十八.心


 ティエンは険しい岩山の上で、昇る朝日を眺めていた。そのひざ元には疲弊した子どもが眠りについている。


 赤子のように腹を叩いても微動だにしないので、本当に疲れているのだろう。手を止める気にはなれなかった。


 背後では事切れている馬達を見下ろして、ため息をついている謀反兵達が話し合っている。

 それらは矢を受けて、致命傷を負っていたようだ。それでも麒麟と共に走ってくれたので、感謝してもし切れない。後で手厚く葬ってやらねば。


 幸い一頭は無事なようで、その馬を自分に託して欲しいと、ライソウが意見していた。


 どうやら、彼はひとり陶ノ都に戻り、合流予定の間諜らの下へ行くという。


 手を貸してくれた仲間が心配であることに加え、その者達と合流すれば、足となる馬を連れて来ることができる。一足先に青州の間諜らにだって、ピンイン王子のことを知らせることができる。


 ここは一つ、自分に任せて欲しいとのこと。


 簡単なように聞こえるが、それはたいへん危険な行為他ならない。引き返せば、セイウ率いる王族の兵に見つかるやもしれないのに。


 しかし。カグムは決断する。


「分かった。ライソウ、馬と仲間への知らせは頼んだぞ。俺達は身を隠しながら玄州に向かう。青州のどこかで落ち合おう。俺はお前の帰りを待っているからな」


 すると、シュントウも名乗り出た。

 ハオが先に名乗り出て、一緒に行くと言ったが、大切な王子の護衛は腕の立つ者がやるべきだと言って聞かない。


 結局、ハオが引きさがる形となる。

 本人は納得していないようだったが、カグムにまで引きさがるよう言われてしまえば、おとなしく引きさがるしかないだろう。


 ライソウとシュントウは、ティエンの前で片膝をつき、どうかご無事で、と言葉をおくった。

 自分が兵士不信だと分かっていながら、真摯に身の無事を祈ってくる。それが本音なのか、建前なのか、ティエンには分からないが、少しだけ心が動いた。


「ライソウ、シュントウ。貴方達に麒麟の加護がありますように」


 大層驚かれたが、これは別行動をする二人へおくる、ティエンの嘘偽りない気持ちであった。

 嫌々一緒に旅をしてきたものの、彼らと修羅場をくぐり抜けた時間があったことも確か。


 そのため、彼らの無事を祈る気持ちくらい寄せても良いと思えた。情が移ったのかもしれない。



 出発した二人を見送り、ティエンはふたたび、朝日に視線を戻した。太陽はもう、昇り切ろうとしている。


「ユンジェ。すまなかったな。私が無知だったばかりに、お前にまた要らん負担を掛けた」


 静かな寝息を立てる子どもから返事はない。

 いずれ子どもは目を覚ますだろう。ユンジェは、リーミンのままだろうか。それとも、元に戻っているだろうか。気になるところだ。


 大丈夫。ユンジェがリーミンと名乗っても、ティエンが思い出させてやればいい。そういう約束だ。


「このままではいけないな。とてもいけない」


 麒麟の使いをめぐる争いは、ティエンが想像していた以上であった。

 王族が欲する存在だと、なんとなく認識はしていたものの、ここまでとは思わなかった。


 欲深いセイウは言っていた。まこと懐剣のお役は、新たな時代の『王』を導くことだと。

 となれば、いずれ王位継承権を争うリャンテも参戦するだろう。


 セイウだけでも逃げることで一杯いっぱいだったのに、好戦的なリャンテまで相手だなんてとんでもない。兵を持たないティエンに勝ち目などない。ティエンはユンジェを守り切れないだろう。


(私は本当に無知だ。麒麟のことも、使いのことも、呪われた自分のことすらも)


 では、どうするか。決まっている。


「カグム。玄州までどれほど掛かる?」


 話を振られたカグムが、どのような表情をしているのかは分からない。ただ、声はしごく驚いた様子であった。


「最低でも、ひと月は見ておくべきかと。馬がないので、なんとも言えません。徒歩で州を渡ったことなどないので。質問の意図を尋ねても?」


「一刻も早く、天士ホウレイの下に行きたいと思ってな」


 それはティエンが自ら謀反兵達と行動を共にする、という意思表明に他ならなかった。


 天士ホウレイの下へ行けば、王位簒奪(おういさんだつ)だの、弑逆(しいぎゃく)だの、厄介なことに巻き込まれるのは目に見えている。


 ティエンは嫌々ながら王座に就かざるを得なくなる。


 懐剣のユンジェだって、ホウレイに取り上げられるやもしれない。


 それでも、いま一番希望が持てる道は、謀反を目論むホウレイの下へ行くことだ。天士なら知っているはずだ。麒麟のことや、麒麟の使いのこと、懐剣となった人間のことを。


 瑞獣の神託を受けることができる、天士であれば、この運命に抗う術を知っているやもしれない。セイウを討たずとも、ユンジェを下僕の鎖から解放してやれるやもしれない。


 ティエンは諦めない。子どもと生きる道を、決して。


「こちらとしては願ってもないことですが、ひとつだけ。ティエンさま、ユンジェに少々気持ちを入れ過ぎなところがありますよ。もし、それが折れたらどうするんです」


「お、おい。カグム」


 ハオが慌てたように、間に割って入るが、カグムは辛辣に言う。


 この先、そのような場面があるやもしれない。懐剣のユンジェが折れてしまうことも、過酷な旅ではあるやもしれない。

 しかし、それは懐剣のお役を持っている以上、致し方がないこと。気持ちを寄せることは構わないが、入れ込むと人は脆くなる。


 それを知っておくべきだと謳うカグムは、再三再四尋ねる。ユンジェが折れてしまったら、どうするのだと。


「貴様は不思議な質問をするんだな」


 振り返り、ティエンは柔らかな微笑みを浮かべた。

 その表情を目の当たりにしたカグムは、ただただ言葉を詰まらせる。ティエンの気持ちを察したのだろう。


「ピンイン。お前」


 ティエンではなくピンインと呼んでくるのは、敬語を崩してくるのは、一兵士としてではなく、一個人として接している証拠だろう。


 そんな彼に肩を竦め、ティエンは子どもの腹を軽く叩いた。


「いまの私はこの子を生かすことで、頭がいっぱいだ。先のことなんて考えていないよ」


 ユンジェを失う未来など考えたこともない。

 たとえ危機が迫ろうとも、回避しようと躍起になり、悪足掻きをするだけ。

 みんな、そうやって生きているものなのではないだろうか。怯えながら生きる毎日なんて、つらいだけだ。


 ティエンはユンジェの寝顔を見つめ、小さく頬を緩めた


「それはきっとユンジェも一緒だろう。この子も、私を生かすことで頭がいっぱいだ。先のことなんて考えていないだろうさ」


 お互いに静かに、平和に、そして幸せに暮らしたい。それだけしか考えていない。


「この子がいない日々なんて、私には想像もつかないよ」


 荒々しく頭を掻くカグムは、もう何も言わなかった。

 煽る言葉すら見つからないらしい。なんだか誇らしい気持ちになった。言い負かした気分だ。


 ユンジェの重たい瞼が持ち上がる。

 瞳を覗き込むと、それは何度も瞬きをして、掠れた声を出した。力なく口角を持ち上げ、笑みを浮かべる。



「ティエン。おれのこと、助けてくれたんだな」



 子どもはリーミンではなく、ユンジェであった。胸を撫で下ろす。良かった、正気に戻っているようだ。


 ありがとうを口にする子どもは、思い出すことができたと一笑して語り部となる。


「途中で訳が分からなくなったけど、ティエンが呼んでくれたから、おれ、思い出せたよ。自分のこと。不思議なんだ。セイウに呼ばれた時は、心が空っぽになったのにさ。お前が呼んでくれた時は、すごく心満たされた」


 相槌を打つと、ユンジェは少しだけ涙声になって呟く。


「俺、人間のままでいたいな。懐剣としてお前を守ることは怖くないけど、人間でなくなるのは、少しだけ怖いや。なんにも感じなくなるし、頭だって真っ白になるし」


「辛抱するなと、私は教えなかったか?」


「性格悪いぞティエン。ちぇっ、すごく嫌だよ。人間でなくなるの。本音を言えば、お前を守れるかどうかも、ちょっと怖い」


 素直でよろしい。

 いたずら気に笑うティエンを見上げ、ユンジェは目を細めて笑った。


「俺が自分を忘れそうになったら、また思い出させてよ。ティエンが呼んでくれたら、何度忘れても思い出せるから。俺が誰を守りたいのか、きっと思い出せるから」


 そんなのお安い御用だ。

 声が嗄れるまで、呼び続けたって構わない。それでユンジェが心を取り戻してくれるのなら、ティエンは声を潰しても呼び続けるつもりだ。


「ユンジェ。お前はユンジェだよ。私にティエンの名前をつけてくれた、農民のユンジェだ」


 この声が失っても、ずっと。ずっと。



 少し離れた岩場に移動したカグムはハオと共に、王子と懐剣を見守り、神妙な顔を作っていた。


 口から零れるのは、重々しいため息だ。

 ティエンが玄州に行く決意を固めてくれたことは、こちらとしては有り難い。隙を見て逃げ出す、なんて馬鹿な行為が減ってくれる。余計な仕事もなくていい。


 だが。


(ピンイン。お前はとても気丈夫になった。強くなった。けどその分、脆くもなった)


 良くも悪くも人間くさくなった。

 それに喜べばいいのか、嘆けばいいのか、正直カグムには分からない。


「懐剣のガキ、折らないようにしねーとな。あれじゃ後追いしかねないぞ」


「頼むから、それを言ってくれるな。俺は頭が痛い」


 薄々と気付いてはいたが、ティエンの弱点はあまりにも脆く致命的だ。


 彼の大部分は懐剣のユンジェが占めている。

 生い立ちを考えれば、仕方のないことだろう。分かっている。それに追い撃ちを掛けたのは自分だ。全部分かっている。


 それでも、あれはあまりに脆すぎる。


 ハオの言う通り、失えばきっと。


「懐剣ってのは、者であって物なんだな」


 頭の後ろで腕を組んだハオが、こんなことを言ってくる。視線を投げると、彼は天を見上げた。


「なんっつーのかな。物ってのは、持ち主によってすぐに壊れたり、反対に長持ちしたりするだろう? 懐剣も同じなのかなぁって思ってよ」


 ティエンとセイウの懐剣のはざまで揺れたユンジェは、持ち主によって心を持ったし、心を捨てた。

 それがなんだか、哀れでならないとハオ。

 自分の意思で心の有無を決められないなんて、麒麟の使いは本当に酷な運命を背負っているものだ。


「俺なら一日で音を上げそうだぜ。どんだけ辛抱強いんだよ、あのガキ」


 毒のない悪態をつくハオから目を逸らし、カグムも天を仰いだ。やや薄い雲のかかった青空が自分達を見下ろしている。


「ユンジェは俺と違って、最後まで守り通す強い心を持っている。だから、どんな目に遭っても、懐剣をやめないんだろうさ。ほんと、王族の近衛兵だった俺より強ぇよ。あのガキ」


 苦々しく笑うカグムは、羨ましい心の持ち主だと言って吐息をついた。ハオは何も言わず、ただ聞き手に回り、青い空を見つめている。彼なりの優しさなのだろう。


「国がどんなに変わろうと、空だけはいつも平和だなハオ。俺達の立つ地上は、こんなに荒れているのに」


 天は見守る地上を、どう見ているのだろう。





 麟ノ国を吹き抜ける風は噂を運び運んで、人びとの耳に届ける。


 南の紅州にて麟ノ国第三王子ピンインの懐剣に、麒麟の使いが宿った。

 同じく紅州にて麟ノ国第二王子セイウの懐剣を抜いた少年が現れた。されど、それは謀反兵らによって東の青州へ連れて行かれたと騒がれる。


 二人の王子の懐剣を抜いた少年は同じ者。


 西の白州を任されている麟ノ国第一王子リャンテは、噂を聞くや、早馬に竹簡を持たせると、返事を待たず三日後に、兵を率いて発ったそうだ。



 彼は東の青州、麟ノ国第二王子セイウの下へ向かったという。




(第二幕:遁走の紅州/了)

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