十五.ユンジェとリーミン


 夕餉を終えたユンジェは、割り当てられた部屋の寝台で、まだ頭を抱えていた。


 周りの従僕や侍女が声を掛け、口直しのお茶や点心を用意してくれても、首を横に振るだけ。その代わり、水が欲しいと頼み込み、それを何度も胃袋に流し込んだ。


 ユンジェの様子を見たチャオヤンは、従僕らに今日はもう下がって良いと伝え、頭を抱える自分にもう休むよう伝える。


「召し物は自分で替えられるか? 無理なら従僕に声を掛けても良い」


「変なんだ。音が頭の中でずっと。ずっと。がんがんと、ずっと、ずっ……と……」


 うわ言を呟くユンジェに、チャオヤンは哀れみの目を向け、「そうか」と返事すると、軽く頭を撫でて立ち去る。

 遠ざかる足音。見張り兵に指示する声。そして、消えゆく音――ユンジェはパッと顔を上げ、忍び足で扉に耳を当てた。


 よしよし。従僕も侍女も、近くにいないようだ。



(やっと、ひとりになれた。死ぬかと思った)



 ユンジェは大きく伸びをすると、凝った肩を揉みほぐす。じつは、随分前から正気に戻っている。頭の中で音が鳴っていたのも、ほんの少しの間であった。


(まっ。あれだけ、おかしな態度を取れば、ひとりにするよな。誰も関わりたくないだろうし。いやぁ、良かった。セイウの部屋に連れて行かれなくて。さすがにあいつの前だと、成す術がないからな)


 とはいえ、まだ気分が悪い。ユンジェは舌を出し、血の混ざった酒の味を思い出しては顰め面を作る。


(くそっ、気色の悪い酒を飲ませやがって。吐けるもんなら吐きたい)


 水を何度も飲んだのは、少しでも酒を薄めようとしたからだ。さすがに、これ以上飲むと水腹になるので、水は控えておくが。


「さあて、と」


 ユンジェは上唇を舐めて、割り当てられた部屋を見渡す。


 頭陀袋も着ていた衣も取り上げられてしまったので、今の手持ちは縄で何重にも縛られたティエンの懐剣と、同じくティエンから預かっている麒麟の首飾りのみ。お馴染の布縄も紐も目つぶしも手元にない。


 しかし、贅沢な部屋には物が溢れている。


 ユンジェは口角を持ち上げ、さっそく側らにあった衣装箪笥を開ける。

 思わず口笛を吹いてしまった。大人二人分は入れそうな大きな衣装箪笥には、綺麗な衣が隙間なく詰められている。これだけあれば、布縄や布紐もこしらえることができそうだ。


 お次に飾りの花瓶を手に取る。陶器で出来ているそれを見つめ、軽く指で叩いた。床に落とせば、簡単に割れてくれそうだ。


「あ。これは確か燐寸マッチって奴だ。ライソウが使っているの見たことあるぞ」


 据え置き提灯の隣に放置されている、燐寸マッチの箱を手に取る。有り難く頂戴しよう。


 鏡台からは櫛と紅、手鏡。寝台の隣にある台からは筆に、お茶っ葉。ハチミツの入った小壷。かりんとう。あまり役立ちそうにないものも、寝台の上に置いて準備をしていく。


(高い。飛び降りることは無理だな。兵もいるし)


 擦り硝子の窓を開き、ユンジェは眉を顰めた。また硝子を触り、初めて触れる素材だと、それをよく観察する。陶器よりも脆そうだ。


 衣装らを歯で裂き、捩じって結んでいく。

 ひも状に繋げると、結び目に水差しを傾けて強度を強める。絹は水を掛けると縮むので、なるべく絹が結び目にならないようにしておく。

 ちなみにこれは衣を着せてもらった時に侍女が教えてくれた。絹は水に弱いから、お茶を零さないように、と注意を受けていたのである。


 水が無くなると、ユンジェはそれを衣装箪笥へ隠した。寝台の上に広げていた物も四面に破いた衣装の上に置き、小分けにすると丁寧に畳んで、同じ場所に隠す。


(あとは)


 花瓶を裂いた衣装で包み、寝台の下へ置く。

 少しだけ衣を乱すと、空っぽの水差しを持って、のろのろと部屋を出た。それを持ってうろついていると、間もなく見張り兵に見つかった。


 ユンジェは自分から兵に声を掛け、水が欲しい旨を伝える。とても喉が渇いているのだと、同情を煽るように言えば、従僕に頼んで来ると言って、水差しを受け取った。


「リーミン。お前は部屋に戻りなさい。水はすぐに持ってくるから」


 こくこくと頷き、ユンジェは部屋へ戻る。その際、兵がついて来たが、おとなしく部屋に戻った姿を見送ると、静かに扉を閉めてしまう。


 足音が遠ざかったと同時に、先ほどの花瓶を引っ張り出した。

 そして衣装に包んだまま、力の限り床に叩きつける。衣装の中で形が崩れると、布に包まれた懐剣で、何度もそれを殴った。時折、扉の方を見つめ、音を聞かれていないか確かめておく。


「お水を持ってきましたよ。リーミン」


 割れ崩れた物を衣装箪笥に隠したユンジェは、部屋を訪れる従僕に駆け寄り、水差しを受け取った。

 後ろには先ほどの見張り兵が立っている。己の様子でも見に来たのだろうか。


 しかし。それにしては、向こうの回廊が騒がしい。

 見張り兵達が下の階へおりている。何か遭ったのか、ユンジェが聞くと、「なんでもありません」と、従僕が簡単に答える。


「貴方はお休みなさい。明日は出発が早い。このままだと支障が出てしまいます」


 すると。見張り兵が男に頼みごとをする。


「リーミンが寝付くまで、傍にいてやってくれ。念のため、もう数人、声を掛けてくる。この騒動だ。人の目は多い方が良い」


 人の目が多い方が良い。

 やはり何か遭ったのだろう。ユンジェは気になって仕方がない。もし、その騒動にまぎれることができるのならば、利用しない手はないだろう。


 とはいえ、これは芳しくない展開だ。

 従僕が部屋にいては身動きが取れなくなってしまうではないか。せっかくひとりになれたのに。追い出す手を考えないと。


「さあ、リーミン。お部屋に戻りましょう。まずはお召し物を替えましょうね」


 ユンジェは冷汗を流す。寝衣はすでに見るも無残な姿になっている、なんて口が裂けても言えない。


 その時であった。


 従僕らを呼ぶため、踵返した見張り兵がうめき声を上げて倒れてしまう。

 何事か。ユンジェと従僕が振り返った瞬間、扉の手前にいた従僕が息を詰め、その場に崩れる。血の水たまりが目についた。彼らが襲われたのは明白であった。


 恐ろしさに足を竦めていると、向こうにいた人間に首を掴まれる。強引に部屋に連れ込まれるや、背後から刃物を当てられた。確認も暴れる間もなかった。


(な、なんだよ。いきなり)


 身を震わせるユンジェに、「おとなしくしろ」と、低い声で脅される。


「ここに、てめーくらいのガキがいるはずだ。どこにいる。懐剣って呼ばれているガキだ。下手なことすると、命はないと思え」


 聞き覚えのある不機嫌な声に、ユンジェは目を見開く。もしかして。


「ハオ? その声はハオなの?」


 希望を胸に抱えて、その人間に尋ねると、「は?」と、間の抜けた声が聞こえた。

 やっぱりそうだ。絶対にそうだ。ユンジェは緩んだ腕を押し上げ、振り返って満面の笑みを浮かべる。


 そこには、呆けた顔で己を見つめてくる、謀反兵のハオが立っていた。


「ハオ、助けに来てくれたんだな!」


 大喜びするユンジェを、ただただ見つめ、彼が指さした。


「お前……まさか、クソガキ?」


「どうしたんだよ。寝ぼけてるのか? ハオをすきで殴り飛ばした、農民のクソガキだよ」


 やっと信じたのだろう。ハオは素っ頓狂な声を上げ、ユンジェに「お前。誰だよ!」と言って、まじまじと凝視してくる。


「まるで別人じゃねーか。てめ、少し見ない間に何があった。は? 化けてるわけじゃねーんだよな? なんだ、その小綺麗な姿。貴族か!」


「贅沢の力ってすごいよな。俺も鏡を見ると、他人に思えて気持ちが悪くなるよ。でも、中身はちゃんとしたクソガキだから。リーミンだから」


「リーミン?」


「なんだよ。クソガキの名前も忘れちまったのか」


 呆れるユンジェに、「いやお前」と、ハオが戸惑った様子を見せる。どうしたのだろうか。ユンジェは首を傾げた。


「取りあえずハオ。懐剣の紐を切ってくれ。セイウがティエンの懐剣を使えなくしているんだ」


「あ、ああ。待ってろ」


 双剣のひとつで懐剣の紐を切ってくれたおかげで、ユンジェはティエンの懐剣をふたたび鞘から抜くことが叶った。

 やはり懐剣といえば、セイウの懐剣より、ティエンの懐剣だと心の底から思う。


「下が騒がしいようだけど、この騒動はハオ達が? ティエンもいるの?」


 帯に懐剣をたばさみ直すと、扉の向こうを警戒しているハオに視線を投げた。


「いや、今回はおとなしくしてもらっている。あー……おとなしくしてもらってるかな」


「目が泳いでいるけど」


 ハオが目を逸らし、咳払いをした。


「とにかく、これはカグム率いる謀反兵の暴動だ」


「どういうこと?」


「説明している暇はねえ。カグム達がオトリになっている今のうちに、客亭を離れるぞ。ちっ、それにしてもなんて兵の数だ」


 回廊から無数の足音。

 途絶えることのない足音に、ハオが舌打ちをしている。

 音で判断する限り、兵は未だ上の階にもいる様子。彼は見つからないよう、回廊を駆け抜けたいようだ。


 そこでユンジェは自分に考えがあると言って、衣装箪笥へと走った。

 衣装に包んだ道具を、腹に巻きつけると、お手製の縄を取り出す。それを柱に括りつけ、しかと固結びをすると、半開きの窓に放ってハオに声を掛けた。


「ハオ。合図で衣装箪笥に飛び込めよ。隠れるぞ」


「おいおい。それを使って下におりるんじゃねーのかよ」


「下で兵が動き回っているのに、悠長に縄でおりれるか。下手すりゃ見つかるぜ。よし、いくぞ」


 部屋を飾る壷を掴むと、ユンジェはそれを半開きの窓目掛けて投げつけた。脆い擦り硝子が張られた窓は、甲高い音を立てて割れる。

 それを合図にユンジェは、ハオと大きな衣装箪笥へ飛び込み、じっと息を潜めた。


 音を聞きつけたのだろう。

 耳をすませると、扉の開閉音や兵の騒ぐ声、侵入者だの、リーミンがいないだの、窓から連れて行かれただの、たくさんの会話が聞こえてくる。


 それらが消えると、ユンジェとハオは衣装箪笥を開け、慎重に部屋から出た。閑散とした回廊を見る限り、兵達の殆どは下の階におりたようだ。侍女や従僕すら見当たらない。

 見掛けても、一人ふたりならば、ハオが伸してくれるので問題は無かった。


(股の裂けていない衣は走りにくいな)


 ユンジェは回廊の窓を一々覗き込み、行き交う兵の数を確認する。内、ひとつに椿の木を見つけたので、二人は窓枠を飛び越え、太い枝に乗った。

 地上を見下ろせば、松明を持った兵が三人、うろついている。


「三人か。やれねーことはねえが、賭けになりそうだな。不意を突ければ良いんだが」


「隙を作ればいいの? 俺、すごく得意だよ」


 いたずら気に笑うと、衣装で包んでいる物を取り出す。それは先ほど砕いた花瓶であった。


「それ……まさか」


 顔を引き攣らせるハオを余所に、ユンジェは兵達が固まった頃合いを見計らい、軽く指笛を吹いて、兵達の注意を木の上に向けさせた。


 一斉に視線が持ちあがった瞬間、ユンジェは結び目を解いて、砕いた花瓶を兵達目掛けて振り撒いた。驚きの声は、木から飛び下りたハオの手によって揉み消される。


 双剣で切られた兵達が動かなくなったのを確認し、ユンジェも枝から枝へと伝い、木から飛び下りて、彼と茂みの中に隠れた。


「相変わらず、卑怯な手を使うよなお前。敵なら真っ先に斬りつけたくなるぜ。って、何してやがる」


 ユンジェは失った花瓶の破片の代わりに、砂をかき集め、衣装の切れ端で包んだ。


「新しい目つぶしを作ってんの。花瓶で代用してみたけど、あれは使い勝手が悪いな。やっぱり細かい奴じゃなきゃ。んー、けど砂だけってのも心もとないな。効けばいいけど」


「次から次に……怖ぇガキだな、おい」


 遠い目を作るハオを余所に、ユンジェは腹に巻きつけている衣装から手鏡を取る。それを茂みの外に出して、前後左右を確認した。

 右の暗い闇夜に、松明がひとつ、ふたつ。こちらに兵が近寄ってきそうなので、手鏡を銜え、今しがた詰め込んだ砂の包みの口をしかと捩じり、強度を高めて、向かい側の部屋の窓へ投げた。


 硝子の割れる音により、兵達が移動する。

 よしよし、上手くいった。砂もまとめてしまえば、立派な鈍器になる。硝子を割ることなど容易い。


「今のうちに移動しよう。ハオ、どこに行けば……どうしたんだよ」


 額に手を当てているハオに、頭でも痛いのか、と尋ねると、彼は小さく嘆いた。


「ほんとに怖ぇんだけど。よくもまあ、そんなに悪知恵が出るもんだ。ティエンさまの性格が強くなるのも分かる気がする……できることなら二度と敵にしたくねえ、このクソガキ」


「俺はリーミンだってば。いい加減、名前で呼んでくれよ」


 味方で良かったと唸るハオに、今はそんなことを言っている場合ではないと呆れ、ユンジェは彼に早く移動しようと促した。


「懐剣がいないことを知ったらセイウが動く。俺、あいつには逆らえないんだ」


 客亭から騒々しい声が聞こえる。

 どれもこれも、リーミンを探すもの。あれほどの騒ぎなのだからセイウも、騒動を耳に挟んでいるはずだ。

 ああ、探す誰も彼もがリーミンと呼ぶ。呼び続ける。うるさいったらありゃしない。


「馬鹿だろう。てめぇ」


 前触れもなく、ハオに罵られた。

 どうして馬鹿呼ばわりされなければいけないのだ。ユンジェが頬を脹らませると、彼は軽く舌を鳴らし、外衣を靡かせて茂みを飛び出した。



「来い、ユンジェ」



 初めて名前を呼ばれた。

 ユンジェは驚き、目を見開いてしまうが、すぐ頬を緩めた。なぜだろう。認められた気分だ。とても嬉しい。


 前を走るハオの背を見つめ、人知れず笑みを零していると、横目で見る彼がまた一つ舌を鳴らして、盛大に悪態をつく。


「くそっ。やっぱ、てめえなんざ、ただのクソガキだ。こんなことで喜んでるんじゃねーぞ。こんなクダラナイことで。気付いてねーのかよ。ばかがっ」


 前方に兵が現れると、双剣を抜いたハオが邪魔だと言って斬り捨てる。

 真っ向突破を得意としているようで数人に囲まれても、間合いを取り、ユンジェを背に隠して右の剣を逆手に、左の剣を順手に持って、流れるように兵の剣を弾いて斬り崩す。


 すごい。ユンジェは目を瞠った。

 彼はこんなにも強かったのか。いつも、不意打ちでしか勝負をしたことがなく、何かと打ち負かしていたせいか、勝手に彼を弱いと決め込んでいた。


 けれど、本当のハオは真っ向勝負に強い人間なのだ。不意打ちや卑怯が不手なだけで、そんじょそこらの人間よりも腕が立つ男なのだろう。


 ユンジェの背後に兵が回り、刃を振り下ろす。誰かが怒鳴る。やめろ、それはリーミンだと。


(避けないと)


 しかし、不慣れな絹衣は大変動きにくい。避けられない。


「はっ、勘弁しろよ。そのガキが怪我したらな」


 ハオに突き飛ばされた。顔を上げれば、己を庇い、双剣で受け止める彼の姿。


「また俺が面倒看ねーといけねぇだろうがっ!」


 兵の剣を押し上げ、二本の剣で人ごと闇を裂く。返り血を浴び、なおも彼はひた走る。後ろに結っている短い三つ編みを靡かせて。


「ユンジェっ、こっちだ!」


 ハオはユンジェを裏の外壁まで誘導した。

 垂れさがっている藁縄は、あらかじめ用意されていたものだろう。木に巻きついている藁縄を伝いのぼり、それを切り落として、二人は客亭から離れる。月明かりを頼りに、きらびやかな都を駆け抜けていく。



 逃げる足はやがて曲線を描いた、橋脚きょうきゃく連なる木造りの橋の下で止まった。


 そこは都の内に流れる川に架かった橋で人の目が多い。川も賑やかだ。荷を運ぶ小船が提灯をぶら下げながら、川面を切るように進んでいる。


 しかし、ハオは敢えて橋の下に身を隠した。


 盲点を突こうという魂胆だろう。

 確かに夜の橋の下は暗く、夜目も利きにくい。目の前に川が流れているので、見張る方向も左右と少なく、息を整えるには持って来いの場所だ。

 一方で挟み撃ちにされる危険性もあるが、その時はその時だ。ユンジェは橋の陰に隠れ、ハオとひと息つく。


「ここでカグム達と落ち合う約束になってる。あいつら、無事に撒けるといいんだが」


 できる限り、身を屈めて陰と一体になるハオを真似て、ユンジェもその場に座った。


「さっきの話だけど。謀反兵の暴動って?」


「てめえを取り戻すために、カグムが考えた策だ」


 表向き、いまの王政に不満を持った兵が王族を襲い、それが暴動を起こしている内に、ユンジェを奪い返す作戦だそうだ。

 ホウレイの放った間諜は国のあちらこちらに存在している。カグムはこの都に潜んでいる間諜の手を借りて、この暴動を決行したという。


(カグムも言っていたっけ。陶ノ都にも間諜がいるって)


 ユンジェはひとつ相づちを打った。 


「ティエンは無事? あいつ、セイウに命を狙われているけど」


「無事どころか、大暴れだ。てめえがセイウさまに連れて行かれた後の、ティエンさまは本当に大変だったんだぞ。カグムの野郎と、一悶着起こす騒動にまで発展したんだからな」


 疲れ切った声を出すハオは、遠い目を作って、「なんで捕まるんだよ」と責めてきた。


 それに関しては、ユンジェのせいではない。

 寧ろ、自分は都に行きたくないと主張した人間なので、責められるのは筋違いというものだ。


 げんなりと肩を落とすハオは、当時のことをぽつぽつと語る。


「都の間諜は俺達に、快く手を貸してくれた。間諜の最大の目的は第三王子ピンインさまを、ホウレイさまの下へ連れて行くことだから、遂行の手伝いも辞さない」


 そこまでは良い。

 問題はカグムの案に、ティエンが自分も行くと名乗り出たことだ。


 これは大問題であった。

 カグムはあくまで、起こす暴動を【謀反兵の不満】によるものと仕立てあげたかった。都に潜伏している第三王子ピンインとはべつに、騒動を起こしたかったのである。


 もし、第三王子ピンインが動いてしまえば、明確に【懐剣の奪還】だとばれてしまう。

 そうすれば、セイウの兵達は懐剣のユンジェの警備をがちがちに固めてしまう。ゆえにティエンには大人しくしてもらいたかった。


 なにより、ティエンの身に災いが降りかかるのだけは避けたい。これがカグム達の意見であった。


 けれども、ティエンも負けじと主張するのだ。

 たかが謀反兵数人の暴動で、兵達の注目を一斉に此方へ向けることなどできない。少々の兵を寄越して、後は守備に回るはず。それでは暴動の意味が無い。


 だったら第三王子ピンインをオトリにし、より多くの兵を動かした方が良い。上手くいけば、兄も引きずり出せるやもしれない。あれは己の命が欲しい者なのだから。


「カグムとティエンさまの口論が勃発したのは、時間の問題だった。凄まじかった。誰も止められなかった。恐ろしくて口も挟めねーんだよ」


 ユンジェは冷汗を流した。よりにもよって、カグムとティエンがぶつかったのか。


 結局、ティエンが折れなかったので、カグムは仲間内に取り押さえさせ、半ば強制的に決行したのだという。

 今頃、彼は間諜の隠れ家に軟禁状態だろうとのこと。

 ユンジェとハオは顔を見合わせ、地面に目線を落とす。しばし沈黙が流れた。


「助けてくれて、ありがとうな」


 ユンジェは話を替える。

 ティエンのことは再会した時に、うんと悩もう。心配を掛けたことも謝らなければ。連行されたことは不可抗力であるものの、彼に多大な心労を掛けたこともまた事実。詫びは必要だろう。


 同じようにハオ達には感謝を述べなければ。


「てめえが懐剣じゃなきゃ、普通に見捨ててたよ。俺はガキなんざ大嫌いなんだ」


 ぶっきら棒に言い放つハオが、しっしっと疎ましそうに手で払ってくる。礼は不要らしい。


 けれど、ユンジェは彼等に助けられている。それは今回だけに限った話じゃない。先ほど庇われたこともあるので、やっぱり、ありがとうは言っておくべきだろう。


「ハオって意外と強いんだな。見直したよ。俺、お前のこと弱いと思ってたから」


 小生意気に笑ってやると、「ブッ飛ばすぞ」と、耳を引っ張られた。痛い。


「弱く見えるのは、てめえが卑怯な手ばっか使うせいだろうが」


 しょうがないではないか。

 卑怯な手を使わないと、ユンジェに勝ち目などないのだから。

 解放された耳をさすっていたユンジェだが、差し込んだ月明かりで、ハオが傷を負っていることに気付く。双剣を持っていた両手の甲が切れていたのである。


 視線を感じ取ったハオが、さっさと外衣の中に両手を隠してしまう。


「それ、俺を庇った時に?」


「あんだけ兵を相手にしてたんだ。いつ負ったかなんて忘れた」


 うそだ。ユンジェは彼の強さを目にしている。きっと、己を庇った時に切ったのだろう。


「ごめん」


 重くなる空気に耐えられなくなったのか、かすり傷だとハオが怒鳴ってくる。そんなことで一々落ち込むなと叱咤するが、罪悪感はこみ上げるばかりだ。


 ふとユンジェは思い出したように、腹に巻いていた衣装を解くと、道具の中からハチミツの入った小壷を手に取った。


「ハオ。ハチミツがあるぜ。確かこれって、塗り薬の代わりになるんだよな?」


「てめ……なんで、そんな高価なもん持ってやがるんだ」


「部屋にあったんだ。お茶っ葉や筆、櫛、紅なんかもあるよ。燐寸マッチも持ってきた。使えそうなもんは、片っ端から持っていこうと思って。ほら、手を出してよ」


 あからさまに嫌な顔をして、ユンジェの厚意を拒絶するハオだが、こちらも譲る気はない。無理やり手を引っ張り出すと、傷に薄くハチミツを垂らした。

 本当は水で傷を洗った方が良いのだろうが、川の水が澄んでいるかどうか、些か不安であるため、洗うことは断念した。


 衣装の切れ端を裂いて、手早く傷を巻く。その手際の良さにハオが、ふうんと鼻を鳴らした。


「早いし上手いな。どこかで習ったのか?」


じじに習った。俺達、農民は滅多なことじゃ医者に掛からないんだ。傷より病より、明日の食い物だったからさ」


 これでいい。

 ユンジェは両手の甲を見つめ、壷の蓋を閉めた。余計なお節介だと悪態をつく彼は、礼なんて言わないからな、と突き返した。べつに要らなかった。ユンジェはしたいことをしたまでだ。


 道具の中にかりんとうを包んだ布が目に入ったので、ユンジェはカグム達を待つ間、これでも食べようと誘う。能天気だと心底呆れられたが、食べることは体力を回復させる基本だろうと言って、包みを開いた。


(本当はティエンと一緒に食べるつもりだったけど、あいつにはお茶っ葉を渡そう)


 全部で十三本入っている。ユンジェはこれを半分にするため、指を折って計算した。


(十三の半分は……あれ、三って半分にできたっけなぁ)


 十より上の計算は、まだまだ苦手だ。

 うんぬん悩んでいると、包みを取り上げられる。

 ユンジェの意図を読んだらしく、己の分を抜き取って、包みを投げ返された。確認すると八本残っている。


「それで半分だ。さっさと食え」


 向こうを睨んでかりんとうを口に入れているハオを、きょとんと見つめるユンジェだったが、受け取ってくれたことに、つい噴き出してしまう。


「お前って案外付き合い良いよな。馬鹿なところも多いけど」


「だあれが馬鹿だ。俺に扱かれたいなら、素直にそう言え。喜んで脳天に拳を入れてやる」


 ぎろっと睨んでくる彼に、ユンジェはへらへらっと笑う。


「なんだよ。俺は褒めてるんだぜ? 後先考えない馬鹿だけど、ちゃんと優しいところもあるし、強いところもあるし、付き合いも良いんだなって。これで、もう少しよく考える奴だったら、文句の付けどころもないぜ? 可愛いお嫁さんだって貰え、あだだだっ」


「クソガキ。それ以上、舐めた口を叩くと押し潰す」


 褒めているのに。

 頭を押さえつけられたユンジェは、ハオに短気な男は嫌われると指摘してやる。もっと体重を掛けられた。そういうところが、短気なのだ。絶対に損していると思う。


「はあ。さっさとホウレイさまの下に連れて行って、お役から解放されたい。なんで、ガキの相手なんざ」


 ぶつくさ文句垂れているハオは、どうやら子どもの相手が大の苦手らしい。ユンジェは言うほど子どもではないのだが、敢えて反論はするまい。


「ハオはどうして、謀反兵になってるんだ?」


「あ?」


「だって、謀反は悪いことなんだろう? 俺、国ってよく分からないけど、ハオやカグムが国に逆らっていることは分かるよ。それはどうして? 危ないじゃん」


 国なんかに逆らわず、看護兵とやらを続けていれば良かったのに。そうすれば、クソガキの世話もせずに済んだのに。彼の腕なら医者だって夢ではなかったのでは?


 ユンジェは素朴な疑問を彼にぶつける。

 どうして間諜に、謀反兵に成り下がっているのだと。なぜ、命を張ってまで、国に逆らい続けようしているのだと。


 彼は何も答えない。答えたくないのなら、無理に聞き出すつもりもないので、ユンジェは深く追究をしなかった。


「俺は看護兵に向いてなかったんだよ」


 しばらくして、返事が来た。


 ハオは不機嫌な面のまま言う。

 縁あって看護兵になった自分だが、傷を癒す兵には向いてなかった、と。

 手当てをすると、どうしても情が移ってしまい、患者を戦に送り出したくなくなる。せっかく救ったのだから、生きて欲しいと切に願ってしまう。


 戦に放られた看護兵は、それではいけないというのに。

 この気持ちは常に諫められる。恥ずかしいと思わなければならない。死を前にしても冷静にならなければいけない。


 けれど、ハオは捨てきれなかった。


「あんまりにも向いてねーから玄州の歩兵になったんだが……どうしても、国に思うことがあってな。ホウレイさまについたんだよ。クンル王より、賛同できる点も多いからな」


 それはハオにとって安全な医者の道より、行きたい道だったのだろう。


 命を張って国に逆らう彼の気持ちなど、農民のユンジェには一匙も分からないが、謀反兵として奔走している目的の中に、国を変えたい気持ちがあることは察することができた。


 彼は良き王と国を欲し、それを得るために命を懸けているのだ。国に逆らうことが悪だと知っていても、ハオはカグム達と走るのだろう。


 ユンジェの脳裏に『黎明皇れいめいおう』の三文字が過ぎる。ああ、セイウの言葉が本当ならば、自分はいつか次なる王を――。


「生きて欲しいと願うことは、べつに恥ずかしいことじゃないと思う」


 ハオの語りを静聴していたユンジェは両膝を抱え、彼に向かって微笑む。


「俺もティエンを助けたから、誰よりも生きて欲しいと願ってるよ。それを恥ずかしいと思ったことはない。その気持ちは捨てなくていいと思う」


 ユンジェには看護兵がどういうものか、まったく分からない。

 けれど生きて欲しいと願ってしまうほど、彼が優しい人間であることは分かった。情が移ってしまうということは、それだけ感情移入しているということなのだろう。


「傷を癒して、誰かを救える腕を持つハオは、もっと誇って良いと思うよ。懐剣は人を傷付けることしかできないから」


 そう、傷付けることしかできないのだ。

 所有者を守るために、懐剣は刃を向け続ける。それだけのことしかできない。ユンジェは折れるまで、人を殺すことしかできない。

 しかし。それが役目ならば仕方がないと考えている。今のユンジェは、そういう存在だ。


「懐剣のリーミンは、人を傷付けることしかできない。けど守るお役を受け持っているんだから、変な話だよな」


 冷たい夜風が吹き、ぶるりと背筋を震わせる。やけに肌寒い。慣れない絹衣を着ているせいだろう。これは薄くて軽いから、夜風をよく通す。

 軽く二の腕を擦って暖を取っていると、隣にいるハオと距離が近くなった。向こうを睨んでいる彼は、ユンジェの衣に悪口あっこうをつく。


「目立つんだよそれ。隠せ」


 なんぞと言って外衣に入れてくるので、にやにやっと意地の悪い笑みを浮かべてしまう。


「ハオ、すごく優しいんだな。口は乱暴なのに、態度はすごく、すごく、やさしい」


「川底に沈めるぞ。クソガキのユンジェ」


 調子に乗ってからかうと、こめかみに青筋を立てるハオが拳骨を落としてきた。痛いと悲鳴を噛み殺す隣で、彼はぽつりと呟き、自嘲する。


「ほんと向いてねぇな。ばかみてぇに情が移っちまう。こんなクソガキでもさ」



 ◆◆



 都を照らす提灯の光が消え、人間達が寝静まった頃、カグム達が橋の下に顔を出した。

 無事に王兵を撒いたようで、彼らの後ろに追っ手は見えない。

 どうやら客亭を襲った後、都の外れへ逃げ延び、そこで馬を乗り捨て、どこへ行ったのか分からないようにかく乱させたようだ。


 ユンジェが手を振ると、その姿を見たカグムが呆けた顔を作り、ハオに言った。


「ハオ、お前……べつのガキを連れて来てどうするんだ」


「そうだよな。カグム、お前もそう思うよな。俺の反応は間違ってなかったわけだ」


 よほど、普段のユンジェは汚かったらしい。

 カグムは小綺麗になったユンジェにあっ気取られ、「貴族かと思った」と零した。ハオとまったく同じ感想を述べてくれた。


 カグム達と共に、間諜の隠れ家に向かう。

 そこは都のど真ん中にあり、表向きは焼き物に絵を描くための塗料を売る、塗り色屋であった店の物置には地下があり、間諜の集会場となっている。


 ティエンはその店の地下に待機を強いられていた。


 ユンジェが階段を下りると、四隅の腰掛で腕を組み、美しいかんばせに怒気を纏せ、間諜達を縮み込ませていた。王族の怒りにみな、恐れていた。


「ティエン!」


 ユンジェが呼ぶと、顔を上げた彼が腰掛を倒し、なりふり構わず駆け寄って来る。小綺麗になっても、一目でユンジェだと分かったようだ。


「良かった。ユンジェ、本当に良かった。無事だったんだな」


 痛いほど抱擁してくる彼に、苦しいと笑い、軽く背中を叩く。


「お前も無事で良かったよ。セイウが血眼になって、ティエンを探しているみたいだったから、すごく心配していたんだ」


「私よりユンジェだ。セイウ兄上に何もされなかったか? あれは、本当に食えない男だ。お前にひどいことをしたんじゃ」


 まるで人の話を聞いてない。

 ティエンはユンジェに、大丈夫だったか、何も無かった、ひどいことはされなかったか、と繰り返し尋ねてくる。


 ユンジェは何も無かったと返事する。

 主従の儀については伏せておくつもりだった。


 話したところで、彼を悲しませるだけだし、ユンジェ自身、今のところなんともない。服従のことも、血の杯も、その時だけの苦しみだった。耐え切ったと思っている。


 黎明皇やまこと懐剣の役目だけ、落ち着いた時に話すつもりだった。


「お前の兄さん。ちっとも、ティエンと似てなかったよ。顔は綺麗だったけど、性格はすごく悪かった。本当に血が繋がっているか疑っちまったよ」


 ティエンの方が、顔も性格も優っていると褒めちぎってやる。力だけは向こうが強いかも、と冗談を添えて。


 大丈夫だったと振る舞うユンジェに、ティエンがようやく信用を見せ、安堵の表情を見せた時だった。見守っていたハオが口を挟んでくる。


「クソガキ。お前、本当は何か遭ったろう?」


 何を言っているのだ、この男。

 ユンジェは腕を組み、何もなかったと突き返す。

 あっても、王族の不慣れな風習に翻弄された程度だ。変なことを言わないで欲しい。せっかく、ティエンが信用してくれようとしているのに。


 頑なになるユンジェに吐息をつくと、ハオは妙な質問をした。


「自分の名前を言ってみろ」


 訝しげな顔を作ると、早く言えと急かされる。仕方なしにユンジェは答えた。


「リーミン。俺はリーミンだよ」


 慣れ親しんだ名を口にするとハオの目を細くなり、ティエンの顔色が変わった。見守るカグムですら眉を寄せるので、ユンジェは首を傾げる。


 もう一度言えと言われたので、しかと返してやる。自分の名前はリーミンだと。


「ゆ、ユンジェ。ああ、ユンジェ。セイウ兄上に何をされたんだ」


 見る見る絶望に染まっていくティエンが、震える手で両頬を包んでくる。

 どうして彼がそんな顔をするのかが、ユンジェには少しも分からない。なんでティエンは泣きそうなのだ。


 困惑していると、ハオが背を向け、軽く舌打ちをして指摘した。


「くそっ、いい加減気付けよ。てめえ、俺と会った時から『リーミン』って名乗っているんだよ。お前は『ユンジェ』だろうが」


 理解するのに数秒時間を要した。

 やがて、ユンジェは恐怖のどん底に突き落とされてしまう。


 うそだ。いつの間に自分は『リーミン』だと口走っていた? 周りはみな、己を『ユンジェ』と呼んでいた。ユンジェはそれが自分の名前だと分かっていたので、声を掛けられる度に答えていた。

 なのに。ユンジェ自身は、己を『リーミン』だと名乗っていた、なんて。


(まさか。主従の儀のせいなのか)


 あれのせいで、自分は本当にセイウの隷属に。

 ならば、今のセイウとユンジェは、まこと主従関係であり、所有者と懐剣の関係が成立しているのか。


「セイウに名前をっ、奪われ始めている。そんな、そんなのって」


 目眩を起こしそうになったユンジェだが、どうにか足を踏み留めると、心配するティエンの体を押しのけ、彼の懐剣を抜く。


 そして柱目掛け、力の限りそれを投げ刺した。セイウの高笑う残像が、確かに見えた。



「リーミンなんて冗談じゃねえぞ、セイウ。俺はティエンの懐剣だ。懐剣のユンジェだっ!」


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