十七.骨肉相食む(弐)


 麻衣に袖を通したユンジェは、新しい頭陀袋に着ていた衣と道具を詰めると、間諜の案内の下、都の川に浮かぶ荷船に乗り込む。


 曰く、夜明け前に紅州と青州を繋ぐ関所を通ってしまうらしい。

 けれども通る所は、地上の関所ではなく、陶ノ都を流れている川を利用した関所だそうだ。


 それは青州まで流れており、荷船の通り道となっている。

 地上の関所と違い、監視の目が甘く、夜になると水門が閉じられ、誰もいなくなるそうだ。

 馬と違い、荷船は持つ者が限られてくる。ゆえに甘くなるのだろう。


 間諜達は通る荷船に合わせて、水門を瞬きの間、開けてくれるという。客亭襲撃の騒動で、王兵達も混乱している。川は通りやすいのだとか。


 しかし、それでは馬を失うことになるのでは? ユンジェの疑問に、カグムがこう答えてくれた。


「俺達が荷船で関所を通った後、商人になりすました間諜達が、地上から馬で関所を通る予定だ。このやり方なら、足を失わずに済む」


 なるほど。地上と川、両面から通ったのち、青州で合流して馬に乗るという寸法か。確かに、その方法なら足を失わずに済むだろう。


 森育ちのユンジェは、初めて乗る船に少々心を躍らせていた。

 身に迫る危険や恐怖は十二分に理解しているのだが、やっぱり初体験というものは好奇心が出てくるもの。

 物に乗って水の上に浮かべる、だなんて魅力的ではないか。


 小船ではあるものの、しっかりと水上に浮かぶ乗り物に飛び移り、その乗り心地を楽しむ。

 船が浮き沈みをしたり、左右に揺れたりするので、とても楽しい。


「こらこらユンジェ。遊んでないで、ちゃんと隠れろ」


 苦笑いするカグムに注意され、ユンジェはいそいそと荷を覆う布の下に潜った。

 荷はどれも塗料が詰まった樽や箱であった。荷船が進み始めると、それは小刻みに揺れる。外の景色が見られないのが、いたく残念に思う。


「ティエン? どうしたんだ」


 隣でティエンが身を小さくして口元を押さえている。気分でも悪いのか、と聞くと、彼は声を窄めて答えた。


「船は昔から苦手なんだ。三度目の経験だが、やはり揺れるな」


「ユンジェ。気にするな。体の弱いティエンさまは、船酔いしているだけだ。とてもか弱い方なんだよ。弱々しい方なんだよ」


 嫌味ったらしく鼻を鳴らすカグムは、先ほどの口論を引きずっているらしい。弱いを三回も繰り返していた。


 それを聞いたティエンは、ぎっと男を睨んだ後、ユンジェに船は必ず克服すると宣言した。弟を守れるくらいには、強い男になると意気込んでいる。


「強くなって、ユンジェのように不意打ちの上手い男になってみせるよ。力では勝てずとも、頭で勝ってみせる。相手の嫌なところを突き、打ちのめしてみせるよ」


「そうそう。弱い俺達の武器は不意打ちなんだから、そこを上手く使わないとな。卑怯は武器だぜ。もし、でかい図体の敵がいたら?」


「単体なら視界を奪って、背後から殴りかかる。急所の頭や頸椎を狙う。複数なら、ばらけさせる」


 両手を握って得意げな顔を作るティエンは、少しだけ気分が良くなったようだ。硬かった表情が緩んでいる。

 対照的に、聞き耳を立てているカグムとハオがしかめっ面を作っていた。彼らも船酔いをしたのだろうか?


「カグム。かの麟ノ国第三王子ピンインさまが、誤った方向に強くなろうとしているようなんだが……あれは止めなくていいのか? このままじゃ卑怯王子になっちまうぞ」


「それができたら、とっくに止めているよハオ。はあっ、ユンジェのせいで、日に日にピンインが悪ガキになっていく。頭いてぇな」


 二人の会話を耳にしたユンジェは、軽く舌を出して、白々しく視線を逸らした。自分は何も知らない。何も聞いていない。何も悪くない。


 暗い暗い川を進んでいくと、大きな鉄の格子に突き当たる。

 これが水門らしい。かたく閉ざされている鉄格子は、荷船の登場と共に、きりきりと音を立てて上がり始めた。

 見れば、水門の両側にある水車を、各々取っ手を二人がかりで掴んで回している。


 荷船が通ると急いで水門を閉め、松明を左右に振って合図を送っていた。なんの合図だろう。健闘を祈る、とでも伝えているのだろうか。


 水門を通ってしまうと、荷船は桟橋に寄る。もう降りてしまうようだ。


 ユンジェはもっと、荷船に乗っていたかったのだが、荷船で移動するのは、あくまで水門を通ってしまうまでの過程らしい。

 川で襲撃を受けたら、身動きが取れず、良い的になってしまうとのこと。


 そう言われてしまえば、降りざるを得ない。また船に乗る機会があれば良いな、とユンジェは思う。


 地上に足をつけると、そこはもう東の青州の地であった。

 不思議な気持ちになる。南の紅州と、大して変わりないのに、しかと境界線が引かれているのだから。


 船から降りると、カグムが急かすように指示する。


「この近くに岩場がある。夜はそこで明かす。行くぞ」


 先導する彼の目の前を、数本の火矢が通り過ぎる。みな言葉を失った。まさか。


 周囲を見渡すと、向かいの岸で王兵が弓を構えていた。燃え盛る矢を次から次へと放ち、逃げるユンジェ達の行く手を阻む。


 そんな、いくらなんでも見つかるのが早すぎる。

 息を呑むユンジェの傍で、カグムが舌を鳴らした。彼は向こうで指揮を取っている、近衛兵のチャオヤンを確認すると、面倒で嫌な奴が来たと奥歯を噛み締める。


「相変わらず、先の先まで読みやがって。チャオヤンめ」


 どうやらカグムはチャオヤンのことを知っているようだ。あれを相手にするのはごめんだと言って、みなに走れと号令を掛けた。


 火矢が雨あられのように降ってくる。

 それらは獲物の人間を当てるためではなく、暗い視界を照らすための明かり代わりであった。

 ゆえに無差別に矢が降ってくる。どこに降ってくるか、予測も立てられない。


 ユンジェは懐剣を抜くと、ティエンの後ろに回り、岩場まで走るよう彼の背を押して、降ってくる火矢を薙ぎ払う。

 大切な兄には傷ひとつ付けさせない。強い気持ちで、矢を叩き落としていると、向こうの岸から厳かで、凛々しく、透き通った声が命じてくる。



「リーミン、戻りなさい」



 ユンジェは畏れを抱いた。大きく目を見開き、逃げる足を止める。


 ゆるりと振り返れば、指揮を取っているチャオヤンの隣に、第二王子セイウが現れる。揺らぐ火矢の炎に照らされるかんばせは美しくも冷たい。その炎は、彼の身につけている麒麟の首飾りすら妖しく魅せる。


 セイウは不敵な笑みを浮かべた。


「私がいつ、傍を離れろと命じましたか? 戻りなさい。貴方はセイウの血を飲んだ者。服従を示した者。懐剣となった者ですよ」


 恍惚にセイウを見つめていたユンジェは、踵を返して岸の方へ向かう。


「まっ、待てクソガキ! そっちに行くな!」


 頭は真っ白であった。いや、頭は真っ赤であった。いや、真っ黒であった。思考は一色に染まっていた。何も考えられない。

 とにかく、戻らなければいけない気持ちに駆られた。


「セイウ――っ!」


 走るユンジェの真横を、鉄の鏃がついた矢が飛んでいく。

 それは岸を渡り、セイウの首に下げている麒麟の首飾りを射た。分厚い錫で出来た麒麟に弾かれ、矢は音を立て、地面に落ちる。


 目の当たりにしたユンジェは正気を取り戻し、慌てて足を止めた。チャオヤンや兵がどよめき、身の安否を確認する中、セイウは細い眉をつり上げる。


「久方ぶりに顔を合わせたと思ったら、早々に『骨肉の宣言』を頂戴するとは。あまりにも愚かですよ、ピンイン」


 王族に与えられる麒麟の首飾りを疵付ける行為は、持ち主に敵意を向けていると、態度で宣言しているようなもの。

 とりわけ親兄弟で行われることが多いので、その行為は『骨肉の宣言』と呼ばれている。


 ティエンはセイウに敵意があると、態度ではっきりと示したのだ。宣言した本人は、構えていた短弓を下ろし、口角を持ち上げた。


「これはたいへん失礼致しました、セイウ兄上さま。本当は、そのお美しい顔を射たかったのですが、手元が狂ったようで」


 あからさまにセイウを煽るティエンは、敵意を隠しもせず、「必ず亡ぼす」と吐き捨て、ユンジェに戻って来いと声音を張った。

 それに導かれ、ユンジェは彼の下に戻ると、岩場へ逃げ込む。


 しかし、セイウから離れるだけで心臓が鷲掴みにされていくような、そんな気持ちになった。怖い。恐ろしい。あの男に逆らうことが、とても。


 大きな岩の陰に身を隠してもそれは続いた。

 どうにか正気を保とうと、己の名を口にするが、それは『ユンジェ』ではなかった。何度繰り返しても、『リーミン』であった。それが恐ろしかった。


「俺はリーミン。違う、リーミン。あれ? リーミン……なんだっけ。俺ってなんだっけ」


「しっかりしろ。てめえは、クソガキのユンジェだろうが」


 ハオに言われ、そうだ、そうだよ、と返事する。


「そ、そう。リーミン。俺はリーミンだよね。リーミン。俺はリーミンだよ」


「クソガキ……くそっ。主従の儀ってのは、本気で名前を奪っていくもんなのかよ。さすがに、えげつねえぜ。これ」


 ユンジェの隣では、ティエンとカグムが口論をしている。


「なんでセイウさまを煽ったんだ。あれじゃ、本気を出せと言っているようなもんだ。もう少し考えろ。逃げられるもんも、逃げられなくなるだろうがっ」


「私は煽ろうとしたのではなく、兄上を討とうとしたんだっ。しかし、当たる寸前で不自然に軌道が変わってしまった。兄上の持つ、麒麟の加護のせいだ」


「どっちにしろ、厄介な結果を招いたじゃねえか。馬鹿野郎め」


「あれを討たなければ、ユンジェは解放されないんだ。私は何度だって試みる。口出しをしてくれるな」


 二人の言い合いはユンジェの悲鳴によって、終止符を打たれる。


「ティエン。どうしよう、俺、自分が分からなくなっていくよ。リーミンで合ってる? 合ってるよな?」


「ユンジェっ、お前はユンジェだぞ。気をしっかり持ってくれ」


 ティエンが両肩を掴んで身を抱くが、頭を抱えるユンジェ自身、もう自分が『ユンジェ』なのか、『リーミン』なのか、訳が分からなくなっていた。

 これまでユンジェは麒麟から呪われた王子を守れと、守り抜けと、守護の懐剣になれと使命を授かり、それを忠実にまっとうしてきた。背負う使命はひとつであった。


 なのに。


(頭がっ、がんがんする。血の杯を飲んだ時のような音が聞こえてくる)


 いま、ユンジェの中で、服従と使命がせめぎ合っている。

 本能がセイウに従えと命じてくる。一方で所有者のティエンを守れと命じてくる。

 双方が衝突し、強い混乱を生む。ユンジェはもう、何を信じれば良いのか分からない。自分すら信じられそうにない。


 岩場の向こうで、馬の蹄の音が聞こえた。騎馬兵が来たのだろう。闇夜に無数の赤い点が見え隠れし、それは速度を上げて近づいてくる。


「ちっ。もう来やがった。走れ」


 カグムの指示により、ユンジェはよろめく体に鞭を打つ。

 混乱した頭のまま、ティエンに腕を引かれ、岩陰から飛び出した。前方にはカグムが、後方にはハオが、左右にはライソウとシュントウが剣を抜いて走っている。


 馬が来る前に足場の険しい道を選ぼうとしたカグムだが、人間の足と馬の足、どちらが速いかなど、考える必要もないだろう。

 松明を持った騎馬兵が一行の姿を捉えるや、馬の腹を蹴って声音を張った。


「リーミンを捕らえろ! それまでピンイン王子に刃は向けるな。リーミンが暴れかねない。それがセイウさまの御命令だ」


 さすがセイウ。麒麟の使いの弱点を、しかと把握している。


 一頭の馬が騎馬兵の群を飛び出し、誰よりも早くカグムの前に回った。

 夜のとばりと一体になるような黒馬に跨り、直刀ちょくとうを抜く、その男はチャオヤンであった。向こうの川岸にいたはずなのに、もう追いついて来たのだ。


「久しぶりだな。カグムっ!」


「まったく。よりにもよって、なんでお前が来るんだよ。チャオヤンっ!」


 直刀と太極刀がぶつかり合う。

 馬の勢いに押され、後ろに飛躍するカグムをチャオヤンは鼻で笑うと、「返してもらおうか」と言って、頭を押さえるユンジェを一瞥する。


 その視線に気づいたティエンが、急いでユンジェを背後に隠すも、チャオヤンは命じた。


「戻ってきなさい、リーミン。セイウさまに逆らってはいけない。お前の中には、主君の血が宿っている。逆らえば逆らうほど、それは業になる」


 逆心は大罪だとチャオヤン。

 カグムを汚いようなものを見るような目で見ると、こんな男と同じになってはいけないと言う。その口調は厳かながらも、やや優しかった。

 たとえに出された男は放っておけ、と舌を鳴らして突き返す。


「切れ者のくせに、忠誠心は人三倍強い。相変わらずだな。チャオヤン。どんなに愚かな主君でも、お前ならその身が朽ちるまで守り抜くんだろうよ」


「それが近衛兵としてのお役だ。ピンイン王子に逆心を向けた、貴様とは違う。主君がどのようなお方でも、天が授けたお役は最後まで全うする」


 そう。たとえ、どのようなお方でも、だ。

 チャオヤンが強く感情を込めると、馬の腹を蹴ってカグムの脇をすり抜けた。猪突猛進に突っ込むので、固まっていたユンジェ達は散り散りとなった。


「しまった。ユンジェっ!」


 突然のことだったので、頭を押さえていたユンジェは横に逃げるティエンについていけず、身を伏せて回避するしかない。

 チャオヤンの狙いはそれだったようで、集まりをばらけさせると、馬を走らせたまま、身を起こしたユンジェに手を伸ばす。


「させるか。俺を舐めるなよ、チャオヤン!」


 地を蹴ったカグムが瞬く間に、ユンジェの前に滑り込むと太極刀を振るう。ふたたび直刀がぶつかるが、彼はそれを弾き、ユンジェの身を抱えて転がった。


「か、カグム。ごめん。俺がぼさっとしていたから」


 起き上がると、彼が片目を瞑ってくる。


「たまには、おとなしく守られてろ」


「えっ?」


「懐剣のお役ばっかり押し付けられちゃあ、お前も疲れるだろう。たまには、ただの十四のガキに戻ってろよ。人間、休息ってのも必要だぜ」


 人間であることを忘れてくれるな。


 優しい目で笑ってくるカグムが、ユンジェの背中を強く突き飛ばした。

 ティエンの下へ行けと大声を出す彼は、チャオヤンの足止めを買い、振り下ろされる直刀を太極刀で受け止める。


「お前の相手は俺だ。久々に一対一の手合わせを頼むぜ、チャオヤン。馬から降りろ」


「生憎、貴様の相手をしているほど暇ではない。リーミンはセイウさまの懐剣、返してもらうぞ」


 弾き合う刃の甲高い音に、ユンジェは戸惑い、カグムに加勢するべきかと思い悩む。

 しかし、答えを導き出す前に「走れ!」と、怒鳴られ、ユンジェは無我夢中で足を動かし、彼らから離れた。


 たくさんの蹄の音が近づいてくる。


 振り返れば、チャオヤンを素通りした騎馬兵らが、獲物であるユンジェを囲み始めているではないか。


 これでは向こうにいるティエンやハオ達の下に近付けない。

 寧ろ、騎馬兵から逃げれば逃げるほど、彼らから遠ざかってしまう。ティエンがこっちだと誘導してくれるが、どうしても距離が開いてしまう。馬の足は本当に速い。


「リーミンを疵つけるな。美しいまま捕らえろ。ひとつの疵も許されないぞ。あれは平民ではない。王族の私物であり、平民より高い身分の者だ」


 人を物のように言ってくれる。


(なにが平民より高い身分の者だよ。俺は農民だっつーの)


 捕まれば、今度こそ宮殿に飾られるに違いない。そんなの絶対にごめんだ。


(みんな、俺を追って来る。ティエン達なんて見向きもしない)


 いつもティエンを守ることに徹底していたユンジェなので、こんな事態は初めてであった。


 誰も彼もが自分を狙い、脅し程度に武器を向けてくる。見据えてくる無数の目は恐怖でしかない。


 ああ、常日頃から命を狙われているティエンは、このような恐ろしさを噛み締めていたのか。


(頭がっ、まだがんがんする。馬鹿みたいに、がんがんする)


 三頭の馬が前方の道を塞いだので、急いで踵返す。背後にも三頭の馬が構えていた。

 身を守るために懐剣を抜くが、麒麟の心魂は感じられない。


 当たり前だ。これはティエンを守るための懐剣であって、己の護身用ではない。


 懐剣の力が発揮されないユンジェなど、ただの十四の子どもである。王族の兵士相手に勝ち目などあるわけがない。


 前後に目を配り身構えるものの、距離を詰めて槍を投げる兵にすら気付けず、ユンジェの衣はその槍に貫かれた。


 袖が槍頭と共に地面に食い込み、その場に倒れる。

 慌てて袖を引くが、しかと食い込んで抜くことが叶わない。破ろうと躍起になる間にも、騎馬兵に囲まれた。


「ユンジェっ! 立てっ、走れ!」


 ティエンが己を救おうと短弓を放つ。ハオ達が走って来る。それも他の騎馬兵に阻止されて終わる。


 ユンジェが囲まれたことで、ピンイン王子を討てとの声が聞こえた。ユンジェの中で強い使命に駆られる。所有者を守らなければ。


「リーミン。主君の声を聞きなさい」


 冷たく美しい男が馬に乗り、騎馬兵に守られながらやって来る。彼は手綱を引き、馬の足を止めるとユンジェに命じた。


「お役を惑わせる心なんぞ捨てなさい。貴方に必要なのは、麒麟に授かった使命のみ。所有者と懐剣の関係を成立させたのは、誰なのか、思い出しなさい」


 強い服従がユンジェを支配していく。そうだ。セイウはユンジェの主君、決して逆らってはいけない存在。従わなければ。



(ま、守らないと。し、従わないと。ティエンを、セイウを。俺はどっちの懐剣なんだ)



 使命と服従。

 二つが強く衝突し合った時、ユンジェは頭を抱え、天に向かって咆哮した。


 喉から血が出る勢いで迸った声は夜空を裂き、割れ目を作って、天の上にいる瑞獣ずいじゅうを呼ぶ。


 ユンジェを軸に風が吹きすさぶので、囲んでいる馬が怯えを見せ、兵を乗せたまま走った。

 騒ぎ立てる風と、巻き起こる砂埃のせいで、岩場の石が転がった。高い所では岩が崩れる。その地は荒れていく。


 暴れる馬から降りたセイウは、頬を上気させ興奮する。


「おおっ。これはっ、もしや」


 少しでもユンジェに近付きたいティエンは、その光景に言葉を失う。


「くるっ。麒麟が、くるっ」


 天を見上げるユンジェは、袖を突き刺している槍を払い、降りてくる瑞獣の隣に立って懐剣を握り締める。

 この世とは思えない、美しい体毛を持った麒麟はこの場にいる者達の目にしかと映っているようで、人間らは畏れの声を漏らしていた。


 そんな麒麟と共に、ユンジェは走り出す。

 向かった先はティエンを囲もうとしている愚かな兵達の下。


 所有者を傷付けることは、懐剣であるユンジェが、なんびともたりとも許さない。


 馬に飛び乗ると、恐怖に引き攣る乗り手に冷笑し、懐剣を逆手に持って容赦なく首を斬りつける。


 返り血を浴びたところで、次の馬に飛び移り、顔面に向けてそれを突き刺した。


 落ちていく人間を一瞥することもなく麒麟の隣に戻ったユンジェは、ティエンの周りに兵がいなくてなっても、なお敵を探しては走る。


 大慌てでティエンがユンジェの体に縋り、もういいと訴えても、子どもは恍惚な眼を作り、口角を持ち上げて主張する。


「リーミンは所有者を守るために存在する者。次なる時代の王を導く者。懐剣となった者。そのお役を果たすため、下僕めは王の災いを払いましょう」


 ああ、でも困ったことに、目の前のピンイン王子は主君ではない。所有者なのに主君ではない。

 かといって、セイウは主君なのに所有者ではない。これでは懐剣としてお役を果たせない。


 そこでユンジェは、空っぽの心で尋ねた。まこと懐剣の主は、自分の主君は誰なのか、と。


「麒麟の使いリーミンは、その者に従いましょう。導きましょう。守りましょう。麒麟と共に」


 青褪めたティエンが、気をしっかり持つよう訴える。お前はリーミンではない。農民の子ユンジェだ。自分の家族であり弟だ。下僕ではない、と。


 だが、今のユンジェに意思などない。心もない。命じられるまま動く、ただの下僕であった。主君の命令にたいへん忠実であった。ゆえに心を捨てた懐剣と成り下がっていた。


 セイウの嘲笑が夜に響き渡る。


「弟! あははっ、弟! ピンイン、それを弟なんぞと、クダラナイもので縛っているのですか! だからリーミンは、まことのお役を果たすことも、真の力を発揮することもできないのですよ!」


 命じ、従え、王族の下僕にする。

 それが正しい麒麟の使いの在り方だと謳うセイウは、ユンジェを呼びつけた。


 己こそが主君だと言えば、子どもはそちらへ体を向ける。ティエンは必死にユンジェの体を押さえつけた。


「可哀想なリーミン。愚弟のせいで、お役の半分も果たせていないだなんて」


 セイウは言う。

 麒麟の使いは、『王族』の隷属であり懐剣。


 ティエンが心を持たせるばかりに、情に流され、それは所有者を守るだけに留まる。本来の麒麟の使いは『王族』を、新たな時代の王とするべく、王座に導く者だというのに。


 あまりにも哀れだ。

 お役を果たせず、守護の懐剣に留まらせるなど、宝の持ち腐れだ。


 なにより、心を持つ懐剣ほど醜いものはない。美と華を持たせるのであれば、懐剣の姿に飾ってやるべきだ。


「恐怖も、自分も、心も捨てた、懐剣のリーミンこそ美しい。それを服従できるだなんて、想像するだけで興奮すると思いませんか。呪われし麟ノ国第三王子ピンイン。我が愚弟」


 ティエンの腕から、麒麟の使いが飛び出す。

 隣を走る麒麟共々セイウの下へ向かう、あれらはきっと主君となるべき男に従おうとしているのだろう。


 脳裏に過ぎる敗北が、ティエンに大きな怒りと憎しみをもたらす。


 ふざけるなと思った。

 己は懐剣を抜いた子どもを、一度たりとも下僕にしたいと思ったことなど無い。一緒に生きたいと願った。それだけだ。


 懐剣を抜いたユンジェとて、自分に生きて欲しいから、それを抜いてくれたのに。


(王族の下僕になるために、あの子は懐剣となったわけじゃない)


 ああ、麒麟よ。なぜ、あの子に過酷な使命ばかりを追わせるのだ。そして、なぜ、自分を振り回すのだ。これすらも国のためなのか――だったら。


 短弓を構えたティエンは、新たに集まる兵になんぞ目もくれず、口から感情を迸らせる。



「聞け麒麟っ! 使いの者っ! 私が次の王となる者、この声を聞け!」



 その目を黄金色に光らせ、セイウに向かって矢を放つ。

 それは荒れ狂った風を呼び、闇夜を裂く道を作り、心手放そうとした麒麟の使いを目覚めさせる麒麟の声となった。


 矢は姿かたちを変え、幼き麒麟となるや、瞬く間にセイウの下へ届く。

 頭の鋭利ある角と一体になった鉄の鏃は第二王子の帯を突き抜け、彼の懐剣の鞘に直撃した。

 微かに聞こえたヒビ入る音を合図にティエンは、乗り手のいなくなった馬を指笛で呼ぶと、駆け寄って来たそれに跨り、馬の腹を蹴って走らせる。



「ユンジェ。お前はセイウの懐剣じゃない。ティエンの懐剣だ」



 足を止めて振り返るユンジェに手を伸ばす。

 おなごのように白い手を目にしたユンジェは、惹かれたようにその手を掴むと、足を動かしたまま馬と走った。

 華奢な腕が引き上げようとしてきたので、ユンジェから鞍を掴んで馬に飛び乗る。


「貴様らも馬に乗れ! 乗れ!」


 ティエンが指笛を鳴らすことで、乗り手を失った馬達が謀反兵らに駆け寄る。それを止めようとおおゆみを構えた兵が馬に矢を放つが、もろともしなかった。


 隣を走る麒麟に目を向ける。恨みつらみを投げたい気持ちで一杯になったが、それを嚥下すると、瑞獣に願った。


(――どうか、我らを風と共に運びたまえ。兄セイウの手の届かない地まで、我らを運びたまえ)


 手数の多いセイウに、今の自分達が真っ向勝負をしても敵うはずがない。だから欲深い兄の魔の手が届かないところまで、どうか風と共に。


(いずれ討つ。セイウを討って、ユンジェに繋がれた下僕の鎖を断ってやる)


 その時を覚悟しておけ。ティエンは強い気持ちを抱いて、馬の手綱を握り締めた。





「おやおや残念。あと一歩のところだったというのに」


 夜のとばりに身を隠し、風と共に去ってしまった愚弟達を見逃したセイウは肩を竦め、帯にたばさんでいた懐剣を鞘ごと抜く。

 麒麟の加護が宿った黄玉トパーズにヒビが入っている。先ほど放たれた矢の鏃が、これに直撃したせいだろう。


 血相を変えて駆け寄って来るチャオヤンを尻目に、セイウは美しい黄玉トパーズが醜くなってしまったと鼻を鳴らす。


「骨肉の宣言を受けた上に、大切な黄玉トパーズまで醜くされるとは。ピンインめ、やってくれますね」


 次会ったら、八つ裂きにした上で、生きたまま畜生の餌にでもしてやらねば気が済まない。このヒビは直るだろうか、セイウは眉間に皺を寄せる。


(ピンインの放った矢。一瞬、麒麟に見えたような……気のせいか?)


 まあ。不快なことばかりでもなかった。黄玉トパーズを軽く舐めると、セイウは冷たい笑みを深める。


「リーミンは私を主君として見ている。主従の関係は成立している。あれは私の血を宿し、下僕としてお役を果たそうとしていた。ふふっ、健気な子ですねぇ。嫌いじゃないですよ、ああいうの」


 それを知れただけでも収穫だろう。


「愚弟の呪縛により、あれは懐剣となり切れていない。なんと哀れな。私が解放してやらねばなりませんね」


 そして、次こそセイウの懐剣を持たせるのだ。

 己の懐剣を持った、リーミンはきっと、どの剣よりも美しく、気高く、興奮する姿を見せるのだろう。


 国の誰も持っていない懐剣を持てるだなんて、これほど欲求が満たされることはない。


「黎明皇となるのは私か、ピンインか。それとも、噂を聞きつけるであろうリャンテか。はたまた、謀反を恐れている父上なのか。さて、天は誰を選ぶのでしょうね」


 けれどそんなことより、新たな時代の王を導く、麒麟の使いを早く宮殿に飾りたい。セイウは歪んだ欲を惜しみなく表に出し、チャオヤンと兵達に言い放った。


「どんな手を使ってでも、リーミンを探しなさい。ここ東の青州、麟ノ国第二王子セイウが任されている地。どの土地よりも捕まえやすいのですから」


 決して、他の土地に行かせてはならない。あれは誰にも渡さない。第三王子ピンインにも、第一王子リャンテにも、父にだって渡してなるものか。

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