三.国は人を救わず


 ああ、なんてことだろう。

 五日掛けて町に到着したユンジェは、満目一杯に広がる光景に言葉を失ってしまう。


 そこは椿ノ油小町。

 名の通り、椿油を売りにしている町であった。とても小さな町であった。

 けれども、ひしめき合っている石造の家屋を見ると、それなりに人がいる所であった。『人』がいれば、きっと活気づいた町がお目に掛かれたのだろう。


「町が亡んでいる」


 亡んだ町を前にユンジェは、なんと感想を述べればいいのか分からなかった。


 その町はとてもくすんでいる。

 倒壊している家屋や、穴の開いた外壁。道に転がっている空樽に、車輪が取れた荷台。

 一軒の家屋に立つと、油にするための椿の種が奥まで散らばっている。それらを目に留めたせいで、町は灰色に見えた。人の気配はまるでない。


 カグムは地図を頭陀袋に仕舞い、頭からかぶっていた布を取って、町をぐるりと見渡す。


「亡んで、随分と時間が経っているようだな。賊の集団にでも襲われたのか、それとも運悪く、戦の場になってしまったのか。どんな理由にしろ、この町は人間から、そして国から見捨てられたようだな」


 復興の形跡がないと彼は目を細めた。


 ユンジェは、一軒の家屋を突き上げ戸から覗き込む。


 寝台の下で衣を着た人間が倒れていた。

 うつ伏せで倒れているそれは、足の不自由な老人だったのだろう。白髪と杖が見えた。ハエがたかっているので、事切れていることが窺える。


 軽く頭を小突かれた。振り返れば、ハオが顎で向こうをしゃくってくる。行くぞ、と態度で示してくる。その際、彼から注意を受けた。


「亡骸を見つけても、下手に近付くな。腐敗の進んでいる亡骸は、どんな菌を持っているか分からねえからな。見つけても、祈りを捧げるだけにしろ」


 やけに熱を入れて語られた。思うことがあるのだろう。ユンジェは小さく頷き、先を歩く大人達の後に続いた。


 亡んだ町には何も残っていなかった。

 家屋も、出店も、倒れている人間も空っぽであった。事切れる人間らを見掛ける度に、とても胸が締め付けられる。


 とりわけ、胸が痛くなったのは曲がり角の外壁前で事切れている子ども二人であった。

 兄妹だったのだろう。兄らしき子どもが、妹らしき子どもを抱き、それらは身を寄せ合って息を引き取っていた。


「さすがにつらいな」


 カグムの言う通り、本当につらい。妹の手には木の皮が握られている。

 かじった跡があるので、きっとこの兄妹は町が亡んでも、しばらく此処で生きていたのだろう。兄妹は飢え死にしたのだろうか。弱者の末路を目の当たりにした気分である。


「運がなかったんだな」


 ティエンが哀れみの気持ちを寄せた。ユンジェは同調しつつ、称賛するべきだ、と返事した。


「あいつらは、自分達の力だけで生きようとしたんだ。それはきっと、褒められることだと思う。俺なら褒められたいよ。身寄りがいなくても、頑張って生きようとしたんだから」


 二人で生きようとして、それでも生きられなかった。


 それは仕方がないことだろう。兄妹には生きるだけの力がなかった。力がないなら、死ぬしかないのだ。冷たい言い方かもしれないが、これが世の理だ。


「俺も運が悪かったら、お前達と同じ道を辿っていたのかな」


 近付くなと注意を受けていたにも関わらず、ユンジェは兄妹に歩むと、二人の前に干したジャグムの実を二つ供えた。


「俺は少しだけ、お前達が羨ましいよ。身寄りを失っても、死ぬまで独りにはならなかったんだから。独りのさみしさを味わわなくて良かったな」


 あれは本当につらいもの。それは天の上で食べて欲しい。

 言葉を残し、ユンジェは踵返して戻った。ティエンが無言で右の手を差し出してきたので、迷うことなく、その手を握った。


 それからしばらく、誰も口を開かなくなる。各々思うことはあれど、それを表に出すことはない。無言で椿ノ油小町を抜けるため出口を目指す。


「国が町を見捨てなかったら、ここはまだ生きていたのかな」


 前を歩くカグムとハオの背を見つめながら、ユンジェは重い口を開く。誰かに投げかけた疑問ではなかったのだが、それは前方を歩くカグムが答えてくれた。


「どうだろうな。国は人なんぞ救わないだろうからな」


「どういうこと? 国は人を救わないの?」


「少なくとも、俺はそう思っているよ。国は人を統制しても、それを救うことはしない。国にとって人は資材にしか過ぎないんだ」


 国は人びとによって支えられ、保たれている。

 多くの民を持てば持つほど、資材は増え、国は豊かになっていく。暮らしが楽になっていく。


 ゆえに国はたくさんの民を持ちたがる。力のある民には、それなりに報酬を与え、より国に貢献していくよう促す。


「その恩恵にあやかっているのが貴族や王族だな。平民より、良い暮らしを送っている」


 反対に力のない民は見切られることが多い。国はこう見解している。貧困に苦しむ者、弱い者達にお前達は怠慢な人間だと。


 とりわけ、それの対象になっているのが農民だ。


「怠けていないよ。農民はみんな必死こいて働いているよ」


「分かっているさ。でも国ってのは薄情なんだよ。国に都合の良い税とか、必要な兵力とか、国の問題に関しては積極的に声を掛けてくるくせに、民の問題になると、すぐに冷たくなる。仕舞いには自分達で何とかしろとか言い腐る」


 どうしようもないから、と国に頼ったところで、怠慢だの努力不足だの言い放つばかり。だから国は人を救わない。カグムは断言した。


「国が人のために何かするときは、人のためじゃなく、国のためだ。見捨てられた町は、国にとって、救済に値する資材にならなかったんだろう」


 ユンジェは悲しい気持ちになる。そんな基準で救うかどうかを決められるなんて。


「これが今の麟ノ国だ。王が変われば、国も変わってくるだろうが……クンル王の時代は希望が持てないと思うぜ。平民の多くがクンル王に不満を抱いているしな」


 そのために、麒麟の使いが今の時代に現れたのだろうか。


 セイウの言葉を思い出す。


 彼は言っていた。

 使いの出現は、新たな時代の兆し。それは時代を終わらせる者とも、流れを変えるための者とも、国を決壊させる者とも云われている。

 国を亡ぼすのか、それとも国を変えるのか、はたまた国を創るのか。それは選ばれた王族次第。


 麒麟の使いのユンジェはいずれ、次の王となる王族に仕えるだろう。 

 そして、その王族を王座に導くことになるだろう。黎明期に君臨する王。王の中の王となるそれを――黎明皇と呼ぶ。


 大それた話を思い返し、半信半疑になってしまう。あれは本当だろうか。


(けど俺、王座の導き方なんて分かんないぜ。仮にそれが本当の使命だとしても、ティエンを黎明皇にするわけにもいかないし。かといってセイウを王座に導くのは癪だし)


 隣を盗み見ると、見事にティエンと視線がぶつかった。

 慌てて逸らすも、「ユンジェ?」と、声を掛けてくる。まずい。こういう時の彼は本当に察しが良いので、ユンジェの気持ちをなんとなく察してくる。


「なんでもないよ」


 握ってくる手が強くなったので、ユンジェは心苦しくなる。追いつめられている気分だ。


 次の瞬間のこと。


 全身に強い衝撃が走り、動かしていた足が石のように固まってしまう。鼓動が高鳴った。嫌な汗が噴き出す。危うく、ティエンの手を握り潰しそうになった。


 来る。何かがこっちに来る。所有者に災いが降りかかる。


「カグム、ハオ。そっちは駄目だ!」


 その一声は亡んだ町に響き渡った。足を止めて振り返るカグムとハオに、三度駄目だと伝え、ティエンの手を引いて踵返す。

 本能が警鐘を鳴らしている。何が、何が来るのだ。王族の兵か。


「うそだろ。こっちからも何か来る」


 来た道を戻っていると、向こうからも嫌なものを感じた。たたらを踏み、体をつんのめらせるユンジェは、その災いの大きさと恐ろしさに、思わず後退してしまった。


「なんだ。向こうから来るあれ。前から来るやつよりも、すごく怖い。なによりっ、声が聞こえる。俺っ、誰かに呼ばれている」


 この感覚はそう、セイウの懐剣と似たものを感じる。ユンジェが悲鳴交じりの声を出したことで、周囲の表情が強張った。


 ハオが息を呑み、確認を取ってくる。


「お、おいおい。それってまさか。懐剣を持つ王族が近くにいるってことかよ。セイウさまか?」


「分からないよ。でも、すごく嫌な感じがする。陶ノ都の時と、とても似ているんだ」


 来た道を戻ることも、町を抜けるために向かっていた出入り口に向かうことも、ユンジェは嫌がった。


 両方選べないほど、どちらも危険だと訴えると、カグムが一つ頷き、こっちだと先導を切った。


 彼は石造りの家屋を観察し、比較的小さな家屋に目を付けると、無遠慮に戸を蹴り飛ばして中に入った。


 中は荒れ放題であったが、そんなことお構いなしに奥の部屋に入ると、カグムはユンジェとティエンを木窓の四隅に追いやった。


 そして。ユンジェを角に座らせ、その前にティエンを置く。


 ユンジェは驚いてしまった。

 位置が反対ではないだろうか。これではティエンを守れない。そう訴えるも、カグムは言うことを聞けと強く命じる。


「ユンジェが王族を討てないのは、セイウさまの一件で分かっている。もし、ここに来る相手がセイウさまだったら、下僕のお前は飛び出すかもしれない」


 次、ユンジェを奪われても、この人数では歯が立たないとカグム。

 最悪の事態を回避するため、所有者のティエンに壁となってもらうとのこと。


 ユンジェは反論したい気持ちを必死に嚥下する。正直、王族相手だと成す術がない。それで痛い目に遭っている。


 対照的にティエンは、納得している様子。深く布をかぶると、ユンジェの頭にも布をかぶらせ、肩に掛けている短弓を手に持った。


「お前を誰にも渡してなるものか。血は繋がってなくとも、私にとって、ユンジェはたった一人の兄弟。守り抜くよ」


「ティエン……」


じじさまの分まで、私が傍にいる。だから安心しなさい。ユンジェはもう独りにならないよ。今日も明日もこれからも、それこそ墓まで一緒にいるよ」


 あっけらかんと笑うティエンに面喰ったユンジェは、「俺より弱い癖に」と、口を尖らせてそっぽを向いてしまう。見え見えの照れ隠しであった。


 その隣でカグムとハオが、神妙な面持ちを作っている。


「カグム。今のティエンさまの言葉、訂正してやるべきじゃねーかな。すごいこと言っているぞ。墓まで一緒って……意味分かってるのか?」


「ティエンさまのあれは純粋なものだ。あの方は女性と接したことはあれど、恋慕とは無縁の生活を送られていたからな」


「いやでも、墓まで一緒って。無知のままにしておくのも、ちょっとまずいんじゃねえか? 麟ノ国の王子だぜ?」


「……はあっ、教えてやるべきかなぁ」


 墓まで一緒には、深い意味があるらしい。


 ユンジェにはその意味が分からなかったが、ティエンの気持ちは嬉しかったので、自分も墓まで一緒にいると返事しておいた。


 ティエンは大喜びで頷いたが、カグムとハオは始終、物言いたげな顔をしていた。聞かぬが花だろう。ユンジェは敢えて、何も触れなかった。



 かすかに音が聞こえてくる。

 亡びた町に響く音は馬の蹄であった。恐れる災いはもう近くまで迫っているのだろう。


 音を聞き、カグムとハオが木窓の両側について、片膝をついた。

 腰に差している剣に手を掛けつつも極力、身を隠してやり過ごすとのこと。


 狭い家屋を選んだのも、見つかりにくい点と、剣を思いきり振り回せない点があるためだとか。


 確かにユンジェ達のいる部屋は狭いので、槍や刃の長い剣を振り回すと、壁に当たって動きにくそうだ。


 ユンジェも懐剣の柄を握り、もしもの時に備える。少しずつ呼ぶ声も強くなった。声なき声がユンジェを求めているので、セイウの顔が脳裏に過ぎる。主君の彼だけは来てほしくない。


「ティエン。俺の名前、ユンジェで合っている?」


 不安になったので、ティエンに名前を確かめる。彼は優しい目で頷いた。


「ユンジェは、とても気品溢れた名だ。リーミンよりも、ずっと、ずっとな」


「そっか、なら良かった。ユンジェって名前は、死んだととかかが付けてくれてさ。顔も声も知らないから、名前を形見にしているんだ。笑うか?」


「ああ。微笑ましくて、ほっこりと笑ってしまうよ。形見なら大切にしないとな。忘れそうになったら、いつでも聞きなさい。その度にユンジェの名前を呼ぶから」


 それから、どれほど息を潜めていただろうか。

 身を強張らせ、その時を待っていると、雄叫びが聞こえてくる。


 やがて声は声を呼び、怒号がまじり、悲鳴と断末魔が加わる。家屋にいるにも関わらず、地響きを感じた。


 それだけではない。

 鼓膜を破るような、恐ろしい音がユンジェ達を襲う。その音と外の様子を見たハオが血相を変え、全員に伏せろと指示した。


 間もなく半開きの木窓の向こうから、凄まじい音が聞こえ、木窓から火花や石、木の破片が飛んでくる。

 頭を抱え、身を伏せていたユンジェは、その威力に息を呑みつつ、傍にいるティエンに声を掛ける。


「ティエン大丈夫か? 怪我していないか?」


 彼は何度も頷いた。


「私は大丈夫だ。しかし、恐ろしい音と風だったな。まるで、天の怒りに触れたような荒さを感じたよ」


 近くにいたカグムとハオに無事であるかを尋ねるも、二人から返事はない。その代わりに素早く身を起こして、外の様子を見ていた。負傷は逃れたようだ。


 ハオが力を込めて舌打ちを鳴らす。いつも寄せている眉間の皺が、一段と深く刻まれていた。


「今のは火薬筒かやくとうじゃねえか。くそっ、戦でも始まったのか? しかも、あの兵色は青州と白州の王族兵。なんで白州の兵が青州にいるんだ。また来るぞっ!」


 合図と共にユンジェとティエンは頭を下げ、カグムとハオは木窓から離れて伏せた。恐ろしい音が小さな家屋を見たし、そこを震わした。

 今まで火に囲まれたり、崖から落ちたり、色んな恐怖を味わってきたが、これはまったく新しい形の恐ろしさであった。


 廊下側から音が聞こえた。

 兵が入って来たのだろう。物を倒す音や、金属音のぶつかる音から判断するに、兵どもはこの家屋を戦う場にしたようだ。


 狭さなどお構いなしのようで、兵は扉を蹴破るや、そこへ逃げて体勢を立て直す。

 ユンジェ達に目もくれない兵は、すぐ後を追って来る兵と剣をぶつけ合い、死闘を繰り広げた。


「外に出ろっ! 巻き込まれるぞ!」


 カグムの一声により、ユンジェはみなと共に壊れた木窓から外へ出る。


 室内から悲鳴が聞こえた。

 振り返ると、利き手を切り落とされた人間の姿。血まみれになっても、なお残った手で剣を持っていた。

 己の死など顧みず、敵に突っ込んでいる姿から、あの兵は相討ちに持っていくつもりなのだろう。その姿が痛々しかった。


 外はきな臭かった。

 細かな砂埃が待っているので、なるべく布を深くかぶって目を守る。塀に身を隠して、敷地の外を窺うが、どこもかしこも兵士ばかりだ。


 四方から怒号が飛び交う。


「第一王子リャンテを討て。あれは我が捜索の兵らをつけ回した挙句、奇襲して壊滅させた。妨害をした。王族であろうと、問題を起こすものであれば斬って構わないとのことだ」


 八方から命令も飛び交う。


「リャンテさまを守り、青州の兵らを討て。第一王子リャンテさまに剣を向けるなど、無礼講にもほどがある。第二王子セイウの兵など恐れるべからず」


 大人達の顔色が強張る。第一王子リャンテがこの戦にいる、ということが、信じられないようだ。


「うそ、だろ。リャンテさまの噂は聞いていたが、まさか本当に自ら戦に出向く方だとは。ここ、青州だぜ? 不仲なセイウさまが任された土地だぜ? なのに、戦に身を投じるのかよ」


 なんて獰猛な王子だ。ハオが恐れおののく。


「さらにリャンテさまは、白州の兵に引けを取らない剣の腕前らしい。なんでも将軍並みだとか。鉢合わせたら厄介だぞ」


 カグムが小さく唸る。


「リャンテ兄上は、父クンル王の性格に酷似している。その気性の荒さは王族一とも言われ、王族内でも恐れられている。覚悟はしていたが、早く再会する日がくるなんて」


 ティエンの苦言が、火薬筒の破裂音によって掻き消された。近くでそれが使用されたのだろう。肌に空気の震えが伝わってくる。


 ここにいては、またいつ火薬筒が投げられるか分からない。


 かと言って、通りの広い場は混戦となっていることだろう。


 カグムは家屋の裏に回り、狭い道から別の家屋に移ると指示した。

 火薬筒が使用されている以上、無暗に外を出歩かない方が良い。下手すれば、破裂に巻き込まれ、深い火傷を負いかねないとのこと。


 先頭に回るカグムはハオに最後尾を任せ、細心の注意を払いながら塀伝いに別の家屋を目指す。

 その際、各々深く布をかぶって顔を隠した。兵士らに顔を見られては面倒事になる。


 ユンジェは二人のお荷物にならないよう、彼らの間を走りながら右の方向を見張っていた。左の方向はティエンが見張り、少しでもカグム達の目の代わりを果たす。


 今のところ異常はないが、向こうに見える光景は異常だった。

 兵同士が戦い、剣を突き合わせ、腕を、足を、首を落として、次の兵に向かっていく。倒れた兵を容赦なく踏み越え、新たな敵を討つ。絶え間なく聞こえる怒号、悲鳴、断末魔に苦しみ、うめき声。ああ、まさにここは地獄だ。


 ユンジェとて生きるために何人もの命を奪ってきたが、こんなに多くの苦しみや死を、かつて目にしたことがあっただろうか。


 狭い路を駆け抜ける。

 道すがら、どこからともなく放られた火薬筒が転がって来たので、前方を走るカグムが方向転換をした。


 狭い路でそれが爆ぜたせいか、硝煙が立ち込める。視界は悪くなるばかりだ。


 路から路に渡る時であった。広い路にいた数人の兵がユンジェ達の姿を捉え、持っていた槍の先端に火をつけるや、それを投げてくる。


 旅人に成り済ました刺客とでも思ったのだろう。


「避けろ、火槍兵かそうへいだ!」


 カグムが足を止めて振り返ってくるが、時すでに遅し。


 無数の槍が地面に突き刺さり、間もなくそれは槍ごと爆ぜた。火薬入りの竹筒がつけられた槍だったのだろう。

 さらにそれは発煙したので、視界が白煙で覆われてしまう。


 かろうじて槍を避けたユンジェが周りを見渡すと、どこもかしこも、白い煙で満たされていた。

 みなとはぐれてしまったようだ。

 微かにティエンの、カグムの、ハオの声が近くから、遠くから聞こえるが、火薬の音で掻き消されてしまう。


 分かることは一つ。各々みなを見失っている。


「ティエンっ、どこだ! ティエン!」


 ユンジェは焦った。

 カグムやハオは一人でもこの状況を乗り切られるだろうが、ティエンはそうもいかない。


 いくら弓の腕があっても、あの武器は遠距離戦を得意としているもの。近距離戦向きではない。剣で斬りつけられたら、彼は倒れてしまう。


(落ち着け。声が届かないなら、べつの物を利用すればいい)


 焦るな。自分に言い聞かせるものの、真後ろから剣のぶつかり合う音が、悲鳴が、断末魔が聞こえる。許されるなら、恐怖で叫び喚きたいもの。


(一か八か。届いてくれよ)


 ユンジェは頭陀袋から、鏡の破片を取り出すと、四方八方にそれをちらつかせた。

 これが鏡だと分かってくれたなら、鏡の光を返してくれるだろう。気付かなければ、ユンジェはとても危ない。これは仲間内にも届くが、敵にも届く。兵に目を付けられかねない。


 真横から槍が飛んできた。爆ぜるかもしれないので、ユンジェは急いでその場から逃げる。


 あちらこちらに鏡を向けていると、やや晴れてきた白煙の向こうで、鏡の光らしきものが二つ。

 目を凝らすと、それはティエンとハオであることが分かった。ユンジェの鏡の合図に気付いてくれたのだろう。


 ティエンの傍にハオがいることが分かり、ユンジェは胸を撫で下ろす。取りあえず一安心だ。

 否、その安心が絶望に変わる音を聞いた。


 本能が警鐘を鳴らしたことで、ユンジェは口に鏡の破片を銜えると、懐剣を抜き、常人離れした動きで彼らに迫る大きな黒い影へ向かっていく。


 それは所有者にとって色濃い災いであった。

 災いは馬に乗り、目につく兵を矛で串刺しにし、苦痛を上げている兵を馬で踏みつぶし、返り血を浴びて楽しげに笑っている者であった。

 誰かは残忍さに恐れ、誰かはその勇姿に喝采し、誰かは続けと鼓舞し、誰かは討てと言う。


「――さま。近くに馬の道を塞ぐ子どもがいます。落馬にはお気を付けて」


 騒音に乗って聞こえてくる、その一声に返事するように、「俺を誰だと思っている」と、白煙が切り裂かれた。それによって捉えることができる。

 臙脂(えんじ)の鎧を纏い、赤茶の髪を冑に収め、長く重たい矛を構えた男の姿を。


 男は目が良いのか、白煙の中にいるユンジェを見つけるや、邪魔だと言って矛を振り下ろす。子どもにすら慈悲の心を持たないようだ。


 しかし、災い相手に情けを掛けてもらわなくとも結構だ。

 ユンジェは風を切るように矛を避けると、馬よりも高く飛躍した。向かってくる矛に恐れることもなく、その懐剣で水平に突き刺し、渾身の力を込めた。


 結果、矛の刃が細かな破片となって砕け散る。


「なに?」


 地面に着地したユンジェは、馬の手綱を引き、獣の足を止める男を見上げる。

 血気盛んな眼と視線がぶつかり、体がこわばった。強い畏れを抱くことで、この男の正体を知る。


 ティエンやセイウと違い、男らしい広い肩幅と逞しい腕を持ちながらも、彼らと同じように眉目秀麗な面持ちを持つ、目前の男こそ二人の兄――麟ノ国第一王子リャンテ。


 男に畏れた体は、次なる衝動によって、嘘のように動いた。


 ユンジェは迫っていた兵の剣を懐剣で弾き飛ばし、左右にいる輩の槍を縦に割る。これより先に行こうとする兵は、誰であろうと懐剣を向けた。


 今のユンジェは風であった。小さな嵐の子でもあった。心ない懐剣でもあったし、化け物でもあった。人間を忘れ、所有者を守ることで頭がいっぱいとなった。



「ユンジェっ! どこにいる、ユンジェ!」



 白煙の向こうから、ティエンの呼びつける声が聞こえた。


 ユンジェは急いで戻る。

 鏡の光が確認できたので、そちらに足を向けると、細い路の前で身を屈めて、合図を送るカグムの姿を見つけた。後ろにはティエンとハオもいる。


「はあ。やっと来た。困った悪ガキだな」


「クソガキ、何やってんだよ」


 カグムの苦笑いや、ハオの悪態が遠く思える。なぜだろう。


「良かった。ユンジェ、無事か?」


 手を握ってくるティエンのぬくもりで、ユンジェはようやく心を取り戻した。

 それが怖くなる。これまで恐怖を感じなかっただけで済んだのに、今しがたの自分は心が空っぽであった。何も感じなかった。


 ユンジェは確信する。前より状態が酷くなっている。


(そんな……セイウと主従になったからか?)


 カグムがふたたび先導し、走り始めたので、後に続く。

 動揺している場合ではない。今は生き延びることだけを考えなければ。そして、ティエンを生かすことを考えなければ。


 混戦をくぐり抜け、ようやく新しい家屋に避難する。

 運が良いことに、そこは椿油を扱う所だったようで、家屋の中に地下貯蔵庫を見つけた。絞られた椿油をここで保管していたのだろうと。


 四人は道を塞ぐ空樽を退かし、階段を下ってそこに身を隠した。ここなら火薬筒が飛んで来ても、被害に遭わないだろう。

 火薬筒で家屋が倒壊したら、みんな仲良く生き埋めだが、暗いことは考えまい。


(リャンテに顔を見られたかな。俺が懐剣ってこと、ばれなきゃいいけど……)


 どうか戦が落ち着くまで、見つかりませんように。

 ユンジェは心から強く祈り、ぐっと息をひそめると、地上から聞こえる生死の音に耳を傾けた。





「あーあ。新調したばりの矛が、まさかもう折れちまうなんて。いや、砕けちまうなんて。さすがに初めてだぜ。武器を砕かれたのは」


 一部始終を目の当たりにした男、リャンテはお気に入りだった矛を投げ捨てる。

 代わりに、愛用の青龍刀を抜き、迫ってくる青州の兵を斬ると、馬の腹を蹴って戦へ戻る。


 そのかんばせは、たいへん嬉々としていた。


(あのガキ、顔こそ見えなかったが、血を恐れていなかった。戦を恐れていなかった。死を恐れていなかった。くくっ、セイウが必死こいて探すわけだ。ありゃ欲しくなるぜ)


 想像以上に面白く、好戦的な己には相性の良いものだと実感した。

 早いところ手にしたいものだが、まずは目前の戦を楽しんでからにしよう。そうしよう。


 白州でやろうものなら損害が出るので抑えなければならないが、ここ青州では好き勝手に出来る。多少のお咎めなど取るに足らないこと。


(お楽しみは後にとっておくさ。略奪ってのは時間を掛けた方がおもしれぇ)


 麟ノ国第一王子リャンテは、あの子どもが懐剣であることを、しかと見抜いている。

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