じだったようで、夜になると寝がえりばかり打っていた。


 しかし、彼の方が先に限界がきたようで、今宵のティエンは深い眠りに就いている。指で顔を突いても微動だにしなかった。疲労も溜まっていたのだろう。


 対照的にカグムやハオは眠れているようで、日中も変わりなく過ごしている。

 幾度も戦を経験している彼らなので、面に出さないよう努めているのかもしれない。話す分には変わりがないように思える。カグムなんて友を失くしたというのに。


(みんな。寝たかな?)


 ユンジェは大人達が眠っていることを十二分に確認すると、ティエンを起こさないよう外衣から抜け出した。


 頭の上に置いている懐剣を手に取ると、忍び足でたき火から離れる。


 今宵の野宿場所は川のほとりなので、少し歩けば月明かりを浴びた川が顔を出した。


 振り返ってたき火の明かりが目視できることを確かめると、ひとり岩に腰掛け、川面を覗き込む。情けない顔を作る自分がそこには映っていた。


 両手で懐剣を持ち、そっと鞘から刃を抜く。

 美しい刃をしているそれは、刃毀はこぼれひとつない。何度も人間の体を貫き、剣や槍を砕いているのに。


(頭が痛いなぁ。目も重いなぁ。寝ていないせいだろうなぁ)


 そんなことをぼんやりと思って、投げ出す足をばたつかせていると、うなじにちくりと痛みを感じた。

 それが冷たい刃先だと気付くのに、数秒遅れた。


「まったく。相変わらず、自分の危機感知は人並みだな。ユンジェ、勝手な行動を起こしてくれるな。賊に襲われたらどうする。戻るぞ」


 声でカグムだと分かった。

 ちゃんと寝ているところを確かめたのに、音を立てないよう気を遣ったのに、それでもつけて来るなんて。さすがだとしか言いようがない。


 月明かりに反射する川面を見つめ、ユンジェはかぶりを横に振った。今は一人になりたいと小声で返す。

 ちゃんと明け方には戻るから、そう伝えると、カグムが太極刀を鞘に収めた。


「隣いいか?」


 だめと言ったところで聞いてもらえないだろう。雰囲気で分かる。ユンジェは少しだけ右にずれた。


 隣に腰掛けてくるカグムは、ユンジェの眺めている川面を見つめると、「眠れないのか」と尋ねた。

 この二日まともに寝ていないだろう、と指摘されたので、力なく笑ってしまう。何もかも見通されている。


「はじめて戦を見たんだ。眠れないのも仕方がないさ。あれに恐怖を感じない人間はいない。俺もそうだった」


 頭に手を置いてくるカグムに、ユンジェはしばし間を空けて答えた。


「……俺さ、人間じゃなくなってきているんだ」


 カグムにぽつり、と吐露する。

 その意味を問われたので、ぽつぽつと返事した。


「今まで懐剣を抜く度に、恐怖心を忘れていたんだけど。あの戦で、懐剣を抜いたら心が空っぽになったんだ。恐怖も、悲しみも、苦しみも、分からなくなっちまった」


 ティエンに呼ばれるまで、彼に手を差し出されるまで、まったく心がふるえなかった。

 近くにいたカグムやハオが遠いものに思え、何も感じることができなかった。心配すら寄せられなかった。


 それが怖くなり、あれこれ考えている内に、眠れなくなってしまったのだとカグムに伝える。


「そんなこと、今までなかったんだ。主従の儀を受けてから、少しおかしくなったのかもしれない」


 ユンジェはセイウと主従の関係にある。

 少し前に主君から懐剣となれ、人の心を捨てろと命じられたので、本能がそれに応えようとしているのかもしれない。

 だとしたら、ユンジェはいずれ人間の心を失ってしまう。


「ティエンに言ったら悲しむんだろうな、とか……人間じゃなくなったら、俺、どうなるんだろうな……とか、いっぱい考え込んじゃって。ちっとも眠れないんだ。身も心も懐剣に近づいていることが怖くて」


 冷たい夜風が吹き抜け、身震いする。

 外衣を羽織っていないユンジェに気付いたカグムが、自分の外衣を広げると、その中に入れてくれた。そこはとても温かかった。


「ピンインの懐剣になったこと、後悔していないか?」


 くしゃくしゃに頭を撫でてくるカグムから、やめたいと思ったことはないのか、と聞かれる。


 ユンジェはひとつ首を横に振った。

 やめたいと思ったことはない。悔いもない。

 懐剣のお役に恐怖したことはあれど、それを投げ出そうと思ったことはなかった。


 ティエンに最後までついて行くと言ったのはユンジェなのだ。その約束をたがえるつもりはない。


 なにより、誰からも死を望まれている彼の傍にいたかった。

 周りがなんと言おうと、ユンジェはティエンに生きて欲しいのだ。ティエンを守れるなら、彼の懐剣になっても構わない。懐剣を抜いたことに対する後悔もない。


 でも。人間を捨てるつもりもなかった。

 ユンジェはユンジェのまま、ティエンの傍で生きていたい。平和に静かに暮らしたい。


 そう思うのは麒麟の使いとして、あるまじきことなのだろうか。贅沢な願いなのだろうか。ユンジェは答えを見出せずにいる。


 ひざ元に置いている懐剣に目を落とせば、黄玉トパーズに宿る麒麟の加護が、ぼんやりと光り揺らめいている。


「戦いにおいて、心ってのは邪魔になりがちだ」


 カグムがこんなことを言ってくる。顔を上げると、彼は夜空を仰いでいた。


「敵に同情が芽生えれば、剣を振るう手が鈍る。命を奪えなくなった結果、自分がやられるってこともざらだ」


 強い兵士ほど、戦の間は心を鉄にするものだとカグム。一瞬の判断が大きな失態を呼びかねない。自分だけでなく、仲間や国が危機に陥るやもしれない。


 それゆえ、腕が立つ者ほど己の心を封じる。


 ユンジェは、それに当てはまるのかもしれない。お役を果たすために、本能が心を捨てるよう強いているのかもしれない。セイウと交わした儀で、それが顕著に出ているのだろう。


 視線を戻すカグムは、乱れているユンジェの髪を手で梳き、そのように指摘した。


「なら、カグムもそうなの? カグム、強いじゃん」


「そうだな……思うことはあるけど、割り切っているよ。俺には俺のやるべきがあるからな。それはきっと、ハオも同じだ。まあ、あいつはすぐ感情を表に出しちまうけどな」


 ハオは強いが兵士向きではない。あれはすぐ、人に情を移してしまう。それが彼の良いところでもあると、カグムは肩を竦めた。


「懐剣の所有者がピンインである限り、ユンジェは人間でいられるさ。心を忘れかけたら、ピンインがなんとかするだろうよ」


 そうなのだろうか。ユンジェは素直に言葉が受け止められずにいる。


「ピンインは、ユンジェの鞘になってくれるよ」


「俺の鞘?」


「お前はピンインの懐剣だ。向かってくる災いを、その刃で切り裂く。けど、刃ってのは常に剥き出しってわけじゃねーだろ? 俺の太極刀だって、使わない時は鞘に収めている。誰も傷付けないように、刃毀はこぼれしないようにな」


 同じようにきっと、ティエンもユンジェの鞘として守ってくれることだろう。

 心を忘れそうになったら、何度だって思い出せるよう手を尽くすはずだ。


 あれはもう、何もできないピンイン王子じゃない。物を考えて行動を起こす男ティエンなのだから。


 確かにユンジェは懐剣を抜く度に、常人離れした動きを見せる。凍てついた目で災いを切り裂き、所有者を守る。鬼となり、化生となる。


 その姿はカグムでさえ、少しばかり恐怖に感じる時がある。


 けれど。


「情けない顔で悩んでいるユンジェの姿を見ていると、年下のガキだって思える。今のお前なら、俺でも勝てそうだ」


「俺、不意打ち以外で、カグムを負かしたことないんだけど」


「ちゃっかりと『不意打ち』を付けてくれるなよ。悪ガキ」


 笑声を噛み殺すカグムにつられて笑い、ユンジェは両手に持っている懐剣を帯に差す。なんだか、気持ちが少しだけ軽くなった。悩みを打ち明けたからだろうか。


「それにしても、ユンジェはすごいな」


「すごい? 懐剣になったことが?」


「ははっ、違うよ。何が遭ってもピンインを責めず、信じて、守り抜く心を持っているところ。普通責めちまうもんだぜ? 故郷を失い、家を失い、王族の下僕になったらさ」


 それをしないユンジェは、とても強い男だとカグムは褒め、自分には到底真似できないと苦々しく笑った。


 故郷を失った時点で、ティエンをとても恨んでしまう。

 彼自身のせいではないと分かっていても、彼の取り巻く環境や身分、呪われた王子の異名から、責め立ててしまうとのこと。


 なんとなく、カグムの本心に触れている気分になったのは、なぜだろう。普段であれば、表裏ある顔で本音どころか、心すら見せてくれないというのに。


 もしかするとミンイという兵士を天へ見送ったことで、少しだけ気が弱っているやもしれない。そんな気がした。


 間を置いて、ユンジェは答えた。


「だって。あいつがいなくなったら、俺はまた独りになるから……ティエンを失うことを考えたら、そんなこと小さく思えるよ」


 ユンジェがティエンを守っているのは、彼だけのためじゃない。ユンジェのためでもある。


 カグムに褒められるような、綺麗な心は持ち合わせていないのだ。もう独りになりたくないから、全力でティエンを守る。


 ただ、それだけだ。


「ティエンはな。独りだった俺を救ってくれているんだ。町の大人達に理不尽な扱いを受けたら、いつも慰めてくれたし、畑仕事だって手伝ってくれた。ティエンは俺を不幸にしたと思っている節があるみたいだけど、俺はあいつに出逢えて幸せなんだ」


 だから恨む気持ちも、責める気持ちもない。

 それ以前に、ユンジェはティエンに救われているのだ。つらい孤独の日々に光をくれた彼を失いたくない。それがユンジェの正直な気持ちである。


「カグムはティエンの近衛兵に出逢ったこと、後悔している?」


 思い切って、カグムの心に踏み込んでみる。

 彼は困ったように眉を下げ、「いや」と、曖昧に返事した。後悔はないが、何か心に思うことがあるのだろう。ユンジェは相づちを打ち、それ以上の追究をやめた。


「ユンジェは聞かないんだな。俺とピンインのこと」


 気を利かせて打ち切ったのに、話が続いてしまう。困ったものだ。


「聞きたいことはいっぱいあるよ。二人がどんな風に仲良かったのか、とか。離宮ではどんな生活をしていたのか、とか」


「逆心のことは?」


 妙に意地の悪い質問をしてくる。こちらの心を探っているのだろうか。


「なんだよ。俺が聞いてカグム、話してくれるの? どうせはぐらかすだろう? お前、白々しく煽ったり、うそぶいたり、狡賢く振る舞ったりする、性格の悪い男だし」


「……黙って聞いていれば。やっぱり生意気な奴だな、お前」


「だって、そうだろう? ティエンにすら話さないのに、関係のない俺にカグムが話すわけがないじゃん」


 カグムがなぜ、ティエンを裏切ったのか。守るべき王子に刃を向けたのか、それはユンジェにも分からない。


 ただ、それのせいでティエンは強い怨みを抱き、カグムを憎んでいる。彼もそれを知り、わざとティエンを煽っている。


 結果、兵士不信のティエンは誰よりも、カグムに一切の信用を置かずに過ごしている。同じ立場にいる兵士のハオの方が、まだ不信の眼が柔らかい。


 ティエンとカグムのわだかまりは、色濃く残っている。


 とはいえ、ユンジェはカグムを嫌うティエンを軽蔑するようなことはしない。同じように、ティエンを煽るカグムを嫌悪することもない。それはそれとして見ている。


 思うことは一つ。これは仕方がない、それだけ。


「何かあれば、勿論、俺はティエンの味方をするよ。でも、カグムのことは嫌いじゃないんだ。ハオもそう。二人には良くしてもらっているしさ」


「俺達もユンジェを物扱い節があるのに?」


 噴き出してしまう。

 だったら今、こうしてカグムはユンジェを外衣に入れてくれはしないだろう。怪我を負った時とて、ハオはユンジェを助けてくれなかっただろう。


 カグムもハオも、ユンジェが懐剣だから助けたとか、手当てしたとか、そんなことを言うが、目を見ればそれが本心か、そうでないか、すぐに見抜ける。


「カグムやハオは悪い奴じゃないよ」


 物として見てきたセイウと違い、二人とも本当に優しい目をしているのだから。


 そう伝えると、カグムが面を食らい、見事に固まってしまう。


 けれども、すぐため息をついて、調子が狂うと愚痴を零した。照れるな照れるな、からかうと軽く頭を小突かれる。ユンジェは笑いを堪え、肩を震わせる。言い負かした気分だ。


「俺はティエンに会えて良かった。カグム達にだって会えて良かった。みんなに会えなきゃ、俺は足し引きもできない。読み書きもできない。国も何も知らない農民で終わっていたから。知らないって怖いな。旅に出て自分の無知が分かったよ」


 同意を求めると、「そうだな」と、カグムは相づちを打ってくれる。


「人は生まれる国を選べない。だからこそ自分の国はある程度、知っておくべきだ。その国の上に立つ王が、賢王なのか。愚王なのか、それを知るだけで国の見方が変わってくる」


 やや熱を入れて語ってくるカグムに、麟ノ国は嫌いか、と尋ねる。彼はあまり好きではないと答え、ユンジェに好きか、と聞き返した。


 正直なところ、分からないというのが本音だ。

 ここ最近になって国や王族を知り、五つの州を知り、広い土地を知ったユンジェにとって、好き嫌いの判断となる材料が少ない。


 ティエンの命を狙ってくるクンル王は嫌いだし、ユンジェを物扱いしてくる王族も好きではない。ティエンを王にしようとする天士ホウレイのことも、素性が把握できていないので、あまり好感が持てない。


 しかし。それが国の好き嫌いになるかというと微妙である。ユンジェはまだ国をよく知らないのだから。


「もしも。麟ノ国がひどい国だとしても、俺、仕方がないって受け入れて終わりそう」


 そういう生き方をしてきたので、大なり小なり理不尽な扱いを受けても、辛抱する選択をするだろう。農民の大半はそうして生きている。


「ユンジェ。俺達は生まれる国を選べない。けどな、国の上に立つ人間は選べるんだぞ。王が変われば、今よりずっと良い国になるかもしれない」


「じゃあ、カグムは国を好きになりたいから、王を変えようとしているの? だから悪いことだって知っていても、国に逆らっているの?」


 カグムが困ったように笑い、小さく肩を竦める。


「さあ。好きになるかどうかは分からない。ただ、今より良くしたい気持ちはあるよ」


「王さまって一人しかいないんだろう? そいつが変わるだけで、国が変わるの?」


「すごく変わるぞ。民の暮らしも、他国の関係も、政や戦の在り方も。天上したミンイも、クンル王でなければ大往生を迎えられたかもしれない」


 たった一人で、たくさんのことが変わってしまうらしい。ユンジェには想像もつかない。


「カグム。ティエンは王さまに相応しい? あいつ、国を亡ぼす呪われた王子なんだろ?」


「……そうだな。そう呼ばれているな」


「ティエン、呪いで国を亡ぼすかもよ」


「かもな」


「それでも、ティエンがいいの?」


「それがホウレイさまの御意思ならな」


 カグムはティエンに死んで欲しいと願っている男である。ホウレイの意思がなければ、彼はティエンとどう接していたのだろう。気になるところだ。


 そこでユンジェは彼に聞く。


「カグム。ティエンのこと嫌いか? よく喧嘩しているけど」


 重々しくため息をつき、「ティエンとは気が合わない」と、はっきり答えた。

 彼の中で線引きがあるらしく、今のティエンとはつま先も気が合わず、昔のピンインは可愛げがあったと返事した。好きか嫌いかで問われると、ティエンのことも、ピンインのことも、まあ嫌いではないと言う。


「王に相応しいかどうかについては……個人的に、今のままじゃ難しいと考えているよ。他の王族に比べると、優しく穏やかな性格だが、あいつには致命的な脆さがある」


「脆さ?」


「ああ。それを乗り越えない限り、王座に就いても、野心ある王族や貴族に食われちまうだろうな。脆さや優しさに浸け込まれたら一巻の終わりだ」


 それでも、あれが新しい麒麟を誕生させるのであれば、国を変えてくれるのであれば、カグムはティエンを王座に就かせるという。

 王位簒奪おういさんだつも、弑逆しぎゃくも、謀反も、それが悪と知りながら、国のために道を切り開くと彼は語った。


 ゆえに懐剣も利用するとのこと。


 ユンジェは笑う。その時はその時だ。今、悩んでも仕方がない。利用された時に、たくさん考えて、どうするか決めればいい。


「カグムはカグムの決めたことをやればいいんじゃないかな。俺は俺で、ティエンと頑張って夢を叶えるから」


「へえ。どんな夢だ」


「新しい家と畑を持って、ティエンと静かに楽しく暮らすこと。またあいつと、豆や芋を育てたいんだ。水田なんかも持ちたいや」


「ははっ。そりゃ平和な夢だな」


「羨ましいだろう? なんなら仲間に入れてあげてもいいよ。一から畑仕事を教えてやるし」


 小さく噴き出すカグムが、能天気な奴だと頭を軽く叩いてきた。いいではないか。追われる毎日より、ずっと楽しいと思う。そんな夢を見ても罰は当たらないだろう。


 草を踏み分ける音が聞こえた。

 振り返ると、不機嫌な顔でこちらを睨むハオがひとり。腕を組み、仁王立ちする彼は、二人してこんなところで何をしているのだと唸った。寝起きの顔は、凶悪さじみている。


「ガキ。さっさと戻れ。ティエンさまが、てめえの身を案じてらっしゃる。あの方はお前がいねぇとすぐに起きちまうってこと、忘れてるわけじゃねえよな?」


 どうやらティエンが目を覚ましたらしい。

 てっきり朝まで眠るものだと思っていたのだが、ユンジェのぬくもりが消えたことで、彼は目覚めてしまった模様。これは急いで戻らなければ。


 ユンジェはカグムの外衣から出ると一足先にたき火へ戻る。その際、振り返って、カグムに礼を告げた。


「聞いてくれてありがとうな。俺、やっと人間らしく眠れそう。おやすみ」


 走ってたき火に戻ると、ティエンが重たそうな頭を抱えて身を起こしていた。隣に腰を下ろすと、彼は安心したようにこわばっていた表情を溶かす。


「おかえり、ユンジェ。どこへ行っていたんだ?」


「小便だよ。ついでに、向こうの川が綺麗だったから、ちょっと散歩してた」


 さっさと外衣に潜ると、懐剣を頭の上において、小さな欠伸を噛み締める。早々に眠たくなってきた。


「起こしてくれたら良かったのに」


「ごめんごめん。でもお前、すごく疲れていたみたいだから、起こすのも気が引けてさ」


「構わないから、今度は遠慮なく声を掛けておくれ。私はとても心配したよ」


 連れ去られたのかと思った。

 真摯に気持ちを伝えてくる彼に一笑すると、自分はどこにも行かないと返事した。なんたってティエンの懐剣なのだから。


「ティエン寒い……眠い……さみぃ」


「ユンジェは本当に寒がりだな。夜に散歩なんてするからだぞ。ほら、もっと近くにおいで」


 そして、ティエンはユンジェの鞘になってくれることだろう。きっと、そう、きっと。




 ところかわり、依然カグムは岩の上で夜風に当たっていた。

 ユンジェが座っていたところに、ハオが胡坐を掻くので笑いそうになってしまう。妙に苛々している彼のかんばせが、どうしても面白くて仕方がない。


「盗み聞きをするなら、もう少し、上手くやれよ」


「うるせぇ。お前が先に動いたせいで、俺は王子のお守をする羽目になった。宥めるのに苦労しただろうが」


「起きたらユンジェがいない上に、至近距離に兵士がいる。あいつは取り乱しただろうな」


「すごかったよ。最近、おとなしくなったと思っていたが、あの方は本当に兵士が嫌いなんだな。今晩の王子は特にひどかった」


 容易に想像がつく。あれは兵士が近くにいると、本当に眠れない男だ。

 今はユンジェが隣に寝ているので、なんとか眠ることができているが、王子の兵士不信は伊達ではない。どんなに強気に振る舞っても、ふとした拍子に気丈が崩れてしまう。近衛兵らに奇襲を掛けられた傷の深さが窺えた。


 それだけ、王子は近衛兵に、カグムに信頼を寄せていたのだろう。


(ユンジェの存在がピンインを強くしている。一方で、脆くもしている。今のあいつは視野が狭い。そんなんじゃ王になんかなれやしねぇだろうな)


 ティエンに言えば、勝手なことを言ってくれるな、と毒づいてくることだろう。


「王子なりに、色々気にしているんじゃねーの? どっかの誰かさんのこと」


 ハオが鼻を鳴らし、盛大に舌打ちをする。


「そりゃ気になるだろうなぁ。ミンイって兵士の遺言を聞いたら。あーあ、だからこそ、あんなに取り乱したんだろうな。誰かさんが何も言わないから、色んなことを思い出したんだろうな。なのに、何も言わないなんざ、ずりぃ男だな」


「なんだハオ。嫌味か?」


「気にすんな。ただの暴言だ」


「なお、酷いじゃねえかよ」


 二人の間に冷たい夜風が吹き抜ける。

 簡単な旅だと思っていたのに、とても苦労するな、と話を振れば、大いに頷かれた。早いところお役を終えてしまいたい、とハオが苦言したので、カグムは川面に移る月に目を落とす。


「カグムやハオは悪い奴じゃない、か。ユンジェは人を見る目があるんだか、ないんだか」


「ねーよ。俺達を見間違えている時点で、人を見る目なんざ皆無だ」


 やけにムキになるハオには思うことがあるようだ。


「そうだな。だが、あの目を持っているからこそ、ピンインの懐剣になったんだと思う。恨みも憎しみも持たないなんざ……すごい奴だよ」


 昔、王子の懐剣を半分ほど抜いたことあるカグムには、到底できないことだ。

 あの頃は、いつか自分が懐剣になるのではないかと思っていたが、麒麟はカグムではなくユンジェを選んだ。それは正しい判断だと思える。カグムはユンジェのように、真っ直ぐな男はないのだから。


「同情するつもりはないが……ユンジェ、人間のままでいられるといいな。いくら懐剣とはいえ、心を失くすのはあんまりだろ」


 ハオは何も言わない。ただ宙を睨み、掻いた胡坐の上で頬杖をついている。


「いっそ、俺達もユンジェの夢に加担してみるか? 農民ってのも悪くなさそうだ」


「はあ? 冗談抜かせ。なんで、俺まで農民なんざしなきゃいけねーんだよ」


「畑仕事ってのも、楽しいかもしれねーだろ? ユンジェが一から教えてくれるらしいしな。四人仲良く朝から晩まで畑仕事ってのも悪くないと思うぜ」


「おまっ……この面子で暮らすつもりかよ。想像するだけで怖ぇんだけど」


 心底嫌がるハオは、くだらない夢だと足蹴にした。

 馬鹿にしているわけではない。ただ、くだらないと、叶わない夢だと言って否定する。現実的ではないと悪態をつく彼は、平和すぎる夢だと言って鼻を鳴らした。


「いいじゃないか。子どもの夢見ることだ。可愛げがあるよ」


「あんま、そういうの聞かせるんじゃねーよ。情が移る。俺はてめえと違って馬鹿なんだから」


 あくまで謀反兵としてお役をこなしたい。そう強く謳って、その場に寝そべるハオにカグムは苦笑し、「お前の良いところだよ」と返してやった。


 軽く目を閉じるハオは、前触れもなしに夢を口にする。


「俺もお前も、クソガキも、そして王子も、人間らしく天上できるといいな」


 それはとても現実的な夢だった。


「大人の見る夢は可愛げがねーよな。けど、賛同するよ。正直、ミンイが羨ましく思えた。あいつは最後の最期で人間らしく死ねたんだから」


 人間の心を取り戻し、誰かに見守れられながら死ねる。これ以上の幸せな死に方があるだろうか。

 カグムは天上した友人を想い、力なく笑う。とても羨ましいと思う、浅はかな自分がいた。

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