十四.黎明皇


 ユンジェの身柄は日の出と共に、東の青州へ移されるそうだ。


 どうやらセイウは、一刻も早く懐剣を宮殿に飾りたいようで、出発の時間を早めるよう近衛兵のチャオヤンに命じていた。

 第三王子ピンインの捜索は、兵を残して続行する模様。ピンインの首より、懐剣に気持ちが傾いているのだろう。


 制限時間が定まった今、ユンジェは一刻も早く逃げ出す隙を見つけなければいけない。


(俺はまだ、正式な懐剣になったわけじゃない。逃げられるはずだ)


 服従を示したユンジェは、宣言こそしたものの、まだ正式なセイウの懐剣ではない。鞘か完全に抜いて、それはまことのものと思っている。

 ゆえにユンジェとセイウの関係は、ティエンとユンジェの関係に比べて薄く、いざとなったら後者の所有者のために走れるとユンジェは考えていた。


 王族のセイウに剣こそ向けられないものの、きっと逃げ出すことくらいできるだろう。


(そのためにもまずは……この状況を乗り切らないと。もう勘弁してくれよ。服従を示すより、こっちの方がよっぽど地獄で屈辱的なんだけど)


 ユンジェは疲労まじりのため息をついた。周りを見ては気が滅入っていた。

 原因は従僕と侍女にある。夕餉が始まってから、これらがぴったりと張り付いて離れてくれないのだ。


 それだけなら、落ち着かないの一言で済ませられるのだが。


 ユンジェは遠い目で目前の料理を見つめた。そこには沢山の皿。織金の上に所狭しと置かれている。一週間分はあるのではないだろうか、この食事の量。


 魚の切り身の咀嚼を終えて、お茶の入った器で喉を潤すと、傍にいた侍女が頃合いを見計らって、レンゲを口元に運んでくる。そこには白粥が掬われていた。


 げんなりと肩を落とすと、他の侍女と入れ替わって、半分に割った焼売を箸で差し出してくる。後ろでは従僕達が果実茶を淹れていた。すごく忙しない。


(自分の手で食べたい)


 ユンジェはひとりで食べられる手を持っているのだが、大人達はなぜか、箸を持つことを許してくれない。

 箸を取ると「はしたない」と窘め、取り上げられてしまった。ゆえに、ユンジェに許される唯一の行為は、自分でお茶を飲む。それだけ。


(俺は赤子じゃねーんだぞ)


 湯殿でも散々な目に遭ったというのに、夕餉でもこの仕打ち。


 追い撃ちを掛けたのは、今しがた行った便所である。


 なんと、従僕達がついて来たのだ。ユンジェはひとりで用を足すことすら許されないというのだろうか。

 それとも、これが王族の常識? どちらにしろ、農民のユンジェにとって、ここは地獄であった。


 あまりにもつらいので、ユンジェは平民である身分を告げ、世話を焼かれるような身分ではないと言った。遠回しに放っておいてくれ、と頼んだ。


 返ってきたのは、明るい言葉であった。


「リーミン。確かに貴方の身分は平民でしょう。しかしながら、セイウさまの懐剣である以上、我らより高い身分にいる。どうぞ安心して下さい」


 この返事に泣かなかったユンジェは、自分をとても強い人間だと褒めたくなる。ああ、身分を弁えろと言ってきた、謀反兵達の方が、ずっと優しいと思える。ユンジェは心の中で嘆いた。クソガキだと罵られていた、あの時間が恋しい。


 隣を一瞥すると、真横でセイウが酒を口元に運んでいた。

 至近距離にいるので、下手な行動は取れない。男は大層ご機嫌になっているが、酔い痴れているわけではない。

 時折、ユンジェを観察して細く笑ってくる。目論見を抱えているのは一目瞭然である。肚の黒い男だ。


 目が合う度に、へらりと馬鹿っぽく笑みは返しているが、はてさて先に食われるのはどっちか。


(やりにくい相手だな。浮かれているくせに、冷静な目を持っているんだから)


 横から手が伸びてきた。目を向けると、髪を触られる。


「リーミン。とても美しくない髪ですよ。なぜ、短くしているのです」


 そういえば、王族は髪を伸ばし、それを大切にする風習があるとティエンが言っていたっけ。ユンジェは思い出に浸りつつ、簡単に返事した。


「お金にしたからです。食べるものに困っていたので」


「愚かですね」


 なぜ、そうなる。この男はユンジェに飢え死にしろというのか。


「人間の髪は麒麟がたてがみを切り、与えたものだと云われているのに。リーミン、私の許可なしに切ってはなりませんよ。美しくないものは手元に置きたくないので」


 いっそ手放してくれないだろうか。

 飾られるより、ずっとマシな生活ができそうだ。泥でも浴びて汚れてやろうか。ユンジェは内心、めいっぱい毒を吐き、表向きは素直に頷いた。


(……さっきから気になってたけど、妙にぴかぴかだな。この皿。鏡か?)


 セイウの目を気にしつつ、ユンジェは、豚肉が盛られている皿を自分の方へ引き寄せた。侍女に叱られたが、どうしても好奇心が抑えられない。つい皿の裏側を確認してしまう。


「リーミン。それは銀で出来た皿です。王族はみな、これで食事をします。なぜだと思います?」


 ユンジェは銀の皿をじっと見つめる。

 単に美しいから、という理由だけなら、セイウはこんな質問を投げないだろう。きっと理由があって、銀を使用しているのだ。

 周りをよく見渡せば、皿だけでなく、箸も銀であることに気づいた。となれば、銀でなければならない理由があるのだろう。


「口に入れる食べ物に腐ったものがないかどうか、銀で調べる? いやでも、王族は金持ちだし、腐ったものなんてまず買いそうになさそう……うーん」


「おや、良い線をいってますね。意外と頭は回る子でしょうか」


 意外は余計である。ユンジェは鼻を鳴らしたくなった。


「銀の食器にしている理由は、料理に毒が入っていないかどうか確認するためです。入っていれば、皿は変色します」


「毒が入っていることがあるのですか?」


「王族の間で暗殺は日常茶飯事のこと。この身分を狙い、従者に化けた間諜が毒を忍ばせることも多々あります。今いる者達の中に、毒を入れる者もいるやもしれません」


 不敵に笑うセイウと視線を合わせないよう、兵士や従者達が顔を背けた。王族に関しては、まるで知識がないので、ユンジェはつい相槌を打ってしまう。


「念のため、料理に毒が入っていないかどうか、毒見役もいるのですよ。食器だけですべてを見抜けると思いませんからね」


「じゃあ、その毒見の人が一番偉い存在なんですね」


「偉い?」


「だって毒見をする人が、良しといえば、その料理はセイウさまの口に運ばれるわけでしょう? それはとても責任があり、偉い存在に俺は思えます」


 下手をすれば、毒見役が料理を食べる振りをして、毒を仕込むことだってできるのだ。そう思うと、やはり毒見役は偉いのだろう。ユンジェはしみじみ頷く。

 すると、セイウは一思案し、近くにいる近衛兵のチャオヤンに命じた。


「後ほど毒見役の者達を集め、それの形態を私に伝えなさい。場合によっては、毒見役に付ける兵の数を増やします」


 心配事があるのだろうか。

 ユンジェは二人のやり取りを眺めていたが、ふとセイウの帯に目を向ける。そこには懐剣が差さっていた。まだ、ユンジェはそれを授かっていない。それを見る度、なんとなく呼ばれている気がする。


「気になりますか?」


 探りを含んだ問いに、ユンジェは少し唸って首を傾げた。


「俺はこの都に着いた時から、いや着く前から、懐剣に呼ばれていました。それが、よく分からなくて。なんでだろうと思って。すでに別の方の懐剣でしたから」


 これは純粋な疑問であった。

 なぜ、ティエンの懐剣であるユンジェは、セイウの懐剣に呼ばれたのだろう。麒麟は己に、ティエンの守護剣となれと命じたのに。


「それは貴方が麒麟の使いだからですよ。リーミン、貴方は己の役目が何なのか知っていますか?」


「えっ。いや、所有者を守護して生かすため、としか」


 ティエンは言っていた。

 王族の所有する懐剣を抜いた者が、麒麟の使いとなり、所有者に関わる使命を背負う、と。

 ユンジェは麒麟にティエンの守護を任されたので、こんにちまで懐剣を抜いていた。それに迷いはなく、彼を生かすためなら業も背負った。


 正直に話すと、セイウは「無知は罪ですね」と言って冷笑する。少しだけ、眉を顰めてしまった。ティエンの悪口は聞きたくないのだが。


「麒麟の使いが何たるのか、まったく分かっていない。なんて、愚かな。宝の持ち腐れとはまさにこのことでしょう」


 セイウが懐剣を静かに抜くと、それを垂直に立て、光り輝く刃を見つめた。


「麒麟の角を磨き上げ、刃にした麟ノ懐剣は、麟ノ国王族にしか抜けないもの。加護の宿った懐剣は、我らに国を守護する使命と地位を与える。我らは国のために生涯を捧げる」


 それが、王族の定められた一生だとセイウ。


「しかしながら、麒麟はある時代に、王族と無関係な使いを寄越します。そう、リーミン。貴方のようにね」


 使いの出現は、新たな時代の兆し。それは時代を終わらせる者とも、流れを変えるための者とも、国を決壊させる者とも云われている。


 なぜか。麒麟の使いを持った王族こそ、国の命運を分ける者だからだ。

 国を亡ぼすのか、それとも国を変えるのか、はたまた国を創るのか。それは選ばれた王族次第。


 また麒麟の使いは王族の隷属。

 その王族に仕え、身を挺して守り抜く。それを新たな時代の王とするために。その者を王座に導くために。今の時代を壊すため。


「使いに導かれた王は、黎明期の王として君臨します。我々王族の間では、麒麟と使いの者に見定められた、王の中の王と敬意を表し『黎明皇れいめいおう』と呼んでいます」


 セイウは呆けるユンジェに、目を細めて笑う。


「リーミン。私が貴方に『黎明リーミン』と名づけたのは、そういう意味合いがあるからなんですよ。貴方の使命は、単に所有者を守るためではない。生かすためでもない。新たな時代の王を導くために、存在している」


 一般的には懐剣を抜いた者は、所有者に関わる使命を持つ、と云われているが、真の姿は黎明期の王を導く者だ。


 ちなみに、これは正当な王族のみが知っている伝承。

 離宮に幽閉されていた愚弟が知らないのも無理はない。黎明皇のことなど、あれが知ったところで、王になれるわけがない。教えたところで時間の無駄だ。


「まあ、実際は愚弟の懐剣に使いが宿ってしまった。こればかりは、私でも理解しかねます」


 そんな。ユンジェは途方に暮れてしまう。


 では、自分が今までティエンを生かそうと身を挺したのは、彼を王とするため? 使命に駆られて走っていたのは、彼を王座に導くため? ティエンが王座を拒んでいることは、誰よりユンジェが知っているのに。


「うそだ。俺は王族も何も知らない農民だよ。王座に導くなんて、そんなの……」


 敬語も使えないほど混乱するユンジェに、「本題です」と言って、セイウが垂直に持っていた懐剣の切っ先をこちらに向ける。


「貴方は愚弟の懐剣を抜いた者。その一方で、私の懐剣に導かれている。その答えはひとつ。私にも王の器があるからです。貴方は本能的に、迷っているのではないでしょうか? 守るべき所有者を」


 そんなわけがない。ユンジェはティエンを精一杯守りたい。少なくとも、性格の悪いセイウよりかはティエンの方がずっとずっと良い。


「貴方は新たな時代の王を導く者。その使命は生涯を懸けても、果たしたいはずです」


「わ、分からないよ。俺は今まで守ることで一杯いっぱいで」


「人間でいようとするから、分からないのです。リーミン、貴方は懐剣。心は捨てなさい。人間のリーミンはとても美しくない」


 セイウが欲に駆られたのは、懐剣として振る舞うユンジェである。

 恐れも痛みも人間も忘れ、目の前の兵を向かっていく姿は、とても美しく、気高く、興奮する。あれは何度も拝みたい。毎日見たって、きっと飽きることなどないだろう。


 セイウは繰り返す。目を白黒にするユンジェに向かって、人間の己は捨てろ、と。


「懐剣が心を持てば、主君を守れない。それは分かっているでしょう? 捨てなさい。人間の己を。さすれば、貴方の真の使命も見えてくるはずですよ」


「真の使命……」


「その様子だと、ピンインとの関係も成立させていないのでしょうね。いや、あれが成立させるやり方など知るはずもない、か」


 近衛兵のチャオヤンを呼び付けるセイウは、彼に耳打ちをして、何かを指示する。チャオヤンは早足で銀の盆を持ってきた。その上には、金の杯がのっている。


「まこと所有者と懐剣の関係を成立させるには、三つの主従の儀が必要です」


 そう言ってセイウは懐剣を鞘に収めると、ユンジェの前に置いた。


「さあ、リーミン。まずは懐剣を抜きなさい」


 主従の儀一つめは、選ばれた使いが所有者の懐剣を抜くこと。

 ユンジェは逆らえず、それから鞘をすべて抜いた。あっさりと抜けたので、思わず偽物ではないか、と疑ってしまう。


「次の儀は、すでに先ほど終えました」


 主従の儀二つめは使いが服従を示すこと。


「最後がこれ」


 セイウが懐剣をユンジェの手から取り上げると、右の人差し指に切っ先を当て、小さな傷を作る。

 ぷっくりとにじみ出てきた血を確認し、彼は金の杯に三滴、血を落とした。


「三つめは所有者が使いに血の杯を与えること。これにより、主従の関係が成立します」


 杯を手渡され、ユンジェは身を震わせた。これを飲んでしまえば、セイウとの関係が成り立ってしまう。飲んでしまえば、自分はどうなってしまうのだろう。


 ユンジェは逃げ出したくなった。本能が警鐘を鳴らしている。これはとても、とても、まずい。


 杯を手放そうとすると、背後に立っていたチャオヤンによって止められる。


 彼は有無言わさず、「逆らってはいけない」と、ユンジェを咎めた。服従を示したからには、それ相応の態度を見せろとのこと。反論したい。あんなもの建前に決まっているではないか。


 恐る恐る杯の中を覗き込む。透明な液体の中に、うっすらと赤い筋が浮かんでいた。

 こんなものを飲んだら腹を壊しそうだ。嫌悪感が全身をめぐる。いくら好き嫌いのないユンジェでも、こればかりは飲めそうにない。


 人の苦悩を楽しげに見守っているセイウが軽く指を鳴らす。悲鳴が聞こえた。前を向くと、ひとりの若い侍女が引き倒され、兵に柳葉刀りゅうようとうを向けられていた。


「血の杯を飲むリーミンのために、華やかな芸を見せるのも一興でしょうか」


 ひえ。柳葉刀を見た侍女が青ざめた顔で、ユンジェに助けを求めてくる。何から何まで腹立たしい男だ。血の杯を飲ませながら、血を見せる芸など、悪趣味にも程がある。


 ユンジェは杯を握り締めると、セイウに芸を止めてくれるよう懇願した。彼は誠意を見せたら止めると言ったので、急いで杯に口をつける。


 初めて酒は、喉や食道を焼き、思わずむせ返りそうになった。

 それをぐっと堪え、一滴残らず飲み干すと、空であることを示すために杯を逆さにして置いた。それによって侍女に向けられていた柳葉刀りゅうようとうが鞘に収められる。


「これで私とリーミンの関係が成立しました。あとは、リーミンから愚弟の懐剣を手放させるだけ」


 麒麟の使いはひとつの懐剣しか持つことができない。あれを討たねば、己の懐剣を持たせられない。セイウは兵達に一刻も早く、第三王子ピンインを探し出すよう命じた。


「ふふっ。気分はどうです? リーミン」


 最悪だと悪態をついてやりたいが、それすら答えることが難しい。

 ユンジェは激しくむせていた。己の中で何かが荒れ狂っている。がんがん、がんがん、と音を立てている。これは一体。


「音が聞こえる。がんがん、がんがんって。なに、これ。これはなに」


 何も分からず、ただただ頭を抱えて蹲ってしまった。

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